第95話 同じ海で
宮内の足跡は、区画図には残らなかった。
最後のインターバル。
遥香が広げた紙には、宮島高校の選手が横切った線と、その後ろにできた空間が書き込まれている。右から左。下から上。宮内の周囲を囲む短い矢印は、どれも誰かの動きから始まっていた。
第3ピリオドの最後だけ、線がない。
「宮内さんの近くにいた人は、誰も動いていません」
優奈が宮島高校のベンチを見たまま言った。
「うちも見た。宮内だけで進んどった」
結がタオルを頭に載せる。
花は右手を開き、指先を確かめた。
「でも遅かったじゃん。あれなら、うちが触れる」
「触れます」
遥香のペン先が、矢印のない区画中央で止まった。
「前みたいには止まりません」
前の宮内は、潮止まりへ入ると足が動かなかった。
今は違う。
自然の潮流ほど速くはない。体の向きも、一蹴りごとの動きも見える。それでも、自分で水を掻き、二歩目を作った。
「止めるのではなく、離させます」
遥香は宮内の周囲へ三つの印を書いた。
「花さんが宮内さんへ接触。凪さんは正面へ入ってください。渚さんは沖側の潮流への出口を塞ぎます」
花が区画図を覗き込む。
「前と横と後ろ?」
「はい。宮内さんが自分で進んでも、三秒以内に潮核を離させます」
「離した先は?」
優奈が聞いた。
「優奈さんが、宮内さんに一番近い一人を見てください。全員ではなく、その一人だけで構いません」
結が髪を拭く手を止めた。
「空いた方は、うちが見る」
「お願いします」
遥香は短い矢印の横へ、もう一本だけ線を引いた。
宮島高校のものと、ほとんど同じ長さだった。
花が線を指す。
「これ、あっちのやつ?」
「四人で続けるのは無理です」
遥香は凪と花を順番に見た。
「一度だけ使います」
花が宮内へ水を作るのではない。
凪が潮核を持ったあと、花へ離す。花は潮核を受けたまま凪の前を横切り、もう一度離す。
そのあとに残る水へ、凪が足を入れる。
「花さんの水だけで進むわけではありません。最初の半歩を作るだけです」
凪は区画図の短い線を見た。
宮内は、水が背中へ届いてから足を入れていた。
それでは遅い。
「水が来てから動いたら、間に合わない」
「はい」
遥香が線の終点へ小さな丸をつけた。
「花さんが通る前に、入る場所を決めてください」
花が肩を回す。
「うちは、いつ通るん?」
「凪さんが一度、潮核を離した時です」
「分かった」
宮島高校側では、誰も交代しなかった。
第2、第3ピリオドから入った四人が、そのまま宮内の周囲に残る。呼吸は整い、腕を回す動きにも重さはない。
宮内は座っていなかった。
区画中央を見ている。
潮止まりがある場所。
前に足が止まり、さっき自分で三歩目へ入ろうとした場所。
遥香が区画図を閉じる。
「最後です」
花が立ち上がった。
「一点取って、もう一点じゃね」
* * *
第4ピリオド開始の笛が鳴った。
凪たちは海へ入った。
沖側の潮流は、さらに弱くなっている。
水へ沈んでも、肩を引く力が来ない。腕で押した水は体の後ろへ抜け、蹴った分だけ腰が前へ出る。
宮内も同じ水へ入った。
誰も宮内の前を横切らない。
四つの潮核が競技区画へ放たれた。
宮内は区画中央へ向かう。
潮流に乗っている時のように、体の輪郭は消えない。一蹴りごとに膝が曲がり、足が水を押すところまで見える。
それでも止まらなかった。
宮内が最初の潮核を拾う。
胸と手足へ青い発光ラインがついた。
花が斜め後ろから入り、宮内の右足へ触れる。
一秒。
宮内は接触されたまま、もう一度水を蹴った。花も腕を伸ばし、発光ラインから指を離さずについていく。
凪が正面へ入る。
宮内が真っすぐ進めば凪に当たる。沖側へ向きを変えれば、渚がいる。
二秒。
宮内は無理に抜けなかった。
潮核を右側へ離す。
青い発光ラインが消え、潮核は宮島の選手へ向かった。
優奈は、最初からその一人だけを見ていた。
潮核を受けようとした選手の右肩が上がる。両手が下へ向く前に、優奈が一歩先へ入った。
潮核を掴まない。
下から指先を当て、軌道だけを上へ外す。一瞬だけ優奈の胸と手足が赤く光り、すぐに消えた。
宮島の選手の手が空を切る。
潮核は二人の頭上へ浮いた。
結が水面から左を指す。
声は水中へ届かない。
渚が水面近くで結の指を見た。潜り直しながら左手を動かす。
凪はサインの先へ入った。
宮内の右側へ寄っていた二人は、浮いた潮核を追っている。優奈と競り合った一人も、まだ上を向いていた。
左側が空いている。
凪が潮核を掴む。
赤い発光ラインがついた。
宮内が向きを変える前に、凪は花の方へ潮核を浅く離した。
花が受け取る。
赤い光が、凪から花へ移る。
宮島の選手が背後から花の左足へ触れた。
一秒。
花は正面のゴールゾーンへ体を向けた。
押してくれる潮流はない。右手で水を掻き、足を蹴った分だけ距離を詰める。接触した選手も離れず、左足へ指を残したまま沈んでくる。
花の肩が枠の外側へずれた。
二秒。
花は相手を振り払わなかった。
右腕をもう一度前へ伸ばし、潮核を抱えた左肩ごとゴールゾーンの内側へ戻す。
赤い光が沈んだ。
ブザー。
スコア:宮島高校 3-三原中央高校 3
花が水面へ上がり、大きく息を吸った。
「追いついた!」
結が水面を叩く。
花は返事をせず、すぐ残る潮核へ顔を向けた。
宮内も止まっていない。
区画中央へ戻りながら、次に近い潮核を見ている。
同点になってから、宮島高校の動きが変わった。
宮内の周囲の四人は、最初から横切る位置へ入らない。宮内から一人分ほど距離を取り、進路の左右へ広がった。
宮内が自分で進む。
三原中央が正面へ集まった時だけ、一人が動く。
宮内が潮核を拾った。
自分で一歩目を作る。
花が右足へ触れた。
一秒。
凪が正面へ入る。
宮内は潮核を離さず、遅いまま二歩目へ進んだ。
二秒。
宮内の左前を、一人が横切る。
蹴り足のあとに短い水が残り、花の肩が半歩だけ外へずれた。
宮内はその水へ右足を入れる。
ゴールゾーンまで、あと半歩。
渚が横切った選手の抜けた側から入り、ゴールゾーンの内側へ体を置いた。
宮内の正面には凪。
下には渚。
右足には花の手が残っている。
宮内は潮核を沈められない。
三秒になる直前、潮核を左へ離した。
青い発光ラインが消える。
宮島の選手が受け取ろうとしたが、潮核は中央の潮止まりで失速した。
凪が先に端へ触れ、宮島側から軌道を外す。
赤い光が一瞬つき、消えた。
宮内が変わっても、正面から止められる。
凪はその場に残らず、次の潮核へ向かった。
残り時間が減っていく。
宮島高校は、宮内が詰まるまで水を作らない。三原中央が宮内へ寄れば、空いた側から一人が入り、短い後流を渡す。
三原中央も同じ形だけを続けなかった。
花が触れる前に渚が出口を塞ぐ。優奈は宮内に最も近い一人だけを追い、結がその外側を指す。
凪は、水の終点と空いた位置のどちらかを選んだ。
追加点は入らない。
残り一分を切った。
三つの潮核は、区画の外側で選手同士が競り合っている。
残る一つが、宮島高校のゴールゾーン近くへ戻っていた。
枠の外側。
二人分ほど離れた潮止まりで、ゆっくり浮いている。
宮内と凪が同時に向かった。
押してくれる潮流はない。
二人とも、自分で水を掻く。
宮内が先に触れた。
青い発光ラインがつく。
自分たちのゴールゾーンが背後にある。宮内は潮核を外へ運ばなければならない。
花が後ろから追いつき、右足へ触れた。
一秒。
凪は宮内と区画中央の間へ入る。
渚も沖側を塞いだ。
宮内が逃げられる方向が狭くなる。
二秒になる前に、宮内は潮核を左へ離した。
青い光が消える。
優奈が見ていた選手が受け取った。
胸と手足へ青い発光ラインがつく。
その選手は区画中央へ運ばなかった。
宮内の前を左から右へ横切り、凪が近づくより先に潮核を離す。
潮核を宮内へ戻しながら、抜けたあとに一歩分の水を残す。
宮内が右足を入れた。
自分たちのゴールゾーンから離れるための一歩だった。
優奈が横切った選手を追う。
結が、その選手の抜けた左側を指した。
凪は宮内へ向かわない。
第1ピリオドから何度も見た、短い後流の終点へ入った。
足元には、まだ流れがない。
それでも進む。
宮内へ戻された潮核が、後流の先でわずかに速度を落とした。
凪が先に掴む。
胸と手足へ赤い発光ラインがついた。
宮内は同じ後流を使って進んでいる。
伸ばした手が、凪の右足へ届いた。
一秒。
凪の正面には宮島の選手がいる。
右足には宮内。
背後には宮島高校のゴールゾーンがあるが、体はまだ外を向いていた。
無理に振り返れば、宮内の手をつけたまま時間を使う。
凪は左側へ潮核を離した。
赤い発光ラインが消える。
花が受け取った。
赤い光が、もう一度つく。
宮島の選手が花の左足へ触れた。
一秒。
花はゴールゾーンへ直進しなかった。
凪の前を、右から左へ斜めに横切る。
深く腕を掻き、両足を閉じた。花の体が抜けたあと、水が遅れて凪の方へ寄る。
花は横切りながら潮核を離した。
赤い発光ラインが消える。
潮核が、花の後ろへ残った短い水へ入った。
宮島高校が宮内へ渡し続けた、一歩分の水。
凪の足元には、まだ届いていない。
それでも、花が通る前から終点を見ていた。
水が来てからでは遅い。
凪は左足を先に沈める。
花の後ろから来た水が、腰へ触れた。
その瞬間、自分でも一度蹴る。
止まっていた体が半歩前へ出た。
潮核を受け取る。
赤い発光ラインがつく。
宮内が向きを変え、凪の右足へ手を伸ばした。
指が発光ラインに触れる。
一秒。
凪の肩は、もうゴールゾーンの内側に入っていた。
逃げない。
潮核を両手で抱え、体ごと真下へ沈める。
赤い光が枠の中へ消えた。
ブザー。
スコア:宮島高校 3-三原中央高校 4
凪が水面へ上がった。
息を吸う。
結が何か叫んでいる。
風と水音の中で、残り時間を告げる声だけが聞こえた。
「十二秒!」
試合は終わっていない。
宮内は得点した凪を見なかった。
すでに残った潮核へ向かっている。
宮島高校の四人も散開した。
凪はもう一度潜る。
渚が沖側の出口へ入る。優奈は宮内に最も近い一人を追い、結が水面から空いた側を示す。
宮内が最後の潮核を拾った。
青い発光ラインがつく。
花が右足へ触れる。
一秒。
宮内は自分で水を掻いた。
凪が正面へ戻る。
二秒。
宮内の右手が、潮核の下へ回る。
離す先へ優奈が向きを変えた。
試合終了の笛が鳴った。
宮内の手は、潮核から離れなかった。
青い光が水中で消える。
スコア:宮島高校 3-三原中央高校 4
凪は水面へ上がった。
花が大きく息を吸い、結が水面を一度叩いた。渚はゴーグルを額へ上げ、優奈は試合が終わっても、自分が見ていた宮島の選手へ視線を残していた。
岸で、遥香が区画図を閉じる。
最後に書いた短い矢印は、宮島高校の矢印と同じ長さだった。
宮内も浮上した。
息を吸い、区画中央を見る。
前に足が止まった場所。
宮島高校が一歩分ずつ水を運んだ場所。
自分で二歩目を作った場所。
凪が花の水を受け取った場所。
宮内の顔が、凪へ向いた。
「楽しかった」
凪はゴーグルを上げた。
「はい」
区画中央の泡は、試合の最初と同じ場所に残っていた。
海は、最後まで止まっていた。
前と同じ場所で止まった選手は、一人もいなかった。




