第93話 海を運ぶ
大三島の岸が、前と同じ角度で海の向こうにあった。
低い山の輪郭。岸沿いに並ぶ建物。その手前に、黄色い浮標で囲まれた区画がある。
凪は仮設桟橋の前で足を止めた。
「相手も海も、前と一緒じゃん」
結が運営アプリの画面と、海を見比べている。
花はタオルを肩へ掛けたまま、浮標の位置を追った。
「なら、前の続きができるね」
凪は答えなかった。
前に宮内瀬那を止めた場所は覚えている。
沖側の潮流から外れた、区画中央。泡の動きが鈍り、潮核を離しても進まなくなる場所だった。
そこで初めて、宮内の足が水だけを押した。
同じ区画でも、今日の水は同じではない。
「ほんまにあるじゃん」
花の指が、区画中央へ向く。
「宮内が止まったとこ」
「まだ、同じかは分かりません」
遥香が区画図を開いた。
凪は桟橋の端にしゃがみ、水へ右手を入れた。表面の水は南西へ向かっているが、強く押してくるのは沖側だけだった。中央へ手を伸ばすにつれて、指の間を抜ける水が遅くなり、手のひらへ返る力も薄くなる。
そこだけ、水が平らだった。
「中央は止まっています」
凪は水から手を上げた。
「沖側の潮流は?」
「細いけど速いです。入ったら、途中で出にくいと思います」
遥香が区画図へ細い矢印を書き、その内側へ丸を描いた。
「前回と同じように、宮内さんを中央へ入れます」
渚は水面を見たまま頷いた。
「沖へ行かせなかったらいいんですよね」
「はい。凪さんが出口を塞いで、渚さんは宮内さんが入ろうとする潮流へ先に入ってください。花さんが接触します」
花が右手を開き、閉じた。
「前は、それで止まった」
向かい側では、宮島高校の五人が準備をしていた。
中央にいるのは宮内ではない。
宮内は四人から少し離れ、沖側の水面を見ている。その周囲を、ほかの四人が緩い弧を描くように並んでいた。
結が目を細める。
「宮内、端におるね」
「海を見てます」
優奈が言った。
宮内は潮況を確認する選手たちへ顔を向けていなかった。
浮標の内側を流れる泡を一つずつ追い、そのうち一本が沖側へ伸びると、右足がわずかに沈む。
潮流へ入る前の動きだった。
「第1ピリオドは、凪さん、花さん、陽さん、渚さん、結さんで行きます」
遥香が区画図を閉じた。
「結さんは水面から全体をお願いします。宮内さんだけを追わず、ほかの四人がどこへ動くかも見てください」
結がゴーグルを額へ上げる。
遥香は優奈へ顔を向けた。
「優奈は、私と宮内さんを見ます」
「宮内さんだけですか」
「はい。潮核を持った時だけではなく、持っていない時もお願いします。動き出す前と、止まった後を見てください」
優奈は向かい側へ目を戻した。
宮内は四人から離れたまま、沖側の水面を見ている。誰かと話している様子もない。右足だけが、泡の動きに合わせてわずかに沈んでいた。
「第1ピリオドで分かりますか」
「分からなくても構いません」
遥香は区画図の空いた場所へ、宮内の名前を書いた。
「第2ピリオドまで見ます。優奈が入るなら、その後です」
花が遥香を見る。
「最初から、後半で変えるつもりなん?」
「宮内さんを前と同じ方法で止められるなら、変えません」
遥香のペン先が、宮内の名前の横で止まった。
「止められなかった時に、何も分からないまま後半へ入りたくないので」
優奈は宮内から目を離さなかった。
「何を見つければいいですか」
「宮内さんが、一人で動いているのかどうかです」
遥香は宮内の周囲にいる四人を、細い線で囲んだ。
「私は距離と位置を見ます。優奈は宮内さんの動く間隔を見てください」
「分かりました」
陽は宮島高校の並びを見たまま、ドライスーツの手首を整えていた。
花が水際へ進む。
「行くよ」
花、凪、陽、渚が海へ入った。結は少し遅れて、水面担当の位置へ向かう。
首まで沈んだ瞬間、沖側の潮流が凪の左肩を引いた。広い流れではない。腕一本分ほど横へ外れると、押す力が急に薄くなる。
中央には、足を置く場所がなかった。
踏んでも返ってこない。水を掻いた分だけ、自分で進むしかない。
宮島高校も海へ入る。
宮内は最後だった。
岸を蹴った体が水面へ触れると、沖側の細い潮流が背中へ入った。宮内は一度も泳ぐ方向を直さず、そのまま流れの中へ沈んだ。
* * *
笛が鳴った。
四つの潮核が競技区画へ放たれる。
一つが沖側の潮流へ入った。
凪には、次に浮く場所が見えた。潮核は細い流れの中を南西へ進み、浮標の手前で一度浅くなる。
右足を蹴った。
同時に、宮内が沈んだ。
凪より遠い位置にいたはずだった。
宮内は潮核へ向かって泳いでいない。腰へ当たった流れに体の角度を合わせ、潮核と同じ水の中へ先に入っていた。
凪が浮標の内側へ回る頃には、宮内の両手が潮核を掴んでいる。胸と手足の発光ラインが青くついた。
花が正面から距離を詰め、宮内の左足が伸びる位置へ手を入れた。だが細い潮流が二人の間へ入り、花の肩だけを外側へ押す。
宮内は強く泳いでいなかった。
右肩を沈め、足を流れの下へ落としただけだった。腰が斜めに滑り、花の指先が左足の発光ラインから外れる。
凪はゴールゾーンの内側へ回った。
宮内が次に浮く場所は見えている。
そこへ入ろうとした瞬間、足元の水が横へ抜けた。潮流が宮内の体に沿って深さを変え、凪の膝だけを浮かせる。
姿勢を戻す一拍で、青い光が下へ沈んだ。
ブザー。
スコア:宮島高校 1-三原中央高校 0
宮内が水面へ上がる。
呼吸は乱れていなかった。大きく息を吸うこともなく、すぐ次の潮核へ顔を向けている。
「まだ三つ!」
結の声が水面を走った。
凪は一度だけ息を吸い、潜り直した。
宮島高校の二人が中央へ動く。花が一人目を止め、陽が潮核の流れる先へ入った。
宮内は、また沖側へ向かっている。
凪は先に細い潮流の出口へ入った。宮内が内側へ沈めば凪、浅い位置へ逃げれば渚がいる。
渚も流れの中へ体を置き、宮内から目を離さなかった。
出口が二つ塞がる。
宮内は沖へ入らず、中央の潮止まりへ進路を変えた。
凪も内側へ向かう。
水の押しが消えた。
宮内の足が、自分で掻いた分しか進まなくなる。強い潮流の中では一度沈めば滑っていた体が、中央では水へ引っかかった。
前と同じだった。
宮内が潮核を拾い、青い発光ラインがついた。
花は斜め後ろから入り、伸びた右足へ触れる。宮内が体を返しても、潮止まりの中では二人の距離が急には変わらない。花の手は足首からふくらはぎへ移り、接触を残した。
一秒。
宮内が横へ水を蹴る。押された水は後ろへ逃げたが、体はほとんど動かなかった。凪が宮内と沖側の潮流の間へ入り、渚も反対側を塞ぐ。
花の指が、膝の内側へ滑った。
二秒。
宮内が潮核を離した。
青い発光ラインが消える。オレンジ色の球は横へ一人分ほど進むはずだったが、宮内の脇でゆっくり浮き上がった。
花が潮核へ手を伸ばす。
その直前、宮内の斜め後ろを一人の選手が横切った。
深く沈めた腕で水を掻き、両足を大きく閉じる。選手の体が抜けたあと、水が遅れて宮内の方へ寄った。
花の伸ばした肩が、わずかに外へずれる。
宮内は、その小さな押しへ右足を入れた。
後流だけに運ばれたのではない。
水が当たった瞬間に自分で蹴り、止まっていた腰を半歩だけ前へ出した。
横切った選手は、そのまま浮いていた潮核を受け取る。胸と手足へ青い発光ラインがつくと、凪は持球者へ向きを変え、宮内への接触を終えた花も追った。
持球者はゴールゾーンへ向かわない。
潮核を抱えたまま宮内の前を斜めに横切り、凪が近づくより先に手を離した。泳ぎ抜けた背後には、泡の混じった水が細く残る。
潮核はその後ろへ置かれた。
宮内が右足を沈める。
自分で一度蹴り、戻ってきた潮核を受け取った。青い発光ラインが、もう一度つく。
花の手は、さっきまで宮内がいた場所を通った。凪も持球者と潮核の間へ入っていたため、戻ってきた宮内に背中を向けている。
宮内は、人が通ったあとへ足を入れた。
潮止まりの中で、体が向きを変える。
渚が正面へ戻ると、宮内はぶつかる前に潮核を離した。
今度は別の宮島の選手が、宮内の外側を横切った。最初の選手ほど大きくは水を掻かない。それでも、前の後流が消える直前に入ったことで、水の向きだけがつながった。
潮核を受けた選手は、宮内の前へ回り込む。
その途中で一度、水面へ顔を出した。
短く息を吸うと、すぐに潜り直し、花が寄る前に宮内へ潮核を戻した。
凪は宮内へ向かった。
中央に自然の潮流はない。
それでも、宮内の周囲では、一人分の水が消える前に次の一人が通っている。
凪が水の向きを拾った時には、もう誰かがそこを泳ぎ終えていた。
潮流なら、選手が動く前から足元へ届く。
今の水は違う。
誰かが動いたあとに、生まれる。
凪が次の流れを感じた時には、宮内はすでに右足を沈めていた。
受け取った宮内の左足へ、花がもう一度手を伸ばす。指先が発光ラインへ触れたが、宮内は後ろへ残った水をきっかけに自分で蹴り、ゴールゾーンの内側へ入った。
一秒。
花も同じ方向へ引かれる。
宮内は振り払おうとしなかった。花をつけたまま体を沈め、届いた潮核を両手でゴールゾーンへ運ぶ。
二秒になる前に、青い光が枠の中へ消えた。
ブザー。
スコア:宮島高校 2-三原中央高校 0
花が水面へ上がった。
「今の、何!」
結も宮内の周囲を見ていた。
「分からん! でも宮内の前、誰かずっと通っとる!」
凪は息を吸い、潜り直した。
区画中央の泡は、まだ止まっている。
宮内が動いたあとだけ、細い泡の筋が残っていた。自然の潮流なら、同じ向きへもっと長く続く。
今の筋は、一人分も進まないうちに消えている。
次の潮核を宮内が拾う。
三原中央はもう一度、中央へ追い込んだ。
凪が沖側を塞ぎ、渚が浅い出口へ入る。花は宮内ではなく、さっき斜め後ろを横切った選手へ向かった。
その選手は宮内へ近づけない。
宮内の足が、潮止まりの中で遅くなる。花が右足の発光ラインへ触れた。
一秒。
今度は止められる。
凪は宮内の手元を見た。潮核を離す向きは、さっきと同じだった。
しかし、宮内の横へ入ったのは別の選手だった。
陽が先に気づく。
宮内へ向かわず、その選手の前へ体を入れた。横切ろうとした選手は陽を避け、進路を外側へ変える。蹴り足のあとに残った水も、宮内から半歩離れた場所を通った。
宮内が離した潮核は少しだけ動き、止まる。
渚がその下へ入り、潮核の端へ触れて宮島側から遠ざけた。一瞬だけ手足と胸が赤く光り、すぐに消える。
凪は軌道の先へ回った。
奪える。
手を伸ばしたところで、別の宮島の選手が下から浮上した。
その選手は潮核を掴まず、凪と潮核の間を泳ぎ抜ける。勢いは、最初に横切った選手ほど強くない。両足を閉じた直後、水面へ上がろうとして肩が浮いた。
それでも、後ろに残った水が凪の手首を外へずらした。
止まっていた潮核も、半歩だけ引かれる。
宮内が自分でそこへ入り、拾った。
青い発光ラインがつく。
同じ選手ではない。
宮島高校の誰が宮内の近くを通っても、そのあとに短い水が残る。一人が横切った直後には、別の一人が宮内の反対側へ入っていた。
水を作った選手は一度浮上する。
その空いた場所へ、次の選手が入る。
四人が、同じ負担を順番に引き受けていた。
花が宮内を追い、渚も出口へ戻る。陽は宮内へ返る潮核の前へ入り、両手を広げず、体の向きだけで受け取る場所を消した。
宮内は無理に進まなかった。
潮核を手の下へ離すと、青い発光ラインが消えた。潮核は、誰も横切っていない水へ落ちる。
進まない。
凪が先に触れ、宮島側から軌道を外した。
宮内の得点にはならなかった。
残り時間、宮島高校は宮内の周囲へ短い水をつなぎ続けた。
一人が通ると、宮内がそのあとへ足を入れる。潮核を受けた選手が別の角度から横切り、次の一人が戻り道を作る。
三原中央も宮内本人だけを見なくなった。
花が近づく選手を止め、陽が通り道へ体を置く。渚は宮内の出口を塞ぎ、凪は人が通ったあとに生まれる水の終わりへ向かった。
だが、人の動きが先だった。
凪が水を読んでから進めば、宮内はもう次の一歩を始めている。
宮島高校も三原中央のゴールゾーンまでは入れない。三原中央も、奪った潮核を攻撃へつなげられない。
海中で押し合った水だけが、短く生まれては消えていった。
第1ピリオド終了の笛が鳴る。
スコア:宮島高校 2-三原中央高校 0
* * *
凪は水面へ上がった。
宮内も少し離れた場所に浮上する。
息は乱れていなかった。
宮内の周囲にいた四人は違う。
最初に斜め後ろを横切った選手は、岸へ向かう途中で一度止まり、大きく息を吸った。別の選手は腕を上げようとして、途中で肘を曲げる。
それでも、誰も宮内を見ていなかった。
四人は次に通る位置を指で確かめ、それから岸へ戻っていった。
仮設桟橋へ上がると、花がタオルを受け取るより先に言った。
「流れ、なかったよね」
「なかった」
凪は区画中央を見た。
泡は今も同じ場所に残っている。北東から来る水は、その手前で左右へ分かれていた。
「じゃあ、なんで動けたん」
陽が宮島高校の方を指した。
「通ったあと」
宮内の近くを横切った選手が、腰に手を当てて息を整えている。その隣では、別の選手が蹴り足の角度を確かめるように、右足を後ろへ引いていた。
遥香が区画図を広げた。
「どこを通りましたか」
凪は宮内の斜め後ろを指した。陽は宮内の正面。結は最後に下から浮上した選手の位置へ指を置く。
遥香が三本の矢印を書いた。
どれも自然の潮流より短い。宮内の周囲で始まり、一人分ほど先で止まっている。
「宮内さんが作っているんですか」
渚が聞いた。
凪は首を横に振った。
「宮内が動く前に、誰かが通ってる」
「宮内さんが先に動いたのは、最初の一点だけです」
優奈が言った。
試合が終わっても、宮内から目を離していなかった。
「中央へ入ってからは、毎回誰かが近くを通っています。宮内さんは、そのあとに足を動かしてました」
遥香が三本の矢印の始点へ小さな丸をつける。
「間隔は?」
「同じではありません。でも、宮内さんが止まっている時間は、誰かが通るまでです」
花が区画図を覗き込んだ。
「通っただけで、流れになるん?」
「大きな流れじゃない」
凪は短い矢印を見た。
「それだけで宮内が運ばれたわけでもない。水が来た瞬間に、宮内も蹴ってる」
「最初の一歩だけ?」
結が聞く。
凪は頷いた。
「一歩動けたら、次の人が来る」
遥香のペン先が、三本の矢印を一本につないだ。
一人分にも満たない流れ。
それが消える前に、次の選手が横切っている。
水を作った選手は、一度上がって息を吸う。その間に別の選手が同じ場所へ入り、宮内の前へ次の一歩を残す。
凪は自分の右手を見た。
自然の潮流なら、宮内が動く前から触れられる。
今の水は、人が通ったあとにしか生まれない。
水だけを読んでいたら、必ず一拍遅れる。
区画中央の海は、今も止まっていた。
宮内瀬那だけが、その中で二度向きを変えた。
海が宮内を運んだのではない。
宮島高校が、宮内のところまで一歩分ずつ海を運んでいた。




