第92話 始まりを変える
区画図の赤い線に、青い丸が二つ並んでいた。
一つは、芽衣が潮核を離した先。
もう一つは、渚が受け取る前。
どちらも、第1ピリオドの先制で使った場所だった。
スコア:国際広高校 0-三原中央高校 1
遥香は濡れないよう膝の上へ区画図を置き、赤い線の始点をペンで叩いた。
「次は、この線を使いません」
「別の潮流を探すん?」
結がタオルで髪を挟んだまま、図を覗き込む。
「場所だけ変えても、また凪さんから見られます」
優奈は国際広の方を見ていた。
向かい側では、背の高い選手を中心に五人が集まっている。一人が右足を強く引き、腰を斜めへ向けた。
凪が潮核の軌道を変える前に使った動きだった。
「うちが先に行く」
花が言った。
「凪が見られとるなら、見る前にうちが動けばええじゃろ」
「その次は?」
遥香が聞く。
「渚」
渚が顔を上げる。
「うちですか」
「速いけん」
「その次は?」
結の声に、花の目が芽衣へ向いた。
「芽衣」
「凪は?」
「最後」
凪は区画図を見た。
凪が潮流を見つける。
渚が先へ出る。
花がゴールゾーンへ向かう。
芽衣が空いた場所へ入る。
決めた覚えはない。
何度も繰り返すうちに、そう動くようになっていた。
「できますか」
遥香が凪を見る。
「やります」
「凪さんが動くまで待たないでください。最初に誰が潮核へ触るかも決めません」
花が立ち上がった。
「元から、そんなきれいに決めてないじゃろ」
「決めてなくても、同じになっています」
優奈が言った。
花の口が閉じる。
凪は自分の右足を見た。
海の中で次の流れが見えれば、先に足が動く。それを止めたことは、ほとんどなかった。
見えているのに、動かない。
潮流を見落とすより難しいかもしれなかった。
第2ピリオド開始の笛が鳴った。
花が中央へ入る。
国際広の二人がすぐに反応した。一人が花の正面へ回り、背の高い選手は長い腕を畳んだまま、足の発光ラインへ届く距離を保って並ぶ。
渚は沖側へ出た。
速い潮流が腰へ当たり、下半身だけを先へ運ぶ。渚は流された分を蹴り足で整え、そのまま一つ目の潮核へ向かった。
芽衣は岸寄りに残る。
凪も、まだ動かなかった。
国際広の視線が一度だけ凪へ向く。
目の前では、岸寄りの弱い潮流が潮核の下へ入り込んでいた。
もう少し流れれば、区画中央へ曲がる。
凪の右足に力が入った。
今なら先に取れる。
足を出しかけたところで、花が中央の潮核へ手を伸ばした。
国際広の選手が半歩早い。
青い発光ラインがつく。
花は持球者の右足へ手を伸ばした。指先が発光ラインへ触れると、持球者は沖側へ進路を変える。
一秒。
速い潮流が二人の腰へ食いついた。
花は手を残したまま追おうとしたが、岸寄りへ戻される足と、沖へ運ばれる肩が別の方向へ引かれる。伸ばした左腕だけが持球者についていき、胴体が半歩遅れた。
二秒になる前に、青い光が消えた。
国際広は潮核を離している。
潮核は沖側の流れへ乗り、二人目の前へ向かった。
芽衣が間へ入る。
受け手の正面を塞ぎ、潮核へ左手を伸ばした。
国際広の指先が先に触れる。
青い光がもう一度ついた。
芽衣が足へ触れようとした時には、持球者は岸寄りへ体を沈めていた。表面では肩が南西へ流れ、下では足が逆向きの潮流へ戻される。腰の向きが崩れた瞬間、持球者は潮核をさらに深い位置へ離した。
芽衣の手が水だけを掴む。
潮核は深い位置で一度失速し、それからゆっくり浮き始めた。
凪には、浮上する場所が見えた。
ゴールゾーンへ近い。
国際広の受け手も、すでにそこへ向かっている。
今度こそ右足が動いた。
凪は二つの潮流の間へ潜り、浮き上がってきた潮核の下へ指先を差し込んだ。背後から国際広の手が右足へ伸びてくる。
触れられるより先に、潮核の端を押す。
軌道が浅く外れた。
受け手の両手が閉じる。
その間を、潮核が抜けていった。
得点にはならない。
凪は水面へ上がり、口を開いた。
一度しか息を吸えないまま、結の声が落ちてくる。
「右、残っとる!」
凪はまた潜った。
胸の奥が、まだ前の呼吸を求めていた。
次の攻撃では、花が先に国際広の守備を中央へ引きつけた。渚が沖側へ出て、芽衣が岸寄りの潮核を拾う。
凪は二つの潮流が重なる場所を見た。
潮核を離す深さは合っている。
このままなら、さっき先制した時と同じように斜めへ曲がる。
芽衣の足へ、長い腕が伸びた。
赤い発光ラインに手が触れる。
一秒。
芽衣は足を引かなかった。潮核を持つ手を少し下げ、岸寄りの潮流へ入れる。
赤い光が消えた。
潮核が曲がり始める。
国際広の選手は、凪が入るはずの内側へ動いた。
凪は動かなかった。
右足の筋肉が硬くなる。
相手より先に入れる場所が、目の前に空いている。
それでも、待った。
曲がった潮核へ、渚が外側から入る。
国際広の選手が渚へ向き直った。
その一拍で、花が中央から岸寄りへ戻った。
渚は潮核を掴まず、端へ触れて沖側へ軌道を変えた。
一瞬だけ赤い発光ラインがつき、すぐに消える。
潮核は花の前へ出た。
国際広の守備が戻る。
花は受け取ると同時に、潮核を芽衣へ離した。
芽衣の正面へ一人が入る。
潮核は伸ばされた腕の先を抜けたが、岸寄りの潮流に押し戻され、芽衣の指先までは届かなかった。
攻撃が切れる。
花が浮上した。
「もう一回!」
息を吸う声が大きかった。
最初の接触で伸ばし続けた左腕が、水面で少し遅れて上がる。
形は変わった。
国際広の反応も、一度は遅れた。
それでも、最後には全員が凪の動きを待っていた。
第2ピリオドの終盤、国際広が岸寄りの潮核を拾った。
青い発光ラインがつく。
芽衣が受け手の前へ入る。
花は持球者へ向かった。
国際広は花が触れるより先に潮核を離し、沖側の速い潮流へ乗せた。
渚が追う。
受け手は潮核を掴む前から体を南西へ向けていた。青い光がついた瞬間、そのままゴールゾーンの外側へ回り込む。
凪は内側へ入った。
持球者の肩は沖へ運ばれ、足だけが岸寄りの潮流へ残っている。
次に腰が開く場所は見えた。
凪の手が右足へ触れる。
一秒。
持球者が体を沈める。
速い潮流が凪の肩へ乗り、接触した腕と胴体を別々の方向へ引いた。
二秒。
凪は指を開かない。
右肩が前へ引かれ、脇腹が伸びる。
あと少し。
三秒になる直前、青い発光ラインが消えた。
持球者が潮核を離している。
凪の手の先から、相手の足だけが抜けていった。
潮核はゴールゾーンの手前へ浮き上がる。
別の国際広の選手が受けた。
花は一人目を追っている。
芽衣は岸寄り。
渚も沖側から戻り切っていない。
青い光が沈む。
ブザー。
スコア:国際広高校 1-三原中央高校 1
第2ピリオド終了の笛が続いた。
凪は水面へ上がった。
肺の奥まで息を入れようとしても、最初の一度は喉だけで止まった。もう一度吸い直す。
橋の上を走る車の音が、少し遅れて海へ落ちた。
仮設桟橋へ戻ると、遥香が区画図を広げた。
「途中までは変わっています」
「途中までじゃ点にならんよ」
花がゴーグルを外す。
左腕を一度振り、肘を曲げ伸ばしした。
結が水面から上がってきた。
「最後、みんな凪を見とった」
凪が顔を上げる。
「国際広じゃないよ。うちらが」
芽衣の手が止まった。
「私も見ました」
「うちもです」
渚が息を整えながら言った。
「凪さんが入ってから、次へ行こうとしてました」
区画図には、途中まで別々に進んだ赤い線がある。
最後だけ、凪のいる場所へ集まっていた。
「凪さんが起点じゃなくても、最後の答えを待っています」
遥香が、集まった線を一本ずつ消した。
凪は海を見た。
岸寄りの潮流は、今も同じ場所で潮核を曲げている。
第1ピリオドから何度も使った。
自分だけが知っている場所ではない。
「曲がる場所は、もう分かってる」
凪は芽衣を見る。
「芽衣が深さを合わせて。渚は、曲がったあとに触って」
「花さんは?」
遥香が聞く。
「待たないで入ってください」
「凪は?」
花が左腕を押さえながら聞いた。
「外れた時だけ行きます」
見えていても、手を出さない。
さっきより長く待つことになる。
凪は右足の指を曲げた。
ドライスーツの中で、爪先が布へ当たる。
「分かった」
花が立ち上がった。
「外さんかったら、出番ないね」
「その方がいいです」
「言うようになったじゃん」
遥香は目を逸らした。
第3ピリオド。
芽衣が最初の潮核へ向かった。
背の高い選手は、前と同じように斜め後ろから距離を詰める。芽衣が潮核を掴んだ瞬間、長い腕が左足へ伸びた。
赤い発光ラインに手が触れる。
一秒。
芽衣は潮核を離した。
前より深い。
岸寄りの弱い潮流が潮核の下へ入り込み、表面の速い潮流が横から引く。二つの向きに引かれた潮核は、一度沈んでから区画中央へ曲がった。
凪は動かなかった。
国際広の一人が、凪の前へ入る。
背の高い選手の目も、潮核ではなく凪の右足を見た。
右足に力が入る。
曲がる位置が、少し深い。
渚が触れるなら、もう半歩下へ行かなければならない。
凪は息を止めた。
手を出せば間に合う。
自分なら、確実に変えられる。
渚が潜った。
いつもより深い位置へ腕を伸ばし、曲がった潮核の下側へ指先を当てる。体が沖側へ流され、触れた手と肩の位置がずれた。
それでも、指は離れなかった。
潮核が浮く方向を変える。
花は、もうゴールゾーンへ向かっていた。
国際広の正面にいた選手が花を追う。
背の高い選手も、ようやく凪から目を外した。
渚が変えた潮核は、花の前より少し深い。
花は待たない。
両腕を前へ伸ばし、潮核を掴みながら体ごと沈んだ。
赤い発光ラインがつく。
背後から国際広の手が右足へ届いた。
一秒。
花は足を引かなかった。
沖側の潮流へ肩を預け、接触した相手と一緒に南西へ運ばれる。
流れに押された腰がゴールゾーンの外へずれた。
花は左腕で潮核を抱え、空いた右手で水を掻く。
体が戻らない。
二秒。
凪の足が動きかけた。
花の右手が、もう一度水を掴む。
肩が内側へ向いた。
凪は止まった。
赤い光が、ゴールゾーンへ沈む。
ブザー。
スコア:国際広高校 1-三原中央高校 2
花が水面へ上がった。
最初の呼吸は短く、二度目に大きく息を吸う。
「待たん方が早いじゃん!」
「最初から言っとるよ!」
結の声が飛んだ。
国際広の背の高い選手も浮上した。
花ではなく、まだ動いていない凪を見る。
その目が、初めて潮核へ戻った。
第3ピリオドの残り時間、国際広は凪を待たなくなった。
芽衣へ早く寄る。
渚が触れる位置へ先回りする。
花の進路を二人で塞ぐ。
三原中央も、同じ順番では動かなかった。
渚が先に沖側へ出る。
花が岸寄りへ戻る。
芽衣がゴールゾーンの外側へ入り、凪は外れた潮核だけを追う。
追加点は入らない。
それでも、国際広の五人が同じ場所を見ることはなくなった。
第3ピリオド終了。
スコア:国際広高校 1-三原中央高校 2
第4ピリオド。
国際広は開始から前へ出た。
四つの潮核へ五人が広がり、二つを同時に拾う。
青い発光ラインが、中央と沖側でついた。
一点を通すために、三原中央の守備を二つへ割ろうとしている。
花が中央の持球者へ向かう。
芽衣は岸側の受け手へ入り、渚は沖側から運ばれる潮核を追った。
凪は二つの青い光を見た。
中央の持球者は花に触れられる前に離すつもりで、手を潮核の下へ回している。
沖側は、渚より国際広の受け手が半歩早い。
どちらも危ない。
水面へ上がれば、結の声を聞ける。
その時間はない。
沖側の潮流が凪の腰へ当たった。
岸寄りへ戻る水が、右足を押し返す。
中央へ行けば、花と重なる。
凪は岸側へ向かった。
中央では、花の手が持球者の足へ触れる。
一秒。
持球者が沖へ逃げる。
花の肩と腰が速い潮流に持っていかれ、伸ばした腕だけが後ろへ残る。それでも指先は発光ラインから離れない。
岸側では、国際広が潮核を深く離した。
芽衣が受け手の前へ入る。
受け手は芽衣を避け、潮核が浮く場所まで岸寄りの潮流に体を預けた。
凪は、その下へ潜った。
潮核が浮き始める。
受け手の両手が下りてくる。
凪は潮核を掴まず、端に指を当てた。
岸へ戻る水が手首を押す。
押された分だけ、指先を残す。
潮核の軌道が外へずれた。
受け手の手が空を切る。
中央で、青い発光ラインが消えた。
三秒タッチ。
花の左腕が水中へ落ちる。
指が開ききるまで、一拍かかった。
落ちた潮核へ、渚が入った。
赤い発光ラインがつく。
国際広の選手は前へ出ている。
ゴールゾーンとの間に残ったのは二人。
渚は凪を見なかった。
沖側の速い潮流へ体を入れ、最初の一人が腕を伸ばす前に潮核を離す。潮核は流れに乗って中央へ向かった。
花が受ける。
赤い光がついた瞬間、二人目が正面へ回る。
花は進まない。
潮核を岸寄りへ離した。
凪の前を通る。
右足が動きかける。
潮核は岸寄りの潮流へ入り、ゆっくり芽衣の方へ曲がった。
凪は追わなかった。
芽衣が受ける。
国際広の手が左足へ伸びた。
一秒。
芽衣は潮核を離さない。
岸側へ戻される足に逆らわず、腰を斜めに向けた。上半身だけをゴールゾーンへ沈めようとすると、接触された左足が後ろに残り、体が横へ開く。
二秒。
芽衣の息が、水中で泡になって漏れた。
ゴールゾーンは下にある。
腕一本分。
相手の手が、ふくらはぎから膝へ滑る。
凪には、芽衣の体が次に岸側へ戻されるのが見えた。
入れば、支えられる。
潮核へ触れれば、もっと中央へ寄せられる。
凪は動かなかった。
芽衣が右足で水を蹴る。
戻される前に、両手を伸ばした。
オレンジ色の潮核が、ゴールゾーンへ沈む。
ブザー。
スコア:国際広高校 1-三原中央高校 3
芽衣が水面へ上がった。
息を吸う音が岸まで届いた。
すぐにゴーグルを下ろし、残る潮核へ顔を向ける。
「まだです!」
花も左腕を水面へ戻した。
「分かっとる!」
残り時間、国際広は二つの潮核を前へ運んだ。
三原中央はゴールゾーンの手前で止め続けた。花が接触を切らさず、渚が落ちた潮核へ入り、芽衣が受け手の前へ戻る。
凪は外れた潮核だけを追った。
見えた場所へ、全部入る必要はない。
自分が行かなくても、赤い光は次へ続いた。
最後の潮核が岸寄りの潮流へ戻されたところで、笛が鳴った。
試合終了。
スコア:国際広高校 1-三原中央高校 3
凪は水面に浮いたまま、息を整えた。
太腿が重い。
右足を上げようとすると、岸寄りの潮流にもう一度押し戻された。
国際広の背の高い選手も、すぐには岸へ向かわなかった。水面で息を吸い、赤い光の消えた三原中央の五人を順番に見る。
最後に凪で止まり、短く息を吐いた。
仮設桟橋へ戻ると、結がスマホを持ち上げた。
「次、出た」
花はタオルを首へ掛け、動かしにくそうな左腕を曲げた。
「どこ?」
結は答えなかった。
画面を凪たちへ向ける。
【次戦】
【宮島高校-三原中央高校】
花の手が止まる。
「またここで宮島高校……」
遥香も画面を見る。
「宮内さんのところですね」
凪は何も返さなかった。
因島大橋の向こうで、船が進んでいる。
白い航跡は速い潮流に引かれ、途中から形を失っていた。
前に見た青い光を思い出す。
潮流に乗っていたのではない。
潮流と同じ場所へ、最初からいた。
結の画面には、宮島高校の名前が残っている。
次の海には、宮内瀬那がいる。




