第91話 一点の次
因島大橋を走る車の音が、海へ遅れて落ちていた。
白い橋脚の向こうを、貨物船が進んでいく。
船体が橋の影へ入り、また朝の光へ出た。
地区大会二回戦。
会場は、因島・大浜沖。
航路から外れた岸寄りの海域を、黄色い浮標が囲んでいる。
凪は仮設桟橋の端にしゃがみ、右手を水へ入れた。
表面は、橋の方から南西へ流れている。
指先を深くすると、下から弱い水が押し返した。
腕は沖へ引かれ、手首から先だけが岸へ戻される。
二つの潮流が重なる場所は、区画の中央より少し岸側。
「どうですか」
遥香が隣に立った。
手には区画図とペンがある。
「表面と下で向きが違います。岸側へ入ると、足だけ戻されると思います」
遥香は区画図へ二本の矢印を書いた。
沖へ向かう太い線。
岸へ戻る細い線。
「国際広は、そこを使ってきそうですか」
「使うと思います。接触したあと沖側へ入れば、二人とも同じ方向へ流れるから」
泳いで離れようとしても、相手も一緒に運ばれる。
凪は水から手を上げた。
指先から落ちた水が、桟橋の上に黒い点を作る。
向かい側では、国際広高校の選手が準備をしていた。
五人とも、三原中央より体が大きい。
中でも一番背の高い選手は、腕を下ろすと指先が太腿の横まで届いた。
花がドライスーツの手首を引いた。
「足取られたら、いつもの距離じゃ切れんね」
「先に腕の内側へ入った方がいいと思います」
芽衣が国際広の選手を見たまま答えた。
「分かっとるならええ」
国際広の五人が潮況ボードから顔を上げた。
海ではなく、三原中央を見る。
優奈が、その動きを追っていた。
「足元を見ています」
遥香が区画図から顔を上げる。
「誰のですか」
「芽衣さんと渚さん。凪さんは、足より腰を見られています」
花が肩を回す。
「見られたくらいで、動きは変わらんよ」
「変えなくていいと思います」
優奈は国際広から目を離さなかった。
「変えた方も見られるので」
遥香が時計を確認した。
「第1ピリオドは、凪さん、花さん、芽衣、渚さん、結さんで行きます。結さんは水面をお願いします」
「了解」
結がゴーグルを上げた。
「最初から取りに行くん?」
「はい。相手が見ているなら、こちらから見せます」
花がゴーグルを下ろす。
「取ってから考えりゃええ」
花が海へ入る。
凪、芽衣、渚が続いた。
沖側の潮流が、すぐに凪の腰へ当たった。
足元には、反対へ戻る弱い水がある。
上半身と下半身が、別の方向へ引かれる。
凪は体を少し沈め、二つの潮流が重なる深さを確かめた。
国際広の五人も水へ入った。
四つの潮核が競技区画へ放たれる。
笛が鳴った。
渚が沖側へ出た。
速い潮流へ体を乗せ、一つ目の潮核へ向かう。
国際広は、四つの潮核へ均等に散らなかった。
一人が渚を追う。
一人が花の正面へ入る。
背の高い選手は、岸寄りへ進む芽衣との間に距離を残したまま並んだ。
芽衣は胸より低い姿勢で、岸側の潮核へ向かった。
国際広の腕が伸びる。
芽衣が先に潮核を掴んだ。
手足と胸の発光ラインが赤くつく。
花の正面には一人いる。
沖側には、渚を追う選手がいる。
芽衣は潮核を胸の下へ離した。
赤い発光ラインが消える。
潮核が岸寄りの弱い潮流へ入った。
岸へ戻るはずの潮核を、表面の速い潮流が横から引く。
軌道が斜めに曲がった。
国際広の選手が、曲がった先へ動く。
凪はその内側へ入った。
潮核の端へ指先を当てる。
手足と胸が一瞬だけ赤く光り、すぐに消えた。
深さが変わる。
潮核は岸へ戻る潮流を外れ、沖側へ抜けた。
花の前へ出る。
花が両手で掴んだ。
赤い発光ラインがつく。
正面にいた国際広の選手が反転する。
背の高い選手も芽衣から離れ、花へ腕を伸ばした。
花は二人の間へ進まない。
沖側の速い潮流へ左肩を入れた。
体を南西へ運ばせながら、ゴールゾーンの外側へ回り込む。
背後から伸びた手が、左足の先を通った。
届かない。
花が体を沈め、潮核をゴールゾーンへ運んだ。
得点ブザーが鳴る。
スコア:国際広高校 0-三原中央高校 1
花が水面へ上がった。
「よし!」
「まだ三つあるよ!」
結の声が飛ぶ。
花は息を吸い、すぐに潜った。
国際広の五人は、ゴールゾーンを見ていなかった。
背の高い選手が、芽衣のいた位置へ顔を向ける。
別の選手は、凪が潮核へ触れた場所を見ていた。
渚を追っていた選手が、右手の指を二本立てる。
背の高い選手が頷いた。
凪は中央へ戻りながら、その動きを見た。
得点までの経路を確認している。
芽衣が離した場所。
潮核が曲がった位置。
凪が触れた深さ。
花が入った方向。
残る三つの潮核へ、両校が動く。
国際広が中央の潮核を拾った。
青い発光ラインが沖側の潮流へ入る。
花が正面から近づく。
持球者は花を避け、岸寄りへ進路を変えた。表面の潮流が肩を南西へ運び、下の弱い潮流が足だけを岸側へ戻す。
腰が横を向く。
花の手が、右足の発光ラインへ触れた。
一秒。
持球者が体を返しても、花は手を離さない。
二人が同じ潮流へ入り、接触したまま南西へ運ばれる。
二秒になる前に、青い発光ラインが消えた。
国際広が潮核を離す。
受け手へ渡る前に、芽衣が左手を入れた。
潮核の端に触れ、軌道を区画の外側へ変える。
国際広の攻撃が止まった。
凪は二つ目の潮核へ向かった。
さっき使った場所には、まだ斜めの潮流が残っている。
岸寄りの弱い潮流から、沖側の速い潮流へ抜ける線。
芽衣も同じ場所へ入った。
背の高い選手は、正面ではなく斜め後ろにいた。
さっきより、半歩だけ岸側。
芽衣が潮核を掴む。
赤い発光ラインがつく。
長い腕が伸び、左足へ触れた。
一秒。
芽衣は潮核を胸の下へ離した。
赤い発光ラインが消え、潮核がさっきと同じ潮流へ入る。
斜めに曲がる。
曲がった先には、国際広の選手がいた。
青い発光ラインがつく。
凪が入るはずだった位置を、先に取られている。
結が水面で腕を振った。
「花、中央!」
花が反転する。
国際広の持球者は、沖側の速い潮流へ入った。
青い発光ラインがゴールゾーンへ向かう。
凪は受け手の前へ出る。
芽衣も中央へ戻った。
花の手が、持球者の右足へ触れる。
一秒。
潮流が二人を同じ方向へ運ぶ。
持球者が進んでも、花の手は残った。
二秒になる前に、国際広は潮核を離した。
受け手の前には凪がいる。
潮核は二人の間を抜け、岸側の弱い潮流へ押し戻された。
得点は動かない。
凪が息継ぎへ上がる。
「結!」
「最初のとこ、待たれとる!」
結は岸側を指した。
「凪が入る前からおったよ!」
凪は息を吸い、潜り直した。
同じ線は使えない。
花をゴールゾーンの正面へ出す。
国際広の二人が花へ顔を向けた。
渚は沖側。
速い潮流の外側で、相手より半歩前にいる。
凪が潮核を拾った。
赤い発光ラインがつく。
正面から手が伸びる前に、右足で水を蹴った。
体を斜めへ向け、渚が進む先へ潮核を離す。
赤い発光ラインが消えた。
国際広の背の高い選手は、潮核が流れ始める前に動いていた。
渚へ向かっている。
渚が潮核を受け取った。
手足と胸に赤い発光ラインがつく。
背後から長い腕が伸び、左足へ触れた。
一秒。
渚は強く水を蹴る。
沖側の速い潮流が、二人を同じ方向へ運んだ。
距離が開かない。
渚が左膝を曲げ、足を引く。
国際広の手は足首から膝の内側へ滑り、接触を切らさなかった。
二秒になる前に、渚は潮核を離した。
急いで離した潮核は、表面を沖側の潮流に取られ、ゴールゾーンの横を通り過ぎる。
先には、別の国際広の選手がいた。
青い発光ラインがつく。
渚はすぐに反転した。
落とした潮核を追わず、持球者の進路へ先に入る。
正面から花。
外側から渚。
国際広の持球者は、二人が閉じる前に潮核を離した。
受け手へは届かない。
凪が途中で指先を当て、軌道を外した。
得点は動かなかった。
凪は水中で、国際広の背の高い選手を見た。
相手が動いたのは、潮核を離したあとではない。
右足を蹴ったときだった。
凪が潮核を流すより先に、渚へ向かっている。
読まれたのは潮流ではない。
潮核へ触れる前。
体の向き。
足を蹴る強さ。
味方が動き始める順番。
国際広は、三原中央が潮流を使う前を見ていた。
残り時間が減っていく。
三原中央が潮核を持つたび、国際広は受け手になる選手へ早く寄った。
接触されれば、二秒になる前に潮核を離す。
離した先には、別の青いスーツがいる。
国際広は、一人を三秒触り続けることにこだわらない。
潮核を離させた瞬間には、次の位置へ動いていた。
それでも、国際広もゴールゾーンへ入れない。
花が接触を切らさない。
芽衣が受け手の前へ入り続ける。
渚は一度抜かれても、次の持球者へ先に向かった。
結の声が、息継ぎへ上がった選手を戻す。
「岸側、まだ一つ!」
凪が岸寄りへ入った。
弱い潮流が、ふくらはぎを押す。
その水に体を合わせ、国際広の潮流パスより先へ出る。
指先が潮核の端へ触れた。
青い発光ラインがつく前に、軌道が外側へ変わる。
第1ピリオド終了の笛が鳴った。
スコア:国際広高校 0-三原中央高校 1
凪は水面へ顔を出した。
勝っている。
国際広の五人は、すぐに岸へ戻っていく。
誰もスコアボードを見なかった。
背の高い選手が右手を開く。
隣の選手が、凪の右足を指した。
凪も仮設桟橋へ戻った。
遥香が区画図を広げる。
「二回目に待たれていた場所を教えてください」
芽衣が指を置いた。
渚も、潮核を受け取った位置を示す。
遥香が青い丸を書く。
一つ目は、芽衣が離した潮核の先。
二つ目は、渚が潮核を受け取る前。
優奈が図を覗き込んだ。
「芽衣さんの時は、最初の得点と同じ場所を見ていました」
「渚の時は?」
花がタオルで顔を拭きながら聞いた。
「凪さんが右足を蹴った時に動いています」
凪は区画図へ目を落とした。
最初に得点した経路が、赤い線で残っている。
芽衣が潮核を離した場所。
凪が深さを変えた場所。
花が入ったゴールゾーン。
一度目は、全部通った。
同じ線の上に、青い丸が増えている。
遥香のペン先が止まった。
「次は、この線を使いません」
「なら、別のとこ通るだけじゃろ」
花が立ち上がった。
凪は海を見た。
沖側の速い潮流は残っている。
岸寄りの弱い潮流も、まだ向きを変えていない。
通れる場所は、他にもある。
ただし、そこへ向かう前の動きを、国際広は見ている。
凪は区画図へ目を戻した。
一点を取った赤い線の上に、青い丸が二つ並んでいた。
一度通った場所は、もう空いていなかった。




