第87話 十人で、上る
やっさの提灯は、駅前から外されていた。
電柱の間には紐だけが残り、朝の商店街を箒の音が進んでいる。三原港では、始発を終えた船が低いエンジン音を響かせていた。
軒下に、十人分の荷物が並んでいる。
三谷が競技用具の箱を車へ積み、後部扉を閉めた。
「乗船まで四十分だ」
花が駅の向こうへ顔を向けた。
「八幡宮、行けるじゃろ」
「八時四十分までに戻れ」
「余裕じゃね」
「荷物は置いていけ。石段へ持って上がる必要はない」
花は大きな鞄を足元へ戻した。
「持って行こうとはしとらんよ」
「今、持ち上げただろ」
「置き直しただけ」
三谷は答えず、次の箱を確認した。
遥香が名簿を閉じる。
「小さい鞄だけ持ってください。出発します」
十人は港を離れた。
祭りで使われた柵が、路地の端へ重ねられている。掲示板には、町内会の練習日程がまだ残っていた。
花が先を歩く。
心春が、その横へ並ぶ。
「試合前は毎回行くん?」
「行ける時はね」
「お願いしたら勝てる?」
「そこは自分らでやるんよ」
「じゃあ何をお願いするん?」
「それは着いてから決める」
花は歩く速度を変えなかった。
商店街を抜け、坂へ入る。
大きな鳥居の先に、石段が続いていた。
十人が、その前で止まる。
結が一番上まで見上げた。
「三年目になると、さすがにこの長さにも慣れるね」
「まだ一段も上っとらんよ」
花が一段目へ足を置く。
「見る方には慣れたんよ」
結も、そのあとへ続いた。
花と渚が先へ進む。
七海も二人を追いかけたが、横へ並ぶところで速度を落とした。
遥香と優奈は一定の間隔で上る。
芽衣は鞄を左手に持ち、右肩を揺らさない。心春は隣にいたが、手を出さず、自分の歩幅で段を踏んだ。
陽は結の少し後ろを上る。
凪は右足を石段へ置いた。
体重を乗せる。
張りはない。
もう一段。
高さのある場所では左足から入る。右足だけで体を持ち上げず、同じ速さで進んだ。
蝉の声が、石垣の上から落ちてくる。
途中で結の呼吸が大きくなった。
花が上から振り返る。
「慣れたんじゃなかったん?」
「長さには慣れたって言っただけ」
「上る方は?」
「今年も長いね」
結は止まらなかった。
陽も何も言わず、その後ろを上った。
随神門の前で、先に着いた花たちが待っていた。
七海は水筒を持ったまま、石段の下を見る。渚は門の陰へ入り、呼吸を整えている。
結が最後の段へ足を置いた。
「今年は途中で座らんかったね」
花が言う。
「一回も座ったことないよ」
「一年目、端に寄って動かんかったじゃん」
「あれは景色見よったんよ」
「石垣しかなかったよ」
結は花の水筒を受け取った。
「三年経っても覚えとるんじゃね」
「覚えとるよ」
花はそれ以上続けなかった。
十人が揃い、本殿へ向かった。
境内には、朝の日差しが斜めに入っている。蝉の声に混じり、町の下から作業音が届いていた。
花が最初に賽銭を入れた。
鈴を鳴らし、頭を下げる。
手を合わせた。
隣にいた結は、何も言わなかった。
花の指は、しばらく合わさったままだった。
港の方から、フェリーの汽笛が一度響く。
花は目を開けた。
もう一度頭を下げ、横へ場所を空ける。
結が前へ出た。
陽、渚、遥香、芽衣が続く。
優奈、七海、心春も、それぞれ賽銭を入れた。
誰も、祈ったことを聞かなかった。
最後に、凪が本殿の前へ立つ。
手を合わせる。
蝉の声が近い。
木の葉が擦れ、その向こうから、もう一度汽笛が届いた。
凪は頭を下げた。
参拝を終え、境内の端へ進む。
木々の間から、三原の町が見えた。
駅の屋根。
港の建物。
造船所のクレーン。
海の向こうに重なる島。
七海が手すりの前へ立った。
「あれ、うちらの浮標ですか」
港の端に、黄色い点が並んでいる。
「そう」
凪が答えた。
「小さ」
「中に入ると、広いよ」
優奈が目を細める。
「二番浮標は、どれですか」
「右から二つ目」
「流れまでは見えませんね」
「ここからじゃ見えない」
「凪先輩でも?」
「見えないものは見えないよ」
優奈は頷き、もう一度港を見た。
心春は町の中を探している。
「昨日踊った道、どこじゃろ」
「駅の向こう」
花が指した。
「集会所は?」
「屋根までは見えんよ」
花の指が町の上を短く動く。
それから、港へ戻った。
芽衣は海の先を見る。
「佐木島、どれ?」
「向こうです」
渚が一つの島を指した。
陽が首を振る。
「違う」
「じゃあ隣です」
「それも違う」
「見え方が変わりました」
「島は動かない」
渚は指を下ろした。
凪は、海と空の境目より下を見た。
黄色い浮標が、港の端に並んでいる。
その先を、一隻のフェリーが横切った。
白い波が船尾から広がり、少し遅れて消えていく。
遥香が時計を見る。
「戻ります。乗船まで二十五分です」
十人は境内を離れた。
石段を下りる。
上りよりも、足音が近い。
先へ出た七海が、日陰の濡れた段の前で止まった。後ろの優奈も立ち止まり、二人で乾いた中央へ移る。
芽衣は一段ずつ、右肩を揺らさずに下りた。
心春はその隣を、自分の足で進む。
結も手すりに触れず、陽と同じ速度で下りていた。
凪は右足を置く。
体重を残さず、次の段へ移る。
石段に、十人分の足音が続いた。
鳥居を抜けると、港から乗船案内が聞こえた。
花が歩く速度を上げる。
「間に合う?」
「予定どおりです」
遥香が答える。
「走らんでいい?」
「走らないでください」
「聞いただけじゃん」
花は歩いたまま、港へ向かった。
三谷は車の横で待っていた。
十人が軒下へ戻ると、共有用具の箱はすでに台車へ移されている。
「全員いるな」
三谷が聞く。
遥香は振り返った。
「十人います」
「なら乗るぞ」
花が自分の鞄を受け取る。
凪はドライスーツの入った荷物を肩へ掛けた。
一年生三人も、それぞれの鞄を持つ。
乗船案内が、もう一度流れる。
十人は改札を通り、桟橋を渡った。
船内へ入り、荷物を足元へ置く。
低いエンジン音が床から伝わってきた。
ロープが外される。
フェリーが岸壁を離れた。
三原港の建物が、窓の向こうで低くなる。
黄色い浮標が、船尾の下へ小さくなっていった。




