第86話 やっさ、今年も
三原駅の方から、太鼓と笛の音が届いていた。通りには法被姿の人が増え、まだ明るさの残る空の下で、提灯の灯りが点々と続いている。
石庭の前で待っていると、人の向こうで花が手を上げた。凪の隣で結が手を振り返し、花は芽衣と心春を連れて、通りを歩く人の間からこちらへ出てきた。
「お待たせ。もうみんな来とったんじゃね」
花が陽や遥香たちにも声をかけていると、心春が隣から覗き込むようにして聞いてきた。
「花ちゃん、みんなも一緒なん?」
「そうよ。みんなで踊るんじゃけ」
「うち、花ちゃんと芽衣ちゃんと、三人かと思っとった」
「あ、そういうつもりじゃったん?」
花が聞き返すと、芽衣も横から身を乗り出してきた。
「うちも、みんなで行くんじゃと思っとったよ。去年も一緒じゃったし」
芽衣にもそう返されると、心春は小さく息を吐くと、肩から提げた鞄を開け、スマホを取り出した。
「じゃあ、七海らにも言っとく。あとで会うことにしとるけん」
「うん。踊る方の集合場所、分かる?」
「分かるよ。場所も送っとく」
画面を触り始めた心春の隣で芽衣が待つ間に、花が凪たちを促した。
「行こうや。法被、借りんと」
凪たちが歩き出すと、送信を終えた心春も芽衣と一緒についてきた。
踊りに出る町内会の人たちは、通りから少し入った場所に集まっていた。段ボール箱から法被を出す人のそばで、もう着替えた人たちが水を飲んでいる。
「花ちゃん、こっちにあるよ」
呼ばれた花が法被の束を受け取り、凪たちに回した。袖に腕を通すと、背中に布が一枚増えただけで暑かった。凪が帯を結んでいる間に、渚は襟元をつまんで風を入れていた。
「まだ踊っとらんのに、汗出る」
「今のうちに飲んでおきましょう」
遥香も法被の前を開けたまま、ペットボトルに口をつけた。
前の組はまだ並んでいる。凪も鞄から飲み物を出しかけたところで、隣にいた花が通りへ向かって大きく手を振った。
「七海! 優奈! こっち!」
人の間から七海が片手を上げて応えた。もう片方の手には、かき氷のカップがある。優奈と二人で凪たちのところまで来ると、七海がかき氷のスプーンをこちらに向けながら聞いてきた。
「もう踊るんですか?」
「もうちょい。二人も入ろうや」
「うちらもですか」
優奈が足を止めると、花は法被の入った箱を指した。
「まだ借りられるけん。待っとって」
花が町内の人に声をかけに行く間に、七海は食べかけのかき氷を持ち上げた。
「これ、まだ残っとる」
「じゃけん、大きい方にせんかったらよかったのに」
優奈に横から言われ、七海はかき氷の山にスプーンを差し込んだ。
「踊ると思っとらんかったんじゃもん」
心春が、通りに並んだままの列を指した。
「前の人ら、まだ出とらんよ。急がんでもええって」
七海が残りのかき氷を食べるあいだに、優奈は先に法被を受け取った。花は残った一枚を腕にかけた。
「それ、何味?」
「いちごです」
「ええね。終わったらうちも食べよ」
凪が水を飲み終えるころには、前に並んでいた法被の背中が通りへと動き始めていた。
町内の人に呼ばれ、凪は花の隣に並んだ。前では心春が七海を手招きし、芽衣のそばに二人ぶんの場所を空けている。空のカップを片づけてきた七海が法被を羽織ると、優奈もその隣に並んだ。
太鼓の音が近くなり、前から掛け声が上がった。
「やっさ、やっさ」
花の腕が上がるのに合わせて、凪も手を上げた。足を運び、手を返すと、次の動きに移る前に太鼓の音が来る。聞こえてくる拍子に足を出すうちに、前の踊り手との間隔も揃ってきた。
隣で花の法被の袖が大きく揺れた。
「凪、もうちょい広う使ってええよ」
花がそっと横に寄ってくれたので、凪は腕を伸ばした。袖の下に風が入り、脇にこもっていた熱が抜ける。前から七海の大きな掛け声が聞こえた。花がすぐに声を重ねると、七海はさらに声を張り上げたので、凪もつられて声が大きくなった。
沿道には手を叩く人が並び、子供たちが踊り手の腕を真似していた。花の名前を呼ぶ声も何度か聞こえ、そのたびに花は手を高く上げて応えていた。
列が商店街に入るころには、凪の背中にも汗が流れていた。足を出すたびに法被の裾が脚に触れ、太鼓と掛け声の間へ、沿道からの拍手が重なる。
隣から聞こえていた花の声が、途中で細くなった。
沿道では、子供を抱いた女の人が踊りの列に手を振っていた。子供も小さな手を伸ばし、前を通る法被を指差している。
去年、あそこに折りたたみ椅子があった。
花の顔を覗き込むと、目尻が濡れていた。腕を下ろしたところで目尻を指で拭い、唇を結んで息を吸った。
踊りの列と一緒に足を運びながら、花は太鼓の音に合わせてまた腕を上げた。
「やっさ、やっさ」
少しかすれた声がすぐ隣から聞こえ、凪も声を重ねた。前では七海の袖が勢いよく広がり、心春と芽衣の手が同じ高さまで上がっている。
次の掛け声でも、花の声が聞こえた。
通りの先では、小さな子供が両手を頭の上まで伸ばしていた。花が腕を大きく広げると、子供も両腕を横に伸ばした。花の口元が緩み、子供はさらに腕を伸ばそうと爪先立ちになった。
凪も手を返し、花と並んで次の足を出した。
踊りを終えて戻ったときには、帯を解く指まで汗ばんでいた。法被を脱ぐと、首筋に直接風が当たった。凪が袖を揃えて畳んでいる横で、結は片腕を持ち上げ、肘を曲げ伸ばししていた。
「腕、だるい」
「ずっと上げとったけんね」
陽が自分の法被を畳み終え、結の分にも手を伸ばした。結は礼を言いながら渡すと、今度は両腕を伸ばした。
借りたものを返し、町内の人たちに挨拶をして通りへ出るころには、空はすっかり暗くなっていた。屋台の灯りが人の顔を照らし、焼きそばのソースの匂いが流れてくる。
「凪、何食べる?」
焼き台の向こうで湯気が上がり、その先にはたこ焼きの出店も出ていた。
「たこ焼きかな」
「うち、焼きそば食べたい。半分ずつにせん?」
「いいよ」
「たこ焼き、多い方でもええ?」
「何個入り?」
「八個」
「花、さっきかき氷も食べたいって言ってたよね」
「……かき氷は、あとで考える。たこ焼きは八個ね」
凪が笑うと、花もつられたように笑って、焼きそばの列の最後尾を指した。
「じゃあ、うちこっち買うけん。たこ焼き頼んだ」
凪は頷いて、隣の屋台に並んだ。焼き上がるのを待っていると、隣の列から花の声が届いた。
「凪、箸、こっちで二人ぶんもらっとくけん」
「うん、お願い」




