第86話 やっさ、今年も
凪は、踊りの列の中にいた。
花の、一人後ろ。
太鼓が鳴るたび、熱の残った道路を靴底が擦る。前の列が進み、少し遅れて花の右足が出た。
凪も同じ方へ足を運ぶ。
左。
右。
胸の前で手を返す。
跳ねない。歩幅も広げすぎない。
右ふくらはぎにテープは残っていない。それでも、強く地面を蹴る動きは避けていた。
花の背中は、いつもより遠く見えた。
列の先にいるせいではない。
花が音のたびに前へ出るからだった。
「凪、遅れとるよ!」
「合ってる」
「半歩遅い!」
「花が早い」
「やっさは早いくらいでええんよ!」
次の太鼓が鳴った。
凪が一歩詰める。
後ろでは、結が声を上げて笑っていた。
「凪、去年より踊れとるじゃん」
「去年も踊れてた」
「去年は花見て歩いとっただけじゃろ」
「今も見てる」
「認めた」
陽が結の肩を押した。
「前」
「見えとるよ」
「詰まっとる」
「陽が近いんじゃって」
列が動く。
凪の後ろには、結、陽、渚、芽衣、遥香、心春が続いていた。
芽衣は右腕を胸の高さまでしか上げていない。左手だけが太鼓に合わせて大きく返る。
心春はすぐ前の遥香ではなく、二人前の芽衣を見ていた。
芽衣の右手が止まれば、心春の右手も同じ高さで止まる。
渚は前の芽衣ではなく、沿道の屋台へ顔を向けていた。
「渚さん、前を見てください」
「見てます」
「今、焼きそばを見ていました」
「前にありました」
「踊りの列より外です」
「でも前です」
遥香が息を吐いた。
「終わってからにしてください」
太鼓が止まった。
列も止まる。
次の組が動き出すまでの短い間に、凪は息を整えた。
沿道には、団扇を持った子どもや、飲み物を手にした人が並んでいる。店先から伸びた提灯が風に揺れ、焼けた肉と甘い蜜の匂いが混じっていた。
その向こうに、二人が立っていた。
優奈は踊りの列と列の間を見ている。
七海は、つま先だけ道路へ出ていた。
凪は後ろへ顔を向けた。
「後ろ、空いてるよ」
七海がすぐに顔を上げる。
「入っていいんですか」
「うん」
七海は沿道から一歩出た。
優奈は前後の列を確認している。
花が列の先から二人を見つけた。
「優奈、七海も入って! 後ろ空いとるけん!」
「ほんまにええんですか」
「早うせんと始まるよ!」
優奈も道路へ出た。
心春が後ろへ顔を向ける。
「こっち、空いとるよ」
優奈が心春の後ろへ入る。七海もその後ろへ続いた。
太鼓が鳴った。
七海が最初の一音で飛び出す。
前の優奈との距離が、一気に縮んだ。
「近いです」
「優奈が遅いんじゃって」
「まだ一歩目です」
「じゃあ次で合わせる!」
七海は二音目でも早かった。
優奈が前へ出る。
今度は優奈の足が半拍遅れ、七海のつま先が踵へ触れた。
「すみません」
「大丈夫です!」
七海は笑ったまま、次の足を出す。
心春はすぐ前の遥香を見ず、二人前の芽衣ばかりを見ていた。
芽衣の右腕が胸の高さで止まる。
心春の右腕も、同じ高さで止まった。
花が列の先から振り返る。
「心春、芽衣だけ見んの!」
「合っとるじゃろ!」
「芽衣は肩上げられんだけ!」
「先に言ってや!」
芽衣が顔だけを後ろへ向けた。
「練習の時も言うたじゃろ」
「本番も同じに見えるじゃん!」
太鼓の音が、心春の返事を消した。
列が進む。
七海は早い。
優奈は最初だけ遅れる。
心春は動きを覚えているのに、離れた芽衣へ合わせている。
凪は振り返った。
「すぐ前についていけば大丈夫」
「前って誰ですか!」
七海が片足を上げたまま、優奈の肩越しに前を覗く。
「優奈」
「私ですか」
優奈は前の心春を見ながら足を出した。
「私も心春さんを見ています」
「うちは芽衣ちゃん見とるよ」
「結局、みんな芽衣先輩じゃん!」
上げたままだった七海の足が遅れて道路へ落ちた。前との間が詰まり、優奈が歩幅を一つ広げる。
結の笑い声が後ろまで続いた。
「最初はそんなもんよ!」
「結先輩は分かるんですか」
「分からんでも踊れる!」
「それ、分かってないですよね」
「細かいこと言わんの!」
花の手が高く上がる。
凪が続く。
後ろの足音が、少しずつ同じ間隔へ揃っていった。
列は駅前の通りを進む。
沿道から、花の名前が何度も飛んだ。
「花ちゃん、今年も先頭?」
「先頭じゃないよ!」
「ほとんど先頭じゃろ!」
「前に二人おるけえ!」
花が手を振る。
踊りの形が一つ遅れ、凪が後ろから距離を詰めた。
「花、遅れた」
「返事しよったんよ」
「半歩遅い」
「凪に言われたくない!」
熱を持った道路から、昼間の匂いが残っている。
団扇が動く。
屋台の鉄板から煙が上がり、提灯の下を薄く流れた。
七海が早くなれば、優奈が歩幅を広げる。
優奈が遅れれば、心春が一人分の間を空ける。
心春が芽衣へ近づこうとすれば、遥香が肘を後ろへ出して止めた。
「近づきすぎです」
「まだ遥香ちゃんがおるじゃろ」
「その私を押しています」
「遥香ちゃん、細いけえ大丈夫」
「幅の問題ではありません」
芽衣が右肩をかばいながら、半歩前へ出る。
心春も同じだけ前へ詰めた。靴先が遥香の踵へ触れかける。
「心春、ついてくんな」
「ついて行っとらんよ」
「今、同じだけ進んだじゃろ」
「芽衣ちゃんが遅いんじゃって」
遥香が間を戻すように歩幅を広げた。
太鼓が鳴る。
列が一つ目の角へ近づいた。
花の足が、少しだけ小さくなる。
凪は前を見る。
角を曲がった先に、白い壁があった。
低い軒。
開いた戸。
道路との間に、人一人分の場所がある。
人混みの中で、そこだけが空いていた。
折り畳み椅子はない。
花の顔が、そちらへ向いた。
太鼓が鳴る。
右足を出す拍。
花の足が動かなかった。
胸の前へ上げかけた右手も止まる。
前の列だけが進む。
花との間に、一人分の空きができた。
凪は花の視線を追わない。
開いた距離だけを見る。
歩幅を広げた。
右足を一歩前へ出し、花の背中まで詰める。
後ろの結も進む。
陽が続く。
渚、芽衣、遥香、心春。
優奈、七海。
足音が順に近づいた。
誰も止まらない。
誰も花へ触れない。
次の太鼓が鳴った。
花の右足が出た。
止まっていた手が上がる。
凪も同じ拍で進む。
列の前との間が縮まった。
白い壁が後ろへ流れていく。
花は振り返らない。
次の動きへ入る。
「七海、右!」
花の声が前から飛んだ。
「右!」
七海が右足を出す。
優奈も一度だけ心春の足を見てから続く。
「合っていますか」
「今は合っとる!」
心春が答える。
「今は?」
「次は左!」
「早いです」
「早う言えって言われたけえ!」
左。
右。
手を返す。
太鼓に合わせて、列が進む。
花はもう、角の方を見なかった。
凪も振り返らない。
提灯の光が道路へ落ちる。
空の色が薄くなり、山の輪郭が暗くなっていった。
踊りの一列が終点へ着く。
太鼓が止まった。
七海は列から外れると、膝へ両手をついた。
「もう一回、入れますか」
「水を飲んでからです」
遥香がペットボトルを渡す。
「まだ踊るんですか」
「地区大会より短いです」
「比べるもの違わん?」
結が横から口を挟む。
「七海なら四十分踊れるじゃろ」
「踊れます」
「休んでください」
七海は水を飲みながら頷いた。
優奈は次の列を見ている。
「二回目は、最初から合わせます」
「見すぎたら遅れるよ」
凪が言った。
「最初の一歩だけ、心春さんを見ます」
「一人だけ?」
「はい」
「それなら大丈夫」
心春が自分の足を見る。
「うちは最初から合っとったよね」
「足はね」
芽衣が答える。
「手も合っとったじゃろ」
「うちと同じにしとっただけ」
「合っとることには変わらんじゃん」
「肩治ったら変わるよ」
「じゃあ、その時変える」
花は町内会の人から渡された団扇を仰いでいた。
「心春も練習の時より踊れとったよ」
「花ちゃんが教えたけえね」
「半分は芽衣見とったじゃろ」
「芽衣ちゃんも花ちゃんに教わったんじゃないん?」
「うちはやっさで間違えんよ」
「さっき一回止まったじゃろ」
結が言った。
花の団扇が止まる。
凪はペットボトルの蓋を閉めた。
「次、始まるみたい」
太鼓台の前で、人が動き始めていた。
太鼓が鳴った。




