第85話 もう一回
凪と花が石段を離れたあとも、三原港の練習区画では七海たちが海に残っていた。心春と七海が岸へ上がり、渚も石段へ向かいかけたところで、優奈が潮核を持って近づいてきた。駅の方からは、やっさ祭りの練習らしい太鼓の音がときどき風に乗ってくる。
「渚先輩、もう一回お願いします」
「さっきも言ったじゃろ」
「今度は足、見ます」
さっきも足を見られていた気がした。渚が石段へ向かうのをやめると、優奈は岸壁寄りの浮標から離れて位置を取った。
渚は潮核を掴み、岸壁と反対側へ泳ぎ出した。胸と手足の発光ラインが赤く点く。右足を引いて向きを変えたところで、視界に優奈が入った。右足を外へ振って、伸びてきた手をかわすと、優奈は渚の横を通り過ぎた。
二人で開始位置へ戻り、また潮核を持つ。次は、渚が右足を引いて身体を返した先に、もう優奈がいた。さっきより手が近い。
早い。
渚は身体を沈め、伸びてきた腕の下を抜けた。浮上して息を吸うと、優奈もすぐそばで顔を出した。
「今、そっちへ行くと思ったんです」
「合っとったよ。触られんかったけど」
「もう一回」
優奈は返事を待つあいだも、渚の足元を見ていた。
開始位置を少し沖側へ移した。渚が潮核を掴み、浮標の岸壁側を通ろうと右膝を曲げると、向きを変えた先に優奈の腕があった。右足を蹴り出せば、発光ラインへ優奈の手が届く。
そのとき、渚の腰へ岸壁と反対側から水が当たった。それまで足首を押していた水が弱まり、岸壁へ向かう波の下で身体が持ち上がる。渚は右へ蹴り切らず、浮いた腰を落としながら、沖側へ身体を返した。優奈の腕が視界から外れ、そのまま浮標の外寄りへ抜ける。
息が苦しくなって水面へ出ると、港口の方で汽笛が鳴った。渚が振り返ると、フェリー乗り場の沖を貨物船が横切っていた。船尾から広がった波が、練習区画の黄色い浮標をまだ揺らしている。遅れて顔を出した優奈は、岸壁寄りの浮標の内側にいた。
「流れ、変わりましたよね」
優奈の声に、渚は貨物船から目を離して振り返った。
「うん」
「もう一回お願いします」
渚は潮核を抱えたまま石段へ向かった。
「もう疲れた」
「もう少しで掴めそうなんです」
「今の、全然届いとらんじゃん」
「その前です」
優奈は、渚が右膝を曲げた辺りを見ている。そこへ先に入られたのは確かだった。渚は潮核を石段へ置こうとして、優奈と目が合うと、手を離さずに水面へ戻した。
「あと少しだけよ」
「はい」
優奈が開始位置へ戻っていく。渚もその後ろへ泳ぎながら、一度浮標のロープを見た。貨物船の波が抜けると、ロープはまた緩み、岸壁沿いには細い泡だけが残っている。
何度か続けるうちに、渚が向きを変えた先に優奈が現れる場所も変わった。右足を引いた先へ来たかと思えば、次には浮標との間を空けている。早めに潮核を離した時には、二人で顔を出しても優奈はすぐに次を頼まず、渚の右足を見ていた。
息を整えるあいだ、沖から来た風が水面を岸壁へ押していた。小さな波が石に当たっては崩れる。渚は潮核を掴み直し、優奈と距離を取って潜った。
岸壁と反対側へ向きを変えたところには、もう優奈がいる。
そこも見とったんか。
渚は岸壁側へ戻ろうとしたが、身体を返した先にも、優奈の手が伸びていた。伸びてきた指が右手の発光ラインへ向かう。
肩に岸から戻る水が当たり、優奈の手へ近づいていた身体が、返しに押されて離れた。渚はその返しに身体を預けて浮標側へ抜け、潮核を離して水面へ上がる。振り返ると、優奈はまだ岸壁側の浮標の内側にいた。二人の間を、石に当たって戻った細かな波が通っていく。
「今の、どっから来たんですか」
「岸壁の方」
優奈は岸壁を見た。渚もそちらへ顔を向けたが、波はもう崩れ、石のそばに泡が少し残っているだけだった。
「もう一回――」
「優奈ー、帰るよー!」
岸から七海の声が届いた。七海は着替えを終え、優奈の鞄を片手で持ち上げている。
「分かった!」
優奈は七海へ返してから、渚へ向き直った。
「明日もお願いします」
「明日って、やっさ祭りじゃけど?」
優奈が一度、駅の方へ顔を向けた。太鼓の音がまた聞こえ、港へ戻る車が岸壁沿いの道を通っていく。
「じゃあ、地区大会が終わったら」
渚は石段の方へ潮核を運びながら、優奈を振り返った。
「……終わったらね」
「お願いします」
「はいはい」
優奈は先に石段へ向かい、七海から鞄を受け取った。渚が岸へ上がるころには、二人が並んで部室の方へ歩き出している。優奈だけが途中で振り返ったので、渚は持っていた潮核を少し持ち上げた。
岸壁の下では、さっき返ってきた水の泡は、もう消えていた。




