第84話 戻る場所
ホワイトボードの矢印は、ゴールゾーンの手前で止まっていた。
三原港の待合所。
窓の向こうで、佐木島行きの船が岸壁へ近づいている。船員が投げたロープが、濡れた地面を滑った。
結がホワイトボードを覗き込む。
「まだ消してなかったん?」
「はい」
七海から始まり、優奈の名前から一つの潮核へ線が伸びている。
芽衣から心春へ。
その先だけが、ゴールゾーンへ届いていない。
「今日は、この続きをします」
遥香がホワイトボードを閉じた。
花が桟橋の先を見る。
「わざわざ佐木島まで行って?」
「三原港では、岸壁が近すぎます」
「近い方が練習しやすいじゃろ」
「岸壁を戻る場所にしてしまいます」
花の顔が遥香へ戻る。
「今日は、選手同士で戻る場所を作ってください」
乗船を知らせる放送が流れた。
凪が荷物を持ち上げる。右ふくらはぎのテープは、まだ外れていない。
花が先に改札へ向かう。
「置いてくよ」
「花さん待ってください」
「船は待ってくれんじゃろ」
「まだ五分あります」
「じゃあ四分で乗る」
十人分の足音が、桟橋へ続いた。
船が三原港を離れる。
造船所のクレーンが、窓の外を横へ流れた。駅前の建物が低くなり、その後ろから山が出る。
海へ出ると、船の揺れが少し大きくなった。
結は窓際の座席へ座り、向かいの芽衣の心春を見た。
「今日こそ決めるんじゃね」
「まだ決めるって決めてない」
「そこからなん?」
「芽衣ちゃんが持っとったら、芽衣ちゃんが決めるじゃろ」
「心春が持った時の話じゃん」
「うーん、その時考える」
芽衣が隣から顔を向ける。
「それで昨日落としたじゃろ」
「昨日は芽衣ちゃんが来ると思っとった」
「今日は行かんよ」
「なんで」
「見たらまた待つけえ」
心春の口が止まった。
結が窓の外へ顔を向ける。
「芽衣、厳しくなったね」
「花先輩よりは優しいです」
「今、うちの悪口言った?」
通路の反対側から、花の声が届いた。
「褒めました」
「聞こえ方が逆じゃったけど」
佐木島が近づく。
三原側から見えていた緑が、斜面と畑へ分かれていく。港の屋根。坂道。海沿いに並ぶ家。
草の伸びた斜面の間から、柑橘の木が見えた。枝の下には、まだ青い実が残っている。
陽が道の端へ顔を向ける。
「増えた」
「何が?」
結が聞く。
「実」
「前に来た時より?」
「たぶん」
渚が木を見上げる。
「食べられますか」
「まだじゃろ」
花が前から返した。
坂を越えると、海が開けた。
砂浜の先に、黄色い浮標が並んでいる。
三原港の練習区画と広さは変わらない。それでも、七海は浜の手前で足を止めた。
「浮標、遠くないですか」
「距離は同じです」
遥香が答える。
「広く見えます」
「岸壁がありませんから」
浜の左右に、壁はない。
浅い波が砂へ寄せて、薄く広がる。引く時には、足元の砂を一緒に沖へ戻していく。
凪は波打ち際を見た。
浜へ入った水が、すべて同じ場所から戻るわけではない。
砂の低い場所へ集まり、細い流れになって沖へ抜ける。その横には、浜の端から戻った水が斜めに重なっていた。
遥香がホワイトボードを砂の上へ立てる。
【赤組】
遥香 水面
芽衣
優奈
七海
心春
【青組】
結 水面
凪
花
陽
渚
【赤組が一つ得点するまで】
【三回】
【青組が潮核を奪った時点で中断】
花が最後の行を指した。
「奪ったら攻めんでええん?」
「今日は赤組の攻撃だけを見ます」
「三回で取れんかったら?」
「今日は取れなかったということです」
「厳し」
「花さんたちは、取らせないでください」
「そっちはもっと厳しいじゃん」
七海がゴーグルを下ろしながら聞く。
「青組、手加減なしですか」
「ありません」
遥香は凪を見る。
「凪さんも、全部使ってください」
「潮も?」
「はい。答えは言わないでください」
凪は海へ顔を向けた。
浅瀬から戻る水は、浮標へ届く前に二つに分かれている。
片方は中央。
もう片方は、浜の端へ寄っていた。
「分かった」
四つの潮核が、浮標の内側へ放たれた。
浜から入る波を受けて、橙色の球体が上下する。
一回目。
笛が鳴った。
七海は一度だけ周りを見た。
一番近くにある潮核へ向かう。
浜の中央。
寄せた波と戻る水が重なり、潮核の位置が前後に揺れていた。
優奈は青組を見る。
凪は中央へ向かっている。花が七海の正面へ回り、陽は芽衣を見ていた。渚だけが沖側へ入る。
優奈が息継ぎへ上がる。
「遥香さん、沖は捨てます」
「分かりました」
遥香は、次に浮上する七海を待つ。
七海の顔が水面へ出た。
「七海さん、沖は追わないでください!」
七海は沖側を見ない。
中央の潮核へ手を伸ばす。
花が先に正面へ入った。
七海は潮核を拾わず、花を外側へ引く。二人の間が、中央からずれた。
芽衣が低い潮核へ入る。
左手で拾う。
手足と胸に赤い発光ラインがついた。
陽が近づく。
芽衣は心春を見る。
心春は、芽衣の真後ろにいた。
芽衣が進めば、同じ方向へ進む。
止まれば、後ろで止まる。
前に、潮核を流す場所がない。
陽の手が芽衣の左足へ触れた。
一秒。
芽衣は心春へ顔を向ける。
二秒。
心春が横へ出ようとする。
遅い。
芽衣は潮核を左へ流した。赤い発光ラインが消える。
凪が先に入る。
潮核へ触れ、軌道を外へ変えた。青い線が一瞬つき、消える。
遥香の笛が鳴った。
「止めます。上がってください」
全員が水面へ戻る。
心春が浜へ上がると、足首の周りから砂が崩れた。
「どこへ入るつもりでしたか」
遥香が聞く。
「芽衣ちゃんの後ろです」
「芽衣が潮核を渡す場所は?」
「前です」
心春は、砂の上に立つ芽衣を見る。
「じゃけ、途中で横へ行こうとした」
「芽衣が触られてからでは遅いです」
遥香はホワイトボードの磁石を動かした。
芽衣と心春の間を空ける。
「次は、芽衣についていかないでください」
「離れたら、どこ行くか分からんよ」
「芽衣が行く場所ではなく、潮核を受ける場所へ入ってください」
心春の目が、海へ戻る。
潮核は四つとも、浮標の内側へ集め直されていた。
二回目。
笛が鳴る。
七海は中央と沖側を一度ずつ見た。
浜の端から戻る水へ入る。
今度は、陽が先に七海を追った。花は芽衣へ向かい、凪が中央へ残る。
優奈は凪を見る。
凪の顔は中央を向いている。
足先だけが、浜の端から戻る水へ向いていた。
視線とは違う。
そこへ流れてくる潮核を待っている。
優奈が水面へ上がる。
「遥香さん、中央を捨てます」
「分かりました」
七海が次の息継ぎへ上がった。
「七海さん、中央は追わないでください!」
七海は浜の端から戻る潮核へ向かう。
陽が進路を塞ぐ。
七海は潮核を取らず、陽を外側へ連れていった。
その内側で、芽衣が左手を伸ばす。
低い潮核を拾った。
赤い発光ラインがつく。
花が芽衣へ向かう。
心春は芽衣の後ろへ行かなかった。
斜め前。
左手を伸ばせば届く距離で待つ。
芽衣は花に触れられる前に、潮核を低く流した。
手足と胸の赤が消える。
潮核は心春へ向かった。
浜へ戻った水が、その下へ入る。
軌道が浮いた。
心春の手より、半分高い。
心春が追う。
一歩。
もう一歩。
待っていた場所から離れる。
指先が潮核へ届いた。
手足と胸に赤い線がつく。
その正面へ、陽が戻ってきた。
心春は芽衣を見る。
芽衣との間には凪がいる。
戻す場所がない。
陽の手が、心春の胸の発光ラインへ触れた。
一秒。
心春が左へ動く。
陽の手も離れない。
二秒。
潮核を流す先を探す。
三秒。
赤い発光ラインが消えた。
潮核が落ちる。
遥香の笛が鳴った。
心春は浜へ上がると、自分が待っていた場所を見た。
もう波しか残っていない。
「潮核がずれた時、どこへ行きましたか」
「取りに行きました」
「戻る場所は?」
「なくなりました」
遥香の声は変わらなかった。
「でも、追わんかったら取られます」
「追えば、次も取られます」
心春は遥香を見る。
「どうしたらええん?」
「芽衣」
遥香が顔を向ける。
「もう少し低く流せますか」
「うん」
「心春さんは、届かなかった場合は追わないでください」
「ほんまに?」
「はい」
「目の前にあるのに?」
「今いる場所の方が、次の潮核は届きます」
心春は納得した顔をしなかった。
それでも、ゴーグルを下ろした。
「三回目です」
遥香がホワイトボードの矢印を見る。
ゴールゾーンの手前で止まった線。
「これで最後です」
浜へ入った波が、選手の膝を叩いた。
凪は水面を見る。
二回目より、浜から戻る水が右へ寄っている。
心春が待っていた場所を通り、ゴールゾーン側へ曲がっていた。
凪はその内側へ入る位置を決めた。
教えない。
青組として使う。
三回目の笛が鳴った。
七海はすぐに飛び込まなかった。
中央。
沖側。
浜の端。
一度だけ見て、浜の端へ向かう。
優奈は青組を見る。
花と陽が七海へ向かった。渚は沖側。凪だけが、浜から戻る水の内側へ入ろうとしている。
中央の潮核を使うつもりはない。
捨てても、青組の攻撃にはつながらない。
優奈が浮上する。
「中央捨てます」
「分かりました」
遥香は七海が次に上がる場所へ、先に体を向けた。
七海の顔が出る。
「七海さん、中央は追わないでください!」
七海は頷き、浜の端へ戻った。
花と陽が近づく。
七海は潮核へ触れない。
花の正面を横切り、二人を外側へ引く。
その内側で、芽衣が低い潮核を左手に取った。
手足と胸に赤い線がつく。
凪が近づく。
芽衣は右肩を上げない。
心春は、芽衣の斜め前に残っていた。
潮核が来る場所。
凪の手が芽衣の足へ届く前に、芽衣は左手を開いた。
潮核が低く流れる。
芽衣の赤い発光ラインが消えた。
浜から戻る水が、潮核を心春へ運ぶ。
今度は浮かない。
心春は追わなかった。
待っていた場所へ、潮核の方が入ってくる。
左手で受け取った。
手。
足。
胸。
赤い発光ラインがつく。
ゴールゾーンまでは近い。
花が七海から離れる。
心春の右足へ手を伸ばした。
触れる。
一秒。
心春はゴールゾーンを見る。
次に、芽衣へ顔を向けた。
芽衣はもう心春を見ていなかった。
次の潮核へ向かっている。
二秒。
心春の下を、浜から戻る水が通った。
体がゴールゾーン側へ押される。
芽衣は戻ってこない。
心春は潮核を胸へ抱え直した。
膝を曲げる。
戻る水へ体を預ける。
花の手が右足に残っている。
三秒になる前に、心春の赤い発光ラインがゴールゾーンへ沈んだ。
得点ブザーが鳴る。
心春が水面へ上がった。
「入った?」
「入りました!」
遥香の声が返る。
七海が両手を上げた。
「やった!」
優奈もゴールゾーンへ顔を向ける。
その横で、別の潮核が浮標の外へ流れた。
黄色いロープの下を抜ける。
遥香の笛が鳴った。
「止めます!」
七海の両手が下がった。
区画外へ出た潮核を、渚が追う。
残る選手も浜へ戻った。
心春は水際に立ったまま、右足を見る。
発光ラインは消えている。
「ほんまに入ったん?」
「入っとったよ」
花がゴーグルを上げた。
「三秒じゃなかった?」
「二秒とちょい」
「数えとったん?」
「触っとる方は数えるじゃろ」
心春の口元が上がる。
花は海を指した。
「次は、もっと早う沈めんさい」
「花ちゃん厳し」
「試合なら待ってくれんよ」
芽衣が心春の横へ来る。
「待ってくれんかったね」
「待ったら、また見るじゃろ」
「見るよ」
「じゃけ、待たんかった」
心春は芽衣を見る。
「芽衣ちゃん、うちが落としたら戻るって言ったじゃん」
「落とさんかったじゃろ」
「落としそうじゃったよ」
「でも、落としてない」
遥香が区画外の潮核を受け取った。
「一本は入りました」
「入りました!」
七海がもう一度言う。
遥香は、潮核を網袋へ入れた。
「一つ、出ています」
七海が浮標の外を見る。
「出とる……」
「得点したあとも、残り三つは動いています」
「次は、そっちも見ます」
「心春さんの得点を見る前に見てください」
「厳し」
「花さんと同じことを言わないでください」
花が振り返る。
「うち、何も言っとらんよ」
「顔が言っています」
結が笑った。
優奈は、潮核を回収していた凪の前へ行く。
「中央を捨てたの、合っていましたか」
「合ってた」
「今回は教えてくれるんですね」
「もう終わったから」
凪は、浜から戻る水を見る。
「私の足も見た?」
「はい。中央ではなく、戻る方を向いていました」
「そこまで見えたなら、次も決められる」
優奈は頷いた。
「でも、一つ出しました」
「次は、捨てたあとも見ればいい」
凪は潮核を網袋へ入れた。
強く蹴ってはいない。
ふくらはぎの張りも、朝より増えていなかった。
遥香はホワイトボードへ戻る。
止まっていた矢印を、ゴールゾーンまで伸ばした。
七海から始まり、優奈が一つを捨てる。芽衣の低い線が心春へつながり、その先が枠の中へ入る。
その横に、小さな丸を一つ描いた。
区画の外。
十人は道具を片付け、佐木島の港へ戻った。
帰りの船では、窓に夕方の光が残っていた。
心春は座席へ深く座り、何度も自分の右足を見ている。
結がスマホを出した。
「動画、撮っとけばよかった」
「練習中は撮っていません」
遥香が答える。
「一番見たいところじゃったのに」
「次も取ってください」
「撮るために?」
「地区大会のためです」
「そっちか」
七海が身を乗り出す。
「次は二本取れます」
「その前に、残る潮核を外へ出さないでください」
「分かってます」
「分かっている時の返事に聞こえません」
凪と芽衣の顔が、同時に遥香へ向いた。
遥香は二人を見返す。
「何ですか」
「別に」
「何もない」
船が三原港へ近づく。
造船所のクレーンが見えた。
駅前の建物。防波堤。練習区画の黄色い浮標。
岸壁へ着くと、十人分の荷物が順番に船から下りた。
潮の匂いに、熱を持った道路の匂いが混じる。
駅前へ向かって歩く。
造船所から続いていた金属音が止んだ。
そのあとに、別の音が三つ続いた。
太鼓。
まだ遠い。
心春の足が止まる。
「始まったんじゃね」
花も止まった。
駅前の方を見る。
「うん」
花は鞄の紐を持ち直し、また歩き始めた。
太鼓が、もう一度鳴った。
海から戻った十人の後ろで、まだ遠く響いていた。




