第84話 ずっとじゃない
三原港では、沖を通ったフェリーの航跡が白くほどけ、そこから広がった引き波が練習区画の黄色い浮標を順に揺らしていた。岸壁へ届いた水は石にぶつかって返り、浮標の内側へ泡の筋を押し戻している。
岸壁寄りでは、七海が潮核を掴んでいた。赤く点いた発光ラインへ心春が手を伸ばし、二人の身体が水面の下へ沈む。先に心春が顔を出し、続いて浮上した七海が息を整えながら手首を見た。
「今、外れた?」
「外れた。もう一回」
二人は岸へ上がらず、そのまま開始する位置へ泳いでいった。
凪は水際の石段に腰を下ろし、黄色い浮標の間へ戻っていく二人を見ていた。濡れた足音が石段を下りてきて、花が隣へ腰を下ろす。ドライスーツから落ちた水が石の窪みに溜まり、次の波が届くと端から海へ流れていった。
「何回目?」
「四回目」
「数えとったん?」
「見てたから」
「怖」
七海がまた潮核を掴んだ。発光ラインが赤く点くと、心春は正面へ行かず、岸壁から返る水に身体を乗せて横へ回る。心春が横へ回るのに合わせ、七海も触れられる前に身体の向きを変えた。二人が離れると、また開始位置へ戻っていく。
「しつこいね、あいつら」
「花の方がしつこかったよ」
「うち?」
「うん。できなかったら、ずっとやってた」
「そりゃ、凪とか陽に負けるん嫌じゃったけえ」
「知ってる」
「今も嫌じゃけどね」
水面から大きな水音が上がった。心春と七海が身体を離して顔を出すと、岸壁寄りにいた優奈が二人に向けて手を上げる。
「次、うちやる!」
七海が何か返したが、フェリーの音と波に重なって言葉までは聞き取れなかった。
優奈が二人のところまで泳いでいく。七海から潮核を受け取ると、今度は心春が距離を取り、三人はまた同じ形を作り直した。
「うちも、あんなんじゃったんかな」
花の声が、さっきより低くなった。
「花はもっと何回もやってたよ。凪が十回するならうちは百回やらんにゃ気が済まんってさ。あれ怖かった」
「そこじゃなくて」
「違うの?」
「できんことばっかりで、できるようになったら次が出てきて、またできんくなって」
凪は三人のいる辺りへ目を戻した。優奈が潮核を掴み、心春がその発光ラインを追う。七海は二人から離れた場所で浮かび、次に入るのを待っていた。
「今もそうじゃない?」
「そうなんじゃけど」
水際まで伸ばしていた花の足に、返った波が触れた。花は足を引かず、そのまま海を見ていた。
「地区大会、また行くんじゃろ」
「うん」
「なんか変な感じ」
「何が?」
「分からん。最初、こんなんなると思っとらんかったし」
一年目は、公式戦に出る五人を揃えるところから始まった。勝てなかった海があり、場所が変われば同じ読み方が通じなくなって、覚えたことを何度もやり直した。目の前では、優奈から潮核を受け取った七海がもう一度位置を取り直し、心春も七海から離れて浮標の近くまで移っている。
七海が潮核を掴むと、赤い発光ラインが水面の下へ沈んだ。心春も追い、二人の輪郭が深い色の中へほどけていく。
降り注ぐ日差しと水面の照り返しを遮るように、花は右手を額にかざしながら、心春と七海の姿が消えた辺りを見ている。
「凪はさ、もう海、怖くないん?」
「……分かんない」
「あんだけ海入っとるんじゃけ、そこは怖くないって即答するとこじゃろ」
「ほんとに分かんないんだよ」
「何が?」
沖から風が入り、水面の光が崩れた。黄色い浮標の向こうでは島影まで続く青が細かく割れ、岸壁の下では、波が石に当たって崩れる。
凪は海を見たまま、言葉を探した。
「前は……ずっと、掴まれてる感じだったっていうか」
「なにそれ、誰に?」
「分かんない。海に、かな」
波に引かれた黄色い浮標が半ばまで沈み、張ったロープが水面を切った。波が抜けても、花は額にかざした手を下ろさない。
「ふーん、今は?」
「……ずっとじゃない」
「じゃあ怖くないんじゃん」
「それも違う気がする」
「何なん」
「だから分かんないって」
心春の頭が水面を割り、続いて七海の赤い発光ラインが浮かび上がった。岸壁寄りで待っていた優奈が二人の方へ泳ぎ出し、三人はまた黄色い浮標の間へ戻っていく。
浮標の内側では、岸壁から返った水に押された泡が三人の脇を流れていった。
石塚凪は、その泡が水面から消えるまで見ていた。




