第83話 抜けた、あと
七月に入って、雨が一度途切れた。
三原港の石畳には、まだ浅い水たまりが残っている。雲の切れ間から落ちた日差しが濡れた地面へ反射し、浮標を結ぶロープから水滴が一つずつ落ちていた。
フェリーの引き波が、遅れて練習区画へ入ってくる。
凪の右ふくらはぎには、細いテープが巻かれていた。
芽衣はドライスーツへ腕を通す前に、右肩を一度だけ回す。胸の高さまでは上がった。それより先へ動かそうとしたところで、遥香が顔を向けた。
「芽衣は、右肩より上を使わないでください」
「分かっとる」
「凪さんも、強く蹴らないでください」
「うん」
「二人とも、分かっている時の返事に聞こえません」
花が横でゴーグルを下ろした。
「うちは?」
「今日は制限ありません」
「やっとじゃ」
遥香はホワイトボードを練習区画へ向けた。
【五対五】
【潮核 四つ】
【一試技 五分】
【五分ごとに一人交代】
【赤組を外れた選手は、赤組へ戻らない】
その下に、二組の名前が並んでいる。
【赤】
凪
花
陽
渚
結 水面
【青】
芽衣
優奈
七海
心春
遥香 水面
結が一番下の行を指した。
「うちら、青に行ったらまた出るんじゃろ。戻らないって、どういうこと?」
「赤組を地区大会に出る側として扱います。赤組を外れた人は、赤組へは戻りません」
「青組は?」
「練習相手なので、交代した人を受け入れてください」 「試合の交代を、片方だけ再現するんじゃね」
「はい」
遥香は十人の磁石を、ホワイトボードの両側へ置いた。
「交代する人は、その時に伝えます」 「先に言わんの?」
花が聞く。
「言いません」
「準備できんじゃん」
「地区大会でも、相手と海を見てから決めます」
「現地でいきなり外される練習?」
「外されたあとの練習です」
花は口を曲げたまま、水際へ向かった。
ドライスーツの練習設定が切り替わる。赤組は赤、青組は青。潮核を保持した選手の手足と胸だけが、それぞれの色に発光する。
最初の五分。
四つの潮核が水面へ入った。
笛が鳴る。
陽が中央へ動いた。
その一歩で、残る四人の進路が分かれた。渚は岸壁から戻る流れへ入り、花がゴールゾーン側へ沈む。凪は沖へ流れる一つを追わず、浮標の内側へ戻る潮核へ向かった。
結は水面から、息継ぎに上がった花へ声を飛ばす。
「花、左!」
花が潜る。
青組の優奈が花へ寄り、七海は中央の陽を追った。心春が芽衣の斜め後ろへ入る。
凪が潮核を拾った。手足と胸に赤い発光ラインがつく。
正面に芽衣。
凪は進まず、岸壁から返った水へ潮核を落とした。赤い線が消え、潮核だけが花の待つ左側へ流れる。
花が受け取った。
手足と胸に新しい赤がつく。
心春が花の正面へ入ろうとする。遅れて、優奈も戻った。
花は二人の間へ入らない。下から押し上げる水に腰を乗せ、ゴールゾーンの端へ体を沈めた。
赤い発光ラインが入る。
得点ブザーが鳴った。
残る三つの潮核へ、両組が散る。
赤組は止まらなかった。
凪が一つを捨て、陽が最初に動き、結が短く伝える。渚が空いた流れを取り、花が最後まで運んだ。
五分の笛が鳴る。
遥香はホワイトボードの前へ戻った。
「交代します。結さんと私です」
結がゴーグルを額へ上げた。
「いきなり水面?」
「はい」
「青の?」
「はい」
結が青組側へ移り、遥香が赤組の水面へ入る。
赤組は、凪、花、陽、渚、遥香。
青組は、芽衣、優奈、七海、心春、結。
四つの潮核が戻される。
笛が鳴った。
陽が中央へ動く。花と渚も、それぞれ別の潮核へ向かった。
凪は沖側へ流れる一つを見た。
表面は沖へ向いている。その下では、さっきの引き波が岸壁側へ戻り始めていた。追わなくても、浮標の内側へ戻ってくる。
凪は手前の潮核へ向かう。
青組の七海が、沖側へ進んだ。
凪が息継ぎに上がる。
遥香は沖側を見る。
戻り始めた潮核。
二番浮標の内側へ入る七海。
先に止める方を、一瞬だけ迷う。
「凪さん、右は」
凪の顔が水面から消えた。
声は届かなかった。
その直後、青組の七海が息継ぎに上がる。
「七海、右!」
結の声が、浮上した瞬間に飛んだ。
七海は迷わず進路を変えた。
戻ってきた潮核へ先に触れ、手足と胸に青い線をつける。
優奈がゴールゾーン側へ入った。
七海は長く持たない。
岸壁へ戻る水へ潮核を流し、青い発光ラインを消す。
優奈が受け取った。
陽が正面へ入る前に、青い光がゴールゾーンへ沈んだ。
ブザーが鳴る。
遥香は海を見たまま、口を閉じた。
言葉を選ぶのが遅かったのではない。
どちらを先に伝えるか、決めるのが遅れた。
残る潮核の攻防が続く。
凪が手前の潮核を追う。右側では、七海が次の青へ向かっていた。
凪が浮上するより先に、遥香は右側を見た。
頭が水面へ出る。
「右、捨てて!」
声が届く。
凪は右へ行かない。
花が中央へ戻り、渚が岸壁側を塞ぐ。赤組は失点を止めたが、潮核を取り切れないまま五分が終わった。
全員が岸へ戻る。
遥香はタオルを取らず、ホワイトボードへ一行書き足した。
【浮上する前に 優先を決める】
結が髪から水を絞る。
「今の、遅かったね」
「はい」
「言う方じゃなくて、決める方が」
「はい」
遥香はマーカーのキャップを閉めた。
「結さんは、迷わないんですか」
「迷うよ」
「それでも言うんですか」
「分からんまま叫ぶ時もある」
「それは直してください」
「そこは真似せんのんじゃね」
遥香は次の磁石へ手を伸ばした。
「花さんと芽衣を替えます」
芽衣が赤組へ移る。
花は青組側へ立った。
赤組は、凪、芽衣、陽、渚、遥香。
青組は、花、優奈、七海、心春、結。
芽衣がゴーグルを下ろした。
三回目の笛。
青組の花が最初から前へ出る。赤組の陽が中央へ入り、凪は岸壁側の流れを取った。
芽衣は胸より低い位置を泳ぐ潮核へ向かう。
凪が手のひらで潮核の深さを変えた。赤い線が一瞬つき、すぐ消える。潮核は水面へ上がらず、芽衣の左手へ届いた。
芽衣の手足と胸が赤く光る。
ゴールゾーンまで近い。
渚は外側から戻っている。陽は青組の七海を止め、凪は別の潮核へ向かっていた。
正面から花が来る。
芽衣は右肩を上げず、左腕と胸で潮核を挟んだ。
花の手が、芽衣の左足の発光ラインへ触れる。
一秒。
芽衣はゴールゾーンを見る。正面には心春が戻ってきていた。
右から沈めれば、肩を上げずに届く。
左へ流せば、渚が受けられる。
二秒。
芽衣の顔が渚へ向く。
渚はまだ遠い。
三秒。
赤い発光ラインが消えた。
落ちた潮核を花が拾う。手足と胸に青い線がつき、そのまま赤組のゴールゾーンへ向かった。
芽衣が追う。
右肩が上がらない。伸ばした左手は、花の足まで届かなかった。
青い発光ラインが沈んだ。
ブザーが鳴る。
五分後、岸へ戻った芽衣は右腕を体の横へ置いたまま、花を見た。
「あそこ、行ってよかったじゃろ」
花が先に言った。
「右肩、上がらんかった」
「肩を上げる前に、行くって決めるんよ」
「行けんかったら?」
「その時は落とせばええ」
遥香が二人の間へ入る。
「花さんと同じ方法で行く必要はありません」
「じゃあ、どうするん?」
芽衣が聞く。
「触られる前に、次の人を入れてください」
「次の人」
「芽衣が最後まで運ばなくても、攻撃は終わりません」
花が自分の磁石を見る。
「うちがおらんかったら、二人でやれってこと?」
「はい」
「一人分を?」
「分けてください」
遥香は凪の磁石を外した。
「次は、凪さんと優奈さんです」
優奈が赤組へ移る。
凪は青組側へ立った。
赤組は、優奈、芽衣、陽、渚、遥香。
青組は、凪、花、七海、心春、結。
優奈がゴーグルを下ろす前に、凪を見た。
凪は何も言わず、青組の入水位置へ向かった。
四回目の笛が鳴る。
四つの潮核が分かれた。
優奈は潮核ではなく、青組を見た。
花は中央へ向かっている。七海は岸壁側。心春は花の戻る場所へ残った。
凪だけが、沖側の潮核を見ていない。
沖側の潮核は、浮標へ向かってゆっくり流れている。
優奈が水面へ出た。
「沖を捨てます」
「分かりました」
遥香は、次に息継ぎへ上がる陽を待つ。
陽の頭が水面へ出る前に、沖側を確認する。
「陽さん、沖は捨てて!」
陽が中央へ戻る。
渚も沖側を追わず、岸壁側へ入った。芽衣が中央の潮核を低く拾う。
赤組の五人が、残る三つへ集まる。
沖側の潮核だけが外へ流れていく。
凪は見ていない。
足元の水だけを確かめていた。
浮標の手前で、潮核の速度が落ちる。
沖へ向かっていた表面の水が切れ、その下に残っていた戻りへ落ちた。
潮核が向きを変える。
凪が先に入った。
手足と胸に青い発光ラインがつく。
優奈の判断は外れた。
凪は潮核を抱えず、花の待つ中央へ流す。青い線が消え、花の手足と胸が光った。
陽が戻る前に、花がゴールゾーンへ沈める。
ブザーが鳴る。
優奈は浮上した。
息を吸い、沖側を振り返る。
流れはもう、岸壁へ戻っていた。
五分の笛が鳴ったあと、遥香は優奈の前へ立った。
「今の判断は違いました」
「はい」
「でも、次も決めてください」
優奈が顔を上げる。
「また外すかもしれません」
「決めなければ、五人とも止まります」
「外したらどうすればいいですか?」
「次に直します」
優奈は凪を見た。
凪は青組の潮核を網袋へ戻している。
「陽さんと七海さんを替えます」
七海が赤組へ入り、陽が青組へ移った。
赤組は、優奈、芽衣、七海、渚、遥香。
青組は、凪、花、陽、心春、結。
五回目。
笛が鳴っても、赤組の足はすぐには動かなかった。
優奈は青組を見る。
芽衣は味方の位置を見る。
渚は浮標の下を流れる泡を追っている。
七海が中央へ顔を向けた。
一度、沖側も見る。
中央の潮核へ飛び込んだ。
岸壁から返った水が、七海の胸へ斜めに当たる。進路が外へずれた。それでも、七海は止まらない。
七海が動いたことで、残る三人も散った。
優奈は沖側へ向かう。芽衣が低い潮核へ入り、渚は七海の戻る場所へ回った。
赤組の最初の形ができる。
七海の選んだ潮核は、ゴールゾーンへ運びにくい位置だった。抱えた瞬間、戻りの水が両足を岸壁側へ流す。
青組の陽が正面へ入った。
七海は進まず、潮核を手放す。
赤い発光ラインが消えた。
渚が受けるより先に、凪が軌道へ触れた。青い線が一瞬つき、潮核が外へ流れる。
得点には届かない。
それでも、赤組の四人は止まっていなかった。
優奈が別の潮核を捨てる。芽衣が中央へ寄り、七海は落とした潮核を追わずに次へ向かう。
五分が終わるまで、赤組は一度も同じ場所へ重ならなかった。
岸へ戻ると、遥香は七海の磁石を指で押さえた。
「最初に選んだ場所は、よくありませんでした」
「でも、止まらんかったですよね」
「はい」
七海の口元が上がる。
「次は、入る前に一度だけ見てください」
「一度だけ?」
「二度見ると、七海さんは遅くなります」
「分かりました」
渚が横から七海を見る。
「一回見るだけでいいん?」
「渚さんも、もう少し見てください」
「私も?」
「渚さんは見ずに行きすぎます」
「見えとる時は見てます」
「見えていない時も行っています」
結が青組側で笑った。
遥香は最後の磁石へ手を伸ばす。
「渚さんと心春さんを替えます」
心春の手が止まった。
「うち?」
「はい」
渚が青組へ移る。
赤組は、優奈、芽衣、七海、心春、遥香。
青組は、凪、花、陽、渚、結。
三年生は一人も赤組にいない。
心春は花を見た。
「花ちゃん、手加減してや」
「試合で言うてみんさい」
「花ちゃんは相手じゃないじゃろ」
「今は相手」
花がゴーグルを下ろした。
最後の五分。
四つの潮核が水面へ入る。
笛が鳴った。
七海はすぐには飛び込まなかった。
中央。
沖側。
岸壁側。
一度だけ見て、岸壁側へ向かった。
その一歩で、優奈も青組を見始める。芽衣は低い潮核へ入り、心春がその隣へついた。
青組の凪は中央。花はゴールゾーン側へ戻っている。陽が七海を追い、渚は沖側の流れへ入った。
優奈は沖側を見る。
渚は向かっているが、青組の残る三人は見ていない。
優奈が浮上した。
「沖を捨てます」
遥香は七海の位置を見る。
七海が次に顔を出す場所へ、先に体を向ける。
頭が水面へ出た。
「七海さん、沖は捨てて!」
遥香の声を受け、七海は沖側へ顔を向けなかった。
岸壁側の潮核へ進む。
陽が正面へ入る。
七海は潮核を拾わず、陽を外側へ引いた。
その内側で、芽衣が低い潮核を左手に入れる。手足と胸に赤い発光ラインがついた。
凪が中央から近づく。
芽衣は右肩を上げない。
心春が、芽衣の斜め前へ入った。
近すぎない。
芽衣が左手を伸ばせば届く距離。
凪が芽衣の足へ手を伸ばす前に、芽衣は潮核を低く流した。赤い発光ラインが消える。
潮核が心春の前へ入った。
心春が受け取る。
手。
足。
胸。
新しい赤がついた。
ゴールゾーンまで、一人分。
青組の陽は七海の外側。凪は芽衣との間に残っている。渚は沖側から戻る途中だった。
正面にいるのは、花だけ。
花が心春の右足へ触れた。
一秒。
心春はゴールゾーンを見る。
少し沈めば届く。
次に、芽衣を見た。
芽衣は心春の後ろにいる。
二秒。
心春は潮核を胸へ抱え直す。
自分で沈めるのか。
芽衣へ戻すのか。
顔がもう一度、芽衣へ向いた。
三秒。
赤い発光ラインが消えた。
潮核が心春の手から落ちる。
花が拾った。
手足と胸に青い線がつく。
そのまま反転した。
遥香の笛が鳴った。
「止めます。上がってください」
心春は水面へ出た。
花の青い発光ラインが消える。両組が岸へ戻った。
心春は階段を上がり、芽衣の横へ立った。
「芽衣ちゃんが来ると思って」
「心春が行くと思った」
「うちが?」
「持っとったじゃろ」
「でも、芽衣ちゃんが流したけえ」
遥香が二人を見る。
「ゴールゾーンまでは行けました」 「でも、入りませんでした」
心春の声が小さくなる。
「はい。次は、最後に持った人が決めてください」
心春は海を見る。
花が触れた右足には、発光していない線だけが残っていた。
「うちが決めてええんですか」
「持っているのは、心春さんです」
心春は返事をしなかった。
隣で、芽衣が右肩を押さえる。
「次は、行きんさい」
「芽衣ちゃんは?」
「次の場所へ行く」
「戻ってこんの?」
「心春が落としたら戻る」
心春の口が少し動いた。
優奈が凪の前へ行く。
「沖を捨てたの、違いましたか」
「違った」
「どこを捨てればよかったですか」
凪は海を見る。
沖側の潮核は、渚が触れたあとも浮標の内側へ残っていた。捨てるなら、岸壁の影で止まっていた一つだった。
答えは見えている。
一拍置いて、優奈へ顔を戻す。
「次、もう一回見て決めて」
「教えてくれないんですか」
「今教えたら、次も私を見るから」
優奈は凪の顔を見たまま止まった。
それから海へ向き直った。
遥香はホワイトボードに、最後の赤組を残した。
【水面】
遥香
【水中】
芽衣
優奈
七海
心春
七海から一本目の矢印を引く。
優奈の名前から、一つの潮核へ線を引く。
芽衣から心春へ、低い線をつなぐ。
最後の矢印は、ゴールゾーンの手前で止まった。
遥香は消さなかった。




