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潮球  作者: カミツキ
3年目の海

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83/93

第83話 抜けた、あと

 七月に入って、雨が一度途切れた。


 三原港の石畳には、まだ浅い水たまりが残っている。雲の切れ間から落ちた日差しが濡れた地面へ反射し、浮標を結ぶロープから水滴が一つずつ落ちていた。


 フェリーの引き波が、遅れて練習区画へ入ってくる。


 凪の右ふくらはぎには、細いテープが巻かれていた。


 芽衣はドライスーツへ腕を通す前に、右肩を一度だけ回す。胸の高さまでは上がった。それより先へ動かそうとしたところで、遥香が顔を向けた。


「芽衣は、右肩より上を使わないでください」

「分かっとる」

「凪さんも、強く蹴らないでください」

「うん」

「二人とも、分かっている時の返事に聞こえません」


 花が横でゴーグルを下ろした。


「うちは?」

「今日は制限ありません」

「やっとじゃ」


 遥香はホワイトボードを練習区画へ向けた。


【五対五】

【潮核 四つ】

【一試技 五分】

【五分ごとに一人交代】

【赤組を外れた選手は、赤組へ戻らない】


 その下に、二組の名前が並んでいる。


【赤】

 凪

 花

 陽

 渚

 結 水面


【青】

 芽衣

 優奈

 七海

 心春

 遥香 水面


 結が一番下の行を指した。


「うちら、青に行ったらまた出るんじゃろ。戻らないって、どういうこと?」

「赤組を地区大会に出る側として扱います。赤組を外れた人は、赤組へは戻りません」

「青組は?」

「練習相手なので、交代した人を受け入れてください」 「試合の交代を、片方だけ再現するんじゃね」

「はい」


 遥香は十人の磁石を、ホワイトボードの両側へ置いた。


「交代する人は、その時に伝えます」 「先に言わんの?」


 花が聞く。


「言いません」

「準備できんじゃん」

「地区大会でも、相手と海を見てから決めます」

「現地でいきなり外される練習?」

「外されたあとの練習です」


 花は口を曲げたまま、水際へ向かった。


 ドライスーツの練習設定が切り替わる。赤組は赤、青組は青。潮核を保持した選手の手足と胸だけが、それぞれの色に発光する。


 最初の五分。


 四つの潮核が水面へ入った。


 笛が鳴る。


 陽が中央へ動いた。


 その一歩で、残る四人の進路が分かれた。渚は岸壁から戻る流れへ入り、花がゴールゾーン側へ沈む。凪は沖へ流れる一つを追わず、浮標の内側へ戻る潮核へ向かった。


 結は水面から、息継ぎに上がった花へ声を飛ばす。


「花、左!」


 花が潜る。


 青組の優奈が花へ寄り、七海は中央の陽を追った。心春が芽衣の斜め後ろへ入る。


 凪が潮核を拾った。手足と胸に赤い発光ラインがつく。


 正面に芽衣。


 凪は進まず、岸壁から返った水へ潮核を落とした。赤い線が消え、潮核だけが花の待つ左側へ流れる。


 花が受け取った。


 手足と胸に新しい赤がつく。


 心春が花の正面へ入ろうとする。遅れて、優奈も戻った。


 花は二人の間へ入らない。下から押し上げる水に腰を乗せ、ゴールゾーンの端へ体を沈めた。


 赤い発光ラインが入る。


 得点ブザーが鳴った。


 残る三つの潮核へ、両組が散る。


 赤組は止まらなかった。


 凪が一つを捨て、陽が最初に動き、結が短く伝える。渚が空いた流れを取り、花が最後まで運んだ。


 五分の笛が鳴る。


 遥香はホワイトボードの前へ戻った。


「交代します。結さんと私です」


 結がゴーグルを額へ上げた。


「いきなり水面?」

「はい」

「青の?」

「はい」


 結が青組側へ移り、遥香が赤組の水面へ入る。


 赤組は、凪、花、陽、渚、遥香。


 青組は、芽衣、優奈、七海、心春、結。


 四つの潮核が戻される。


 笛が鳴った。


 陽が中央へ動く。花と渚も、それぞれ別の潮核へ向かった。


 凪は沖側へ流れる一つを見た。


 表面は沖へ向いている。その下では、さっきの引き波が岸壁側へ戻り始めていた。追わなくても、浮標の内側へ戻ってくる。


 凪は手前の潮核へ向かう。


 青組の七海が、沖側へ進んだ。


 凪が息継ぎに上がる。


 遥香は沖側を見る。


 戻り始めた潮核。

 二番浮標の内側へ入る七海。

 先に止める方を、一瞬だけ迷う。


「凪さん、右は」


 凪の顔が水面から消えた。

 声は届かなかった。


 その直後、青組の七海が息継ぎに上がる。


「七海、右!」


 結の声が、浮上した瞬間に飛んだ。


 七海は迷わず進路を変えた。

 戻ってきた潮核へ先に触れ、手足と胸に青い線をつける。


 優奈がゴールゾーン側へ入った。


 七海は長く持たない。

 岸壁へ戻る水へ潮核を流し、青い発光ラインを消す。


 優奈が受け取った。


 陽が正面へ入る前に、青い光がゴールゾーンへ沈んだ。


 ブザーが鳴る。


 遥香は海を見たまま、口を閉じた。


 言葉を選ぶのが遅かったのではない。


 どちらを先に伝えるか、決めるのが遅れた。


 残る潮核の攻防が続く。


 凪が手前の潮核を追う。右側では、七海が次の青へ向かっていた。


 凪が浮上するより先に、遥香は右側を見た。


 頭が水面へ出る。


「右、捨てて!」


 声が届く。


 凪は右へ行かない。


 花が中央へ戻り、渚が岸壁側を塞ぐ。赤組は失点を止めたが、潮核を取り切れないまま五分が終わった。


 全員が岸へ戻る。


 遥香はタオルを取らず、ホワイトボードへ一行書き足した。


【浮上する前に 優先を決める】


 結が髪から水を絞る。


「今の、遅かったね」

「はい」

「言う方じゃなくて、決める方が」

「はい」


 遥香はマーカーのキャップを閉めた。


「結さんは、迷わないんですか」

「迷うよ」

「それでも言うんですか」

「分からんまま叫ぶ時もある」

「それは直してください」

「そこは真似せんのんじゃね」


 遥香は次の磁石へ手を伸ばした。


「花さんと芽衣を替えます」


 芽衣が赤組へ移る。


 花は青組側へ立った。


 赤組は、凪、芽衣、陽、渚、遥香。


 青組は、花、優奈、七海、心春、結。


 芽衣がゴーグルを下ろした。


 三回目の笛。


 青組の花が最初から前へ出る。赤組の陽が中央へ入り、凪は岸壁側の流れを取った。


 芽衣は胸より低い位置を泳ぐ潮核へ向かう。


 凪が手のひらで潮核の深さを変えた。赤い線が一瞬つき、すぐ消える。潮核は水面へ上がらず、芽衣の左手へ届いた。


 芽衣の手足と胸が赤く光る。


 ゴールゾーンまで近い。


 渚は外側から戻っている。陽は青組の七海を止め、凪は別の潮核へ向かっていた。


 正面から花が来る。


 芽衣は右肩を上げず、左腕と胸で潮核を挟んだ。


 花の手が、芽衣の左足の発光ラインへ触れる。


 一秒。


 芽衣はゴールゾーンを見る。正面には心春が戻ってきていた。


 右から沈めれば、肩を上げずに届く。


 左へ流せば、渚が受けられる。


 二秒。


 芽衣の顔が渚へ向く。


 渚はまだ遠い。


 三秒。


 赤い発光ラインが消えた。


 落ちた潮核を花が拾う。手足と胸に青い線がつき、そのまま赤組のゴールゾーンへ向かった。


 芽衣が追う。


 右肩が上がらない。伸ばした左手は、花の足まで届かなかった。


 青い発光ラインが沈んだ。


 ブザーが鳴る。


 五分後、岸へ戻った芽衣は右腕を体の横へ置いたまま、花を見た。


「あそこ、行ってよかったじゃろ」


 花が先に言った。


「右肩、上がらんかった」

「肩を上げる前に、行くって決めるんよ」

「行けんかったら?」

「その時は落とせばええ」


 遥香が二人の間へ入る。


「花さんと同じ方法で行く必要はありません」

「じゃあ、どうするん?」


 芽衣が聞く。


「触られる前に、次の人を入れてください」

「次の人」

「芽衣が最後まで運ばなくても、攻撃は終わりません」


 花が自分の磁石を見る。


「うちがおらんかったら、二人でやれってこと?」

「はい」

「一人分を?」

「分けてください」


 遥香は凪の磁石を外した。


「次は、凪さんと優奈さんです」


 優奈が赤組へ移る。


 凪は青組側へ立った。


 赤組は、優奈、芽衣、陽、渚、遥香。


 青組は、凪、花、七海、心春、結。


 優奈がゴーグルを下ろす前に、凪を見た。

 凪は何も言わず、青組の入水位置へ向かった。


 四回目の笛が鳴る。


 四つの潮核が分かれた。


 優奈は潮核ではなく、青組を見た。


 花は中央へ向かっている。七海は岸壁側。心春は花の戻る場所へ残った。


 凪だけが、沖側の潮核を見ていない。

 沖側の潮核は、浮標へ向かってゆっくり流れている。


 優奈が水面へ出た。


「沖を捨てます」

「分かりました」


 遥香は、次に息継ぎへ上がる陽を待つ。

 陽の頭が水面へ出る前に、沖側を確認する。


「陽さん、沖は捨てて!」


 陽が中央へ戻る。


 渚も沖側を追わず、岸壁側へ入った。芽衣が中央の潮核を低く拾う。


 赤組の五人が、残る三つへ集まる。

 沖側の潮核だけが外へ流れていく。


 凪は見ていない。

 足元の水だけを確かめていた。

 浮標の手前で、潮核の速度が落ちる。


 沖へ向かっていた表面の水が切れ、その下に残っていた戻りへ落ちた。


 潮核が向きを変える。


 凪が先に入った。


 手足と胸に青い発光ラインがつく。


 優奈の判断は外れた。


 凪は潮核を抱えず、花の待つ中央へ流す。青い線が消え、花の手足と胸が光った。


 陽が戻る前に、花がゴールゾーンへ沈める。


 ブザーが鳴る。


 優奈は浮上した。


 息を吸い、沖側を振り返る。


 流れはもう、岸壁へ戻っていた。


 五分の笛が鳴ったあと、遥香は優奈の前へ立った。


「今の判断は違いました」

「はい」

「でも、次も決めてください」


 優奈が顔を上げる。


「また外すかもしれません」

「決めなければ、五人とも止まります」

「外したらどうすればいいですか?」

「次に直します」


 優奈は凪を見た。


 凪は青組の潮核を網袋へ戻している。


「陽さんと七海さんを替えます」


 七海が赤組へ入り、陽が青組へ移った。


 赤組は、優奈、芽衣、七海、渚、遥香。


 青組は、凪、花、陽、心春、結。


 五回目。


 笛が鳴っても、赤組の足はすぐには動かなかった。


 優奈は青組を見る。


 芽衣は味方の位置を見る。


 渚は浮標の下を流れる泡を追っている。


 七海が中央へ顔を向けた。


 一度、沖側も見る。


 中央の潮核へ飛び込んだ。


 岸壁から返った水が、七海の胸へ斜めに当たる。進路が外へずれた。それでも、七海は止まらない。


 七海が動いたことで、残る三人も散った。


 優奈は沖側へ向かう。芽衣が低い潮核へ入り、渚は七海の戻る場所へ回った。


 赤組の最初の形ができる。


 七海の選んだ潮核は、ゴールゾーンへ運びにくい位置だった。抱えた瞬間、戻りの水が両足を岸壁側へ流す。


 青組の陽が正面へ入った。


 七海は進まず、潮核を手放す。


 赤い発光ラインが消えた。


 渚が受けるより先に、凪が軌道へ触れた。青い線が一瞬つき、潮核が外へ流れる。


 得点には届かない。


 それでも、赤組の四人は止まっていなかった。


 優奈が別の潮核を捨てる。芽衣が中央へ寄り、七海は落とした潮核を追わずに次へ向かう。


 五分が終わるまで、赤組は一度も同じ場所へ重ならなかった。


 岸へ戻ると、遥香は七海の磁石を指で押さえた。


「最初に選んだ場所は、よくありませんでした」

「でも、止まらんかったですよね」

「はい」


 七海の口元が上がる。


「次は、入る前に一度だけ見てください」

「一度だけ?」

「二度見ると、七海さんは遅くなります」

「分かりました」


 渚が横から七海を見る。


「一回見るだけでいいん?」

「渚さんも、もう少し見てください」

「私も?」

「渚さんは見ずに行きすぎます」

「見えとる時は見てます」

「見えていない時も行っています」


 結が青組側で笑った。


 遥香は最後の磁石へ手を伸ばす。


「渚さんと心春さんを替えます」


 心春の手が止まった。


「うち?」

「はい」


 渚が青組へ移る。


 赤組は、優奈、芽衣、七海、心春、遥香。


 青組は、凪、花、陽、渚、結。


 三年生は一人も赤組にいない。


 心春は花を見た。


「花ちゃん、手加減してや」

「試合で言うてみんさい」

「花ちゃんは相手じゃないじゃろ」

「今は相手」


 花がゴーグルを下ろした。


 最後の五分。


 四つの潮核が水面へ入る。


 笛が鳴った。


 七海はすぐには飛び込まなかった。


 中央。

 沖側。

 岸壁側。


 一度だけ見て、岸壁側へ向かった。


 その一歩で、優奈も青組を見始める。芽衣は低い潮核へ入り、心春がその隣へついた。


 青組の凪は中央。花はゴールゾーン側へ戻っている。陽が七海を追い、渚は沖側の流れへ入った。


 優奈は沖側を見る。


 渚は向かっているが、青組の残る三人は見ていない。


 優奈が浮上した。


「沖を捨てます」


 遥香は七海の位置を見る。


 七海が次に顔を出す場所へ、先に体を向ける。


 頭が水面へ出た。


「七海さん、沖は捨てて!」


 遥香の声を受け、七海は沖側へ顔を向けなかった。


 岸壁側の潮核へ進む。


 陽が正面へ入る。


 七海は潮核を拾わず、陽を外側へ引いた。


 その内側で、芽衣が低い潮核を左手に入れる。手足と胸に赤い発光ラインがついた。


 凪が中央から近づく。


 芽衣は右肩を上げない。


 心春が、芽衣の斜め前へ入った。


 近すぎない。


 芽衣が左手を伸ばせば届く距離。


 凪が芽衣の足へ手を伸ばす前に、芽衣は潮核を低く流した。赤い発光ラインが消える。


 潮核が心春の前へ入った。


 心春が受け取る。


 手。

 足。

 胸。


 新しい赤がついた。


 ゴールゾーンまで、一人分。


 青組の陽は七海の外側。凪は芽衣との間に残っている。渚は沖側から戻る途中だった。


 正面にいるのは、花だけ。


 花が心春の右足へ触れた。


 一秒。


 心春はゴールゾーンを見る。


 少し沈めば届く。


 次に、芽衣を見た。


 芽衣は心春の後ろにいる。


 二秒。


 心春は潮核を胸へ抱え直す。

 自分で沈めるのか。

 芽衣へ戻すのか。


 顔がもう一度、芽衣へ向いた。


 三秒。


 赤い発光ラインが消えた。

 潮核が心春の手から落ちる。


 花が拾った。

 手足と胸に青い線がつく。

 そのまま反転した。


 遥香の笛が鳴った。


「止めます。上がってください」


 心春は水面へ出た。


 花の青い発光ラインが消える。両組が岸へ戻った。


 心春は階段を上がり、芽衣の横へ立った。


「芽衣ちゃんが来ると思って」

「心春が行くと思った」

「うちが?」

「持っとったじゃろ」

「でも、芽衣ちゃんが流したけえ」


 遥香が二人を見る。


「ゴールゾーンまでは行けました」 「でも、入りませんでした」


 心春の声が小さくなる。


「はい。次は、最後に持った人が決めてください」


 心春は海を見る。


 花が触れた右足には、発光していない線だけが残っていた。


「うちが決めてええんですか」

「持っているのは、心春さんです」


 心春は返事をしなかった。

 隣で、芽衣が右肩を押さえる。


「次は、行きんさい」

「芽衣ちゃんは?」

「次の場所へ行く」

「戻ってこんの?」

「心春が落としたら戻る」


 心春の口が少し動いた。


 優奈が凪の前へ行く。


「沖を捨てたの、違いましたか」

「違った」

「どこを捨てればよかったですか」


 凪は海を見る。


 沖側の潮核は、渚が触れたあとも浮標の内側へ残っていた。捨てるなら、岸壁の影で止まっていた一つだった。


 答えは見えている。


 一拍置いて、優奈へ顔を戻す。


「次、もう一回見て決めて」

「教えてくれないんですか」

「今教えたら、次も私を見るから」


 優奈は凪の顔を見たまま止まった。

 それから海へ向き直った。


 遥香はホワイトボードに、最後の赤組を残した。


【水面】

 遥香


【水中】

 芽衣

 優奈

 七海

 心春


 七海から一本目の矢印を引く。

 優奈の名前から、一つの潮核へ線を引く。

 芽衣から心春へ、低い線をつなぐ。


 最後の矢印は、ゴールゾーンの手前で止まった。


 遥香は消さなかった。

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