第82話 十人の、五人
三原港が、雨の向こうで白く霞んでいた。
フェリーが岸壁を離れていく。船尾から広がった波は、雨粒に細かく崩され、練習区画へ届く前に形を失った。
浮標を結ぶロープが、水面の下へ沈んでは戻る。海と岸壁の境目に、濡れた木の葉が一枚引っかかっていた。
十人分の荷物が、オーシャンプラザの軒下に並んでいる。
凪、花、芽衣の鞄からは、ドライスーツが出ていなかった。
ホワイトボードの端に、遥香の字がある。
【本日 入水なし】
凪
花
芽衣
花が、自分の名前を指で叩いた。
「泳ぐだけならええじゃろ」
「花さんは、泳ぐだけでは終わらないので駄目です」
花は口を閉じた。
芽衣が右腕を体の横へ伸ばす。肩の高さまで上げる前に、遥香の顔が向いた。
「左だけなら使えるけど」
「今日は左も使いません」
「左は痛くないよ」
「右を庇って左を使うので、今日は休んでください」
芽衣は腕を下ろした。
凪は軒下の柱に右手をつき、右足の踵を上げた。
「凪さんもです」
「まだ何も言ってない」
「右足を動かしていました」
「確認しただけ」
「昨日も確認していました」
凪は踵を下ろした。
雨水がタイルの目地を通り、港側へ流れている。細い流れは途中で二つに分かれ、片方だけが排水口へ入っていた。
凪はそちらを見る。
「海ではなく、足を休ませてください」
遥香は端末をホワイトボードの横へ置いた。
画面には、地区大会進出校向けの案内が表示されている。
【地区大会 参加案内】
【開催 八月】
【大会受付 現地宿泊施設】
【対戦校・試合区画 受付後通知】
その下には、登録人数、荷物の搬入、宿泊時の注意事項が続いていた。
七海が画面を下まで送った。
「ほんまに相手、書いてないんじゃね」
「はい」
「会場も?」
「現地で受付をしてから通知されます」
「着いてから考えろってことですか?」
「着くまでは、どこで誰と試合をするか分かりません」
七海が結の肩越しに画面を覗いた。
「地区大会って、全部そうなんですか」
「去年も同じこの方式でした」
遥香はホワイトボードの中央に、五つの四角を描いた。
水中に四つ。
その上に、水面の一つ。
下へ、十人分の磁石を並べる。
凪。花。結。陽。
渚。遥香。芽衣。
優奈。七海。心春。
心春が、五つの枠と十人の名前を見比べた。
「私も出るかもしれないんですか」
「はい。全員、そのつもりでいてください」
「先発を、今から決めるんじゃないん?」
花が聞く。
「決めるのは現地です」
「じゃあ、今は何するん」
「誰が入っても、五人で動けるようにします」
遥香は最初の五つの磁石を動かした。
水面に結。
水中に陽、渚、七海、心春。
優奈の磁石は、枠の外に残った。
「四つの潮核を流します。一つをゴールゾーンへ沈めるまで、残りの三つを区画の外へ出さないでください」
「相手は?」
七海が聞く。
「いません」
「それなら簡単じゃないですか」
「雨が降っています」
七海が海を見る。
練習区画の表面は、雨で平らに見えた。
岸壁の下では、排水口から落ちた水が海面を叩いている。その周りだけ、泡が外側へ押し出されていた。
凪には、浮標の二番と三番の間を抜ける水が見えた。
普段より浅い。
岸壁から返る水と、雨で増えた排水が同じ方向へ重なっている。
「外側、少し速い」
凪が言うと、遥香が頷いた。
「そこも含めて練習です」
五人が水際へ並んだ。
結は水面担当の位置へ回る。陽が中央。渚は二番浮標の近くを見ていた。七海はゴーグルを下ろし、心春がその隣に立つ。
遥香が四つの潮核を水面へ入れた。
一つは中央。
一つは岸壁側。
一つは沖側。
最後の一つが、排水口から広がる泡へ入った。
「始めます」
笛が鳴る。
陽が最初に動いた。
中央の潮核へ向かう。
渚は泡へ入った一つを追い、七海が沖側へ向かった。心春は岸壁側へ進みかけ、渚が戻る場所へ半歩ずれた。
四人の動きが分かれる。
陽が中央の潮核を拾った。手足と胸に赤い発光ラインがつく。
そのままゴールゾーンへ向かう。
渚は排水に押された潮核へ追いつき、手のひらで内側へ軌道を変えた。赤い線が一瞬つき、消える。
七海は沖側の潮核を抱え、浮標へ近づく流れから外した。
岸壁側の一つが、心春の前を通り過ぎる。
心春は追わない。
渚が押し戻した潮核の先へ入り、岸壁側の一つも同じ場所へ寄せた。
二つが区画の内側に残る。
結が水面から、息継ぎに上がった陽へ声を飛ばした。
「陽、内側空いとる!」
陽が潜り直す。
赤い発光ラインが、ゴールゾーンへ沈んだ。
遥香の笛が鳴る。
中央の一つは得点。
残る三つは、浮標の内側にあった。
七海が潮核を離し、水面へ顔を出した。
「できました」
「はい」
遥香はホワイトボードへ一つ丸をつけた。
花が軒下から海を見る。
「相手おらんかったら、できるじゃん」
「そうですね」
遥香は陽の磁石を外した。
代わりに、優奈の磁石を置く。
「次は優奈さんです」
「陽先輩の場所ですか」
「入る場所は自分で決めてください」
優奈は陽を見る。
陽はゴーグルを額へ上げ、岸へ戻ってきた。何も言わず、優奈とすれ違う。
優奈が水際へ立った。
水面に結。
水中に渚、七海、心春、優奈。
「同じ課題です」
遥香が潮核を回収し、もう一度四つを水面へ放した。
雨が少し強くなる。
中央の潮核が上下する。沖側の一つはほとんど動かない。排水口に近い一つだけが、浮標の外へ向かっていた。
笛が鳴る。
渚が先に動いた。
外へ向かう速い流れへ入る。
心春は渚を追わず、戻る側へ残った。
優奈は中央を見る。
七海も中央を見ていた。
二人の足が、一拍止まる。
前の試技では、陽が最初に中央へ向かった。
そのあとを見て、残る三人が散っていた。
今は、最初の一人がいない。
中央の潮核が、二人の間を流れる。
優奈が動いた。
七海も同時に水を蹴る。
二人が同じ潮核へ向かった。
岸壁側では、四つ目の潮核が排水の泡に押されている。浮標まで、あと二メートル。
凪には、そのまま外へ抜ける軌道が見えた。
「七海、外」
声を出しかける。
「凪さんは、言わないでください」
遥香の声が横から入った。
凪は口を閉じた。
優奈と七海が中央で重なる。
七海が先に潮核へ触れた。手足と胸に赤い線がつく。
優奈は進路を外し、岸壁側へ顔を向ける。
浮標へ向かう潮核は、もう一メートル先にあった。
優奈が追う。
浅い流れが、右肩を外へ押す。両腕で水を掻いても、距離が縮まらない。
結が水面から潮核を見つける。
優奈が息継ぎへ上がった。
「優奈、岸側!」
結の声が届く。
優奈がもう一度潜った。
潮核が黄色いロープの下を抜ける。
区画の外へ出た。
遥香の笛が鳴る。
「止めます。上がってください」
七海が中央の潮核を離した。赤い線が消える。
渚は外側から戻り、心春も水面へ上がった。優奈は区画外へ出た潮核を拾い、そのまま岸へ運んでくる。
四人が階段を上がる。
優奈の手にある潮核から、雨水が落ちた。
「すみません」
「落としたのは、優奈さん一人ではありません」
遥香はホワイトボードへ向かった。
成功につけた丸の下へ、短い線を一本引く。
「陽先輩がいた場所へ入ればいいと思いました」
優奈が言った。
「場所は合っています」
「じゃあ、何が違ったんですか」
遥香は五つの枠を見る。
陽の磁石を置いていた中央。
その周りに、四人の磁石が残っている。
「陽さんが動くのを、全員が待っていました」
優奈の目が、中央の枠へ戻る。
結が髪から水を絞った。
「うちも、陽が動いてから見とった」
「何を?」
「次に誰へ声かけるか。陽が中央へ行ったら、残った方を見るけえ」
七海がゴーグルを外す。
「私も中央へ行くと思ってました」
「優奈さんもですか」
「はい。陽先輩が行っていたので」
花が腕を組んだまま、陽を見る。
「陽がおらんかったら、最初に決める人がおらんくなるんじゃね」
陽はタオルで髪を押さえた。
「決めてない」
「でも、最初に動いとるじゃろ」
「見えた方へ行っとるだけ」
「それをみんなが見とったんよ」
陽の手が止まった。
雨が軒の端から落ちている。
一定の間隔ではない。
二つ続いて落ちたあと、少し空く。
凪には、二回目の正しい動きが見えていた。
七海を外へ出し、優奈を中央へ残す。
あるいは、最初から優奈が岸壁側へ入り、七海が中央を取る。
どちらでも、潮核は外へ出なかった。
口を開けば、次はできる。
遥香が凪を見る。
「凪さんは、今の答えを言わないでください」
「次も?」
「はい」
「また出るかもしれない」
「出たら、自分たちで拾ってもらいます」
凪は海を見る。
区画外へ出た潮核があった場所には、もう何もない。雨粒だけが、同じ場所を叩いている。
「地区大会では、岸から言えません」
遥香は五つの枠から、全員の磁石を外した。
水面の結。
水中の渚、七海、心春、優奈。
枠が空になる。
「固定する五人を作らないん?」
花が聞く。
「先発は作ります。でも、その五人だけで戦うつもりはありません」
「十人、全部使う?」
「相手と海によります」
遥香は十人の磁石を、ホワイトボードの下へ並べ直した。
凪。花。結。陽。
渚。遥香。芽衣。
優奈。七海。心春。
「誰が抜けても、次の五人が止まらないようにします」
心春が、自分の磁石を見る。
「全部の役を覚えるんですか」
「全部ではありません」
遥香は空いた五つの枠を指した。
「最初に動く人。捨てる潮核を決める人。戻る場所を残す人。水面から伝える人。最後に運ぶ人」
「多い」
七海の声が小さくなる。
「一人で全部する必要はありません」
「じゃあ、誰がするんですか」
「その時、入っている五人です」
雨の音が、少し弱くなった。
陽が区画外へ出た潮核を、網袋へ戻す。
優奈はその手元を見ていた。
遥香が笛を持つ。
「もう一度やります」
凪は動かなかった。
花も芽衣も、軒下に残っている。
水際へ向かった五人の背中を、岸から見る。
今度は、誰が最初に動くのか分からない。
ホワイトボードの五つの枠には、誰の名前も入っていなかった。
その下に、十人の磁石が並んでいた。




