第82話 来年もまた
地区予選を終えて数日が経った放課後、川面から上がってくる風は、日が傾いてもまだぬるかった。橋の下では沼田川が海の方へ広がり、傾き始めた日差しを受けた水面が、車の音の向こうで細かく光っている。
練習を終えた七海は、欄干の外へ目をやったまま、隣を歩く優奈に聞いた。
「地区大会、勝てるんかな」
「分からん」
優奈の声は、明日の天気でも聞かれたみたいにあっさりしていた。
「もうちょっとあるじゃろ。いけるんじゃない、とか」
「まだ相手も分からんし、どこの海でやるかも分からんじゃん」
「そうじゃけど」
地区予選を二位で抜けたと決まったときは、地区大会へ行ける、それだけでよかった。地区大会のことも、まだ不安より楽しみの方が大きかった。
「でもさ、行くなら勝ちたいじゃん」
「それは勝ちたいよ」
「じゃろ?」
そこまでは同じだった。
七海は満足して橋の先へ目を戻したが、歩いているうちに、その地区大会よりさらに先のことが浮かんだ。
「……来年、凪先輩らおらんのよね」
隣の足音がわずかに遅れた。
「急に来年?」
「だって三年生じゃん。卒業するじゃん。遥香先輩らはおるけど、今と同じじゃないじゃろ」
最近の練習では、海へ入る五人を毎日のように替えていた。七海が三年生と同じ組にならない日もあれば、優奈と別になる日もある。誰と一緒でも動けるようにするためだと分かっている。
その練習を思い出すと、三年生のいない五人まで勝手に頭に浮かんだ。
橋の先の交差点へ着くと信号が赤になり、二人は歩道の端で止まった。横を抜ける車の音に混じって、川の方から来た風が制服の袖を揺らす。
「今年は地区大会行けたのに、来年行けませんでしたってなるん、嫌じゃない?」
「そりゃ嫌じゃろ」
「じゃろ。来年一年生が入ってきてさ、去年は地区大会行ったんよって言うじゃん。なのに今年は行けませんでしたってなったら、なんか嫌じゃん」
優奈が返すより先に信号が変わった。
二人で横断歩道へ出る。七海は車道を渡りきるまで歩いてから、まだ喉に残っていた続きを出した。
「三年生に連れてってもらっただけみたいじゃん」
「七海、そこまで考えとったん?」
「うーん、今考えた」
「今なん」
「だってさー、考え始めたら気になったんよ」
優奈の口元が緩んだ。
「笑わんでよ」
「笑っとらん」
「笑っとるじゃん」
七海が肩をぶつけると、優奈は道路側へ出ないよう反対側へ身体を逃がしながら笑った。
線路の下へ入る手前で、頭上から電車の音が近づいてきた。二人が話すのをやめたところへ車輪の音が重なり、電車が通り過ぎた振動がコンクリートの壁に残った。
音が遠ざかると、七海は話の続きを口にした。
「優奈は何も思わんの? 三年生抜けたら大丈夫かなとか」
「今まで考えたことなかった」
「ほんまに?」
「七海が言うけえ、今考えとる」
「うちのせいじゃん」
「そうじゃね」
「そこ否定してよ」
線路を抜けると、日差しがまた戻った。
地区大会で勝てるかどうかを聞いただけだったのに、話しているうちに来年の一年生まで出てきた。七海は自分でも可笑しくなって、さっきまでより歩く速度を落とした。
公園まで来ると、空いていたベンチに鞄を置いた。優奈もその隣に座り、肩から外した鞄を足元に置く。
歩いている間は次々出てきた言葉が、座った途端に途切れた。
そういえば、最初は潮球部へ入る気もなかったんじゃ。
「優奈ってさ、潮球部入るとき、『岸からじゃ分からんけん』って言っとったじゃん。でも、その前も見学来よったじゃん。最初はうちが連れてったけど」
「鞄持っていったんじゃろ」
「ちゃんと返したじゃん」
「部室でね」
まだ言うん、それ。
「二回目からは自分で来とったじゃん。なんでなん?」
優奈は膝の上で組んでいた指をほどいた。
「小学校の頃から、七海、よう誘ってくれたじゃん。釣りとか、海水浴とか……。あれ、楽しかったんよね。初めて沼田川で釣りしたとき、覚えとる?」
「覚えとるよ。うちがサヨリ釣ったやつじゃろ」
「釣っとらんかったって。ルアーに引っかかっただけじゃろ」
「魚ついとったじゃん」
「口じゃないところにね」
「いやいや、釣れたことには変わらんじゃろ」
「それでめっちゃはしゃいどった」
「初めてじゃったけえね」
ルアーの横で、細いサヨリが水面を跳ねたのを思い出した。魚が見えた瞬間、外れるかどうかを確かめるより先に優奈を呼んだ。どこに針が掛かっているかなんて、あのときは見てもいなかった。
「釣りも海水浴も、七海が行こうって言うけえ行ったけど、行ったら楽しかったんよ。じゃけえ高校でも、七海と同じ部活に入ったら、また楽しいんじゃろうなって思っとった」
潮球が先じゃなかったんじゃ。
「じゃあ最初から入ればよかったじゃん」
「潮球って聞いたけえ迷ったんよ」
「なんで。選択科目でもやったじゃん。楽しかったじゃん」
「授業と部活は違うじゃろ」
「そんな違う?」
「週に何回も海入るんよ」
「楽しいじゃん」
優奈が呆れたように息を吐いた。
「そういうとこ、ずっと変わらんよね」
「どういうとこ?」
「やりたいって思ったら、その先あんまり考えんと始めるとこ」
「ひどっ! ちゃんと考えとるわ」
「潮球部入る前、地区大会のこと考えた?」
「そこまでは……。考えてない」
「じゃあ地区予選は?」
「大会の流れとかやらんかったもん。そこまで知らんってば」
「ほら」
七海は言い返しかけたが、出かかった言葉は口の中で止まった。
うちの潮球部は創部したばかりで、強い学校がいくつもあることも授業で聞いていた。それを理由に、入るかどうか迷った覚えはない。
「じゃあさ、うちが潮球部入ってなかったら、優奈も入ってないん?」
「最初は入ってないと思う」
「最初は?」
「別に部活、なんでもよかったし。帰宅部でもよかった」
「そうなん!?」
「七海と一緒だったら楽しいんかなって思っとっただけ」
体の奥から波が押し寄せてくる。
返事をしようと口を開けても、うまく言葉にならない。川面から来る風が頬に当たっても、耳の裏の熱は引かなかった。見学に来て、うちの足ばかり見て、海へ入らなければ分からないと言って入部した。それで全部だと思っていた。
その前から、優奈はうちについて来とったんじゃ。
うつむいた足元では、長く伸びた二つの影が島影みたいに重なり、境目が分からなくなっていた。
「じゃあさ……。今も、うちがおるけえ続けとるん?」
「いや、それは違う」
違うん!?
「渚先輩にだけは負けたくないし」
「渚先輩?」
「あの人、見ても分からんのよ。足も膝も見とるけど、次の動きが全然同じにならん。水が変わったら動きも変わるし、さっき通ったところに次は来んかったりするんよ? 意味わからん」
「渚先輩、そういうの考えてやっとるんかな」
「聞いても、こっちの方が行けそうだったとか言うだけ」
「ああ、言いそう」
「じゃけえ嫌なんよ。見ても次が決まらんし。絶対、いつか読む」
「めっちゃハマっとるじゃん」
「七海に言われたくない」
七海は吹き出した。
見学だけって言っとったのに。
「じゃあ優奈、来年もうちがおらんでも潮球しとる?」
優奈の眉が寄った。
「七海、来年どこ行くん」
「もしもの話!」
「するよ」
今度の返事には迷いがなかった。
「七海は?」
「何が?」
「来年、地区大会に行けるか分からんかったら、潮球やめるん?」
「やめんよ」
「じゃろ」
春のうちは、地区大会へ行けるかなんて知らんかった。
「……うち、先のこと考えすぎた?」
「珍しくね」
「珍しくって何」
「七海って、後先考えず始めて、あとからのめり込むじゃん」
「またそれ言う?」
「地区大会行けるって分かったけえ、来年も行きたくなったんじゃろ」
当たってる。
「……行きたいよ」
「うちも」
「絶対?」
「行きたいのはね。行けるかは知らん」
「そこは行けるって言ってよ」
「分からんもん」
「ほんま、こういうとき役に立たんね」
「七海、できるって分かってから始めたことないじゃん」
そう言われると、何も返せなかった。
優奈はもう地区大会の話を続けず、足元の鞄を持ち上げた。
「今日、うちでご飯食べていく?」
「食べる」
「返事早」
「おばさん遅いん?」
「今日帰るん遅いけえ、うちが作る」
七海もベンチから立ち上がった。
「何作るん?」
「ペペロンチーノ。わけぎあるけえ入れる」
「じゃあ、うちのだけわけぎ抜きで」
優奈の声が一段上がった。
「まだ苦手なん!?」
「苦手なもんは苦手なんよ」
二人が公園を出るころ、線路の方から電車の走る音が聞こえてきた。七海は鞄を肩へ掛け直し、優奈の横に並んで家の方へ歩いた。




