第8話 次の海へ
常水館高校に勝った翌朝。
三原港の朝は、少しだけ涼しかった。
造船所の金属音。フェリーの汽笛。いつもの朝だった。
凪が自販機でいつものお茶を買った。
ボタンを押して待つ間、昨日のことを思い出した。
(勝った)
来々軒で五人で食べたラーメン。
帰り道の石畳。フェリーターミナルの灯り。
澪が来た。隣に立って、海を見た。
「今日、練習の前に話したいことがある」
五人が岸壁に並んで座った。
澪が全員を見渡した。
「次の目標を決める」
「忠海中央に勝つ」
花の声が、真っ先に出た。
「うちだけ?」
花が全員を見渡した。
「違うん?」
「うちも同じ」
結の手が、膝の上で少し動いた。
陽が頷いた。
澪が凪を見た。
「私も」
澪が海を見た。
「能島を封じるだけじゃ足りん」
花が顔を上げた。
「読まれても、次を出せるようにする」
「一つじゃ勝てん」
「具体的には?」
花が腕を組んだ。
「流れの引き出しを増やす。凪だけに頼らん」
「Cパターンをもっと使う」
陽の声だった。
「そうじゃ。サインなしで動ける体を、もっと深くする」
練習が始まった。
ホワイトボードには、大きく「C」とだけ書かれていた。
サインなし。
水中では、誰も何も出さない。
「昨日より、深くやる」
「流れが変わったら、何も出さん」
結が眉を寄せた。
「それ、どうやって?」
「何回もやる」
陽が先に海に入った。凪が後に続いた。
水中で、陽の動きを追った。
陽が止まった。流れを聞いている。
凪も止まった。同じ流れを、感じようとした。
二人が同時に動いた。違う方向へ。
潮核だけが、その間を抜けていった。
水面に上がると、澪の視線が花へ向いていた。
「今の、見えた?」
「なんか、合っとった」
澪は頷いた。
「それでいい」
凪は陽を見た。陽は前を向いたまま、次の練習に入っていた。
試合当日。
対岸に、フェリーで来たチームが立っていた。
大崎上島高校。島の高校だった。
遠くから来た、という雰囲気があった。
装備の運び方。立ち方。潮の読み方が、三原とは少し違う目をしていた。島の海で育った目だった。
審判がボードを掲げる。
【本日の潮況】
時刻:14:00
方向:東→西 秒速0.3m
特記:島影複数あり(潮止まり箇所が不規則)
午後から潮目発生予報
花がボードを見上げた。
「島影、複数って何なん」
「潮止まりが、ばらける」
結が眉を寄せた。
「それ、困るやつ?」
「動くかもしれん」
凪は海を見た。
水面は、まだ普通に見えた。
「潮目が来たら、止まる場所も変わります」
澪が少し目を細めた。
「Cパターンで行く」
「練習通りじゃね」
花が肩を回した。
「そうじゃ」
試合開始の笛が鳴った。
五人が海へ入った。
大崎上島のエース・木江汐が動いた。
小柄で速い。島影の内側を縫うように泳ぐ。
三原の島影の使い方とは違った。角度が、向きが、全部少しずつずれていた。
木江が島影の内側へ入った。
追ったはずの花の前から、角度が消えた。
澪が回り込む。
その先に、もう木江はいなかった。
潮核だけが、別の影に流れている。
青い光が沈んだ。
スコア:大崎上島 1-三原中央 0
「影の中で、消えた」
結の声が、水面に落ちた。
次も同じだった。
結の指が伸びる前に、木江が潮核を拾っていた。
島影の切れ目を抜けて、ゴールゾーンへ沈める。
青い光。ブザー。
スコア:大崎上島 2-三原中央 0
凪が止まった。
陽も止まった。
澪が、半拍遅れて泳ぎを止めた。
花はまだ前へ出ようとしていた。
結の指が、水面から横へ伸びた。
「そこじゃない!」
花が止まった。
潮止まりの位置が、ずれていた。
凪が動いた。
全員が動いた。
新しい潮止まりの位置に、潮核が流れ込んでいた。
凪が拾った。ゼッケンが光った。
深く沈めた。陽の方へ。
陽が受け取った。ゴールゾーンへ。
赤い光。ブザー。
スコア:大崎上島 2-三原中央 1
花が動いた。
潮核を拾った。ゼッケンが光った。
大崎上島の選手が二人来た。
進路が塞がる。ゼッケンに手が伸びた。
三秒カウントが始まった。
一秒。
花の足は止まらなかった。
二秒。
前は塞がっていた。
それでも、花の脚だけは水を蹴っていた。
三秒になる手前、花の手が沈んだ。
赤い光。ブザー。
スコア:大崎上島 2-三原中央 2
陽が流した潮核を、花が拾った。
木江が先に島影へ入る。
さっきなら、そこで角度が消えていた。
でも、結の指が水面から伸びた。
「そこ、もう止まらん! 外!」
花は止まらなかった。
影の外へ押し出す。
澪が受け取り、沈めた。
赤い光。ブザー。
スコア:大崎上島 2-三原中央 3
木江が水面に上がった。
一度だけ、結の指の先を見た。
次の潮核で、木江は結の指と反対へ入った。
「外!」
結の声が飛んだ。
でも、木江はもう島影の内側にいた。
青い光が沈んだ。
スコア:大崎上島 3-三原中央 3
結の指が、水面で止まった。
すぐに、もう一度伸びる。
「次、そこじゃない! 奥!」
陽が先に動いた。
凪が一拍遅れて、同じ流れに入る。
潮核は島影の外に出た。
木江が追う。
でも、澪の方が先に待っていた。
赤い光。ブザー。
スコア:大崎上島 3-三原中央 4
最後の潮核は、潮目の手前で揺れていた。
花が前に出た。
大崎上島の選手が二人、そちらへ寄る。
その瞬間、陽が逆へ流した。
凪は流れの端に入った。
木江の進路が、ほんの少し遅れた。
結の指が、まっすぐ伸びた。
「澪さん!」
澪が受け取る。
ゴールゾーンへ沈めた。
赤い光が、もう一度沈んだ。
スコア:大崎上島 3-三原中央 5
試合終了の笛が鳴った。
「やった!2連勝!」
結の声が、水面に跳ねた。
花が水を叩いた。一回だけ。
陽が空を見ていた。
澪が全員を見渡した。何も言わなかった。
凪は水面を見ていた。
澪の声が飛んだ。
「次の目標、変わってないぞ」
帰り道。
日差しはまだ夏だった。
でも、影の伸び方だけが少し変わっていた。
フェリーターミナルの白い光が、夕方の道に落ちている。
潮の匂いに、少しだけ乾いた風が混じっていた。
「来々軒行こ」
結が花の隣に並んだ。
「今日は勝ったのに、あんまり騒がんね」
結が花の横顔を覗き込んだ。
乾いた風が、髪を少し揺らす。
「2連勝は通過点じゃけ」
花は前を向いたまま、肩の荷物を持ち直した。
少し後ろで、陽が海を見ていた。
「次、勝つけんな」
潮風が、五人の間を抜けた。
凪は港を見ながら歩いた。
今日も、来々軒の引き戸を五人で開けた。
「いらっしゃい」
花がカウンターに座るなり、メニューも見ずに指を立てた。
「今日は普通のラーメン」
「勝ったのに?」
「通過点じゃけ」
結が少しだけ笑った。
厨房の奥で、湯気が上がっていた。




