第7話 今日、勝つ
やっさ祭りから数日が経っていた。
商店街にはまだ町内会の旗が残っていた。
撤収が追いついていないのか、それとも名残を惜しんでいるのか。
三原ではよくあることだった。
朝練。港の練習区画。造船所の金属音が遠くから届いてくる。
凪がいつもの自販機でお茶を買った。錆びかけた港側の自販機。
ボタンを押すと少しだけ時間がかかる。それも慣れた。
澪が来た。隣に立って、海を見た。
「今日、試合前最後の練習じゃ」
「常水館、強いですか」
「野球の名門じゃけん、身体能力が違う。でも」
澪が海を見た。
「お前らは、竹原第一のときより上じゃ」
凪は海を見た。朝の潮。東から西への流れ。
水温が昨日より少し下がっている気がした。夏が、終わりに近づいていた。
今日の練習テーマは、Cパターンだった。
サインなし。
水中では、誰も何も出さない。
澪がホワイトボードに大きく「C」とだけ書いた。
「サインを読まれたら、これに切り替える」
花が髪をかき上げた。
「それ、何を頼りに動くん」
「水」
「雑じゃね」
「相手。味方。潮核。流れ」
澪はマーカーを置いた。
「あと、自分の体」
陽が水面を見ていた。
「試合でも、ずっとそうしてきた」
全員が陽を見た。
「サインができる前から、水ん中では流れを見て動いとった」
澪はそれ以上、足さなかった。
「始めるぞ」
試合当日。
審判がボードを掲げる。
【本日の潮況】
時刻:10:00
方向:東→西 秒速0.45m(やや強め)
特記:湾央に流れの切れ目あり
干潮まで3時間・水位低め
花がボードに目を向けた。
「凪、流れの切れ目って何なん?」
「流れが急に抜ける場所です。そこで、潮核が止まることがあります」
対岸に常水館の五人が並んでいた。
体格が違った。肩幅。腕の太さ。鍛えた体が、水着姿でも分かった。
その中央に、エースの小早川蓮がいた。
背が高い。静かな目をしていた。海を見ていた。
能島とは違う、力を蓄えているような目だった。
凪は水面を見た。浅瀬の流れが速くなっている。水位が低い。
切れ目の手前なら、潮核が流れ込んでくるはずだった。
「澪さん」
澪が振り返る。
「切れ目の手前で待てば、潮核が流れ込んでくるはずです。向こうより先に気づければ」
澪が少し目を細めた。
「作戦、変えるぞ」
試合開始の笛が鳴った。全員が海へ入った。
序盤から、常水館が速かった。
一人ひとりの泳力が違う。潮流を読む前に、力で距離を詰めてくる。
小早川が潮核へ向かった。
水を掻く音が違った。
大きな腕が一度動くたびに、距離が削れていく。
花が追った。
陽も角度を変えた。
届かない。
三秒タッチの距離に入る前に、小早川のゼッケンがゴールゾーンの上で沈んだ。
スコア:常水館 1-三原中央 0
「速い」
結の声が、水面に小さく落ちた。
澪が踵を返した。
「切り替えるぞ」
陽の手が動いた。
Bパターン。
常水館の一人が、いつもの方向へ一歩出た。
その先に、潮核は来なかった。
花が拾う。
ゼッケンが赤く光った。
ディフェンスが来る。
花の肩が沈む。それでも足は止まらなかった。
赤い光。ブザー。
スコア:常水館 1-三原中央 1
第2ピリオドも拮抗した。
小早川が一点を押し込み、花が押し返した。
スコア:常水館 2-三原中央 2
第3ピリオド。
凪は流れの切れ目を探した。
水温。泡。流れの揺らぎ。
足の下で、水が抜けた。
切れ目の手前。
潮核が流れ込んでくる場所だった。
待った。
潮核が、ゆっくり流れてきた。
拾う。ゼッケンが光る。
小早川が来た。速い。大きい。胸の奥は静かだった。手が浅く動いた。
澪が受け取った。ゴールゾーンへ。
赤い光。ブザー。
スコア:常水館 2-三原中央 3
第4ピリオド。
常水館が変わった。
小早川が、前に出た。
さっきまでと水の割れ方が違う。
一掻きで、距離が削れる。
二人で追っても、角度が合わない。
花が追った。
凪も角度を変えた。
でも、小早川の腕が先に伸びた。
青い光が沈んだ。
スコア:常水館 3-三原中央 3
同点。
最後の潮核が、一つだけ残っていた。流れの切れ目の手前で、ゆっくり揺れている。
凪が動く。小早川も動く。また、同時だった。
そのとき、陽の手が短く動いた。
Cパターンへ切り替わった。
全員が散った。
小早川が凪を追う。凪は潮核へ向かわなかった。小早川を引きつけながら、逆方向へ泳いだ。
その隙に、花が潮核へ向かっていた。
常水館のディフェンスが花を追う。間に合わない。
水面から、結が切れ目の向こう側を激しく指差しているのが見えた。
花が深く沈めた。切れ目を越えて、流れの向こう側へ。
澪が待っていた。受け取る。ゴールゾーンへ。
赤い光が、水中枠に吸い込まれた。ブザーが鳴った。
スコア:常水館 3-三原中央 4
笛が、鳴った。
笛の後、しばらく誰も動けなかった。
「勝ったん!?ほんまに勝ったん!?」
結の声が水面に響いた。
花が水面を両手で叩いた。バシャバシャと音が鳴った。何度も。止まらなかった。
陽は空を向いたまま動かなかった。
澪が全員を見渡した。目が、笑っていた。
凪は水面に浮かんだまま、上を見た。
三谷の声が、岸から届いた。「上がれ」
いつもと同じ一言だった。
全員が、少しだけ遅く動いた。
帰り道。
夕方の港沿いを五人で歩いた。
造船所の金属音が遠くから届く。フェリーの汽笛。潮の匂い。
夏の終わりの風が、少しだけ涼しかった。
五人の足音だけが、しばらく港沿いに続いた。
澪が凪の隣に並んだ。
「入るとき、足止まらんかった」
凪は海を見た。
「気づいてた?」
「初めて会った時から、ずっと見とったけんね」
潮の匂いがした。
凪は目を逸らさなかった。
「今日は、お前の海じゃったな」
澪はそれ以上、何も足さなかった。
花が振り返った。
「来々軒、行く?」
「行く行く!」
結が身を乗り出した。
陽と澪が頷いた。全員が凪を見た。
「行きます」
少しだけ、声が軽かった。




