第78話 初めての
高架を電車が通るたび、石庭の天井から低い音が落ちてきた。
座敷の中央では、鉄板の上で肉と野菜が焼けている。イカの卵焼きに脂が染み、湯気がポン酢の匂いを押し広げていた。
「尾道に勝ったんよね」
結が言った。
花が肉を裏返す。
「三回目じゃけど」
「まだ分からんのんよ」
「何が?」
「勝ったことが」
結はスマートフォンを開いた。試合結果の画面には、何度見ても同じ数字が並んでいる。
【尾道高校 2-三原中央高校 3】
「ほら」
「分かっとるって」
花は焼けた肉を芽衣の皿へ置いた。
「花先輩の決勝点、二秒でした」
「それも何回言うん」
「花先輩が三秒ぎりぎりみたいに話すけえです」
「二秒も三秒も変わらんじゃろ」
「一秒違います」
芽衣は左手で箸を持ったまま、右肩を上げなかった。
向かいでは、渚が大盛りのご飯をもう半分まで減らしている。優奈は膝の上へノートを開こうとして、遥香に閉じられた。
「食べてからにしてください」
「忘れるかもしれません」
「来島さんのこと?」
「最後、誰を見ていたかです」
「全員じゃろ」
七海が優奈の皿へ野菜を乗せた。
「見とった本人より、食べてない優奈の方が先に倒れるよ」
「倒れませーん」
「なら食べんさい」
優奈はノートを座布団の横へ置いた。
心春が鉄板の端に残った玉ねぎを取る。陽は隣で、焦げかけたキャベツを黙って自分の皿へ移していた。
「陽、それうちの」
花が箸を伸ばす。
「焦げとる」
「焦げる前に取ろうとしとったんよ」
「もう焦げとる」
陽はそのまま食べた。
凪はポン酢の小鉢を見た。
試合が終わってから、何度も同じ数字を見た。帰りの電車でも、石庭へ入ってからも、結が画面を開くたびに尾道の名前があった。
去年は、その下に三原中央がいた。
今は、上にいる。
右足を座布団の外へ伸ばす。ふくらはぎの奥には、薄い硬さが残っていた。鉄板の熱が足元まで届いても、海の冷たさはまだ消えない。
「澪さんにも言おうや」
結がスマートフォンを伏せた。
鉄板の上で、脂が弾けた。
「尾道に勝ったん、初めてじゃん」
「結が電話すればええじゃん」
花が新しい肉を並べる。
「凪がするんよ」
「なんで私?」
「凪が言う方がええけえ」
結はそれ以上説明しなかった。
凪はスマートフォンを取り出した。連絡先を開くと、澪の名前は前と同じ場所に残っている。
発信を押した。
呼び出し音は、一度で止まった。
『なに』
「澪さん」
『うん』
「今日、尾道に勝ちました」
『知っとる』
凪の指が、スマートフォンの縁で止まった。
「知ってるんですか」
『見に行っとったけえ』
「来てたんですか」
『今、石庭におるん?』
「はい」
『じゃろうね』
入口の引き戸が開いた。
外の冷たい空気が、暖簾を内側へ揺らした。
澪が、スマートフォンを耳に当てたまま立っていた。
「そこ、詰めて」
電話からではない声が、座敷まで届いた。
凪はスマートフォンを耳から離せなかった。
入口に立つ澪の輪郭が、店の照明の下で一度滲んだ。
結の箸が、皿の縁から畳へ落ちた。
「澪さん、遅いんよ」
笑っていた声の最後が細くなる。結は落ちた箸を拾おうとして、手の甲で目の端を擦った。
花は鉄板へ顔を向けたまま、同じ肉をもう一度裏返した。
「それ、さっき返したよ」
陽が言った。
「分かっとる」
「また返した」
「分かっとるって」
花は箸を置き、手首で目の下を拭った。
陽は湯飲みを持ち上げた。飲まずに口元へ置き、目を二度閉じる。
「煙」
結が鼻をすすった。
「陽のとこ、煙行ってないじゃん」
「来た」
「どこから」
「鉄板」
渚の箸が止まっていた。
大盛りのご飯を抱えたまま、入口を見ている。澪と目が合うと、口元だけを上げ、顔を茶碗へ戻した。
遥香は一度息を吸った。
「お久しぶりです」
声は普段と変わらなかった。けれど、湯気の向こうで目元が濡れていた。
芽衣は右肩を動かさないまま、左手で自分の皿を寄せた。
「ここ、空いてます」
優奈、七海、心春が、何も言わずに座る位置をずらした。渚も大盛りのご飯を抱えて一人分横へ移る。
澪は靴を脱ぎ、空いた場所へ座った。
店主が奥から新しい皿と箸を持ってくる。
「来たんか」
「来ました」
「最初から来りゃええのに」
「試合があったけえ」
店主はそれ以上聞かず、澪の前へ皿を置いた。
花が肉を二枚乗せる。
「見に来とったんなら、終わった時に声かけてくれたらよかったじゃん」
澪は一枚を花の皿へ戻した。
「今日は、うちが入る日じゃないけえ」
花の箸が止まった。
結が澪の前へ野菜を置く。
「石庭には入るんじゃ」
「打ち上げじゃけ」
「勝手じゃね」
結が笑い、また目元を擦った。
澪は割り箸を割った。
「最後、潮核を取りに行っとらんかったね」
凪はスマートフォンを机へ置いた。
「詩織さんを、一つ外へ出したかったので」
「来島も?」
「渚が空けた場所へ動くと思いました」
「見えた」
澪は花の皿から戻ってきた肉を取った。
褒められたわけではない。けれど、凪が海の中で選んだことは、岸からも見えていた。
鉄板の音が戻った。
渚は澪の分まで取ろうとしたイカの卵焼きを、遥香に箸で止められた。
「一つくらい残してください」
「まだ焼けます」
「澪先輩の分です」
「じゃあ半分」
「一つ残してください」
陽が残っていた一つを澪の皿へ置いた。
「陽先輩が取った」
渚が言う。
「澪の」
「分かってます」
高架を電車が通った。
皿が細かく震え、湯飲みの表面に輪ができた。
凪は澪を見た。
「西条付属、前より強くなってました」
澪はイカの卵焼きを箸で切った。
「それも知っとる」
「見たんですか」
「鏡山が卒業しても、徹底的に鍛えとる」
「鏡山さんとまだ連絡を?」
「色々あってな」
「尾道も、去年と違いました」
「向こうも一年進んどるけえ」
澪はポン酢をつけた。
「三原中央だけじゃない」
凪は頷いた。
尾道には詩織が入った。来島は、自分で一つ外へ行く選手ではなく、誰かをそこへ送る選手になっていた。
西条付属も、鏡山が抜けた場所を空けたままにはしていない。
卒業しても、次の選手が入る。
澪が座っていた場所にも、今は別の形がある。
「澪さん」
結が皿を持ったまま顔を上げた。
「また見に来るん?」
「時間が合えば」
「連絡してよ」
「なんで」
「探すけえ」
「試合見んさい」
「見ながら探す」
花が結の皿へ肉を置いた。
「今度は泣かんようにね」
「花もじゃろ」
「煙」
「陽の取るんじゃないんよ」
「うちも煙」
「二人とも鉄板から遠いじゃん」
澪は肉を食べながら、座敷の七人を順に見た。
凪。
花。
結。
陽。
渚。
遥香。
芽衣。
去年まで、澪と同じ海へ入っていた七人。
今は澪だけが、鉄板の向こう側に座っている。
それでも、結が勝手に澪の皿へ野菜を足し、花が焦げた肉を押しつけ、陽が黙って別の肉と交換する。
渚がイカの卵焼きへ箸を伸ばし、遥香に止められる。芽衣は空いた皿を澪の近くへ寄せた。
優奈たちは、そのやり取りを見ながら席を詰めていた。
凪はポン酢の小鉢を置いた。
「澪さん」
「なに」
「勝ちました」
澪は箸を止めなかった。
「知っとる」




