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潮球  作者: カミツキ
3年目の海

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76/93

第76話 海を、見ない

尾道水道を渡船が横切った。


 船尾から広がった波が浮標を持ち上げ、向島側の岸へ当たる。遅れて戻った水が表面を東へ押し、その下では元の潮が西へ流れ続けていた。


 凪は岸壁に腰を下ろし、右足だけを海へ入れた。


 冷たい水に触れると、温泉で緩んでいたふくらはぎが硬くなった。足首を伸ばし、水を二度蹴る。張りは残っているが、竹原第一戦の最後に走った痛みはない。


「出られますか」

「出られます」

「途中で変わったら、結さんへ伝えてください」

「うん」


 遥香は凪の返事を記録し、潮況ボードへ戻った。


【東→西 秒速0.7m】

【渡船通過後、向島側から返し】

【水道内 複合流】


 表面の返しと、その下に残る流れ。その境目で泡が一度沈み、底へ落ちきる前に横へ倒れていた。

 凪は目で追った。去年も、同じ場所に何かがあった。


 輪郭が掴めないまま、来島だけが使っていた層。


 対岸では、尾道高校が準備を進めていた。


 潮況を写す選手。浮標の間隔を確かめる選手。ドライスーツの発光判定を点検する選手。指示を待つ者はいない。それぞれが作業を終えると、ホワイトボードに書かれた自分の印だけを確認していく。


 最後の潮核を審判へ渡した一年生が、三原中央の方へ歩いてきた。


「三原中央じゃろ?」


 花が顔を上げた。


「見たら分かるじゃろ」

「そりゃそうじゃね。うち、天満詩織。尾道の一年」

 天満詩織は笑ったまま、凪へ目を向けた。

「あなたが石塚凪先輩?」

「そうです」

「ほんまに海ばっかり見よるんじゃね。理緒先輩から聞いとった通りじゃ」

 尾道の列から、来島がこちらを見た。

「聞かれたから答えただけ」

「教えてくれたんじゃったら同じじゃろ」

 詩織は来島へ手を振った。

「今日はよろしくね。うち、速いけえ気ぃつけて」

「自分で言うんじゃ」

「言わんかったら分からんじゃん」

「詩織。確認」

 来島が呼ぶと、詩織はすぐに踵を返した。

「今行くけえ」


 尾道のホワイトボードには、選手名ではなく複数の線と印が並んでいた。来島が外側の印へ指を置くと、詩織はその一つ内側を指す。


 来島が首を横へ振った。

 詩織は外側へ指を戻した。


「こっちじゃね」

「返しが来たら待って」

「半歩?」

「一つ」


 近くにいた上級生が、詩織の内側へ自分の印を移した。

 来島と詩織だけの確認ではない。詩織が外へ出れば、その場所を誰が埋めるのかまで決まっていた。


 三原中央の先発は、凪、花、芽衣、渚、結。

 結が水面へ残る。

 岸では優奈が膝の上にノートを開いた。


「来島さんを見てください」


 遥香の指示に、優奈が頷く。


「来島さんだけでいいですか」

「まずは来島さんだけで」

「分かりました」


 * * *


 開始の笛が鳴った。


 第1ピリオド。


 四つの潮核が区画へ入る。


 凪、花、芽衣、渚が潜り、結だけが水面へ残った。尾道は中央の潮核へ二人、向島側へ一人を送り、残る二人は別々の出口を塞いだ。


 中央の潮核を尾道が拾う。持球者の胸と手足に青い発光ラインがつき、西へ流れる層へ乗った。


 花が右足へ触れる。芽衣は内側へ入り、渚が向島側の受け手との間に体を置いた。持球者へ近づく三原中央の三人に対し、尾道は誰も助けへ寄せない。


 詩織だけが外へ出た。


 その直後、渡船の引き波が区画へ届いた。東へ戻る表面の水が詩織の胸を押し、西へ残る下の潮が両足を引く。上半身だけが遅れ、予定していた場所より半歩内側へずれた。


 尾道の上級生が、詩織の空けた場所へ入った。反対側にいた一人も中央へ寄り、ずれた詩織を戻さないまま二つの出口を作る。


 花の接触が二秒を越えた。


 持球者は内側へ潮核を流す。青い発光ラインが消え、受け取った上級生の胸と手足へ同じ色がついた。


 芽衣の左手が伸びる。返しに押された右肩が遅れ、指先は発光ラインの端を外れた。


 詩織はずれた場所から外へ走り続けている。潮核は来ない。それでも渚が進路を消すために一歩使った。


 中央が空いた。


 尾道の上級生が潮核を抱えたまま、ゴールゾーンへ沈んだ。


 スコア:尾道高校 1-三原中央高校 0


 一つの得点が入っても、残る三つの潮核は止まらない。


 凪は浮上せず、岸壁側へ流れた潮核へ向かった。花は中央へ戻り、芽衣は別の持球者の内側を消す。渚も詩織から離れ、向島側の潮核へ潜った。


 呼吸が必要になれば、一度だけ水面へ出る。空気を入れたら、次の潮核へ戻る。

 凪は岸壁から返った水の下へ入った。


 表面は東。下は西。


 その間を潮核が横切る。


 次に出る場所は見えていた。


 凪は出口へ先に体を置いた。前より水の境目が細く見える。今の流れなら、尾道の持球者が潮核を離したあと、凪の右手の高さへ来る。


 来島は潮核を見ていなかった。


 凪の右手を見ている。


 持球者の青い発光ラインが消えた。


 凪が手を開く。


 来島の左手が下がった。


 詩織が動く。


 凪の待つ出口ではない。

 その一つ外側。


 前と同じだった。


 違うのは、そこへ入った小柄な選手が来島ではないことだけだった。


 潮核は、凪が読んだ場所へ来た。


 海は外していない。


 凪の右手が、詩織へ出口を教えていた。


 開けば、読まれる。

 閉じれば、取れない。


 足元の流れは見えているのに、自分の手だけが邪魔だった。


 凪の指は閉じたまま動かなかった。


 その一拍で、尾道の上級生が潮核の下へ手を入れる。胸と手足に青い発光ラインがついた。


 花が正面から距離を詰め、芽衣がゴールゾーンとの間へ入った。持球者は無理に進まず、深い層へ潮核を落とす。


 凪が追う。


 詩織も一つ外側から沈んだ。


 潮核が二人の間を抜ける前に、来島の手が触れた。青い発光ラインが一瞬だけつき、すぐ消える。軌道を向島側へ変えただけだった。


 詩織が受け取る。


 花の手が詩織の右足へ届いた。一秒。芽衣も内側へ来る。


 詩織は二秒になる前に潮核を離した。中央へ戻された潮核へ尾道の上級生が手を伸ばす。


 渚がその間へ入った。


 潮核の端へ触れ、外へ押す。赤い発光ラインが一瞬つき、消えた。


 ゴールゾーンから離れた潮核を、尾道は追わなかった。残る別の潮核へ配置を移し、基本の形へ戻っていく。


 次の潮核でも、凪には出口が見えた。

 右手は、すぐには開かなかった。


 尾道の選手が先に触れた。青い発光ラインが深い層へ沈み、花がその足へ向かう。

 見えているだけでは、先に取れない。


 第1ピリオド終了のブザーが鳴った。


 スコア:尾道高校 1-三原中央高校 0


 岸へ戻ると、花がゴーグルを額へ上げた。


「一年、早いね」

「早いです。でも、最初はずれてました」


 芽衣が右肩を左手で押さえる。


「ずれても戻さんかった」

「戻さなくても、ほかの人が埋めています」


 遥香はホワイトボードに、詩織が外へ出たあとの配置を書いた。


「詩織さんの位置が合わなくても、その一歩を囮に変えています。来島さんを止めても、持球者が別の出口を選べます」

「新しい形が失敗しても、いつもの形へ戻れるんじゃね」


 結が向かい側を見た。


 詩織は両手を使って、引き波に押された動きを再現していた。


「うち、早かった?」

「半歩」

「半歩なら、次は待てるけえ」

「待ちすぎないで」

「それ、一番むずいやつじゃん」


 詩織が笑っても、尾道の上級生たちは次の配置確認を止めなかった。来島も別の選手へ短く指を出し、詩織の内側を一つずらしている。


 優奈はノートへ一行だけ書いていた。


【凪先輩 右手】


「来島さんは何を見ていましたか」

「凪先輩が潮核を受ける場所を決めたあと、右手を見ていました」

「流れは?」

「見ていると思います。でも、詩織さんが動いたのは凪先輩の手が開いてからです」


 凪は自分の右手を見た。


「一つ外に、またいた」


 渚が顔を向ける。


「去年と同じですか」

「同じ。でも、来島さんは動かなかった」


 凪は潮況ボードの下へ、細い線を一本加えた。表面の返しと、西へ残る層。その間。


「ここに、薄い流れがある。前は読めなかった」

「今は?」

「出る場所までは分かる。でも、中がまだ見えない」


 渚は線を見た。


「足なら、入れそうです」

「押し返されるかもしれない」

「前も押し返されました」


 渚はゴーグルを下ろした。


「今度は、止まらないです」


 第2ピリオド。


 新しい四つの潮核が区画へ入った。


 尾道は最初から一つへ集まらない。中央、向島側、岸壁側へ人を散らし、来島はどの潮核にも手を伸ばさず、三原中央の配置を見ていた。


 凪は中央へ沈む潮核を追った。


 渡船の返しが表面を東へ滑る。下の流れは西。その間で泡が一度沈み、横へ倒れた。


 去年、読めないまま終わった層。


 潮核が、その中へ落ちる。


 結の腕はまだ動いていない。


 渚が先に潜った。


 表面の返しへ入らず、西へ流れる下の層にも沈まない。二つの水が噛み合わない細い間へ、右足から体を入れる。


 水が腰を横へ押した。渚の左足が一度外れ、体が深い側へ傾く。両腕で水を押し返しても、胸だけが薄い層へ残り、膝から下は西へ持っていかれた。


 それでも止まらない。


 去年、渚は次なら入れると言った。


 今度は、押し返されなかった。


 潮核が渚の手の高さへ来る。


 両手で抱えようとした瞬間、境目の水が肘の間へ入った。潮核が胸元から半分ずれ、右の前腕へ当たる。


 渚は落とさない。左腕で抱え直し、胸と手足に赤い発光ラインがついた。


 来島の反応が半拍遅れた。


 凪は渚が入った瞬間に、薄い層の出口へ動いていた。渚が潮核を深く流すと、赤い発光ラインが消える。


 潮核は予定より低く沈んだ。


 凪の右手が空を切る。


 右のふくらはぎが一蹴り分、遅れた。左手を伸ばし直した時には、潮核は指先より半歩先へ落ちている。


 掴めない。


 下から押す。


 凪の胸と手足に赤い発光ラインが一瞬だけつき、潮核が花の胸元へ浮いた。


 花はきれいに受け取れなかった。左の前腕と胸で挟み、こぼれかけた潮核へ右手を添える。赤い発光ラインがついた直後、尾道の手が左足へ触れた。


 一秒。


 浅い返しが花の肩を押し、胸元の潮核が右脇へずれる。抱え直せば、二秒を越える。


 花は持ち直さなかった。


 潮核を薄い層へ押し出す。


 赤い発光ラインが消えた。


 返しが潮核を浮かせ、下の潮が底を西へ引く。狙った高さを保てないまま、回りながら渚の方へ流れた。


 渚は細い層へもう一度入った。


 水の壁が胸へ当たる。一蹴りでは届かない。右足が下の潮へ引かれ、肩だけが潮核の高さへ上がった。


 両腕で押す。


 もう一度、蹴る。


 指先に硬い感触が入った。


 掴む。


 胸と手足に赤い発光ラインがつく。


 詩織が一つ外側から近づく。正面には尾道の上級生。渚の腰は薄い層に押され、ゴールゾーンの中心から外れかけていた。


 左足へ手が触れる。


 一秒。


 渚は潮核を抱えたまま下の潮へ片足を入れた。膝が西へ引かれ、上半身が遅れて沈む。


 正面の選手の手が伸びる。


 渚は両足を縮めた。


 水を蹴る。


 赤い発光ラインが、ゴールゾーンへ沈んだ。


 得点ブザーが鳴った。


 スコア:尾道高校 1-三原中央高校 1


 渚が水面へ出た。


 口を開き、空気を一度だけ入れる。


 凪も離れた場所で顔を上げた。互いを見ない。結の手が示した残りの潮核へ、すぐに沈んだ。


 まだ三つある。


 尾道も得点を振り返らない。


 向島側では、詩織がすでに別の潮核を追っていた。来島はその後ろへつかず、渚が薄い層へ入るまで動かなかった。


 渚の足が再び細い境目へ入る。


 来島は渚を見ない。


 渚がいた場所を見る。


 外側が空いた。


 来島の左手が下がる。


 詩織がそこへ出た。


 尾道の持球者は、渚が向かった潮核を使わない。別の潮核を浅く流し、詩織へ渡した。


 胸と手足に青い発光ラインがつく。


 結が水面から外側を示す。芽衣が詩織の内側へ入り、花が正面から足へ触れた。


 一秒。


 詩織は速度を落とさない。花を引いたまま浅い返しへ乗り、上半身を東へ押されながら、下半身だけをゴールゾーンへ向ける。


 二秒。


 芽衣の左手が内側から届く。


 詩織は潮核を離した。


 来島へは渡さない。詩織が空けた中央には、尾道の上級生が入っている。


 青い発光ラインが消え、中央の選手へついた。


 凪は薄い層から戻ろうとした。深い側へ入った右足が、表面の返しに上半身だけを持っていかれる。体が開き、中央まで一蹴り足りない。


 尾道の持球者がゴールゾーンへ近づく。


 芽衣は詩織から離れ切れない。花も二秒分、外へ引かれている。


 結の手が内側へ振られた。


 凪より先に、花が反転した。右足で水を押し、持球者の発光ラインへ指を伸ばす。


 触れる。


 一秒。


 持球者は深い層へ逃げず、花を引いたまま横へ流れた。


 二秒。


 凪が中央へ戻る。


 三秒。


 青い発光ラインが消えた。


 落ちた潮核へ芽衣の左手が届く。赤い発光ラインがついた瞬間、尾道の別の選手がゴールゾーンとの間へ体を置いた。


 芽衣は無理に運ばず、潮核を区画の外へ流した。


 赤い発光ラインが消える。


 同点のまま、残る潮核へ両校が散った。


 次の攻防では、凪が深い出口へ先に入った。


 来島は凪を見ず、水面の結へ顔を向ける。


 結の右腕が岸壁側を示した。


 花が顔を向けるより先に、尾道の二人が広がった。


 結の腕が、水面の途中で止まる。


 遅れて花が動いた。


 尾道の持球者は花が塞ごうとした場所へ出さず、中央へ短く戻す。来島は潮核へ触れない。空いた出口だけを詩織へ示した。


 凪が中央へ寄る前に、詩織が外側を取る。


 結は止めた腕を下ろさなかった。指先だけを中央へ返し、芽衣へ位置を示す。


 芽衣が一歩残る。


 詩織への線は消えた。


 尾道は無理に通さず、別の潮核へ移った。


 次の潮核で、結は腕を上げなかった。


 水面を二度叩く。


 凪が中央へ残る。


 来島はもう結を見ていない。


 花が持球者へ左肩を入れた瞬間、来島の指が動いた。詩織が花の背後へ出て、上級生が芽衣への線を塞ぐ。


 花は二秒で潮核を離した。


 潮核は芽衣へ届く前に、返しに押されて浮く。


 詩織が手のひらで軌道を変えた。青い発光ラインが一瞬つき、消える。


 尾道の上級生が受け取った。


 凪がゴールゾーンとの間へ入り、渚が外を消す。芽衣の左手も発光ラインへ届く。


 尾道は得点を狙わず、潮核を深い層へ落とした。


 残り時間を使い、三原中央の配置が崩れるまで待つ。


 新しい連携が止められても、基本の形へ戻る。来島が潮核に触らなくても、持球者が出口を選ぶ。詩織が使われなくても、最後まで外を走り切る。


 尾道の攻撃は止まった。


 崩れてはいない。


 第2ピリオド終了のブザーが鳴った。


 スコア:尾道高校 1-三原中央高校 1


 岸へ戻ると、優奈はノートを開いたまま待っていた。


【凪先輩 右手】

【結先輩 腕】

【花先輩 左肩】


「来島さんの癖、見えた?」


 七海が横からのぞき込む。


「見えました」

「どれ?」

「次には使えません」


 優奈は三行を順に指した。


「同じ人を、二回見てません」


 遥香が尾道のベンチへ目を向ける。


「渚さんが薄い層へ入った時は?」

「動く前は見てませんでした」


 優奈の鉛筆が、渚の名前ではなく、その外側へ丸をつけた。


「来島さんが見たのは、動いたあとです」


 丸の中には、渚が残してきた空白があった。


「空いた方を見ています」

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