第76話 海を、見ない
尾道水道を渡船が横切った。
船尾から広がった波が浮標を持ち上げ、向島側の岸へ当たる。遅れて戻った水が表面を東へ押し、その下では元の潮が西へ流れ続けていた。
凪は岸壁に腰を下ろし、右足だけを海へ入れた。
冷たい水に触れると、温泉で緩んでいたふくらはぎが硬くなった。足首を伸ばし、水を二度蹴る。張りは残っているが、竹原第一戦の最後に走った痛みはない。
「出られますか」
「出られます」
「途中で変わったら、結さんへ伝えてください」
「うん」
遥香は凪の返事を記録し、潮況ボードへ戻った。
【東→西 秒速0.7m】
【渡船通過後、向島側から返し】
【水道内 複合流】
表面の返しと、その下に残る流れ。その境目で泡が一度沈み、底へ落ちきる前に横へ倒れていた。
凪は目で追った。去年も、同じ場所に何かがあった。
輪郭が掴めないまま、来島だけが使っていた層。
対岸では、尾道高校が準備を進めていた。
潮況を写す選手。浮標の間隔を確かめる選手。ドライスーツの発光判定を点検する選手。指示を待つ者はいない。それぞれが作業を終えると、ホワイトボードに書かれた自分の印だけを確認していく。
最後の潮核を審判へ渡した一年生が、三原中央の方へ歩いてきた。
「三原中央じゃろ?」
花が顔を上げた。
「見たら分かるじゃろ」
「そりゃそうじゃね。うち、天満詩織。尾道の一年」
天満詩織は笑ったまま、凪へ目を向けた。
「あなたが石塚凪先輩?」
「そうです」
「ほんまに海ばっかり見よるんじゃね。理緒先輩から聞いとった通りじゃ」
尾道の列から、来島がこちらを見た。
「聞かれたから答えただけ」
「教えてくれたんじゃったら同じじゃろ」
詩織は来島へ手を振った。
「今日はよろしくね。うち、速いけえ気ぃつけて」
「自分で言うんじゃ」
「言わんかったら分からんじゃん」
「詩織。確認」
来島が呼ぶと、詩織はすぐに踵を返した。
「今行くけえ」
尾道のホワイトボードには、選手名ではなく複数の線と印が並んでいた。来島が外側の印へ指を置くと、詩織はその一つ内側を指す。
来島が首を横へ振った。
詩織は外側へ指を戻した。
「こっちじゃね」
「返しが来たら待って」
「半歩?」
「一つ」
近くにいた上級生が、詩織の内側へ自分の印を移した。
来島と詩織だけの確認ではない。詩織が外へ出れば、その場所を誰が埋めるのかまで決まっていた。
三原中央の先発は、凪、花、芽衣、渚、結。
結が水面へ残る。
岸では優奈が膝の上にノートを開いた。
「来島さんを見てください」
遥香の指示に、優奈が頷く。
「来島さんだけでいいですか」
「まずは来島さんだけで」
「分かりました」
* * *
開始の笛が鳴った。
第1ピリオド。
四つの潮核が区画へ入る。
凪、花、芽衣、渚が潜り、結だけが水面へ残った。尾道は中央の潮核へ二人、向島側へ一人を送り、残る二人は別々の出口を塞いだ。
中央の潮核を尾道が拾う。持球者の胸と手足に青い発光ラインがつき、西へ流れる層へ乗った。
花が右足へ触れる。芽衣は内側へ入り、渚が向島側の受け手との間に体を置いた。持球者へ近づく三原中央の三人に対し、尾道は誰も助けへ寄せない。
詩織だけが外へ出た。
その直後、渡船の引き波が区画へ届いた。東へ戻る表面の水が詩織の胸を押し、西へ残る下の潮が両足を引く。上半身だけが遅れ、予定していた場所より半歩内側へずれた。
尾道の上級生が、詩織の空けた場所へ入った。反対側にいた一人も中央へ寄り、ずれた詩織を戻さないまま二つの出口を作る。
花の接触が二秒を越えた。
持球者は内側へ潮核を流す。青い発光ラインが消え、受け取った上級生の胸と手足へ同じ色がついた。
芽衣の左手が伸びる。返しに押された右肩が遅れ、指先は発光ラインの端を外れた。
詩織はずれた場所から外へ走り続けている。潮核は来ない。それでも渚が進路を消すために一歩使った。
中央が空いた。
尾道の上級生が潮核を抱えたまま、ゴールゾーンへ沈んだ。
スコア:尾道高校 1-三原中央高校 0
一つの得点が入っても、残る三つの潮核は止まらない。
凪は浮上せず、岸壁側へ流れた潮核へ向かった。花は中央へ戻り、芽衣は別の持球者の内側を消す。渚も詩織から離れ、向島側の潮核へ潜った。
呼吸が必要になれば、一度だけ水面へ出る。空気を入れたら、次の潮核へ戻る。
凪は岸壁から返った水の下へ入った。
表面は東。下は西。
その間を潮核が横切る。
次に出る場所は見えていた。
凪は出口へ先に体を置いた。前より水の境目が細く見える。今の流れなら、尾道の持球者が潮核を離したあと、凪の右手の高さへ来る。
来島は潮核を見ていなかった。
凪の右手を見ている。
持球者の青い発光ラインが消えた。
凪が手を開く。
来島の左手が下がった。
詩織が動く。
凪の待つ出口ではない。
その一つ外側。
前と同じだった。
違うのは、そこへ入った小柄な選手が来島ではないことだけだった。
潮核は、凪が読んだ場所へ来た。
海は外していない。
凪の右手が、詩織へ出口を教えていた。
開けば、読まれる。
閉じれば、取れない。
足元の流れは見えているのに、自分の手だけが邪魔だった。
凪の指は閉じたまま動かなかった。
その一拍で、尾道の上級生が潮核の下へ手を入れる。胸と手足に青い発光ラインがついた。
花が正面から距離を詰め、芽衣がゴールゾーンとの間へ入った。持球者は無理に進まず、深い層へ潮核を落とす。
凪が追う。
詩織も一つ外側から沈んだ。
潮核が二人の間を抜ける前に、来島の手が触れた。青い発光ラインが一瞬だけつき、すぐ消える。軌道を向島側へ変えただけだった。
詩織が受け取る。
花の手が詩織の右足へ届いた。一秒。芽衣も内側へ来る。
詩織は二秒になる前に潮核を離した。中央へ戻された潮核へ尾道の上級生が手を伸ばす。
渚がその間へ入った。
潮核の端へ触れ、外へ押す。赤い発光ラインが一瞬つき、消えた。
ゴールゾーンから離れた潮核を、尾道は追わなかった。残る別の潮核へ配置を移し、基本の形へ戻っていく。
次の潮核でも、凪には出口が見えた。
右手は、すぐには開かなかった。
尾道の選手が先に触れた。青い発光ラインが深い層へ沈み、花がその足へ向かう。
見えているだけでは、先に取れない。
第1ピリオド終了のブザーが鳴った。
スコア:尾道高校 1-三原中央高校 0
岸へ戻ると、花がゴーグルを額へ上げた。
「一年、早いね」
「早いです。でも、最初はずれてました」
芽衣が右肩を左手で押さえる。
「ずれても戻さんかった」
「戻さなくても、ほかの人が埋めています」
遥香はホワイトボードに、詩織が外へ出たあとの配置を書いた。
「詩織さんの位置が合わなくても、その一歩を囮に変えています。来島さんを止めても、持球者が別の出口を選べます」
「新しい形が失敗しても、いつもの形へ戻れるんじゃね」
結が向かい側を見た。
詩織は両手を使って、引き波に押された動きを再現していた。
「うち、早かった?」
「半歩」
「半歩なら、次は待てるけえ」
「待ちすぎないで」
「それ、一番むずいやつじゃん」
詩織が笑っても、尾道の上級生たちは次の配置確認を止めなかった。来島も別の選手へ短く指を出し、詩織の内側を一つずらしている。
優奈はノートへ一行だけ書いていた。
【凪先輩 右手】
「来島さんは何を見ていましたか」
「凪先輩が潮核を受ける場所を決めたあと、右手を見ていました」
「流れは?」
「見ていると思います。でも、詩織さんが動いたのは凪先輩の手が開いてからです」
凪は自分の右手を見た。
「一つ外に、またいた」
渚が顔を向ける。
「去年と同じですか」
「同じ。でも、来島さんは動かなかった」
凪は潮況ボードの下へ、細い線を一本加えた。表面の返しと、西へ残る層。その間。
「ここに、薄い流れがある。前は読めなかった」
「今は?」
「出る場所までは分かる。でも、中がまだ見えない」
渚は線を見た。
「足なら、入れそうです」
「押し返されるかもしれない」
「前も押し返されました」
渚はゴーグルを下ろした。
「今度は、止まらないです」
第2ピリオド。
新しい四つの潮核が区画へ入った。
尾道は最初から一つへ集まらない。中央、向島側、岸壁側へ人を散らし、来島はどの潮核にも手を伸ばさず、三原中央の配置を見ていた。
凪は中央へ沈む潮核を追った。
渡船の返しが表面を東へ滑る。下の流れは西。その間で泡が一度沈み、横へ倒れた。
去年、読めないまま終わった層。
潮核が、その中へ落ちる。
結の腕はまだ動いていない。
渚が先に潜った。
表面の返しへ入らず、西へ流れる下の層にも沈まない。二つの水が噛み合わない細い間へ、右足から体を入れる。
水が腰を横へ押した。渚の左足が一度外れ、体が深い側へ傾く。両腕で水を押し返しても、胸だけが薄い層へ残り、膝から下は西へ持っていかれた。
それでも止まらない。
去年、渚は次なら入れると言った。
今度は、押し返されなかった。
潮核が渚の手の高さへ来る。
両手で抱えようとした瞬間、境目の水が肘の間へ入った。潮核が胸元から半分ずれ、右の前腕へ当たる。
渚は落とさない。左腕で抱え直し、胸と手足に赤い発光ラインがついた。
来島の反応が半拍遅れた。
凪は渚が入った瞬間に、薄い層の出口へ動いていた。渚が潮核を深く流すと、赤い発光ラインが消える。
潮核は予定より低く沈んだ。
凪の右手が空を切る。
右のふくらはぎが一蹴り分、遅れた。左手を伸ばし直した時には、潮核は指先より半歩先へ落ちている。
掴めない。
下から押す。
凪の胸と手足に赤い発光ラインが一瞬だけつき、潮核が花の胸元へ浮いた。
花はきれいに受け取れなかった。左の前腕と胸で挟み、こぼれかけた潮核へ右手を添える。赤い発光ラインがついた直後、尾道の手が左足へ触れた。
一秒。
浅い返しが花の肩を押し、胸元の潮核が右脇へずれる。抱え直せば、二秒を越える。
花は持ち直さなかった。
潮核を薄い層へ押し出す。
赤い発光ラインが消えた。
返しが潮核を浮かせ、下の潮が底を西へ引く。狙った高さを保てないまま、回りながら渚の方へ流れた。
渚は細い層へもう一度入った。
水の壁が胸へ当たる。一蹴りでは届かない。右足が下の潮へ引かれ、肩だけが潮核の高さへ上がった。
両腕で押す。
もう一度、蹴る。
指先に硬い感触が入った。
掴む。
胸と手足に赤い発光ラインがつく。
詩織が一つ外側から近づく。正面には尾道の上級生。渚の腰は薄い層に押され、ゴールゾーンの中心から外れかけていた。
左足へ手が触れる。
一秒。
渚は潮核を抱えたまま下の潮へ片足を入れた。膝が西へ引かれ、上半身が遅れて沈む。
正面の選手の手が伸びる。
渚は両足を縮めた。
水を蹴る。
赤い発光ラインが、ゴールゾーンへ沈んだ。
得点ブザーが鳴った。
スコア:尾道高校 1-三原中央高校 1
渚が水面へ出た。
口を開き、空気を一度だけ入れる。
凪も離れた場所で顔を上げた。互いを見ない。結の手が示した残りの潮核へ、すぐに沈んだ。
まだ三つある。
尾道も得点を振り返らない。
向島側では、詩織がすでに別の潮核を追っていた。来島はその後ろへつかず、渚が薄い層へ入るまで動かなかった。
渚の足が再び細い境目へ入る。
来島は渚を見ない。
渚がいた場所を見る。
外側が空いた。
来島の左手が下がる。
詩織がそこへ出た。
尾道の持球者は、渚が向かった潮核を使わない。別の潮核を浅く流し、詩織へ渡した。
胸と手足に青い発光ラインがつく。
結が水面から外側を示す。芽衣が詩織の内側へ入り、花が正面から足へ触れた。
一秒。
詩織は速度を落とさない。花を引いたまま浅い返しへ乗り、上半身を東へ押されながら、下半身だけをゴールゾーンへ向ける。
二秒。
芽衣の左手が内側から届く。
詩織は潮核を離した。
来島へは渡さない。詩織が空けた中央には、尾道の上級生が入っている。
青い発光ラインが消え、中央の選手へついた。
凪は薄い層から戻ろうとした。深い側へ入った右足が、表面の返しに上半身だけを持っていかれる。体が開き、中央まで一蹴り足りない。
尾道の持球者がゴールゾーンへ近づく。
芽衣は詩織から離れ切れない。花も二秒分、外へ引かれている。
結の手が内側へ振られた。
凪より先に、花が反転した。右足で水を押し、持球者の発光ラインへ指を伸ばす。
触れる。
一秒。
持球者は深い層へ逃げず、花を引いたまま横へ流れた。
二秒。
凪が中央へ戻る。
三秒。
青い発光ラインが消えた。
落ちた潮核へ芽衣の左手が届く。赤い発光ラインがついた瞬間、尾道の別の選手がゴールゾーンとの間へ体を置いた。
芽衣は無理に運ばず、潮核を区画の外へ流した。
赤い発光ラインが消える。
同点のまま、残る潮核へ両校が散った。
次の攻防では、凪が深い出口へ先に入った。
来島は凪を見ず、水面の結へ顔を向ける。
結の右腕が岸壁側を示した。
花が顔を向けるより先に、尾道の二人が広がった。
結の腕が、水面の途中で止まる。
遅れて花が動いた。
尾道の持球者は花が塞ごうとした場所へ出さず、中央へ短く戻す。来島は潮核へ触れない。空いた出口だけを詩織へ示した。
凪が中央へ寄る前に、詩織が外側を取る。
結は止めた腕を下ろさなかった。指先だけを中央へ返し、芽衣へ位置を示す。
芽衣が一歩残る。
詩織への線は消えた。
尾道は無理に通さず、別の潮核へ移った。
次の潮核で、結は腕を上げなかった。
水面を二度叩く。
凪が中央へ残る。
来島はもう結を見ていない。
花が持球者へ左肩を入れた瞬間、来島の指が動いた。詩織が花の背後へ出て、上級生が芽衣への線を塞ぐ。
花は二秒で潮核を離した。
潮核は芽衣へ届く前に、返しに押されて浮く。
詩織が手のひらで軌道を変えた。青い発光ラインが一瞬つき、消える。
尾道の上級生が受け取った。
凪がゴールゾーンとの間へ入り、渚が外を消す。芽衣の左手も発光ラインへ届く。
尾道は得点を狙わず、潮核を深い層へ落とした。
残り時間を使い、三原中央の配置が崩れるまで待つ。
新しい連携が止められても、基本の形へ戻る。来島が潮核に触らなくても、持球者が出口を選ぶ。詩織が使われなくても、最後まで外を走り切る。
尾道の攻撃は止まった。
崩れてはいない。
第2ピリオド終了のブザーが鳴った。
スコア:尾道高校 1-三原中央高校 1
岸へ戻ると、優奈はノートを開いたまま待っていた。
【凪先輩 右手】
【結先輩 腕】
【花先輩 左肩】
「来島さんの癖、見えた?」
七海が横からのぞき込む。
「見えました」
「どれ?」
「次には使えません」
優奈は三行を順に指した。
「同じ人を、二回見てません」
遥香が尾道のベンチへ目を向ける。
「渚さんが薄い層へ入った時は?」
「動く前は見てませんでした」
優奈の鉛筆が、渚の名前ではなく、その外側へ丸をつけた。
「来島さんが見たのは、動いたあとです」
丸の中には、渚が残してきた空白があった。
「空いた方を見ています」




