第76話 変わる、水道
電車の車窓から見えていた海は、尾道へ近づくにつれて線路のすぐ脇まで寄ってきた。朝の光を返す水面の向こうに島影が重なり、電車が斜面沿いを曲がるたび、家並みの間から細い水道が見えては消える。
凪の向かいでは七海が窓へ身体を寄せ、その隣で優奈も流れていく海を追っていた。心春は通路を挟んだ芽衣の方へ一度顔を向けたが、芽衣も渚も窓の外を見たまま動かない。
「先輩ら、静かじゃない?」
七海の声に、結が座席の背から顔を出した。
「着いたら分かるよ」
「何が?」
「海」
「それ答えになっとらんじゃん」
尾道駅で降り、改札を抜けると、駅前の向こうに水道が横へ開けた。
すぐ対岸には向島の家並みが続き、本州との狭い間を渡船が横切っている。船尾から伸びた白い航跡はまっすぐ残らず、東から西へ動く水面の途中で形を崩し、向島側へ寄った一筋だけが押し戻されるように曲がっていた。
駅前の道路の向こうまで水面が迫ると、七海の歩幅が緩んだ。
「駅からこんな近かったんじゃ」
「七海、尾道来たことないん?」
「あるけど、車だったけこの辺あんまり見たことないんよ」
そう返したあとも、七海は道路の向こうまで迫る水道を眺めていた。その横で優奈は渡船ではなく、曲がっていく白い筋を追っている。
凪にも、その下を通る水が見え始めていた。水面は西へ動いているのに、渡船の航跡が薄くなる辺りでは向島側から別の筋が入り、二つの境目に細かな泡が残っている。
以前なら、それぞれが別々に動いているようにしか見えなかった。
「ほんまに海ばっかり見よるんじゃね。理緒先輩から聞いとった通りじゃ」
近くから声がして、凪は水道から顔を上げた。
尾道のジャージを着た女子が、数歩先に立っていた。尾道の列から、来島がこちらを見る。
「聞かれたから答えただけ」
「教えてくれたんじゃったら同じじゃろ」
女子は来島へ手を振ると、そのまま凪へ向き直った。
「天満詩織。今日はよろしくね。うち、速いけえ気ぃつけて」
「よろしく」
凪が返すと、詩織はそれだけ言って尾道の方へ戻っていった。来島の隣へ並んでもまだ何か話しているが、来島は短く返しただけで水道へ視線を戻している。
渡船の航跡が薄くなる先では、向島側から返った水が西向きの流れへ噛み合い、白い筋の端を崩していた。
* * *
競技区画の脇から海へ入ると、岸から見ていた複雑さがそのまま身体へ来た。
優奈は腰まで進んだところで足を止めた。右脚には西へ押す水が当たっているのに、身体を立て直そうと左足を置くと、今度は向島側から来た水が腰へ回り込み、上半身だけ別の方向へ向いた。
「何この海。酔いそう」
七海はその横を抜けようとして二歩進み、三歩目で腰を横へ流されると、両腕で水を押して身体を戻した。
「進みたい方と違う方行くじゃん」
「下も違うよ」
優奈が足元を見たまま返す。
その前を渚が通り、向島側から来た水に腰を押されても、蹴り直さず身体を斜めにして抜けていった。芽衣も流れの境目で一度脚を畳み、押された分だけ位置を変えてから次の水を掻く。
心春は二人について行きかけたところで、自分の足元へ視線を落とした。
「去年もこんなんじゃった?」
「同じじゃないよ」
芽衣が身体を返しながら答えた。
「渡船通ったらまた変わるし」
七海がちょうど水道を横切っている船へ顔を向ける。
「まだ変わるん?」
渚が笑った。
「変わるよ」
「楽しそうに言わんでください」
水慣れを終えて岸へ戻るころ、審判が潮況ボードを掲げた。
【本日の潮況】
時刻:13:00
方向:東→西 秒速0.7m
特記:渡船通過後、向島側から返し
水道内に複合流あり
遥香はボードと水面を順に確認してから、最初の五人を呼んだ。
「凪さん、結さん、芽衣ちゃん、渚さん、七海さんでいきます」
花と陽、心春が岸側へ下がり、優奈もゴーグルを額へ上げたまま残る。
「優奈さんは、来島さんをお願いします」
「来島さんだけでいい?」
「はい」
優奈はそれだけ聞くと、尾道側へ顔を向けた。
来島は五人の中にいた。詩織はまだ岸に残っている。
開始位置へ向かう途中、凪はもう一度足元の水を確かめた。表面は西へ動いている。下へ脚を伸ばすと、その途中に圧の弱い層があり、さらに向島側へ寄れば返しが混ざる。
四つの潮核が競技水域へ流され、試合開始の笛が鳴ると、凪は中央より向島側へ流れた一つへ身体を向けた。七海がさらに外から同じ潮核へ入り、尾道の選手より先に腕の間へ収めると、胸と手足に赤い発光ラインが走る。
その先で来島は七海へ寄らず、水面近くを西へ進んでいた泡が向島側から来た水へ押され、まだ折れきらない境目へ身体を移していく。
そこへ来る。
来島が入った場所へ遅れて泡の筋が寄り始め、そちらへ足が向きかけたところで、中央に残る七海の赤が視界へ入った。凪は蹴り出さず、その場で身体を沈めた。
尾道の選手が七海の右手の発光ラインへ触れ、七海が逃げようと外へ身体を向けても、伸びた腕は一緒についてくる。
一秒。
七海はそのまま次の潮核へ出ず、赤い光の周りへ顔を向けた。来島のいる側には、尾道の選手がもう一人残っている。中央では凪が流れの弱い層へ身体を沈め、七海との間に一人分の水を残していた。
二秒になる前に七海が潮核を離すと、東から西へ押す水がそのまま凪の方へ運んできた。
凪が受け取った瞬間、赤い発光ラインが胸と手足に移る。正面から来た尾道の選手が右足へ手を重ねたが、凪は来島のいる向島側へは切らなかった。下へ脚を伸ばすと、開始前に確かめた圧の弱い層が残り、その向島側からは返ってくる水が横へ入っている。
あそこへ出れば、後ろから追う方が横から水を受ける。
凪は圧の弱い層から一段下へ身体を沈めた。
一秒。
足首を西へ引く水へ腰を乗せると、凪の腰が先へ運ばれ、右足に残っていた尾道の選手の腕が伸びる。相手も蹴り直してついてきたが、向島側から入った返しが相手の肩へ当たり、伸びきった指は発光ラインの端を滑って離れた。そのまま強く蹴り直さず、凪は下の流れに運ばれた分を使ってゴール側へ身体を沈め、追い直してきた手が届く前に潮核を枠へ入れた。
ブザーが鳴った。
水面へ出て息を吸うと、岸の得点板が1対0へ変わっている。その間にも残る潮核は止まっていなかった。
「凪、向島側!」
結の声を拾い、息を入れて潜り直す。
向島側では尾道の選手の発光ラインが青く点き、その右手の発光ラインへ芽衣が触れていた。尾道の選手が返しへ身体を入れても、芽衣は押された肩を戻しながら右手の発光ラインへ手を残し、外へ逃げる進路までついていく。
一秒。
その先では来島が、次に泡の集まりそうな境目へ移っていた。渚もそこへ顔を向けたが追わず、青い光と三原のゴールの間へ身体を残している。
二秒。
尾道の選手が来島のいる側へ流した潮核は、渚が塞いだ側を避けて一段深く沈み、来島の手前を通り過ぎる。芽衣の手が残ったまま三秒に達し、青い発光ラインが消えた。
浮き始めた潮核へ両校の選手が寄る中、芽衣はそのまま飛びつかずゴール前の中央へ戻り、渚も来島を追わないまま、向島側からゴールへ抜ける線に身体を残した。
尾道が別の潮核をゴール近くまで運んだときも、来島は一つ先の境目へ入っていた。凪はそちらを追わず、目の前の青い光へ進路を絞る。浮上したところで結から位置を受け取り、潜り直すと、その内側にはもう渚が身体を置いていた。
その後は得点が動かないまま、第一ピリオド終了の笛が鳴った。
岸側へ戻る途中、七海はまだ水道を見ていた。
「来島さん、ほんまに先行くんじゃね」
「うん」
凪が返すと、七海は一度だけ来島のいる方へ顔を向けた。
「でも、追わんでもええんじゃね」
凪は答える代わりに、七海がさっき潮核を離した辺りを見た。泡はもう形を変え、来島が先に入っていた境目も消えている。
岸では優奈だけが、来島からまだ目を離していなかった。
* * *
五分後、尾道側の一人が岸へ上がり、代わって詩織が水際へ出ると、ゴーグルを下ろしてそのまま海へ入った。
第二ピリオドの開始を待つ間に競技区画の外を渡船が横切り、船尾から広がった波が向島側の浮標へ近づいてきた。
笛が鳴ったころ、その返しが水面へ届く。
凪の胸は本州側へ押し戻されたのに、脚は下に残った西向きの潮へ引かれ、身体の上下がずれた。さっきまで細かった境目が帯のように広がり、その中で泡が何度も向きを変えている。
尾道が中央の潮核を先に拾った。
芽衣が青い発光ラインへ近づき、尾道の選手が向島側へ身体を返したところで右手へ触れる。芽衣を連れたまま外へ出ようとする動きに、渚も受け先を消すため内側へ残った。
一秒。
凪はその先の水を見た。
向島側から押し戻された表面の水と、下を西へ流れる潮がぶつかり、二つの間にあった泡の帯が斜めに伸び始めている。
来島も泡の帯へ視線を置いていた。まだ潮核が来ていないその境目には、去年ならもう身体を入れていたはずなのに、今回は動かず、視線だけを詩織へ移した。
来島の視線が詩織へ移った直後、詩織が水を蹴り、斜めに伸びる泡の先へ一気に距離を詰めた。返しの強さが途中で落ちたため、尾道の選手が二秒になる前に離した潮核は、詩織の進んだ位置より本州側へずれていく。
詩織は止まらず、流された身体を立て直す間に進路を内側へ変え、来島が先に見ていた位置より本州側へずれた潮核へ二掻きで追いついた。腕の間へ収めると、胸と手足に青い発光ラインがつく。
凪が向きを変えるより先に渚が詩織の進路へ入り、外へ逃げようとした右足の発光ラインへ芽衣の手も届いた。
一秒。
詩織は二人を振り切ろうとせず、そのまま返しの薄くなった側へ潮核を離した。青い光が消え、渚と芽衣が身体を返す間を縫って、尾道の上級生が内側から受け取る。
凪も流れてきた潮核の進路へ入り、受け取った尾道の選手へそのまま距離を詰めると、右手を左足の発光ラインへ重ねた。
一秒。
相手が深く潜ると凪も同じ層へ入り、発光ラインから手を外さない。上では芽衣が戻り、渚も詩織を追わず中央へ身体を返している。
二秒。
このままなら止められる。
尾道の選手は三秒を待たず、潮核をさらにゴール側へ離した。
凪が手を外して追おうとしたときには、その軌道へ別の尾道の選手が入っていた。芽衣が外側から身体を返すが、潮核を受けた尾道の選手の胸と手足に青い発光ラインがつき、その身体が一段下へ沈んでゴール枠へ入る。
ブザーが鳴った。
凪が水面へ戻ると、得点板は1対1へ変わっていた。
息を吸いながら向島側を見ると、詩織も浮上していた。芽衣に触れられた右膝を一度曲げて伸ばすと、すぐ残る潮核へ身体を返している。
次の攻防では来島自身が潮核を拾わず、泡の切れる場所を追いながら中央に残った。凪も同じ変化を見つけ、次に流れが寄りそうな場所を絞った。
来島の視線が泡の帯から外れ、今度は詩織ではなく中央寄りに残っていた上級生へ移った。その選手が水を蹴った直後、向島側から来ていた返しが弱まり、泡の帯が西へ引かれていく。
上級生はその変わり目へ入ったが、渚が一歩内側へ残り、芽衣も別の尾道の選手についてゴールから外れる側へ入ったため、その潮核はゴールまで届かなかった。
残り時間が減る中でも、来島は潮核の近くへ行くより先に水を見て、そのあとで尾道の誰かへ顔を向けていた。
第二ピリオド終了の笛が鳴った。
石段へ戻ってゴーグルを上げると、優奈がすぐ近くまで来たが、目は凪ではなく、まだ尾道側へ向いていた。
「凪先輩」
「何?」
「来島さん、流れ見たあと、味方見よる」
凪の手がゴーグルの端で止まった。
「私たちじゃなく?」
「うん。天満さんが出る前も見とった。最後は、あっちの人」
優奈の視線の先には、さっき泡が西へ引かれる前に動いた尾道の上級生がいた。
凪が来島へ目を戻すと、来島自身は動かず、水道と味方の間で視線だけを動かしていた。
去年、来島は次に流れが来る場所を読んで、自分でそこへ入っていた。
さっき、泡が折れる前に動いたのは詩織だった。その次は、別の選手だった。
一つ先へ出ていたのは、来島さんじゃなかった。




