第75話 湯気の、向こう
花は部室の扉を右手で開けようとして、途中で左手に替えた。
指に巻いたテープは、竹原第一戦の翌日より細くなっている。それでも、取っ手を握ると擦れた場所が引っかかった。
部室では、芽衣が床に座っていた。右肩を上げないまま、左手でジャージの袖を引いている。その向こうでは、凪が椅子に腰掛け、右足を前へ伸ばしていた。
遥香がホワイトボードに一行だけ書いた。
【回復】
「今日は海に入りません。ストレッチが終わったら、竹原第一戦の記録を確認します」
結がマットへ仰向けになっていた。
「温泉行きたい」
「記録の確認があります」
「温泉でもできるじゃろ」
「濡れます」
「何を持って入るつもりなん」
花が鞄を机へ置くと、七海がマットの端から顔を上げた。
「温泉なら、うちらん家の方にあるよ」
「近い?」
「うちらん家からなら」
「ここからは?」
「バスで行ける」
結が起き上がった。
「今から?」
「日帰り、まだ入れるよね」
七海に顔を向けられた優奈は、もう端末を開いていた。画面を二度動かし、受付時間を確認する。
「入れます」
「行こう」
「決めるん早くない?」
「七海はいつも早いです」
「優奈も調べとるじゃん」
「行くことになった時のためです」
遥香はホワイトボードを見た。次に、床へ座ったまま右肩を動かしていない芽衣と、足を伸ばしている凪へ顔を向ける。
「記録の確認は、明日に回します」
「遥香、温泉好きなん?」
「回復が必要なので」
「好きなんじゃね」
遥香はマーカーの蓋を閉めた。
「タオルを持っていない人は、施設で借りてください」
学校から乗ったバスは、海沿いへ出た。
七海は窓の外を見ながら、降りる場所を二度優奈へ確認した。自分たちの家の方ではあっても、普段はバスを使わないらしい。結が三度目を待っていたが、今度は優奈が先にボタンを押した。
停留所を降りると、海沿いの道路の先に白い建物が見えた。正面の壁には、青い文字が並んでいる。
【三原市温泉オーシャンビュー】
結が建物を見た。
「ここ、見たことはあったんじゃけど、一回も来たことないんよね」
「近いのに?」
心春が結の隣へ並ぶ。
「近いけえって、温泉には来んじゃろ」
「うちは来るよ」
七海が先に自動ドアへ向かった。
「家族と?」
「はい。ご飯だけ食べに来る時もあります」
「温泉入らんの?」
「入る時もありますよ。優奈は?」
「二回だけ来たことあります」
「回数まで覚えとるん?」
「少ないので」
自動ドアを抜けると、受付の女性が七海へ顔を向けた。
「七海ちゃんじゃん、今日は多いね」
「部活の人。みんな疲れとるんよ」
「七海ちゃんも?」
「うちは元気」
優奈が七海の後ろから入ってきた。
「昨日、階段で止まってました」
「それは足が重かっただけ」
「疲れてます」
「優奈、受付で言わんでや」
七海は靴を脱ぐと、迷わず奥の靴箱へ向かった。結がその後ろについていく。
「ここからは信用できる?」
「最初からしてや」
脱衣所で、芽衣が右肩のテープを剥がした。
皮膚に四角い跡が残る。花の知らない跡だった。
「それ、いつから?」
「前からです」
「前っていつ」
「常水館戦くらいです」
花は指に巻いていたテープを外す手を止めた。
「聞いとらん」
「聞かれてません」
「そういう問題じゃないじゃろ」
「花先輩も言ってません」
芽衣の目が、花の右手へ落ちる。
「これは竹原第一戦から」
「聞いてません」
「聞かれとらんけえ」
芽衣は剥がしたテープを小さく丸め、脱衣籠の端へ置いた。
「そういう問題じゃないです」
「うちが先に言ったんじゃけど」
「同じです」
花は残ったテープを左手で外した。擦れた指先の色が、周りの皮膚と違っている。
浴場の扉を開けると、湯気の向こうに海があった。
大きなガラスの外で、夕方の光が水面に残っている。湯気が流れるたびに島の輪郭が現れ、また白く隠れた。
「ほら、海見えるじゃろ」
七海が窓際を指した。
「今日は見んでええ」
結は一番近い湯船の前で、かけ湯を肩へ流した。
「ここの名前、オーシャンビューなんじゃけど」
「温泉だけでええんよ」
「じゃあ奥入って。そこ一番見えるけえ」
「見せたいんじゃね」
花は足先から湯へ入った。肩まで沈むと、右手の指が遅れて熱を持った。海にいる間は気にならなかった擦れが、湯の中では場所まではっきり分かる。
芽衣は右肩を湯から出したまま、花の隣へ腰を下ろした。
「肩、痛いん?」
「上げると重いだけです」
「それを痛いって言うんじゃろ」
「指は?」
「湯につけるとしみるだけ」
「それも痛いです」
花は右手を湯船の縁へ置いた。
「次、出れんの?」
「出ます」
「出るかじゃなくて」
「花先輩は?」
「出る」
「同じです」
二人の間へ湯気が流れた。湯船の縁からあふれた湯が、排水溝へ細く落ち続けている。
右肩の四角い跡は、花が知らない試合と練習の上に残っていた。
芽衣が湯の中で左手を開く。
「昨日は、これで取れました」
「見えとった」
「花先輩が離したので」
「二秒じゃったけえね」
「はい」
芽衣の左手が閉じる。
「次も、同じとは限りません」
「分かっとる」
花は窓の外へ顔を向けた。
「その時、決める」
湯気の切れ間を、小さな船が通っていった。船尾から広がった波は、ここからでは細い線にしか見えない。
少し離れた湯船では、結が優奈の隣にいた。
「一人だけ見続けるん、しんどかった?」
「見失う方がしんどいです」
「うちは一人だけ見よったら、ほかが気になる」
「だから結先輩に交代しました」
「優奈が一人分見つけたけえね。うちは残りを見ただけ」
「残りの方が多いです」
「数えたらね」
優奈は湯船の縁へ背中を預けた。
「次も、最初は一人でいいですか」
「相手が同じ動きしてくれたら」
「しなかったら?」
「その時は、また考える」
結は肩まで沈んだ。鼻の下まで湯につけてから、優奈の方へ目だけを動かす。
「でも、見つけた一個は言ってや。見えんままよりええけえ」
「はい」
洗い場で湯桶が重なり、乾いた音が一つ響いた。
窓際では、凪が右足を伸ばしていた。湯の中で足首を動かすたび、膝が揺れる。
「凪、足」
花が声をかけると、凪は動きを止めた。
「まだ硬い」
「次、出れる?」
「出る」
「それ、答え違うじゃろ」
「分からない。でも、明日までには確かめる」
花は自分の右手を見た。
「うちも」
凪が花の指へ顔を向ける。
「出るんじゃなくて、確かめる方」
「うん」
それ以上は続かなかった。
ガラスの外には海がある。潮核も浮標もなく、誰も流れへ入らない。湯気が消えた時だけ、水面が遠くまで見えた。
脱衣所の冷えた床へ右足を下ろすと、湯の中で緩んでいた凪のふくらはぎがまた硬くなった。壁へ手をつき、足首を一度伸ばしてから靴下を履く。
湯上がりの休憩所では、結がコーヒー牛乳を選んだ。七海は髪を乾かす前に畳へ座り、優奈にタオルを渡されている。
花は果汁飲料の瓶を左手で持った。蓋へ指を掛ける前に、芽衣が横から瓶を取る。
「自分で開けれるよ」
「右手を使うでしょう」
「左でやる」
「押さえる時に右を使います」
芽衣は左手で瓶を押さえたものの、蓋が一度滑った。
結が二人の間から手を伸ばし、蓋を開ける。
「二人とも使えんじゃん」
「使えます」
「今、滑ったじゃろ」
「一回だけです」
「花は?」
「まだ何もしとらん」
「なら、ありがと言って」
「ありがと」
結は満足した顔で、自分の瓶へ戻った。
花が飲み物を一口飲む。奥で動いていたドライヤーが止まり、換気扇の低い音だけが残った。
畳の上に置かれていた端末が振動した。
一台ではなかった。鞄の中、机の端、七海の隣。短い音が重なる。
遥香が最初に画面を開いた。
【地区予選第5戦】
【尾道高校-三原中央高校】
【会場 尾道水道・区画C】
【集合時刻 13:00】
【尾道高校 三勝一敗】
【三原中央高校 三勝一敗】
「尾道なん?」
心春が花の隣から画面をのぞく。
「書いてあるじゃろ」
「見えたけど、聞いたんよ」
「尾道」
休憩所の声が減った。
凪は登録選手一覧を開いていた。画面を動かしていた親指が、一つの名前で止まる。
以前、一番上にあった名前はない。
【来島理緒】
花が顔を上げると、窓の向こうでは海の輪郭が消えかけていた。




