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潮球  作者: カミツキ
3年目の海

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75/91

第75話 湯気の、向こう

花は部室の扉を右手で開けようとして、途中で左手に替えた。


 指に巻いたテープは、竹原第一戦の翌日より細くなっている。それでも、取っ手を握ると擦れた場所が引っかかった。


 部室では、芽衣が床に座っていた。右肩を上げないまま、左手でジャージの袖を引いている。その向こうでは、凪が椅子に腰掛け、右足を前へ伸ばしていた。


 遥香がホワイトボードに一行だけ書いた。


【回復】


「今日は海に入りません。ストレッチが終わったら、竹原第一戦の記録を確認します」


 結がマットへ仰向けになっていた。


「温泉行きたい」

「記録の確認があります」

「温泉でもできるじゃろ」

「濡れます」

「何を持って入るつもりなん」


 花が鞄を机へ置くと、七海がマットの端から顔を上げた。


「温泉なら、うちらん家の方にあるよ」

「近い?」

「うちらん家からなら」

「ここからは?」

「バスで行ける」


 結が起き上がった。


「今から?」

「日帰り、まだ入れるよね」


 七海に顔を向けられた優奈は、もう端末を開いていた。画面を二度動かし、受付時間を確認する。


「入れます」

「行こう」

「決めるん早くない?」

「七海はいつも早いです」

「優奈も調べとるじゃん」

「行くことになった時のためです」


 遥香はホワイトボードを見た。次に、床へ座ったまま右肩を動かしていない芽衣と、足を伸ばしている凪へ顔を向ける。


「記録の確認は、明日に回します」

「遥香、温泉好きなん?」

「回復が必要なので」

「好きなんじゃね」


 遥香はマーカーの蓋を閉めた。


「タオルを持っていない人は、施設で借りてください」


 学校から乗ったバスは、海沿いへ出た。


 七海は窓の外を見ながら、降りる場所を二度優奈へ確認した。自分たちの家の方ではあっても、普段はバスを使わないらしい。結が三度目を待っていたが、今度は優奈が先にボタンを押した。


 停留所を降りると、海沿いの道路の先に白い建物が見えた。正面の壁には、青い文字が並んでいる。


【三原市温泉オーシャンビュー】


 結が建物を見た。


「ここ、見たことはあったんじゃけど、一回も来たことないんよね」

「近いのに?」


 心春が結の隣へ並ぶ。


「近いけえって、温泉には来んじゃろ」

「うちは来るよ」


 七海が先に自動ドアへ向かった。


「家族と?」

「はい。ご飯だけ食べに来る時もあります」

「温泉入らんの?」

「入る時もありますよ。優奈は?」

「二回だけ来たことあります」

「回数まで覚えとるん?」

「少ないので」


 自動ドアを抜けると、受付の女性が七海へ顔を向けた。


「七海ちゃんじゃん、今日は多いね」

「部活の人。みんな疲れとるんよ」

「七海ちゃんも?」

「うちは元気」


 優奈が七海の後ろから入ってきた。


「昨日、階段で止まってました」

「それは足が重かっただけ」

「疲れてます」

「優奈、受付で言わんでや」


 七海は靴を脱ぐと、迷わず奥の靴箱へ向かった。結がその後ろについていく。


「ここからは信用できる?」

「最初からしてや」


 脱衣所で、芽衣が右肩のテープを剥がした。


 皮膚に四角い跡が残る。花の知らない跡だった。


「それ、いつから?」

「前からです」

「前っていつ」

「常水館戦くらいです」


 花は指に巻いていたテープを外す手を止めた。


「聞いとらん」

「聞かれてません」

「そういう問題じゃないじゃろ」

「花先輩も言ってません」


 芽衣の目が、花の右手へ落ちる。


「これは竹原第一戦から」

「聞いてません」

「聞かれとらんけえ」


 芽衣は剥がしたテープを小さく丸め、脱衣籠の端へ置いた。


「そういう問題じゃないです」

「うちが先に言ったんじゃけど」

「同じです」


 花は残ったテープを左手で外した。擦れた指先の色が、周りの皮膚と違っている。


 浴場の扉を開けると、湯気の向こうに海があった。


 大きなガラスの外で、夕方の光が水面に残っている。湯気が流れるたびに島の輪郭が現れ、また白く隠れた。


「ほら、海見えるじゃろ」


 七海が窓際を指した。


「今日は見んでええ」


 結は一番近い湯船の前で、かけ湯を肩へ流した。


「ここの名前、オーシャンビューなんじゃけど」

「温泉だけでええんよ」

「じゃあ奥入って。そこ一番見えるけえ」

「見せたいんじゃね」


 花は足先から湯へ入った。肩まで沈むと、右手の指が遅れて熱を持った。海にいる間は気にならなかった擦れが、湯の中では場所まではっきり分かる。


 芽衣は右肩を湯から出したまま、花の隣へ腰を下ろした。


「肩、痛いん?」

「上げると重いだけです」

「それを痛いって言うんじゃろ」

「指は?」

「湯につけるとしみるだけ」

「それも痛いです」


 花は右手を湯船の縁へ置いた。


「次、出れんの?」

「出ます」

「出るかじゃなくて」

「花先輩は?」

「出る」

「同じです」


 二人の間へ湯気が流れた。湯船の縁からあふれた湯が、排水溝へ細く落ち続けている。


 右肩の四角い跡は、花が知らない試合と練習の上に残っていた。


 芽衣が湯の中で左手を開く。


「昨日は、これで取れました」

「見えとった」

「花先輩が離したので」

「二秒じゃったけえね」

「はい」


 芽衣の左手が閉じる。


「次も、同じとは限りません」

「分かっとる」


 花は窓の外へ顔を向けた。


「その時、決める」


 湯気の切れ間を、小さな船が通っていった。船尾から広がった波は、ここからでは細い線にしか見えない。


 少し離れた湯船では、結が優奈の隣にいた。


「一人だけ見続けるん、しんどかった?」

「見失う方がしんどいです」

「うちは一人だけ見よったら、ほかが気になる」

「だから結先輩に交代しました」

「優奈が一人分見つけたけえね。うちは残りを見ただけ」

「残りの方が多いです」

「数えたらね」


 優奈は湯船の縁へ背中を預けた。


「次も、最初は一人でいいですか」

「相手が同じ動きしてくれたら」

「しなかったら?」

「その時は、また考える」


 結は肩まで沈んだ。鼻の下まで湯につけてから、優奈の方へ目だけを動かす。


「でも、見つけた一個は言ってや。見えんままよりええけえ」

「はい」


 洗い場で湯桶が重なり、乾いた音が一つ響いた。


 窓際では、凪が右足を伸ばしていた。湯の中で足首を動かすたび、膝が揺れる。


「凪、足」


 花が声をかけると、凪は動きを止めた。


「まだ硬い」

「次、出れる?」

「出る」

「それ、答え違うじゃろ」

「分からない。でも、明日までには確かめる」


 花は自分の右手を見た。


「うちも」


 凪が花の指へ顔を向ける。


「出るんじゃなくて、確かめる方」

「うん」


 それ以上は続かなかった。


 ガラスの外には海がある。潮核も浮標もなく、誰も流れへ入らない。湯気が消えた時だけ、水面が遠くまで見えた。


 脱衣所の冷えた床へ右足を下ろすと、湯の中で緩んでいた凪のふくらはぎがまた硬くなった。壁へ手をつき、足首を一度伸ばしてから靴下を履く。


 湯上がりの休憩所では、結がコーヒー牛乳を選んだ。七海は髪を乾かす前に畳へ座り、優奈にタオルを渡されている。


 花は果汁飲料の瓶を左手で持った。蓋へ指を掛ける前に、芽衣が横から瓶を取る。


「自分で開けれるよ」

「右手を使うでしょう」

「左でやる」

「押さえる時に右を使います」


 芽衣は左手で瓶を押さえたものの、蓋が一度滑った。


 結が二人の間から手を伸ばし、蓋を開ける。


「二人とも使えんじゃん」

「使えます」

「今、滑ったじゃろ」

「一回だけです」

「花は?」

「まだ何もしとらん」

「なら、ありがと言って」

「ありがと」


 結は満足した顔で、自分の瓶へ戻った。


 花が飲み物を一口飲む。奥で動いていたドライヤーが止まり、換気扇の低い音だけが残った。


 畳の上に置かれていた端末が振動した。


 一台ではなかった。鞄の中、机の端、七海の隣。短い音が重なる。


 遥香が最初に画面を開いた。


【地区予選第5戦】

【尾道高校-三原中央高校】


【会場 尾道水道・区画C】

【集合時刻 13:00】


【尾道高校 三勝一敗】

【三原中央高校 三勝一敗】


「尾道なん?」


 心春が花の隣から画面をのぞく。


「書いてあるじゃろ」

「見えたけど、聞いたんよ」

「尾道」


 休憩所の声が減った。


 凪は登録選手一覧を開いていた。画面を動かしていた親指が、一つの名前で止まる。


 以前、一番上にあった名前はない。


【来島理緒】


 花が顔を上げると、窓の向こうでは海の輪郭が消えかけていた。

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