第75話 湯気の、向こう
竹原第一戦の翌日の放課後、部室には西日が差し込み、窓際の棚と机の脚から伸びた影が床の上で重なっていた。開けた窓から港へ向かう車の音とフェリーの汽笛が届いているのに、棚の前に集まった十人は、誰もドライスーツへ手を伸ばしていなかった。
凪が椅子から立ち上がると、太腿の裏が突っ張り、膝が伸びきるまで時間がかかった。隣では結が机に肘をつき、両手で頬を挟んでいる。
「今日、海入りたくない」
「昨日勝ったばっかりでそれ言う?」
花が棚へ手を伸ばしたものの、上段のバッグを取る前に肩を回した。芽衣も自分の荷物を引き寄せようとして、右腕を上げかけたところで下ろした。
「花先輩も疲れとるじゃん」
「これは久しぶりに試合出たけえじゃろ。動けるよ」
「うちも動けます」
「芽衣は昨日ずっと出とったじゃろ」
花に返されると、芽衣は右腕を身体の横へ戻した。
「別に痛くないです」
「うちも痛いとは言ってないじゃん」
二人とも、結局荷物を取らないまま言い返していた。
結が机に頬をつけた。
「温泉行きたい」
七海が椅子の背に掛けていた上着を取りながら、結へ顔を向ける。
「温泉なら、うちらん家の方にあるよ」
「あるん?」
「須波。バスで行ける」
「行こうや」
結の頬が机から離れた。
「今から?」
「今じゃけ行くんじゃん。明日になったら筋肉痛もっと来るよ」
七海が答える横で、遥香は机の上に広げていた予定表へ目を落とした。今日の欄には練習内容が書かれていたが、視線を上げると凪の伸びきっていない脚、棚の前に立ったままの花と芽衣へ順に向ける。
「今日は休息日にしましょう」
花が遥香を見る。
「ほんまに休むん?」
「残りの試合もあります。今日一回練習して明日まで疲れを残すより、今日は休んだ方がいいです」
「温泉行くんも部活?」
「結さんが勝手に言い始めただけです」
遥香がそう答えると、結はもうスマートフォンを出していた。
「でも行くんじゃろ?」
「行きます」
七海がバスの時間を調べるため、結の画面を覗き込んだ。
* * *
三原駅前からバスに乗ると、七海は前の方の席へ座り、降りる場所を知らない結がその隣を取った。凪は二人の後ろの窓側に座り、車体が市街地を抜けていくのを見ていた。
建物の間から見えていた海が次第に近くなり、須波へ入るころには道路のすぐ脇に海が続くようになっていた。
バスの左窓いっぱいに海が開き、右手では、道路より一段高いところを線路が道路に沿って延びている。海沿いを進むうち、左手の海際には砂浜まで見えてきた。
この辺は来たことがない。
砂浜の向こうには穏やかな海が続き、その先に島影が重なっていた。三原港で見るより水面が近く、バスの窓からでも波打ち際まで見えた。
「海水浴場あるんじゃ」
前の席から結の声がした。
「あるよ。夏は人多いけど」
七海は窓の外を確かめるより先に答え、次の停留所を知らせる表示へ顔を上げた。
「次、降りるよ」
バスを降りると、海から来た風が道路を渡ってきた。十人で海沿いの歩道を百メートルほど進み、七海が指した先に『三原市温泉オーシャンビュー』と書かれた看板が見えてくる。
建物は海に面して横長に建ち、入口のガラスには道路の向こうの水面と島影が映っていた。自動扉が開くと、潮の匂いが薄れ、温かい空気と石鹸の匂いが流れてくる。
「もうここで寝たい」
結が入口を入ったところで言うと、遥香が振り返った。
「寝るのは家でお願いします」
「温泉入ったあと絶対眠くなるじゃん」
「帰りのバスならいいです」
七海は二人の横を通り、受付の方へ歩いていった。
* * *
浴室の大きな窓の向こうには、さっきバスから見ていた瀬戸内が広がっていた。道路を走る車の姿は見えず、水面と島だけが湯気の向こうへ残っている。
身体を洗って湯へ入ると、凪は縁に背中を預けた。腿まで熱が回り、膝を伸ばしても部室で立ち上がったときの張りが出ない。
「生き返る……」
結が肩まで沈み、息を吐いた。
「昨日死んどったん?」
花が返しながら湯へ入り、縁に背中をつけた。
少し離れたところにいた芽衣が、湯の中を歩いて花の隣へ移った。肩が触れそうなところまで寄って座ると、それを見ていた心春も反対側から花の隣へ入り、肩まで湯へ沈む。
花が二人を交互に見た。
「なんなん、二人とも」
笑いながら言われても、芽衣は動かなかった。
「別に」
心春も花の隣に残ったまま、膝を抱える。
向かいにいた結が笑った。
「人気者じゃん」
「狭いんじゃけど」
そう言いながらも、花は二人から離れず、首まで湯へ沈んだ。息を吐きながら肩を回し、一度腕を後ろへ引いたところで止める。
すぐ隣にいた芽衣が気づいた。
「花先輩、痛いんじゃん」
「張っとるだけ」
「さっきうちが言ったら痛いみたいに言ったじゃん」
「芽衣は昨日ずっと出とったけえじゃろ」
「花先輩も昨日出たじゃん」
「二ピリオドだけじゃし」
花がそう返して湯の中で脚を伸ばすと、途中で膝を曲げ直した。
芽衣の口元が上がる。
「脚も張っとるじゃん」
「うるさい」
心春も花の曲げた脚へ目を落としたが、何も言わず、また肩まで湯へ沈んだ。
凪は窓の外へ顔を向けた。海はすぐそこにあるのに、今日は入らない。潮流を探す必要もなく、浮標も潮核もない水面を、船が一隻ゆっくり横切っていった。
優奈は湯の縁に頭を預け、目を閉じていた。
「優奈、寝るん?」
心春の声に、優奈は目を開けないまま返した。
「寝んよ。目閉じとるだけ」
「眠いんじゃないん?」
「目の奥が疲れとる」
そこで優奈は片目だけ開けた。
「昨日、人の動き見すぎたけえ」
心春が何か聞こうとしたところで、結が湯を手ですくって顔にかけた。
「試合の話、上がってからにしよ。今したら遥香に怒られる」
「別に怒りません」
「聞いとったん?」
離れたところから遥香が返し、浴室に笑い声が広がった。
* * *
風呂から上がると、脱衣所ではドライヤーの音が何台も重なっていた。凪が鏡の前で髪を乾かしている横に優奈が立ち、片手で髪を持ち上げながら、もう片方の手で眉間を押している。
結が後ろから鏡越しに気づいた。
「まだ目疲れとる?」
「うん。閉じた方が楽」
優奈はドライヤーを止めた。
「昨日見よった竹原第一の子、右足引いたあと肩が沖側へ向いたら、そっちへ出るとか、途中から分かるようになったよ」
「そこまで見てないわ」
結は自分の髪をタオルで挟んだまま返した。
「結先輩は何見とったん?」
「その子が動いたとき、近くの二人がどこ空けたかとか」
優奈の手が眉間から離れた。
「そこ、見てない」
「うちも足までは見てないよ」
ドライヤーの音が隣から続いていた。
遥香が髪を束ねながら二人の横へ来る。
「二人、見えているところが違いますね」
優奈は鏡越しに結を見た。結もタオルを肩へ掛け直し、優奈を見る。
遥香はそれ以上言わず、優奈はもう一度ドライヤーのスイッチを入れた。
* * *
館内の食事処へ移るころには、窓の外の海に夕方の色が混じり始めていた。二つのテーブルを寄せて十人で座り、注文した定食やうどんが届くと、それまで疲れたと言っていた結が真っ先に箸を取った。
「温泉のあとって、なんでこんな腹減るんじゃろ」
「入る前も腹減ったって言っとったじゃん」
花が返しながら自分の皿へ箸を伸ばす。向かいでは芽衣が右腕を上げず、左手で器を近くへ引いた。
花がそれに気づいた。
「やっぱ肩痛いんじゃん」
「張っとるだけです」
「明日も痛かったら言いんさいよ」
「花先輩も脚痛かったら言ってください」
「うちは大丈夫」
芽衣は花の脚へ一度目をやったあと、自分の皿へ箸を戻した。
遥香のスマートフォンがテーブルの端で震えた。
画面を確認した遥香の箸が止まる。
「次戦の案内、来ました」
七海が口に入れたものを飲み込んだ。
「どこ?」
「尾道です」
テーブルの向こうで結の手が止まり、渚も顔を上げた。
凪の中に、尾道水道の泡が浮かんだ。向島との間で何本にも分かれていた潮目。その中で、自分が次に入ろうとした場所に先にいた選手。
遥香が画面を下へ動かした。
「来島さんも入っています」
優奈が名前の並んだ画面へ身体を寄せた。
「来島さんって、強い人ですか」
凪は画面に表示された名前を見た。
「この子、強いよ」




