第74話 勝った、よ
竹原第一戦の朝、三原の住宅地には港へ向かう車の音が続き、家々の間からフェリーの汽笛が届いていた。
花は台所で茶を淹れ、昨日と同じように湯呑みを二つ持って仏間へ入った。片方を写真の前へ置いて座ると、湯気の向こうでばあちゃんが笑っている。
「今日、竹原第一と試合なんよ」
朝の光が写真立ての端へ差していた。花は自分の湯呑みを膝へ置き、そのまま写真を見る。
「うちも出る」
声にしてから湯呑みに口をつけた。
「帰ったら、結果言うけえ」
立ち上がって玄関へ向かい、バッグを肩へ掛けた。
* * *
佐木島へ渡るフェリーを降りると、港の外では東から来た水が護岸へ当たり、岸寄りだけを細く逆向きへ戻っていた。浮標で囲まれた競技区画でも、沖側の泡は西へ流れているのに、護岸へ近いロープの下では白い泡が東へ伸びている。
三原中央の荷物が並ぶ岸へ着くと、花はバッグを置いて遥香のところへ向かった。出場者を確認していた遥香が顔を上げる。
「遥香」
「はい」
「うち、退部せんことにした」
近くでゴーグルを出していた芽衣の手が止まり、心春もこちらを向いた。
「今日、出る」
遥香は花の顔を見たあと、頷いた。
「分かりました」
そのまま第一ピリオドに入る五人の名前を呼び始める。芽衣はまだ花を見ていたが、目が合うと口を開きかけ、ゴーグルを額に上げた。
「何」
「……あとで言います」
「今言えばええじゃん」
「試合前なんで」
芽衣がそう返して水際へ向かうと、心春もその後ろへ行きかけ、途中で足を止めた。
「花ちゃん」
「何」
「あとで」
「心春まで何なん」
心春は笑って芽衣とは反対側から水際へ回った。
審判が潮況ボードを掲げた。
【本日の潮況】
時刻:13:00
方向:東→西 秒速0.3m
特記:岸寄りに西→東の弱い返し
沖へ流れる泡と、護岸沿いを戻る泡は二番浮標の近くで擦れ合い、そこで白い筋が途切れている。花が見ている間にも、沖を通ったフェリーの波が護岸へ届くと、東へ戻る泡の幅が浮標半分ほど沖まで広がってから元へ戻った。
第一ピリオドは、凪、結、芽衣、優奈、七海が入った。
開始の笛が鳴ると、四つの潮核へ両校が散った。花のいる岸からは潜った選手の細かな手元までは追えず、見えるのは水面へ出た身体と、潮核を持ったときに水中へ伸びる赤と青の発光ラインくらいだった。
護岸側で青い光がつくと芽衣がそこへ寄り、二つの影がゴールから外れる方へ動いていく。途中で芽衣だけが中央へ戻り、優奈はその先へ出ず、浮標側へ残っていた。
青い光が消え、その近くで赤い光が点いた。
「取った?」
花が身を乗り出す横で遥香も競技区画を追っていたが、誰が触ったのかまでは岸から見えない。赤い光は岸寄りの返しへ入り、その光が消えるまで七海は沖側から動かなかった。潮核が返しに乗って東へ動いたところで七海が一気に距離を詰めて受け取ると赤い光が点き、そのままゴール側へ身体を沈めた。
ブザーが鳴った。
得点板が1対0へ変わると、花は息を吐いた。水面へ戻った七海は岸へ手を上げる代わりに、もう別の潮核へ身体を向けている。
そのまま追加点は入らず、第一ピリオド終了の笛が鳴った。
五分のインターバルで戻ってきた芽衣は花の前を通っても止まらず、心春と一緒に護岸側の泡を見た。遥香が七海を呼び、次に心春の名前を出すと、七海は水を払いながら岸へ上がった。
第二ピリオドでも、竹原第一は護岸側へ青い光を運んだ。芽衣がその横へ入り、第一ピリオドと同じように二つの影がゴールから外れていく。芽衣が中央へ戻ったところで、二番浮標の岸側には心春が残っていた。
さっきと同じ形になった。
そう思った直後、青い光とは別の竹原第一の選手が、芽衣と心春の間を斜めに抜けた。護岸側にあった青い光が消え、次に青い光が点いたときには、もう芽衣と心春を越えてゴール側へ出ていた。心春が身体を返し、芽衣も追ったが、青い光は水中へ沈んだ。
ブザーが鳴り、得点板が1対1へ変わった。
「そこ通るんじゃ」
花の声に遥香が顔を向けた。
「第一ピリオドは通ってませんでした」
もう一度竹原第一が中央へ運んだときには、芽衣が戻る先へ一人が先に入り、心春もその選手を避けるため護岸側へ寄った。二人の位置がずれたところを別の青い光が抜け、ブザーのあと、得点板は1対2になった。
第二ピリオド終了の笛が鳴ると、花はバッグの脇に置いていたドライスーツを取り、足から生地へ入れた。手の甲まで通して透明な発光ラインを指先へ沿わせているところへ、芽衣が戻ってくる。
「戻るとこ、待たれました」
「見えた」
「次、花先輩入るんですよね」
「そのつもりで着とる」
芽衣は護岸側へ顔を向けた。
「じゃあ、今度は通させん」
「うちに言うんじゃなくて、自分で止めんさい」
「止めますよ」
遥香が優奈を呼び、代わりに花の名前を出した。
石段を下りて脛まで海へ入ると、沖へ押す水の下から護岸沿いの返しが足首へ当たり、同じ場所でも上下で向きが違っていた。身体を浮かせて一度潜れば、岸から見ていた白い筋より水の境目は広く、返しへ入った腕だけが東へ引かれる。
第三ピリオドが始まると、竹原第一はまた護岸側へ潮核を運んだ。芽衣が青い発光ラインへ寄り、そのまま二番浮標より沖へ押し出していく。
花は芽衣が中央へ戻る前に水を蹴った。さっき二度使われた場所へ護岸側から斜めに入ったところで竹原第一が潮核を離し、花も身体を返そうとしたが、その先にはもう心春がいた。芽衣について戻らず、二番浮標の岸側に身体を残したまま、流れてきた潮核の軌道へ肩を入れている。
ついてきていない。
心春の腕に当たった潮核が浮き、凪がその下から指先を入れて中央へ軌道を変えた。花は蹴りかけた足を止め、心春のいた場所へ入る代わりに凪の反対側へ回った。
次の攻防で凪から潮核が流れてくると、花は護岸沿いの返しへ身体を残したまま受け取った。胸と手足の発光ラインが赤く点き、正面から竹原第一の一人が入り、沖側からもう一人も距離を詰めてくる。
花が護岸側へ身体を振ると、正面から来た竹原第一の選手の手が右足の発光ラインへ届いた。
一秒。
右膝を引けば触れていた腕も伸びたが、その先にはもう一人が入り、二人の間を抜けようとすればゴールから外れる。水面へ出ていない時間も長くなり、もう一度強く蹴るために息を使えば、その先で浮上するしかない。
花が右足をさらに引いたところで、中央へ戻った芽衣が視界に入った。
二秒を待たず、花は潮核を護岸沿いの返しへ離した。
発光ラインが消え、竹原第一の選手の手が足から外れる。潮核は東へ戻る水へ押され、その先へ入った芽衣が受け取ると赤い光が点いた。花へ寄っていた二人が身体を返す間に芽衣はゴール側へ入り、追ってきた竹原第一の選手の手が届く前に潮核をゴールへ沈めた。
ブザーが鳴った。
花が水面へ出て息を吸い、得点板を見ると2対2へ変わっていた。残る潮核へ向かう芽衣と目が合ったが、二人とも声は出さず、花も息を入れ直して潜った。
その後は得点が動かないまま第三ピリオド終了の笛が鳴った。
五分のインターバルで石段まで戻ると、芽衣は水から上がらず、花の隣で護岸へ手を掛けた。
「花先輩」
「何」
「今、離したじゃん」
「うるさい。次来るよ」
「まだ何も言ってないじゃん」
「顔がうるさい」
芽衣が笑ったところへ遥香が岸から声を掛けた。
「花さんが持つと、竹原第一が二人寄っています」
花は沖側の選手を見る。第三ピリオドの終わりにも、花が潮核へ近づくと一人が先に身体を向けていた。
最終ピリオドの開始の笛が鳴ると、花は二番浮標の沖側へ流れた潮核へ入り、凪から浅く流れてきたところを受け取った。
赤い発光ラインが点いた瞬間、正面にいた竹原第一の一人が進路を半身ぶん開けた。
花がそこへ水を蹴ると、開いていた身体が中央へ戻り、沖側からもう一人も寄ってくる。護岸側へ切れば一人、中央へ戻ればもう一人が先に入る位置だった。
待たれとる。
左手の発光ラインへ竹原第一の選手の手が重なった。
一秒。
花は触れられた左腕を身体の前へ引き、二人を連れたままゴール側へ進んだ。護岸から返る水が右脚へ当たり、その向こう、二番浮標の岸側に黒いドライスーツが一人だけ残っている。
心春だった。
芽衣が中央へ寄っても、花が二人を引きつけても、心春はついてきていない。護岸沿いを東へ戻る泡のすぐ外で、花の方へ身体を向けていた。
二秒。
花は左腕を振りほどく代わりに、抱えていた潮核を身体の下へ沈めて離した。返しへ入った潮核が東へ押され、竹原第一の二人が花から身体を返したときには、心春がその軌道へ入っていた。
心春が受け取ると胸と手足に赤い光がつき、外から竹原第一の一人が戻ってくる。心春は芽衣の方へ寄らず、護岸沿いの返しから外れるところで身体を沈め、伸びてきた手が左足へ届く前に潮核をゴールへ押し込んだ。
ブザーが水面へ響いた。
花は浮上して息を吸い、得点板が3対2へ変わったのを見てから、すぐ沖側へ身体を返した。
残る潮核では竹原第一が三原を外へ広げようとし、青い発光ラインが一つ護岸側へ、もう一つが沖側へ動いた。花の足は空いた中央へ向きかけたが、そこには凪が戻り、二番浮標の岸側には心春が残っている。
花は目の前の竹原第一の選手が流す先へ身体を残した。
最後に沖側で青い光が点き、芽衣がその進路へ入ったところで試合終了の笛が鳴った。
花が水面へ顔を出すと、岸の得点板には3対2が残っていた。
「勝った!」
心春が水面を叩き、芽衣もゴーグルを上げたまま花の方へ泳いでくる。岸では七海と優奈が両手を上げ、結の声まで重なっていた。
石段を上がってゴーグルを額へ押し上げたところで、芽衣が目の前まで来た。
「花先輩」
「だから何なん。朝から」
芽衣は口を開いたまま続けず、代わりに両腕を伸ばして濡れたドライスーツごと花へ抱きついた。
「ちょ、重い」
肩口へ押しつけられた声が震えていた。
「うち、自分でやるって決めたけど……戻ってきてほしかった」
花はすぐには返せず、芽衣の背中へ腕を回した。
その腕へ、横から心春もしがみついた。
「花ちゃん」
花が顔を向けると、心春は何も続けず、濡れた前髪を額へ貼りつかせたまま腕を離さなかった。
「二人とも重いんじゃけど」
そう言っても、花も腕をほどかなかった。
向こうから上がってきた凪は、三人の前で足を止めた。ゴーグルを外した目元だけが赤い。
「おかえり」
花は芽衣と心春に両腕を塞がれたまま、鼻から息を吐いた。
「……ただいま」
* * *
家へ戻るころには、佐木島で濡れた髪も乾いていた。
花はバッグを廊下へ置き、台所で茶を淹れてから湯呑みを二つ持って仏間へ入った。朝と同じ場所へ片方を置くと、写真立てのガラスにはもう西日の色が映っている。
「ただいま」
座布団へ座り、自分の湯呑みを両手で包んだ。
「勝ったよ。三対二」
花は湯呑みに口をつけて一口飲んだ。
「最後、心春が入れたんよ」
花の口元が緩んだ。写真の中のばあちゃんは、朝と同じ顔で笑っていた。
花は写真から目を逸らさなかった。
「勝ったよ、ばあちゃん」




