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潮球  作者: カミツキ
3年目の海

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73/101

第73話 離す、手

 玄関に置いた上着を拾って自室へ戻っても、花は部のグループを閉じられず、ベッドに横になったまま増えていくメッセージを眺めていた。そこへ着信画面が重なり、芽衣の名前が表示された。


 花は画面を見たまま動かなかったが、呼び出しが切れる前に身体を起こし、通話ボタンを押した。


「何」

『今、話せますか』

「出たんじゃけ、話せるじゃろ」

『機嫌悪』

「切るよ」

『待って待って』


 芽衣の声の向こうで何かが動き、扉の閉まる音がした。


『今日の試合、見ました?』

「結果は」

『写真も?』

「見た」

『じゃあ、心春が出たんも見た?』


 花はスマートフォンを耳へ当てたままベッドを降り、椅子に座って机へ肘を置いた。


「第三ピリオドからじゃろ」


 電話の向こうが静かになった。


「何」

『やっぱちゃんと見とるじゃん』

「写真に写っとっただけ」

『第三ピリオドからって写真じゃ分からんよ』


 芽衣が笑う。


『聞きたい?』

「別に」

『じゃあ切ります』

「待って」


 今度は芽衣が黙った。


「……心春、ちゃんと動けたん?」

『動けました。最初、うちについて来そうになったけど』

「来んかった?」

『うん。残った』


 花が最後に一緒に海へ入ったときも、心春は動く前に花や芽衣へ顔を向けていた。


「七海は?」

『第二ピリオドで出とって、凪先輩がまだ持っとるとき、次の潮核見つけたんですけど』

「また先行ったん?」

『行かんかった。凪先輩が流してから出た。そしたら今度は間に合った』

「優奈は?」

『また足見て先に動いて、一回抜かれた』

「同じじゃん」

『でも第四ピリオドは待った』


 自分が海へ来ていない間にも、三人とも同じところでは止まっていなかった。


「芽衣は」


 聞いてから、電話の向こうで息を吸う音がした。


『うち?』

「心春が残ったん、芽衣が何かしたんじゃないん」

『相手に触ったけど、三秒まで取らんかった』

「なんで」

『そのまま追ったら真ん中空くけえ』


 花は椅子の背から身体を離した。


「取れるのに?」

『取れたかもしれんけど』

「なら取ればええじゃん」

『三秒取るより、戻った方がよかったんよ』


 すぐには意味が飲み込めなかった。三秒まで触れれば、相手は潮核を落とす。触れられた側が逃げれば追い、最後まで取り切る。それで何度も相手を止めてきた。


 芽衣もずっと、そうしていた。


『明日、もう一回やるんです』

「何を」

『今日やったやつ』

「試合終わった次の日に?」

『午前だけ』

「元気じゃね」

『花先輩、相手やってください』

「なんでうち」

『今日と同じことして通ったら、意味ないけえ』

「他にもおるじゃろ」

『花先輩が一番、通らなそうじゃけ』

「それ頼み方?」

『来てくれるんですか』

「まだ行くって言ってない」

『じゃあ、来んの?』


 花は障子に目を向けた。向かいの家の明かりがぼんやり透けていた。


「……相手だけじゃけえね」

『はい』

「戻るとかじゃないよ」

『分かりました』


 芽衣の返事が早い。


「ほんまに分かっとる?」

『相手だけですよね』

「そう」

『じゃあ明日、九時に港で』

「勝手に時間決めんな」

『十時がいい?』

「九時でええ」


 言い終えると電話の向こうで芽衣が笑った。


「笑うな」

『笑ってないです』

「笑っとるじゃん」

『じゃあ明日』


 通話が切れると、暗くなった画面へ自分の顔が映った。花はスマートフォンを机へ置いて椅子の背へ身体を預けた。


 明日は相手をするだけで、それ以上のことは決めなかった。


 翌朝、花はタオルとゴーグルをバッグに入れ、底に残っていた空のボトルを見つけると、台所で水を入れて戻った。ファスナーを閉めて持ち上げると、いつもの練習へ行くときと同じ重さが肩に掛かった。


 玄関へ向かいかけたところで廊下の先の仏間が目に入り、花の足が止まった。


 花はバッグを床に置いて仏壇の前に座り、線香に火をつけた。細い煙が写真の前を通って天井へほどけ、その向こうでばあちゃんが笑っている。


「……行ってくるけえね」


 写真の前で線香の煙が揺れ、花はそれを見てから立ち上がると、バッグを肩に掛けて玄関へ向かった。


 * * *


 三原港へ着くと、浮標はもう半分ほど海へ出ていた。陽と渚が岸壁の端でロープを送り、七海が沖へ流れかけた浮標を引き戻している。少し離れたところでは優奈が水面へしゃがみ込み、岸壁に当たった水がどちらへ戻るかを見ていた。


 花が足を止めると、最初に気づいたのは結だった。


「あ」


 ロープを持ったまま、全員の顔がこちらへ向く。


 芽衣だけが手を上げた。


「来た」

「相手だけじゃけえね」

「はい」


 芽衣がロープへ顔を戻すと、ほかのみんなもそれぞれの作業へ戻り、誰も駆け寄っても「戻った」とも言わなかった。花はそれを見て息を吐き、岸壁へ降りた。


 部室に置いたままだった専用ドライスーツを取り出し、足から生地へ入れる。最後に手の甲まで通すと、透明な発光ラインが指の動きについて曲がった。


 何日も着ていなかったのに、身体は順番を覚えていた。


 外へ出ると、凪が水際で浮標の位置を直していた。


「おはよう」

「おはよ」


 花はゴーグルを額に上げて海へ入り、腰まで進むと岸壁から返ってきた水が右脚に当たった。腹の辺りまで冷たさを受けながら身体を浮かせると、足の裏から石段の感触が消える。そのまま腕を一度回し、沖へ水を掻いた。


 岸壁の近くでは結と遥香が浮標の外に残り、練習区画の中央へ潮核が一つ流された。芽衣と心春が並び、その反対側に花が入る。凪は芽衣の後ろへ残り、陽と七海が花の左右へ開いた。


「昨日の第三ピリオドでやった形から始めます」


 遥香が水面から説明すると、花は潮核へ顔を向けた。


「うちが持てばええん?」

「お願いします」

「相手だけでええんじゃろ」

「はい」


 芽衣がゴーグルを下ろした。


「止めるけえ」

「やってみんさい」


 遥香の手が下がると、花が先に潮核を掴み、胸と両手、両足の発光ラインが赤く点いた。そこへ芽衣が正面から距離を詰めてくる。


 花は芽衣の手が胸へ届く前に身体を右へ振り、ゴールから外れる方向へ水を蹴った。芽衣も同じ側へ入り、右手の発光ラインへ手を重ねる。


 一秒。


 花は触れられた腕を引かずにさらに外へ出たが、芽衣も同じ角度でついてきて、右手を発光ラインから外さなかった。


 二秒。


 もう一度水を掻こうとしたところで、芽衣の手が離れた。


 花はそのまま外へ泳ぐと見せ、左足で水を強く蹴って身体を反転させた。芽衣が中央へ戻ろうとした横を抜け、さっきまで芽衣がいた場所へ入り直した。


「あ」


 心春の声が水の中で潰れた。


 花はその手前で潮核を陽へ離した。陽が受け取ると、凪が身体を返して追ったが、心春は芽衣が中央へ戻ってきたことで一瞬足を止め、その間に陽がゴール側へ抜けた。


 遥香の笛が鳴ると、花が水面へ顔を出して息を吸い、遅れて芽衣も浮上した。


「昨日それで止めたん?」

「止めたんよ」

「戻るの早すぎじゃろ」

「昨日はあれで通ったんです」

「うちは常水館じゃないけえ」


 心春も顔を出した。


「花ちゃん、戻ってきた」

「戻るよ。芽衣が離したんじゃけ」


 心春はさっき花が抜けた場所へ顔を向けた。


「じゃあ、そこ残った方がええ?」

「花に聞かんで」


 芽衣が先に返した。


「今の相手じゃろ」

「あ、そっか」


 花が口を開く前に、心春は芽衣ではなく、自分がいた位置へ顔を戻した。


 休む前なら、そこで芽衣を見ていた。


「もう一回」


 芽衣が開始位置へ戻るのに合わせ、花も潮核を拾って向かいへ身体を返した。二本目も芽衣は正面から入り、花が右へ逃げると、今度は胸や手ではなく蹴り出した左足へ回って発光ラインに手を重ねた。


 一秒。


 花が左膝を曲げて足を引くと、芽衣の腕もそのぶん伸びたが、手は発光ラインから外れなかった。


 二秒。


 さっきなら、もう離れていた。今度は手を残したまま、花が外へ向けていた肩を中央へ戻し始めた瞬間にだけ接触を切り、芽衣自身も内側へ身体を返した。


 花がさっきと同じ場所へ戻ろうとすると、その先には心春がいた。


 ついてきていない。


 心春は芽衣との間を一人分空け、そのまま花が戻る進路へ身体を置いていた。花は潮核を陽へ流そうとしたが、心春の肩がその軌道まで入っていた。


 なら、反対。


 身体を沈め、心春の下へ流した。


 潮核が腕の下から抜けたところで、凪が一段深い位置へ入ってきた。指先に当てて軌道を変えると、後ろにいた芽衣が浮いてきた潮核を受け取った。


 花の発光ラインが消え、代わりに芽衣の胸と手足が赤く点いた。


 花が水面へ顔を出して息を吸うと、隣へ浮上した心春が声を上げた。


「取った!」


 芽衣も潮核を抱えたまま顔を出した。


「昨日それやってないじゃろ!」


 花が言うと、芽衣は息を吸いながら笑った。


「花先輩がおるけえ変えたんよ」

「最初からそうしんさいや」

「花先輩おらんかったじゃん」


 言い返そうとして、花の口から先に笑い声が漏れた。


「もう一回!」


 花が潮核へ手を伸ばすと、芽衣が目を丸くした。


「相手役だけじゃなかったん?」

「相手役しよるじゃろ!」

「めっちゃ本気じゃん」

「うるさい!」


 遥香が七海を芽衣たちの側へ呼び、浮標の外にいた優奈も同じ側へ入れた。花の横には陽が残り、二人で五人の攻めを受けることになった。遥香はもう一つの潮核を沖側へ流した。


 次は芽衣が先に潮核を持った。


 花は正面へ入らず、芽衣が外へ流す先へ先回りした。芽衣がそれに気づいて心春へ返すと、花も身体を返して追う。


 心春は花へ顔を向けたが、すぐ芽衣へ戻らなかった。花が距離を詰める前に凪へ潮核を流し、自分はその場に残る。


 花が顔を上げて凪を追おうとすると、右から七海が進路へ入り、水面へ顔を出した。


「そこ邪魔!」

「相手じゃけえ!」


 七海は笑いながら花の前へ身体を残した。


 凪が別の潮核へ顔を向けても、七海はすぐにはそちらへ行かない。凪が手元の潮核を離すまで待ち、それから水を蹴った。


「七海!」


 花が呼ぶと、七海が振り返った。


「何ですか!」

「今の、前ならもう行っとったじゃろ!」

「行かん方が間に合うけえ!」


 その返事の途中で優奈が水面へ顔を出し、花の横を抜けて凪から流れてきた潮核へ先に触れた。


「優奈!」

「花先輩、よそ見しすぎ!」

「誰のせいよ!」


 花も身体を返すと、優奈の胸と手足にはもう赤い光が走っていた。息を吸って優奈の右足へ潜ると、優奈はすぐには逃げず、岸壁へ一度顔を向けた。白く返った水が浮標のロープを沖側へ膨らませるのを確かめると、その水が届く前に身体を起こし、花が手を伸ばした側とは反対へ抜けた。


「それも昨日?」

「これは前から!」


 優奈が潮核を離せば次の受け手を探し、七海が先へ出ればその空いた場所を見る。七海が沖側から岸寄りの芽衣へ泳ぎ、心春まで同じ側へ寄りかけたところで、遥香の笛が鳴った。花は浮上して息を吸い、続いて顔を出した心春へ声を掛けた。


「心春、そこ行ったら――」


 花は途中で口を閉じると、芽衣が浮上してこちらを見た。


「何ですか」

「……何でもない」

「言いかけたじゃないですか」


 心春も花を見る。


「どこ行ったら駄目なん?」

「相手に聞くなって」

「花ちゃんが言い始めたじゃん」


 二人に見られ、花は水を掻いて位置を直した。


「七海も心春も芽衣の方行ったら、沖が空くじゃろ」


 心春が反対側へ顔を向けると、さっき七海が抜けたあとには誰もいない水が残っていた。


「じゃあ、うちこっち残る」

「そう」


 花が眉を寄せると、芽衣が笑った。


「相手役じゃなかったん?」

「うるさい」

「じゃあなんでうちらに教えとるん」

「空いとるけえ気になるんよ!」


 芽衣は笑ったままゴーグルを下ろすと、花も続いた。


「じゃあ、もう一本」

「今の続きからね」


 遥香の手が上がる。


 開始の合図より先に、心春はさっき空いていた側へ身体を置き、七海は次の潮核を見つけても今いる保持者へ顔を戻した。優奈は花ではなく岸壁から返る水を一度確かめ、それから開始位置へ入る。


 知らん間に、変わっとる。


「花先輩!」


 芽衣の声に顔を向けると、もう潮核がこちらへ流れてきていた。


「今行く!」


 花は強く水を蹴った。


 * * *


 練習を終えて家へ戻るころには、髪の先まで乾いていた。


 玄関で靴を脱ぎ、バッグを廊下へ置いた。台所へ入ると、花は棚から湯呑みを一つ出しかけ、その隣にあるもう一つにも指を掛けた。湯呑みを並べると、急須へ湯を注ぎ、茶葉が沈むのを待ってから、同じくらいずつ注いだ。


 二つの湯呑みを持って仏間へ行き、片方を写真の前へ置くと、もう一つを両手で包んで座布団へ座った。


 湯呑みから立つ湯気の向こうに、ばあちゃんの写真がある。


「今日ね」


 声にすると、その先が出てきた。


「芽衣が昨日勝ったやり方やるって言うけえ、相手したんよ」


 花は湯呑みに口をつけて一口飲むと、そのまま続けた。


「そしたら、あいつ二秒で離すんよ。取れるのに。何しよるんかと思ったら、うちが戻る方まで見とって」


 花は湯呑みを両手で包み直した。


「心春もね、前みたいに芽衣の後ろついて行かんの。うちが戻ろうとしたら、先におるんよ。昨日できたけえって」


 写真の中のばあちゃんは変わらず笑っている。


「七海も、次の潮核見つけてもすぐ行かんようになっとった。あんな何でも先行く子がよ。優奈も、水を見てうちをかわしたんよ――」


 そこで声が掠れた。


 花は一度喉を鳴らし、湯呑みへ口をつけた。飲み込んでから、膝の上へ戻した。


「……ちゃんと、強うなっとった」


 鼻の奥が熱くなったが、花は目元へ手をやらず、写真を見た。


「芽衣なんか、うちがおるけえ変えたって言うんよ。生意気じゃろ」


 口元を緩めたまま、花は続けた。


「でも二本目、ほんまに変えたんよ。心春も。うちがこう来るって分かったら、二人で勝手に変えて。ほんま腹立つ」


 笑うとまた声が掠れた。花は湯呑みを両手で包んだまま写真へ顔を上げた。


「今日、潮球して楽しかった」


 花は目を逸らさなかった。


「……楽しかったよ」


 それからも、凪が途中で潮核を取り損ねたことや、結が岸から何度もうるさかったこと、渚が休憩中に持ってきたパンを一人で二つ食べたことまで、今日あったことを次々に話した。遥香が決めていた時間を過ぎても誰も上がろうとしなかった話をするころには、湯呑みから湯気も上がらなくなっていた。


 花が立ち上がると、仏壇の前には二つの湯呑みが残り、座っていた座布団の端だけが濡れていた。

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