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潮球  作者: カミツキ
3年目の海

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73/91

第73話 離す、手

朝、花は窓際のハンガーから専用ドライスーツを外した。


 黒い生地は、昨日よりまっすぐになっている。胸と手足の発光ラインにも、畳み癖は残っていなかった。


 道具鞄のファスナーを開け、手の部分から入れて足を重ねる。胸の発光ラインを内側へ折ろうとして、花の手が止まった。


 折らずに二つに畳み、鞄の底へ収めた。


 仏壇の横には、部室から持ち帰った赤いだるまが置いてある。片方の目だけが白く、背中の文字は写真の方を向いていた。


 線香へ火をつける。細い煙が上がり、途中で少し曲がった。


 花は鞄を肩へ掛けた。


「行ってくるね」


 返事はない。花はだるまの向きを直さず、部屋を出た。


 放課後。


 花は部室へ向かわず、職員室の前で止まった。


 引き戸を開けると、三谷が机で大会の書類を見ていた。花の足音に顔を上げる。


「先生」

「どうした」

「退部届、まだ持っとる?」


 三谷は書類を机へ置いた。


「持っている」

「返して」


 三谷は理由を聞かず、机の一番上の引き出しを開けた。透明なファイルから、花の名前が書かれた退部届を取り出す。


 花は紙を受け取った。角は、出したときと同じ形で残っている。


「破らないのか」

「今は」


 退部届を二つに折り、鞄の内ポケットへ入れた。


「練習行ってきます」


 三谷が一度だけ頷く。


 花は引き戸を閉めた。


 部室の扉を開けると、最初に見えたのは凪の左足だった。


 床へ踵をつけたまま、机の脚へつま先を当てている。ふくらはぎを伸ばす姿勢だった。


 芽衣は椅子に座り、右肩へ細いテープを貼っている。七海は棚の下からタオルを取り出そうとして、立ち上がる前に太腿を一度押さえた。


 集合写真には、どれも写っていなかった。


 心春が濡れたタオルを窓際へ掛けていた。扉の音に振り返り、手が止まる。


「花ちゃん」


 全員の顔が扉へ向いた。


 花は道具鞄を床へ置いた。


「何」

「何って」


 心春は花の鞄を見た。ファスナーの隙間から、黒いドライスーツの手が少し出ている。


「来たんじゃね」

「見たら分かるじゃろ」


 結が口を開いた。その横で、陽の指が結の袖をつまむ。


 結は一度閉じた口を、今度は小さく開いた。


「肩、大丈夫?」


 花は芽衣を見た。右肩には、テープが二本走っている。


「大丈夫です」

「上がっとらんじゃん」

「花先輩に言われたくないです」

「うちは上がるよ」


 花が右腕を肩より上まで伸ばした。


 芽衣はその手を見たあと、テープの端を押さえた。


 凪が机の脚から足を下ろす。すぐには立たなかった。


「今日は、見るだけ?」


 花は道具鞄のファスナーを開けた。


「入る」


 凪はそれ以上聞かなかった。


 遥香がホワイトボードの前へ立つ。昨日までの文字が残っていた。


【接触後の進路】

【三秒を取らない判断】

【空いた側】


「予定は変えません」

「変えんでええよ」


 花はドライスーツを取り出した。


「うち、何やるん」

「接触役をお願いします」

「いつも通りじゃん」

「最初は、です」


 遥香は【三秒を取らない判断】の下へ線を一本引いた。


 花はその文字を見たが、何も言わなかった。


 * * *


 三原港の練習区画には、潮核が一つだけ浮いていた。


 岸壁へ当たった水が浅い位置を戻り、黄色い浮標の手前で主流へ混ざっている。潮核は境目へ入るたび、岸壁側へ半回転してから元の向きへ戻った。


 遥香が水際のホワイトボードへ配置を書く。


【潮核 一つ】

【接触後の進路】

【三分】


【保持 凪】

【接触 花】

【内側 芽衣】

【空いた側 心春】

【受け手 七海】


「花さんが接触へ入ったあと、芽衣さんは内側の進路を消してください。心春さんは芽衣さんについていかず、空いた側へ入ります」

「うちは凪を落とせばええんじゃろ」

「三秒を取れる場合は取ってください。ただし、接触後の配置まで確認します」


 花はゴーグルを下ろした。


「回りくどいね」

「昨日、それで勝ちました」


 遥香の声は変わらなかった。


 花が水へ入り、凪も続いた。


 冷たい水が胸まで上がり、左のふくらはぎへ細い張りが戻った。凪は足首を曲げる。動かせる。


 七海が主流側へ下がり、芽衣はその内側に入る。心春は二人から一歩離れた場所で止まった。


 凪が潮核を掴むと、胸と手足の発光ラインが赤くついた。花の手が、凪の左足へ重なる。


 笛が鳴った。


 凪は岸壁からの戻りへ入った。

 一秒。花は足の発光ラインへ手のひらを残し、横から押す水ごとついてくる。


 凪が主流側へ向きを変えた。

 二秒。戻りが花の腰へ入り、下半身を岸壁側へ押す。それでも花は腕を伸ばし、空いた距離を水を蹴って埋めた。手は離れない。


 三秒。


 凪の発光ラインが消えた。強制解除された潮核が手から落ち、浅い戻りへ流される。


 花はすぐに反転した。


「取った」


 潮核へ向かおうとしたところで、遥香の笛が鳴る。


「止めます」

「なんで。落としたじゃろ」


 花が水面へ顔を出し、凪も浮上した。


 芽衣は花のすぐ横にいた。本来入るはずだった内側へ花が進み続けたため、二人の肩が近づいている。心春は芽衣を避け、さらに外へ流されていた。


 その反対側で、七海が落ちた潮核を拾う。胸と手足の発光ラインが赤くついた。


「三秒は取れました」


 遥香がホワイトボードの配置へ線を足す。


「でも、花さんが内側まで進んだので、芽衣さんの場所がなくなりました。心春さんも芽衣さんを避けて外へ出ています」

「落としたんじゃけ、ええじゃろ」

「一個だけなら」


 芽衣の声だった。


 花が顔を向ける。


 芽衣は右肩を水面から出さず、左手だけで立ち泳ぎをしている。


「潮核が一個なら、花先輩が落としたので終わりです。でも試合は四個あります」

「他のはあんたらが取ればええじゃん」

「入る場所がなくなったら取れません」


 花の口が閉じた。


 七海が潮核を遥香へ戻す。


「うち、めっちゃ空いとったよ」

「今言う?」

「取れたけん」

「敵役じゃろ」

「拾えるのに拾わん方がおかしいじゃん」


 遥香が潮核を凪へ渡した。


「同じ配置でもう一度やります」


 芽衣が花へ近づく。


「花先輩」

「何」

「二秒で離してください」


 花の眉が動いた。


「まだ触れとるのに?」

「花先輩が追ったら、うちが入る場所なくなるけん」

「三秒取れるよ」

「知ってます」


 芽衣は花の右手を見た。


「昨日、うちは取れませんでした。じゃけ、離れたあとに進路を消しました。花先輩まで三秒取りに行ったら、昨日の形がなくなります」


 花は何も返さなかった。右手を一度開き、閉じる。


 凪は潮核を持ち直した。


「さっきと同じところへ行く」


 花が凪を見る。


「わざと?」

「花がどこで離すか、見たいから」

「性格悪いね」

「花が離さないのは知ってるから」


 花の目が細くなる。


「離すかもしれんじゃろ」

「じゃあ、確かめる」


 凪は開始位置へ戻った。七海が主流側へ下がり、芽衣はその内側、心春はさっきより半歩岸壁側から入った。


 花の手が、凪の左足へ重なる。


 笛。


 凪は一度目と同じ浅い戻りへ入った。一秒。花は左足の発光ラインへ手のひらを残したままついてくる。


 凪が主流側へ向きを変えると、二秒目に岸壁から返った水が花の腰の下へ入り、下半身を外へ押した。腕が伸び、指先はまだ赤い発光ラインへ触れている。


 もう一度水を蹴れば、残せる。


 花の膝が曲がった。


 手が離れた。


 凪の発光ラインは消えない。潮核も手の中に残っている。


 花が追わなくなった場所へ芽衣が入り、凪の内側を塞いで主流へ戻る進路を消した。心春は芽衣の横へ行かず、芽衣が離れた外側へ入り、七海へ続く線の上で止まる。


 凪は潮核を流そうとした。内側には芽衣がいる。七海への進路には心春がいる。外へ回れば、花がもう一度触れられる距離に残っていた。


 流す先がない。


 遥香の笛が鳴った。


 花は浮上し、自分の右手を見る。


「落としてないじゃん」

「進ませていません」


 遥香が答える。


「三秒タッチは成立していません。でも、芽衣さんと心春さんの位置が残りました。凪さんのパス先も消えています」


 花は芽衣を見た。


 芽衣は右肩をかばったまま、さっき花が追わなかった位置にいた。


「今のが、昨日の形?」

「近いです」

「近いだけ?」

「昨日も一回でできたわけじゃないです」


 芽衣が先に開始位置へ戻り、心春も続いた。


「花ちゃん、次もうちここでええ?」

「うちに聞くん?」

「花ちゃんがどこで離すか分からんけん」


 花は心春が立つ位置を見た。次に芽衣。最後に凪の左足へ目を向ける。


「もう一回」


 遥香が時計を戻した。


「同じ配置で続けます」


 凪は潮核を握り直した。胸と手足の発光ラインが赤くつく。


 花の右手が、その光へ伸びた。


 * * *


 練習後、部室の奥に濡れたドライスーツが並んだ。


 凪。芽衣。心春。七海。


 花は空いていたハンガーを棚から出した。名札には、まだ自分の名前が残っている。


【潮田花】


 濡れたドライスーツを掛ける。手の部分から水が落ち、床に小さな丸を作った。


 芽衣が隣で、自分の右肩からテープを外している。花は一度そちらを見たが、手は出さなかった。


「明日も接触の練習?」


 花が遥香へ聞く。


「今日の記録を確認してから決めます」

「三秒取る練習も入れてや」

「必要なら入れます」

「必要じゃろ」

「全員の配置を見て決めます」


 花は口を曲げた。


「前より面倒になっとる」

「人数が増えたので」

「花ちゃんがおらん間にね」


 心春が窓際から言った。


 花の手が、ドライスーツの袖口で止まる。


「知っとる」


 鞄の内ポケットには、二つに折った退部届が入っている。花は取り出さなかった。


 花の名札の下で、濡れたドライスーツから水が落ちた。


 棚には、だるま一つ分の隙間が残っていた。

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