第73話 離す、手
朝、花は窓際のハンガーから専用ドライスーツを外した。
黒い生地は、昨日よりまっすぐになっている。胸と手足の発光ラインにも、畳み癖は残っていなかった。
道具鞄のファスナーを開け、手の部分から入れて足を重ねる。胸の発光ラインを内側へ折ろうとして、花の手が止まった。
折らずに二つに畳み、鞄の底へ収めた。
仏壇の横には、部室から持ち帰った赤いだるまが置いてある。片方の目だけが白く、背中の文字は写真の方を向いていた。
線香へ火をつける。細い煙が上がり、途中で少し曲がった。
花は鞄を肩へ掛けた。
「行ってくるね」
返事はない。花はだるまの向きを直さず、部屋を出た。
放課後。
花は部室へ向かわず、職員室の前で止まった。
引き戸を開けると、三谷が机で大会の書類を見ていた。花の足音に顔を上げる。
「先生」
「どうした」
「退部届、まだ持っとる?」
三谷は書類を机へ置いた。
「持っている」
「返して」
三谷は理由を聞かず、机の一番上の引き出しを開けた。透明なファイルから、花の名前が書かれた退部届を取り出す。
花は紙を受け取った。角は、出したときと同じ形で残っている。
「破らないのか」
「今は」
退部届を二つに折り、鞄の内ポケットへ入れた。
「練習行ってきます」
三谷が一度だけ頷く。
花は引き戸を閉めた。
部室の扉を開けると、最初に見えたのは凪の左足だった。
床へ踵をつけたまま、机の脚へつま先を当てている。ふくらはぎを伸ばす姿勢だった。
芽衣は椅子に座り、右肩へ細いテープを貼っている。七海は棚の下からタオルを取り出そうとして、立ち上がる前に太腿を一度押さえた。
集合写真には、どれも写っていなかった。
心春が濡れたタオルを窓際へ掛けていた。扉の音に振り返り、手が止まる。
「花ちゃん」
全員の顔が扉へ向いた。
花は道具鞄を床へ置いた。
「何」
「何って」
心春は花の鞄を見た。ファスナーの隙間から、黒いドライスーツの手が少し出ている。
「来たんじゃね」
「見たら分かるじゃろ」
結が口を開いた。その横で、陽の指が結の袖をつまむ。
結は一度閉じた口を、今度は小さく開いた。
「肩、大丈夫?」
花は芽衣を見た。右肩には、テープが二本走っている。
「大丈夫です」
「上がっとらんじゃん」
「花先輩に言われたくないです」
「うちは上がるよ」
花が右腕を肩より上まで伸ばした。
芽衣はその手を見たあと、テープの端を押さえた。
凪が机の脚から足を下ろす。すぐには立たなかった。
「今日は、見るだけ?」
花は道具鞄のファスナーを開けた。
「入る」
凪はそれ以上聞かなかった。
遥香がホワイトボードの前へ立つ。昨日までの文字が残っていた。
【接触後の進路】
【三秒を取らない判断】
【空いた側】
「予定は変えません」
「変えんでええよ」
花はドライスーツを取り出した。
「うち、何やるん」
「接触役をお願いします」
「いつも通りじゃん」
「最初は、です」
遥香は【三秒を取らない判断】の下へ線を一本引いた。
花はその文字を見たが、何も言わなかった。
* * *
三原港の練習区画には、潮核が一つだけ浮いていた。
岸壁へ当たった水が浅い位置を戻り、黄色い浮標の手前で主流へ混ざっている。潮核は境目へ入るたび、岸壁側へ半回転してから元の向きへ戻った。
遥香が水際のホワイトボードへ配置を書く。
【潮核 一つ】
【接触後の進路】
【三分】
【保持 凪】
【接触 花】
【内側 芽衣】
【空いた側 心春】
【受け手 七海】
「花さんが接触へ入ったあと、芽衣さんは内側の進路を消してください。心春さんは芽衣さんについていかず、空いた側へ入ります」
「うちは凪を落とせばええんじゃろ」
「三秒を取れる場合は取ってください。ただし、接触後の配置まで確認します」
花はゴーグルを下ろした。
「回りくどいね」
「昨日、それで勝ちました」
遥香の声は変わらなかった。
花が水へ入り、凪も続いた。
冷たい水が胸まで上がり、左のふくらはぎへ細い張りが戻った。凪は足首を曲げる。動かせる。
七海が主流側へ下がり、芽衣はその内側に入る。心春は二人から一歩離れた場所で止まった。
凪が潮核を掴むと、胸と手足の発光ラインが赤くついた。花の手が、凪の左足へ重なる。
笛が鳴った。
凪は岸壁からの戻りへ入った。
一秒。花は足の発光ラインへ手のひらを残し、横から押す水ごとついてくる。
凪が主流側へ向きを変えた。
二秒。戻りが花の腰へ入り、下半身を岸壁側へ押す。それでも花は腕を伸ばし、空いた距離を水を蹴って埋めた。手は離れない。
三秒。
凪の発光ラインが消えた。強制解除された潮核が手から落ち、浅い戻りへ流される。
花はすぐに反転した。
「取った」
潮核へ向かおうとしたところで、遥香の笛が鳴る。
「止めます」
「なんで。落としたじゃろ」
花が水面へ顔を出し、凪も浮上した。
芽衣は花のすぐ横にいた。本来入るはずだった内側へ花が進み続けたため、二人の肩が近づいている。心春は芽衣を避け、さらに外へ流されていた。
その反対側で、七海が落ちた潮核を拾う。胸と手足の発光ラインが赤くついた。
「三秒は取れました」
遥香がホワイトボードの配置へ線を足す。
「でも、花さんが内側まで進んだので、芽衣さんの場所がなくなりました。心春さんも芽衣さんを避けて外へ出ています」
「落としたんじゃけ、ええじゃろ」
「一個だけなら」
芽衣の声だった。
花が顔を向ける。
芽衣は右肩を水面から出さず、左手だけで立ち泳ぎをしている。
「潮核が一個なら、花先輩が落としたので終わりです。でも試合は四個あります」
「他のはあんたらが取ればええじゃん」
「入る場所がなくなったら取れません」
花の口が閉じた。
七海が潮核を遥香へ戻す。
「うち、めっちゃ空いとったよ」
「今言う?」
「取れたけん」
「敵役じゃろ」
「拾えるのに拾わん方がおかしいじゃん」
遥香が潮核を凪へ渡した。
「同じ配置でもう一度やります」
芽衣が花へ近づく。
「花先輩」
「何」
「二秒で離してください」
花の眉が動いた。
「まだ触れとるのに?」
「花先輩が追ったら、うちが入る場所なくなるけん」
「三秒取れるよ」
「知ってます」
芽衣は花の右手を見た。
「昨日、うちは取れませんでした。じゃけ、離れたあとに進路を消しました。花先輩まで三秒取りに行ったら、昨日の形がなくなります」
花は何も返さなかった。右手を一度開き、閉じる。
凪は潮核を持ち直した。
「さっきと同じところへ行く」
花が凪を見る。
「わざと?」
「花がどこで離すか、見たいから」
「性格悪いね」
「花が離さないのは知ってるから」
花の目が細くなる。
「離すかもしれんじゃろ」
「じゃあ、確かめる」
凪は開始位置へ戻った。七海が主流側へ下がり、芽衣はその内側、心春はさっきより半歩岸壁側から入った。
花の手が、凪の左足へ重なる。
笛。
凪は一度目と同じ浅い戻りへ入った。一秒。花は左足の発光ラインへ手のひらを残したままついてくる。
凪が主流側へ向きを変えると、二秒目に岸壁から返った水が花の腰の下へ入り、下半身を外へ押した。腕が伸び、指先はまだ赤い発光ラインへ触れている。
もう一度水を蹴れば、残せる。
花の膝が曲がった。
手が離れた。
凪の発光ラインは消えない。潮核も手の中に残っている。
花が追わなくなった場所へ芽衣が入り、凪の内側を塞いで主流へ戻る進路を消した。心春は芽衣の横へ行かず、芽衣が離れた外側へ入り、七海へ続く線の上で止まる。
凪は潮核を流そうとした。内側には芽衣がいる。七海への進路には心春がいる。外へ回れば、花がもう一度触れられる距離に残っていた。
流す先がない。
遥香の笛が鳴った。
花は浮上し、自分の右手を見る。
「落としてないじゃん」
「進ませていません」
遥香が答える。
「三秒タッチは成立していません。でも、芽衣さんと心春さんの位置が残りました。凪さんのパス先も消えています」
花は芽衣を見た。
芽衣は右肩をかばったまま、さっき花が追わなかった位置にいた。
「今のが、昨日の形?」
「近いです」
「近いだけ?」
「昨日も一回でできたわけじゃないです」
芽衣が先に開始位置へ戻り、心春も続いた。
「花ちゃん、次もうちここでええ?」
「うちに聞くん?」
「花ちゃんがどこで離すか分からんけん」
花は心春が立つ位置を見た。次に芽衣。最後に凪の左足へ目を向ける。
「もう一回」
遥香が時計を戻した。
「同じ配置で続けます」
凪は潮核を握り直した。胸と手足の発光ラインが赤くつく。
花の右手が、その光へ伸びた。
* * *
練習後、部室の奥に濡れたドライスーツが並んだ。
凪。芽衣。心春。七海。
花は空いていたハンガーを棚から出した。名札には、まだ自分の名前が残っている。
【潮田花】
濡れたドライスーツを掛ける。手の部分から水が落ち、床に小さな丸を作った。
芽衣が隣で、自分の右肩からテープを外している。花は一度そちらを見たが、手は出さなかった。
「明日も接触の練習?」
花が遥香へ聞く。
「今日の記録を確認してから決めます」
「三秒取る練習も入れてや」
「必要なら入れます」
「必要じゃろ」
「全員の配置を見て決めます」
花は口を曲げた。
「前より面倒になっとる」
「人数が増えたので」
「花ちゃんがおらん間にね」
心春が窓際から言った。
花の手が、ドライスーツの袖口で止まる。
「知っとる」
鞄の内ポケットには、二つに折った退部届が入っている。花は取り出さなかった。
花の名札の下で、濡れたドライスーツから水が落ちた。
棚には、だるま一つ分の隙間が残っていた。




