第72話 勝った、みたい
金曜の放課後。
遥香がホワイトボードへ、翌日の予定を書いた。
【第一地区予選 第3戦】
【常水館高校対三原中央高校】
【会場 大崎上島沖 区画B】
【集合時刻 10:30】
その下には、出場登録の欄がある。
凪。結。陽。渚。遥香。七海。優奈。
七人まで書いたところで、遥香のマーカーが止まった。
芽衣は自分の棚の前にいた。練習後のドライスーツをハンガーから外し、手の部分に残っていた水をタオルで押さえている。
遥香が振り返った。
「芽衣さん、登録しますか」
「出ます」
芽衣はタオルを畳んだ。返事をしたあとも、手は止まらなかった。
遥香が名前を書き足す。
【糸崎芽衣】
心春は椅子に座り、解いた靴紐を結び直していた。芽衣へ顔を向ける前に、自分から口を開く。
「うちも出ます」
マーカーがもう一度動いた。
【宮浦心春】
九人の名前が並んだ。
花の名前はない。
凪はホワイトボードを見たまま、鞄の肩紐を握り直した。書き足してほしいとは言わなかった。
遥香が出場登録の写真を撮り、申請画面へ送信する。
「登録しました。変更はできません」
「九人もおったら、全員出られんね」
七海が名前を下から数えた。
「一度交代したら戻れません。出場しない人が出る可能性もあります」
「分かっとるよ」
七海の指は、まだ自分の名前の横にあった。
「でも、いつ呼ばれても行けるようにはしとく」
優奈が隣から七海を見る。
「早く行きすぎんようにね」
「まだ何もしてないじゃん」
「明日の話」
「明日の顔まで分かるん?」
「今と同じなら」
「変えるけん」
七海が口を曲げる。
遥香はホワイトボードの端へ、明日の持ち物を書き始めた。芽衣は自分のドライスーツを棚へ戻し、心春は結び直した靴紐を一度引いた。
花の名前がないまま、九人分の準備が進んだ。
* * *
翌朝、フェリーが大崎上島の桟橋へ着いた。
岸壁の向こうに、低い建物と山の緑が重なっている。島影の間では、濃い水の筋が東から西へ走っていた。
九人が道具鞄を持って船を降りる。
「あ」
七海が桟橋の脇を指した。
草の上に、茶色いうさぎが一匹いた。耳だけを立て、降りてくる人を見ている。
遥香の足が止まった。
腕時計を見ようとしていた手が、胸の前で残る。
「遥香先輩、うさぎ好きなんですか」
心春が聞いた。
「苦手です」
遥香の声が一段高くなった。
「怖いん?」
「そういう苦手ではありません」
うさぎが草を一口かじった。遥香の目が、その口元へ落ちる。
一年生の春には、試合前の芝生から動けなくなった。うさぎが足元へ集まり、アップの時間まで縮めた。
遥香は腕時計を確認した。
「潮況の掲示まで七分です。先に行きます」
「見んの?」
七海が聞く。
「試合が終わって、まだいたら見ます」
遥香は競技区画へ向かった。歩く速度はいつもと同じだった。
うさぎが顔を上げる。
遥香は振り返らなかった。
潮況ボードは、審判用テントの前に立てられていた。
【計測時刻 11:00】
【方向 東→西 秒速0.45m】
【特記 島影側に浅い横流れ】
【沖側は深度による速度差あり】
凪は水際へしゃがみ、手を水面へ入れた。
表面の流れは西へ向かっている。島影側へ近づくと、その下に横から押す水があった。浅い位置では岸側へ入り、深くなると主流へ戻っていく。
同じ方向には流れていない。
「浅い方、体が横にずれます」
凪が言うと、渚も手を入れた。
「腰から持っていかれそうです」
遥香は二人の言葉をノートへ書き、出場順をホワイトボードに並べた。
【第1ピリオド】
石塚凪
村上結
木梨陽
沖野渚
糸崎芽衣
【待機】
望月遥香
和田七海
西宮優奈
宮浦心春
心春は自分の名前を見たあと、芽衣の名前へ目を移した。
「最初は芽衣ちゃんだけなんじゃね」
「うん」
芽衣はゴーグルのベルトを引いた。
「心春は岸から見とって」
「どこを?」
芽衣の指が、潮況ボードの【浅い横流れ】へ向く。
「うちが流されたあと、どこが空くか」
心春は芽衣ではなく、水面を見た。
「分かった」
常水館の選手たちが海へ入る準備を始めた。先頭に小早川蓮がいる。肩を回し、専用ドライスーツの手を一度ずつ握っていた。
凪が一年生のときから、泳ぎ方は変わっていない。
流れより先に、水を押して進む。
第1ピリオド。
笛と同時に四つの潮核が放たれた。
小早川が一番近い潮核へ向かう。渚も同じ位置へ入ったが、小早川は横から来た浅い流れを体ごと押し切り、先に潮核を掴んだ。
胸と手足の発光ラインが青くつく。
渚が背後から左足へ触れた。小早川が主流へ向きを変えても、手のひらを発光ラインへ残したままついていく。一秒。浅い横流れが二人の腰へ入り、渚の下半身だけを岸側へ押した。上半身は小早川に引かれ、体が斜めに伸びる。
二秒になる前に、指先が外れた。
芽衣が前へ出た。渚が離れた左足ではなく、近くにあった小早川の右手へ触れる。計測が零から始まり、小早川は右腕を引いたまま水を蹴った。
一秒。
芽衣は腕を伸ばし、手の発光ラインを追う。小早川の肩は主流へ進み、芽衣の腰は横流れに岸側へ押された。腕と胴体が違う方向へ引かれ、肩が開く。
それでも離さなかった。
二秒目、小早川が腕を前へ振る。
芽衣の手が外れた。
小早川は潮核を離していない。青い発光ラインが、そのままゴールゾーンへ向かう。
凪には、次に小早川が入る深さが見えていた。追えば足へ触れられる。しかし、芽衣と渚が接触へ入った間、受け手になる常水館の選手が主流の先へ進んでいる。
凪は小早川を追わず、パス先へ向かった。
小早川は潮核を手放さなかった。
青い光がゴールゾーンへ沈む。
ブザー。
スコア:常水館高校 1-三原中央高校 0
凪はパス先に体を置いたまま、ゴールゾーンを見た。
小早川が自分で沈める可能性も分かっていた。それでも、全員で同じ一人を追う形には戻りたくなかった。
選んだ方が外れた。
第1ピリオドは、その一点だけで終わった。
スコア:常水館高校 1-三原中央高校 0
岸へ戻った芽衣は、左肩を回した。痛みを確かめるような動きだった。
遥香がタオルを渡す。
「三秒を取り切らなくていいです」
芽衣の手が止まった。
「でも、触ったら」
「三秒まで残せれば取れます。でも、小早川さんは一人で横流れを抜けられます。腕だけで追うと、芽衣さんの体が先に離されます」
遥香はホワイトボードへ小早川の進路を一本引き、その外側を塗りつぶした。
「次は止めるのではなく、こちらへ向けてください。パスか持球か、二つあった進路を一つにします」
「三秒を捨てるんですか」
「取れるときは取ってください。取れない姿勢のまま残さないでください」
芽衣は自分の手を見た。専用ドライスーツの手の部分に、小早川を追ったときの水滴が残っている。
「分かりました」
遥香は第2ピリオドの名前を書き換えた。
【交代】
村上結 → 望月遥香
木梨陽 → 宮浦心春
一度海を出れば、この試合には戻れない。
結は水面から見えた位置を遥香へ伝え、陽は心春の立つ場所を指した。
「芽衣の内側」
心春が確認する。
「芽衣ちゃんの横じゃなくて?」
「横へ行ったら、同じとこ空く」
陽はそれだけ言い、タオルを肩へ掛けた。
遥香がゴーグルを下ろす。水面担当として海へ残る位置へ向かった。
草地の端を、茶色いうさぎが横切った。
遥香の顔は試合区画へ向いたままだった。
第2ピリオド。
小早川が二つ目の潮核を掴んだ。
青い発光ラインがつくと同時に、芽衣が右足へ触れる。小早川は主流へ向かおうとしたが、芽衣は足を追わず、自分の肩を島影側へ入れた。
一秒。
小早川の進路が外へ寄る。
芽衣は二秒まで触れたところで、横流れが腰へ入る前に手を離した。三秒タッチは成立しない。小早川は自由になったが、主流へ戻るには一度体を切り返す必要がある。
その内側に、心春がいた。
芽衣を追ったのではない。二人の間にできた距離へ入り、小早川から常水館の受け手へ伸びる線を塞いでいる。
小早川が潮核を手放した。
青い発光ラインが消える。
潮核は心春を避けるため浅く流され、島影側の横流れへ入った。凪は、その流れが主流へ戻る場所へ先に向かう。
潮核を掴んだ。
胸と手足が赤く光る。
常水館の二人が距離を詰めてきた。凪は芽衣が待つ深さを見て、潮核を横流れへ戻す。
凪の発光ラインが消えた。
潮核は岸側へ押されたあと、深さを変えて芽衣の前へ浮かぶ。芽衣が受け取り、胸と手足のラインが赤くついた。
小早川が戻ってくる。
芽衣は押し切ろうとしなかった。
ゴールゾーンの手前まで横流れを使い、主流へ戻る境目で体を沈める。小早川の手が左足へ届くより先に、潮核をゴールゾーンへ入れた。
ブザー。
スコア:常水館高校 1-三原中央高校 1
芽衣が水面へ上がる。
心春も浮上したが、芽衣の横へは行かなかった。自分が塞いでいた場所を振り返り、次の潮核へ向かった。
第2ピリオド終了。
スコア:常水館高校 1-三原中央高校 1
遥香は水面から岸へ指示を出した。
「第3ピリオド、渚さんと優奈さんを交代します」
優奈が常水館の岸を見た。
「小早川さん、持ったあと二回強く蹴ります。三回目の前に、手が動く」
「パスですか」
「パスか、持ち直すか。でも手は動く」
芽衣が聞く。
「毎回?」
「今のところは」
優奈はゴーグルを下ろした。
「変えられたら、また見ます」
第3ピリオド。
優奈は小早川の近くへ入り、足ではなく肩と手を見ていた。
一度目の持球では、二回強く水を蹴ったあと、右手から潮核を離した。二度目は、同じ二回目で潮核を持ち直す。結果は違っても、肩が上がる拍は同じだった。
優奈が先に動くと、小早川は三回目の蹴りを増やした。
読まれた側も変えてくる。
優奈は追わず、次の動作を見た。
両校とも得点できないまま、第3ピリオドが終わった。
スコア:常水館高校 1-三原中央高校 1
最後のインターバル。
遥香は水面に残ったまま、岸の七海へ顔を向けた。
「心春さんと交代します」
心春は岸へ上がる。試合へ戻ることはできない。
七海が立ち上がった。
「今度は待ちます」
「何を待つんですか」
「終わったって分かるまで」
遥香は一度だけ頷いた。
「分かったら、次は早くていいです」
心春が七海の腕を軽く叩いた。
「芽衣ちゃんについていったら、同じとこ空くよ」
「芽衣先輩じゃなくて、空いた方ね」
「うん」
七海は水へ入った。
第4ピリオド。
常水館が先に潮核を拾った。
小早川の胸と手足が青く光る。芽衣が右足へ触れ、島影側へ体を寄せた。一秒。小早川は二回強く水を蹴り、主流へ入ろうとする。
芽衣は三秒まで追わなかった。
手を離し、常水館の次の選手へ向きを変える。
小早川の右肩が上がった。
優奈が動く。
潮核が手から離れ、小早川の青い発光ラインが消えた。優奈は受け手ではなく、その手前へ入っている。伸ばした指が潮核の端へ触れ、手の発光ラインが一瞬だけ赤くついた。
保持は成立しない。
潮核の向きだけが変わり、浅い横流れへ押し出された。
凪には、その流れが主流へ戻る場所が見えていた。
先へ入って潮核を掴む。胸と手足が赤くついた瞬間、常水館の二人が左右から距離を詰めてくる。
七海はゴールゾーンへ向かいかけていた。
早い。
凪が潮核を手放す前に、横流れが七海の腰へ入り、受ける位置から半歩外へ押した。
七海の手が届かない。
潮核はその横を抜け、常水館の選手が拾った。青い発光ラインがつく。
七海はすぐには次の潮核へ行かなかった。
常水館の手に収まったことを見てから、体を反転させる。相手が次に流す進路へ向かい、主流と横流れの境目で止まった。
遥香の声が水面から届く。
「七海、そこ!」
常水館の選手が潮核を手放した。
七海は待っていた位置から動く。潮核へ触れたが、横流れが指先を外へ押し、保持まではできない。手の発光ラインが一瞬赤くつき、消えた。
それでも軌道は変わった。
潮核が主流へ戻る。
優奈が小早川の動作を見る。
「二回!」
声が水面から落ちた。
小早川が潮核へ向かって二度水を蹴る。二度目に右肩が上がったところで、芽衣が進路へ入った。体を止めるのではなく、深い側だけを消す。
小早川は浅い方へ回った。
そこには七海がいる。
七海が先に潮核を掴んだ。
胸と手足の発光ラインが赤くつく。小早川の手が七海の右足へ伸びるが、七海はゴールゾーンへ直進せず、凪が指した横流れへ潮核を放した。
七海の赤いラインが消える。
凪は主流へ戻る潮核を待ち、手のひらで深さを一つ下げた。保持は一瞬で切れ、赤い光もすぐに消える。
潮核が浮かび直す先に、七海がいた。
一度手放したあと、次の位置へ入り直している。
七海が受け取った。
赤い発光ラインが、もう一度つく。
小早川が戻る前に、七海は潮核をゴールゾーンへ沈めた。
ブザー。
スコア:常水館高校 1-三原中央高校 2
試合終了の笛が鳴った。
七海が水面に顔を出すと、両手を上げた。
「待った!」
「最後は早かったです」
優奈が隣へ浮かぶ。
「終わったけんね」
「何が?」
「一個目の動き。ちゃんと常水館が拾ってから次に行った」
「見てたん?」
「見る役じゃけ」
「試合中に言ってや」
「水の中じゃ聞こえん」
七海が口を閉じた。
「それはそう」
芽衣は岸へ上がり、自分の右肩へ手を置いた。第1ピリオドで小早川を追った場所だった。
心春がタオルを持ってくる。
「痛い?」
「ちょっと」
「最後は追わんかったね」
「追っても離されるけん」
芽衣はタオルを受け取った。
「止めるんじゃなくても、消せる場所はあるみたい」
心春は返事をせず、芽衣の隣で水面を見た。
片付けが終わったあと、結が全員を潮況ボードの前へ集めた。
「写真撮るよ。二勝目じゃけ」
「一敗もしとるよ」
七海が言う。
「今は勝った方」
結はスマホを道具鞄へ立てかけ、タイマーを設定した。
九人が並ぶ。
芽衣と心春は濡れたドライスーツのまま、列の端に立った。遥香はノートと笛を持ち、優奈は七海に肩を押されて半歩前へ出る。
撮影直前、草地から茶色いうさぎが一匹出てきた。
遥香の顔がそちらへ向く。
「遥香、こっち!」
結の声で、正面へ戻った。
シャッター音。
写真の端に、うさぎの耳だけが入っていた。
結は確認すると、部のグループへ投稿した。
【二勝目!】
【常水館高校 1-三原中央高校 2】
遥香は時計を止め、ノートを閉じた。それから草地へ向かう。
「今から見るん?」
心春が聞く。
「まだいますから」
うさぎは逃げなかった。
遥香は手を出さず、少し離れた場所にしゃがんだ。スマホを一枚だけ撮り、すぐに立ち上がる。
「帰りの船まで二十二分です。移動します」
「一枚でええの?」
「帰ってから拡大します」
遥香の歩く速度は変わらなかった。
* * *
夕方。
来々軒の引き戸が開いた。
花が一人で入ってくる。
醤油と出汁の匂い。厨房で湯が沸く音。壁の温度計は、以前と同じ場所に掛かっていた。
店主が鍋から顔を上げる。
「花ちゃん、久しぶりじゃな」
「うん」
花は祖母と来ていた席へ座った。メニューは開かない。
「いつもの?」
「いつもの」
店主が鍋へ戻る。麺を入れ、箸で一度ほぐした。
「花ちゃん、今日は何の報告じゃ」
花はテーブルへ置いたスマホを見た。
画面には、結が投稿した集合写真がある。
「三原中央、勝ったみたい」
「そうか」
店主は鍋の火を弱めた。
「花ちゃんは?」
花の親指が、写真を広げる。
芽衣が濡れたドライスーツで立っていた。隣には心春がいる。二人の間には、七海の肩が入っていた。
写真の端には、うさぎの耳が写っている。
「うちは」
花の指が止まった。
「何もしとらん」
店主は返事をしなかった。
湯切りの音がして、器にスープが入る。麺。具。最後にねぎが置かれた。
ラーメンが花の前へ運ばれる。
「伸びるぞ」
「分かっとる」
花は箸を取った。
一口目を食べる前に、もう一度だけ写真を見る。
勝った。
花はスマホの画面を伏せた。
* * *
家へ帰ると、花は部屋の隅に置いていた道具鞄を開けた。
中には、畳んだ専用ドライスーツが入っている。
本郷戦のあとに洗い、乾かしてから一度も広げていなかった。手の部分は内側へ折られ、胸の発光ラインも途中で曲がっている。
花は床へ広げた。
ファスナーの脇に、白い塩の跡が残っていた。濡らしたタオルで拭くと、黒い生地の色が戻る。
手の部分を伸ばす。
右足。
左足。
胸。
発光ラインを一本ずつ指でなぞった。
花はクローゼットからハンガーを出した。
ドライスーツを掛ける。
畳み直さなかった。




