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潮球  作者: カミツキ
3年目の海

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72/91

第72話 勝った、みたい

金曜の放課後。


 遥香がホワイトボードへ、翌日の予定を書いた。


【第一地区予選 第3戦】

【常水館高校対三原中央高校】

【会場 大崎上島沖 区画B】

【集合時刻 10:30】


 その下には、出場登録の欄がある。


 凪。結。陽。渚。遥香。七海。優奈。


 七人まで書いたところで、遥香のマーカーが止まった。


 芽衣は自分の棚の前にいた。練習後のドライスーツをハンガーから外し、手の部分に残っていた水をタオルで押さえている。


 遥香が振り返った。


「芽衣さん、登録しますか」


「出ます」


 芽衣はタオルを畳んだ。返事をしたあとも、手は止まらなかった。


 遥香が名前を書き足す。


【糸崎芽衣】


 心春は椅子に座り、解いた靴紐を結び直していた。芽衣へ顔を向ける前に、自分から口を開く。


「うちも出ます」


 マーカーがもう一度動いた。


【宮浦心春】


 九人の名前が並んだ。


 花の名前はない。


 凪はホワイトボードを見たまま、鞄の肩紐を握り直した。書き足してほしいとは言わなかった。


 遥香が出場登録の写真を撮り、申請画面へ送信する。


「登録しました。変更はできません」


「九人もおったら、全員出られんね」


 七海が名前を下から数えた。


「一度交代したら戻れません。出場しない人が出る可能性もあります」


「分かっとるよ」


 七海の指は、まだ自分の名前の横にあった。


「でも、いつ呼ばれても行けるようにはしとく」


 優奈が隣から七海を見る。


「早く行きすぎんようにね」


「まだ何もしてないじゃん」


「明日の話」


「明日の顔まで分かるん?」


「今と同じなら」


「変えるけん」


 七海が口を曲げる。


 遥香はホワイトボードの端へ、明日の持ち物を書き始めた。芽衣は自分のドライスーツを棚へ戻し、心春は結び直した靴紐を一度引いた。


 花の名前がないまま、九人分の準備が進んだ。


 * * *


 翌朝、フェリーが大崎上島の桟橋へ着いた。


 岸壁の向こうに、低い建物と山の緑が重なっている。島影の間では、濃い水の筋が東から西へ走っていた。


 九人が道具鞄を持って船を降りる。


「あ」


 七海が桟橋の脇を指した。


 草の上に、茶色いうさぎが一匹いた。耳だけを立て、降りてくる人を見ている。


 遥香の足が止まった。


 腕時計を見ようとしていた手が、胸の前で残る。


「遥香先輩、うさぎ好きなんですか」


 心春が聞いた。


「苦手です」


 遥香の声が一段高くなった。


「怖いん?」


「そういう苦手ではありません」


 うさぎが草を一口かじった。遥香の目が、その口元へ落ちる。


 一年生の春には、試合前の芝生から動けなくなった。うさぎが足元へ集まり、アップの時間まで縮めた。


 遥香は腕時計を確認した。


「潮況の掲示まで七分です。先に行きます」


「見んの?」


 七海が聞く。


「試合が終わって、まだいたら見ます」


 遥香は競技区画へ向かった。歩く速度はいつもと同じだった。


 うさぎが顔を上げる。


 遥香は振り返らなかった。


 潮況ボードは、審判用テントの前に立てられていた。


【計測時刻 11:00】

【方向 東→西 秒速0.45m】

【特記 島影側に浅い横流れ】

【沖側は深度による速度差あり】


 凪は水際へしゃがみ、手を水面へ入れた。


 表面の流れは西へ向かっている。島影側へ近づくと、その下に横から押す水があった。浅い位置では岸側へ入り、深くなると主流へ戻っていく。


 同じ方向には流れていない。


「浅い方、体が横にずれます」


 凪が言うと、渚も手を入れた。


「腰から持っていかれそうです」


 遥香は二人の言葉をノートへ書き、出場順をホワイトボードに並べた。


【第1ピリオド】


 石塚凪

 村上結

 木梨陽

 沖野渚

 糸崎芽衣


【待機】


 望月遥香

 和田七海

 西宮優奈

 宮浦心春


 心春は自分の名前を見たあと、芽衣の名前へ目を移した。


「最初は芽衣ちゃんだけなんじゃね」


「うん」


 芽衣はゴーグルのベルトを引いた。


「心春は岸から見とって」


「どこを?」


 芽衣の指が、潮況ボードの【浅い横流れ】へ向く。


「うちが流されたあと、どこが空くか」


 心春は芽衣ではなく、水面を見た。


「分かった」


 常水館の選手たちが海へ入る準備を始めた。先頭に小早川蓮がいる。肩を回し、専用ドライスーツの手を一度ずつ握っていた。


 凪が一年生のときから、泳ぎ方は変わっていない。


 流れより先に、水を押して進む。


 第1ピリオド。


 笛と同時に四つの潮核が放たれた。


 小早川が一番近い潮核へ向かう。渚も同じ位置へ入ったが、小早川は横から来た浅い流れを体ごと押し切り、先に潮核を掴んだ。


 胸と手足の発光ラインが青くつく。


 渚が背後から左足へ触れた。小早川が主流へ向きを変えても、手のひらを発光ラインへ残したままついていく。一秒。浅い横流れが二人の腰へ入り、渚の下半身だけを岸側へ押した。上半身は小早川に引かれ、体が斜めに伸びる。


 二秒になる前に、指先が外れた。


 芽衣が前へ出た。渚が離れた左足ではなく、近くにあった小早川の右手へ触れる。計測が零から始まり、小早川は右腕を引いたまま水を蹴った。


 一秒。


 芽衣は腕を伸ばし、手の発光ラインを追う。小早川の肩は主流へ進み、芽衣の腰は横流れに岸側へ押された。腕と胴体が違う方向へ引かれ、肩が開く。


 それでも離さなかった。


 二秒目、小早川が腕を前へ振る。


 芽衣の手が外れた。


 小早川は潮核を離していない。青い発光ラインが、そのままゴールゾーンへ向かう。


 凪には、次に小早川が入る深さが見えていた。追えば足へ触れられる。しかし、芽衣と渚が接触へ入った間、受け手になる常水館の選手が主流の先へ進んでいる。


 凪は小早川を追わず、パス先へ向かった。


 小早川は潮核を手放さなかった。


 青い光がゴールゾーンへ沈む。


 ブザー。


 スコア:常水館高校 1-三原中央高校 0


 凪はパス先に体を置いたまま、ゴールゾーンを見た。


 小早川が自分で沈める可能性も分かっていた。それでも、全員で同じ一人を追う形には戻りたくなかった。


 選んだ方が外れた。


 第1ピリオドは、その一点だけで終わった。


 スコア:常水館高校 1-三原中央高校 0


 岸へ戻った芽衣は、左肩を回した。痛みを確かめるような動きだった。


 遥香がタオルを渡す。


「三秒を取り切らなくていいです」


 芽衣の手が止まった。


「でも、触ったら」


「三秒まで残せれば取れます。でも、小早川さんは一人で横流れを抜けられます。腕だけで追うと、芽衣さんの体が先に離されます」


 遥香はホワイトボードへ小早川の進路を一本引き、その外側を塗りつぶした。


「次は止めるのではなく、こちらへ向けてください。パスか持球か、二つあった進路を一つにします」


「三秒を捨てるんですか」


「取れるときは取ってください。取れない姿勢のまま残さないでください」


 芽衣は自分の手を見た。専用ドライスーツの手の部分に、小早川を追ったときの水滴が残っている。


「分かりました」


 遥香は第2ピリオドの名前を書き換えた。


【交代】


 村上結 → 望月遥香

 木梨陽 → 宮浦心春


 一度海を出れば、この試合には戻れない。


 結は水面から見えた位置を遥香へ伝え、陽は心春の立つ場所を指した。


「芽衣の内側」


 心春が確認する。


「芽衣ちゃんの横じゃなくて?」


「横へ行ったら、同じとこ空く」


 陽はそれだけ言い、タオルを肩へ掛けた。


 遥香がゴーグルを下ろす。水面担当として海へ残る位置へ向かった。


 草地の端を、茶色いうさぎが横切った。


 遥香の顔は試合区画へ向いたままだった。


 第2ピリオド。


 小早川が二つ目の潮核を掴んだ。


 青い発光ラインがつくと同時に、芽衣が右足へ触れる。小早川は主流へ向かおうとしたが、芽衣は足を追わず、自分の肩を島影側へ入れた。


 一秒。


 小早川の進路が外へ寄る。


 芽衣は二秒まで触れたところで、横流れが腰へ入る前に手を離した。三秒タッチは成立しない。小早川は自由になったが、主流へ戻るには一度体を切り返す必要がある。


 その内側に、心春がいた。


 芽衣を追ったのではない。二人の間にできた距離へ入り、小早川から常水館の受け手へ伸びる線を塞いでいる。


 小早川が潮核を手放した。


 青い発光ラインが消える。


 潮核は心春を避けるため浅く流され、島影側の横流れへ入った。凪は、その流れが主流へ戻る場所へ先に向かう。


 潮核を掴んだ。


 胸と手足が赤く光る。


 常水館の二人が距離を詰めてきた。凪は芽衣が待つ深さを見て、潮核を横流れへ戻す。


 凪の発光ラインが消えた。


 潮核は岸側へ押されたあと、深さを変えて芽衣の前へ浮かぶ。芽衣が受け取り、胸と手足のラインが赤くついた。


 小早川が戻ってくる。


 芽衣は押し切ろうとしなかった。


 ゴールゾーンの手前まで横流れを使い、主流へ戻る境目で体を沈める。小早川の手が左足へ届くより先に、潮核をゴールゾーンへ入れた。


 ブザー。


 スコア:常水館高校 1-三原中央高校 1


 芽衣が水面へ上がる。


 心春も浮上したが、芽衣の横へは行かなかった。自分が塞いでいた場所を振り返り、次の潮核へ向かった。


 第2ピリオド終了。


 スコア:常水館高校 1-三原中央高校 1


 遥香は水面から岸へ指示を出した。


「第3ピリオド、渚さんと優奈さんを交代します」


 優奈が常水館の岸を見た。


「小早川さん、持ったあと二回強く蹴ります。三回目の前に、手が動く」


「パスですか」


「パスか、持ち直すか。でも手は動く」


 芽衣が聞く。


「毎回?」


「今のところは」


 優奈はゴーグルを下ろした。


「変えられたら、また見ます」


 第3ピリオド。


 優奈は小早川の近くへ入り、足ではなく肩と手を見ていた。


 一度目の持球では、二回強く水を蹴ったあと、右手から潮核を離した。二度目は、同じ二回目で潮核を持ち直す。結果は違っても、肩が上がる拍は同じだった。


 優奈が先に動くと、小早川は三回目の蹴りを増やした。


 読まれた側も変えてくる。


 優奈は追わず、次の動作を見た。


 両校とも得点できないまま、第3ピリオドが終わった。


 スコア:常水館高校 1-三原中央高校 1


 最後のインターバル。


 遥香は水面に残ったまま、岸の七海へ顔を向けた。


「心春さんと交代します」


 心春は岸へ上がる。試合へ戻ることはできない。


 七海が立ち上がった。


「今度は待ちます」


「何を待つんですか」


「終わったって分かるまで」


 遥香は一度だけ頷いた。


「分かったら、次は早くていいです」


 心春が七海の腕を軽く叩いた。


「芽衣ちゃんについていったら、同じとこ空くよ」


「芽衣先輩じゃなくて、空いた方ね」


「うん」


 七海は水へ入った。


 第4ピリオド。


 常水館が先に潮核を拾った。


 小早川の胸と手足が青く光る。芽衣が右足へ触れ、島影側へ体を寄せた。一秒。小早川は二回強く水を蹴り、主流へ入ろうとする。


 芽衣は三秒まで追わなかった。


 手を離し、常水館の次の選手へ向きを変える。


 小早川の右肩が上がった。


 優奈が動く。


 潮核が手から離れ、小早川の青い発光ラインが消えた。優奈は受け手ではなく、その手前へ入っている。伸ばした指が潮核の端へ触れ、手の発光ラインが一瞬だけ赤くついた。


 保持は成立しない。


 潮核の向きだけが変わり、浅い横流れへ押し出された。


 凪には、その流れが主流へ戻る場所が見えていた。


 先へ入って潮核を掴む。胸と手足が赤くついた瞬間、常水館の二人が左右から距離を詰めてくる。


 七海はゴールゾーンへ向かいかけていた。


 早い。


 凪が潮核を手放す前に、横流れが七海の腰へ入り、受ける位置から半歩外へ押した。


 七海の手が届かない。


 潮核はその横を抜け、常水館の選手が拾った。青い発光ラインがつく。


 七海はすぐには次の潮核へ行かなかった。


 常水館の手に収まったことを見てから、体を反転させる。相手が次に流す進路へ向かい、主流と横流れの境目で止まった。


 遥香の声が水面から届く。


「七海、そこ!」


 常水館の選手が潮核を手放した。


 七海は待っていた位置から動く。潮核へ触れたが、横流れが指先を外へ押し、保持まではできない。手の発光ラインが一瞬赤くつき、消えた。


 それでも軌道は変わった。


 潮核が主流へ戻る。


 優奈が小早川の動作を見る。


「二回!」


 声が水面から落ちた。


 小早川が潮核へ向かって二度水を蹴る。二度目に右肩が上がったところで、芽衣が進路へ入った。体を止めるのではなく、深い側だけを消す。


 小早川は浅い方へ回った。


 そこには七海がいる。

 七海が先に潮核を掴んだ。


 胸と手足の発光ラインが赤くつく。小早川の手が七海の右足へ伸びるが、七海はゴールゾーンへ直進せず、凪が指した横流れへ潮核を放した。


 七海の赤いラインが消える。


 凪は主流へ戻る潮核を待ち、手のひらで深さを一つ下げた。保持は一瞬で切れ、赤い光もすぐに消える。


 潮核が浮かび直す先に、七海がいた。


 一度手放したあと、次の位置へ入り直している。


 七海が受け取った。


 赤い発光ラインが、もう一度つく。


 小早川が戻る前に、七海は潮核をゴールゾーンへ沈めた。


 ブザー。


 スコア:常水館高校 1-三原中央高校 2


 試合終了の笛が鳴った。


 七海が水面に顔を出すと、両手を上げた。


「待った!」


「最後は早かったです」


 優奈が隣へ浮かぶ。


「終わったけんね」


「何が?」


「一個目の動き。ちゃんと常水館が拾ってから次に行った」


「見てたん?」


「見る役じゃけ」


「試合中に言ってや」


「水の中じゃ聞こえん」


 七海が口を閉じた。


「それはそう」


 芽衣は岸へ上がり、自分の右肩へ手を置いた。第1ピリオドで小早川を追った場所だった。


 心春がタオルを持ってくる。


「痛い?」


「ちょっと」


「最後は追わんかったね」


「追っても離されるけん」


 芽衣はタオルを受け取った。


「止めるんじゃなくても、消せる場所はあるみたい」


 心春は返事をせず、芽衣の隣で水面を見た。


 片付けが終わったあと、結が全員を潮況ボードの前へ集めた。


「写真撮るよ。二勝目じゃけ」


「一敗もしとるよ」


 七海が言う。


「今は勝った方」


 結はスマホを道具鞄へ立てかけ、タイマーを設定した。


 九人が並ぶ。


 芽衣と心春は濡れたドライスーツのまま、列の端に立った。遥香はノートと笛を持ち、優奈は七海に肩を押されて半歩前へ出る。


 撮影直前、草地から茶色いうさぎが一匹出てきた。


 遥香の顔がそちらへ向く。


「遥香、こっち!」


 結の声で、正面へ戻った。


 シャッター音。


 写真の端に、うさぎの耳だけが入っていた。


 結は確認すると、部のグループへ投稿した。


【二勝目!】

【常水館高校 1-三原中央高校 2】


 遥香は時計を止め、ノートを閉じた。それから草地へ向かう。


「今から見るん?」


 心春が聞く。


「まだいますから」


 うさぎは逃げなかった。


 遥香は手を出さず、少し離れた場所にしゃがんだ。スマホを一枚だけ撮り、すぐに立ち上がる。


「帰りの船まで二十二分です。移動します」


「一枚でええの?」


「帰ってから拡大します」


 遥香の歩く速度は変わらなかった。


 * * *


 夕方。


 来々軒の引き戸が開いた。


 花が一人で入ってくる。


 醤油と出汁の匂い。厨房で湯が沸く音。壁の温度計は、以前と同じ場所に掛かっていた。


 店主が鍋から顔を上げる。


「花ちゃん、久しぶりじゃな」


「うん」


 花は祖母と来ていた席へ座った。メニューは開かない。


「いつもの?」


「いつもの」


 店主が鍋へ戻る。麺を入れ、箸で一度ほぐした。


「花ちゃん、今日は何の報告じゃ」


 花はテーブルへ置いたスマホを見た。


 画面には、結が投稿した集合写真がある。


「三原中央、勝ったみたい」


「そうか」


 店主は鍋の火を弱めた。


「花ちゃんは?」


 花の親指が、写真を広げる。


 芽衣が濡れたドライスーツで立っていた。隣には心春がいる。二人の間には、七海の肩が入っていた。


 写真の端には、うさぎの耳が写っている。


「うちは」


 花の指が止まった。


「何もしとらん」


 店主は返事をしなかった。


 湯切りの音がして、器にスープが入る。麺。具。最後にねぎが置かれた。


 ラーメンが花の前へ運ばれる。


「伸びるぞ」


「分かっとる」


 花は箸を取った。


 一口目を食べる前に、もう一度だけ写真を見る。


 勝った。


 花はスマホの画面を伏せた。


 * * *


 家へ帰ると、花は部屋の隅に置いていた道具鞄を開けた。


 中には、畳んだ専用ドライスーツが入っている。


 本郷戦のあとに洗い、乾かしてから一度も広げていなかった。手の部分は内側へ折られ、胸の発光ラインも途中で曲がっている。


 花は床へ広げた。


 ファスナーの脇に、白い塩の跡が残っていた。濡らしたタオルで拭くと、黒い生地の色が戻る。


 手の部分を伸ばす。


 右足。

 左足。

 胸。


 発光ラインを一本ずつ指でなぞった。


 花はクローゼットからハンガーを出した。

 ドライスーツを掛ける。


 畳み直さなかった。

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