第72話 勝った、みたい
佐木島へ向かうフェリーが三原港を離れると、船尾から伸びた白い航跡が島影の間で崩れ、後ろへ流れていった。
デッキには潮の匂いを含んだ風が入り、手すりの下では船体に押された水が何度も白く返っている。凪がその水を見ている横で、優奈と七海は荷物を足元へ寄せ、結はベンチに座ったままゴーグルの曇りを拭いていた。
芽衣の膝には、昨日、棚に残したまま帰ったドライスーツのバッグが載っていて、心春の足元にも同じものが置かれていた。向かいの席にいた遥香が登録表を閉じ、芽衣を見た。
「今日は出ますか?」
芽衣は膝の上のバッグに手を乗せた。
「……出ます」
「分かりました」
遥香はそのまま心春へ顔を向けた。
「心春さんも?」
「出ます」
フェリーが佐木島へ近づくにつれ、島の岸沿いに取られた競技区画が見えてきた。岸側には低い石積みの護岸が続き、その沖へ浮標が並んでいる。さらに外では別のフェリーが島影を抜け、遅れて届いた引き波が競技水域の水面を持ち上げていた。
岸へ上がって受付を済ませると、審判が潮況ボードを掲げた。
【本日の潮況】
時刻:13:20
方向:東→西 秒速0.3m
特記:岸寄りに西→東の弱い返し
船舶通過後、引き波あり
凪は石段を下り、脛まで海へ入った。沖から来た水は右脚の外側を西へ押しているのに、護岸へ寄ると足首だけが反対へ引かれる。沖の流れが石積みに当たり、岸沿いを細く戻っていた。
沖と岸で、向きが違う。
その間をフェリーの引き波が通るたび、二つの流れの境目が護岸側へ寄っては戻っていく。
常水館の選手たちも反対側で水へ入り、肩まで沈みながら何度か強く水を掻いていた。前回戦ったときと選手は変わっているが、一掻きで進む距離は今も長い。
最初の五人は、凪、結、芽衣、優奈、七海になった。
陽と渚、遥香、心春が岸に残り、四つの潮核が競技水域へ流される。結は水面近くから沖側へ開き、残る四人もそれぞれの潮核へ散った。
試合開始の笛が鳴ると、凪は岸寄りへ流れてきた潮核へ身体を向けた。
同じ潮核へ常水館の一人が沖側から入り、一掻きで凪との距離を詰める。凪は岸沿いの返しへ潮核が入る前に手を伸ばしたが、相手の腕が先に届き、胸と手足の発光ラインが点いた。
優奈が正面へ入ると、常水館の選手は右膝を身体の下へ引いた。優奈の視線が腰から下へ落ち、相手が蹴るより先に左へ身体を切る。
西条戦のときと同じだった。
常水館の選手は右足を伸ばさず、引いた膝を戻した。そのまま左足で水を強く押し、優奈が空けた側へ身体を返す。
変えた。
優奈が追い直したときには相手の肩が先へ出ていた。岸沿いの返しへ潮核を浅く離すと、別の常水館の選手が受け取ると発光ラインが点き、そのまま三原のゴール側へ身体を沈める。
芽衣が横から寄ったが、距離を詰める前に潮核がゴールへ入り、ブザーが水面まで届いた。凪が顔を出すと、得点板は0対1へ変わっていた。
次に凪の近くへ来た潮核でも、常水館は長い一掻きで三原との間を開けた。浮上したところへ結の声が飛び、沖側に残った七海の位置を確かめてから潜り直した。常水館はそこを避けて深い側へ流したが、ゴール手前では芽衣が進路へ身体を置いた。別の潮核でも三原は二度ゴール側まで運んだものの、護岸へ返る水へ入ったところで身体を寄せられ、最後の流し先を失った。
追加点が入らないまま第一ピリオド終了の合図が鳴り、岸へ戻ると優奈はゴーグルを上げたまま常水館側を見ていた。
「今、足見た?」
凪が聞くと、優奈は頷いた。
「右膝」
「途中で変えたね」
「うん」
優奈はもう一度、相手の足元を見た。
第二ピリオドが始まるころには、沖を通ったフェリーの引き波が競技水域へ入り、浮標のロープがまとめて上下した。波が抜けると、岸沿いの返しがさっきより沖まで張り出し、細かな泡が浮標一つ分ほど東へ戻っている。
凪はその返しへ寄ってきた潮核を拾った。発光ラインが点くのと同時に、常水館の選手が左から入り、凪の右手のラインへ触れる。
一秒。
凪が護岸側へ身体を向けると、相手も同じ角度でついてきた。正面にはもう一人が入り、沖側では七海が空いた場所へ身体を向けている。
西条戦なら、もう前へ出ていた。
七海がまだその場に残る中、相手の手は凪の発光ラインから離れない。
二秒。
凪が抱えていた潮核を岸沿いの返しへ離した瞬間、七海が水を蹴った。
東へ戻る潮核の先へ七海が入り、受け取ったところで発光ラインが点く。常水館の二人が身体を返してくる前に、七海は沖側へ残っていた結へ潮核を浅く流した。
結が受け取ると一人がそちらへ向かい、そのぶん中央の深い側が空いて、芽衣がそこへ身体を沈める。結は抱え込まず、岸から沖へ向かう流れへ潮核を離した。
芽衣の前を通り、そのさらに下へ入っていた優奈へ届くかに見えたところで、常水館の一人が進路へ身体を入れた。優奈は潮核へ寄らず、相手が自分を塞ぐため外へ開いた内側を芽衣が抜ける。
結から流れてきた潮核へ芽衣が手を伸ばし、身体の下へ抱え込むより先にゴール側へ沈めたところでブザーが鳴った。
水面へ戻った凪の先では、得点板が1対1へ変わっていた。
その後、凪が岸寄りの潮核を追って浮上したとき、沖側では七海が潮核を流されるまで位置を変えず、そのあとで次の場所へ入るのが見えた。常水館が深い側へつなごうとしても、さっきまで空いていた場所に七海の身体が残っているため、一度でゴール側まで運べなかった。得点が動かないまま第二ピリオドが終わった。
岸へ戻ると、七海が息を整えながら岸沿いを戻る泡を見た。
「前、行けそうじゃったけど」
凪も隣に上がった。
「待ってたね」
「凪先輩、まだ持っとったけえ。この前それで空けたし」
七海はタオルで顔を拭った。
「流してから行った方が、間に合った」
第三ピリオドから七海に代わって心春が入った。
石段を下りる前、心春は一度だけ芽衣を見た。芽衣はゴーグルをつけ直したまま振り返らず、心春もそのまま海へ入った。
再開後、沖側の潮核を常水館が先に拾うと、常水館の選手は流れに逆らわず西へ身体を伸ばした。芽衣が正面から入り、右手の発光ラインへ手を残す。
一秒。
常水館の選手は芽衣を連れたまま沖側へ向きを変え、ゴールから離れていく。その先では別の選手が中央へ入り、空いた場所へ身体を沈め始めていた。
二秒。
芽衣の手が発光ラインから離れ、そのまま相手を追わず中央へ身体を返した。常水館の選手が浅く流した潮核の進路へ先に入り、両腕の間へ当てて軌道をずらす。
三秒まで取らない。
ずれた潮核が沖側へ浮き、常水館のもう一人が追って身体を返す。その動きにつられて優奈も寄りかけたが、浮標の手前には心春が残っていた。
芽衣が動いたときにも、ついていかなかった。
護岸から離れる水に押された潮核が心春の方へ寄ると、心春は身体を半身だけ沈め、常水館の選手より先に両腕の間へ収めた。胸と手足の発光ラインが点き、すぐに二人が寄ってきたため、前へ運ばず凪のいる岸側へ浅く離す。
凪が受け取ったところで正面を塞がれ、芽衣へ返そうとした先には、さっきまで外へいた常水館の選手がもう戻っていた。凪は流すのをやめて潮核を抱え直し、伸びてきた相手の手が左手の発光ラインへ届いた。
一秒。
逃げる先には常水館がいる。凪が岸側へ沈むと、返しの水が肩へ当たり、身体だけを東へ押した。
二秒。
凪は三秒になる前に潮核を手放し、心春が残っていた外側ではなく、水面近くへ戻っていた結の下へ流した。結が触れるより先に常水館が手を入れ、攻守がまた入れ替わる。
次に芽衣が早く手を離したときには、常水館もすぐ別の受け手へ切り替えた。心春が残った場所も一度使ったあとは相手が先に塞ぎ、三原も同じ形を続けられない。凪が最後に浮上したときも得点板は動いておらず、1対1のまま第三ピリオド終了の合図が鳴った。
岸へ戻った芽衣は、濡れた右手を一度開いてから閉じた。隣でゴーグルを外した結が、その手を見る。
「芽衣、今の三秒までいっとらんよね」
「うん」
芽衣は常水館側を見た。
「追ったら、真ん中空くと思った」
その横では心春がタオルを頭へかけ、海を見ていた。
「心春も残っとったね」
心春はタオルの端を両手で持った。
「芽衣ちゃんについて行きそうになったけど、昨日そこ入ってみたけえ」
芽衣が心春を見ると、心春も顔を向けた。
「取れたじゃろ」
「うん」
第四ピリオドから結に代わって陽が入った。
開始直後、常水館が中央の潮核を拾うと、芽衣がまた正面から入り、右手の発光ラインへ触れた。常水館の選手は第三ピリオドと同じように外へ身体を向ける。
一秒。
芽衣は相手の進路がゴールから外れたところで手を離し、中央へ戻ろうとした。その瞬間、外へ向けていた相手の肩が内側へ戻り、芽衣が離れた場所へ切り込んでくる。
凪が岸側から寄ったが、相手の方が先に中央へ入った。
同じ離し方を待っていた。
陽が正面へ身体を入れると、常水館の選手はその手が届く前に潮核を沖側へ浅く流した。優奈の前へ入った受け手が右膝を身体の下へ引く。
優奈は先に動かず、相手が膝を戻して左足で水を蹴り、肩を沖側へ開いたところで初めて身体を切った。流された潮核へ横から手を入れると、指先に当たった潮核が岸側へ軌道を変え、護岸沿いの返しへ入った。
凪も身体を返し、東へ戻る潮核を腕の中へ収める。胸と手足の発光ラインが点くと、すぐ後ろから常水館の一人が追いつき、左手の発光ラインへ右手を残した。
一秒。
凪は岸沿いの返しへ身体を乗せた。相手も同じ水へ入り、肩を並べたままついてくる。
中央では芽衣がさっきの常水館の選手と位置を取り合い、その外側には心春が残っていた。陽はさらに深いところから、二人の下をゴール側へ回っている。
心春の前が空いている。
二秒。
凪は潮核を浅く離した。
岸沿いを戻る水から外れたところで潮核が速度を落とし、心春が両腕の間へ受け取った。常水館の一人がすぐ外側から寄ると、心春は前へ出ず、相手が距離を詰める前に潮核を身体の下へ沈めて離した。
護岸沿いの返しから外れた潮核は沖へ向かう流れへ入り、深い位置を通っていた陽の前へ流れた。陽が受け取ると、常水館の選手が一人、上から身体を沈めてくる。
陽は正面へ行かず、流れに肩を預けて身体を半身ずらし、伸びてきた手が胸の発光ラインへ触れる前に潮核を水中のゴール枠へ沈めた。ブザーが鳴り、凪が水面へ顔を出した先で得点板が2対1へ変わった。
残り時間、常水館は四つの潮核を広く使い、三原を外へ引き出そうとした。凪が岸側の一つを追う途中、芽衣が早く手を離した側では常水館の選手がすぐ内側へ戻り、心春の残る位置を避けて逆へ流す。別の潮核では優奈も足の動きだけでは先に出ず、心春は自分の前へ潮核が来なくても浮標の内側を空けなかった。
最後の一つを常水館が深く運び、凪も追って潜ったが、数度水を蹴ったところで胸が詰まり始めた。前では陽が常水館の選手との間へ身体を入れ、その横から芽衣の手が発光ラインへ伸びる。
一秒。
常水館の選手がゴール側へ沈むと、芽衣も同じ深さへついていく。
二秒。
相手が身体を外へ振ったところで芽衣の手が離れ、代わりに陽がその進路へ残った。浅く離された潮核の先には心春がいて、常水館の受け手との間へ身体を入れる。
二人の手が潮核へ伸びたところで、試合終了の合図が水面まで響いた。
凪が浮上して息を吸うと、岸の得点板には2対1が残っていた。隣へ上がった心春も何度か息を吸い、得点板を見た。
「勝ったん?」
凪と心春が息を整える横で芽衣も水面へ上がり、ゴーグルを押し上げたまま得点板の数字を見ていた。
「……勝った、みたい」
岸から結の声が返ってきた。
「みたいじゃない! 勝ったんよ!」
心春が水面を叩き、跳ねた水が芽衣の頬まで飛んだ。
「勝った!」
芽衣も笑った。
「うん。勝った」
もう一度得点板を見ても数字は変わらず、芽衣は口元を押さえようとした手を途中で下ろした。そのまま心春へ水をかけ返すと、心春も両手で水面を叩き、離れたところにいた優奈まで巻き込まれた。
「こっちまで来とるんじゃけど」
「ごめん!」
「心春だけじゃないじゃろ」
芽衣が笑いながら言うと、岸では結がスマートフォンを構えていた。
「そのまま! 撮る!」
「今?」
遥香が横から得点板まで入る位置を示し、結が後ろへ下がった。岸へ上がった陽に、七海と渚も寄ってきた。最後に凪たちが水から上がり、得点板の前へ並んだ。
撮影音が鳴った。
遥香は得点板も一枚撮って部のグループへ送り、続けて結果を書き込んだ。
『三原中央 2-1 常水館』
すぐ下へ結のメッセージが続く。
『勝ったーーー!!』
続けて、結がさっき撮った集合写真を送った。中央では芽衣と心春の髪からまだ水が落ち、七海はタオルを肩へ掛け、優奈は濡れた前髪を押さえている。
結は画面を見ながら指を動かした。
『帰ったら来々軒行こ!』
芽衣はその表示を見たあと、スマートフォンを持ったまま海へ顔を向けた。
護岸沿いでは、さっきまで使っていた返しの水がまだ東へ流れ、沖の流れとの境目を細かな泡が行き来していた。
* * *
花のスマートフォンが鳴ったのは、自分の部屋で机に肘をついていたときだった。
画面を開くと、部のグループに通知が並んでいる。
『三原中央 2-1 常水館』
その数字を見た瞬間、花の口元が緩んだ。
「勝ったんじゃ」
花はそこで口を閉じた。
続いて表示された写真には、得点板の前にみんなが並んでいた。濡れた髪のまま笑っている芽衣の隣には心春がいて、二人ともドライスーツを着ている。
「芽衣も出たんじゃ……」
花は写真を指で広げた。
その下には、結のメッセージがあった。
『帰ったら来々軒行こ!』
花は椅子から立ち上がり、机の脇に置いていた財布を取ると、上着を手にしたまま部屋を出た。玄関で片方の靴へ足を入れ、もう片方へ手を伸ばしたところで、その手が止まった。
来々軒へ行って、今日の試合がどうだったか聞く。芽衣がどこで入ったのか、心春が何をしたのか、誰が最後の一点を取ったのか聞いて、いつものように店主へ話せばいい。
そこまで考えたところで、花は履きかけた靴から足を抜いた。
赤い暖簾の向こうに、ばあちゃんと並んでラーメンを食べた席が浮かんだ。
花は上着を握ったまま玄関に座り込んだ。
家にいれば、ばあちゃんがもういないことが分かる。外に出れば、いたころのことばかり出てくるのに、それを忘れていくのはもっと嫌だった。潮球だって嫌いになれたら楽なのに、勝ったと聞けば嬉しくて、芽衣と心春が出たと知れば何があったのか全部聞きたくなる。戻りたいくせに戻れない自分まで、もう嫌だった。
上着を膝へ落とした花が両手で顔を覆うと、指の間から落ちた涙が膝を濡らした。一度袖で拭っても、また涙が頬を伝い、息を吸おうとすると喉の奥が詰まる。
花は玄関に座ったまま、もう一度目元を拭った。
「もう、しんどい……」




