第71話 追い越す、途中
月曜の放課後。
ホワイトボードには、土曜の試合で見つかった場所が残っていた。
【浅い戻り】
【陽の右側】
【七海一人分】
最後の一行だけ、ほかより文字が大きい。
「うち一人分って、正式な距離みたいになっとる」
七海がボードの前で両腕を広げた。心春は椅子へ練習用のバッグを置き、中からタオルとゴーグル、畳んだドライスーツを取り出す。
「そんなに広くないよ」
「じゃあ、これくらい?」
七海が肘を曲げると、心春も自分の両手で幅を作った。
「もうちょっと狭い」
「心春一人分じゃない?」
「うち、七海先輩より小さいもん」
「なら、七海八割分」
「余計分からんようになっとる」
結がホワイトボードの横から口を挟んだ。
凪は心春の椅子を見た。ドライスーツの胸には畳み跡が残っているが、手足の発光ラインまできちんと伸ばしてある。
「今日は入るの?」
「うん。土曜に見えた場所へ、ほんまに入れるか確かめたい」
心春はゴーグルのベルトを引き、緩んでいないことを確かめた。
「芽衣ちゃんは?」
結が聞くと、心春の指が一度止まった。
「まだ来てないよ」
「来たら、どうするん?」
「芽衣ちゃんが決めるじゃろ」
心春はドライスーツを抱え直した。
「見つけたんは、うちじゃけ。今日はうちが確かめる」
遥香がホワイトボードの空いた場所へ、練習条件を書き足した。
【潮核 一つ】
【三分】
【空いた位置の確認】
「公式戦とは条件を変えます。得点ではなく、接触が切れたあとの位置だけ確認します」
「西条付属の動きもやるん?」
渚が網袋を開ける。
「完全な再現はできません。保持する選手、受ける選手、接触する選手を置きます」
「うち、受ける方やる」
七海が手を上げた。
「今度は待ってください」
「分かっとる。土曜は早すぎたけんね」
優奈が七海の肩を見る。
「もう動きそう」
「まだ座っとるじゃん」
廊下から足音が近づいた。
心春が扉へ顔を向け、七海は広げていた腕を下ろした。
芽衣が部室へ入ってきた。
通学鞄とは別に、大きな手提げ袋を持っている。中には何も入っておらず、持ち手の間から反対側の布が見えていた。
「芽衣ちゃん」
心春が立ち上がる。
芽衣は返事をする前に、心春の椅子へ目を向けた。タオルもゴーグルも、ドライスーツも出ている。
「練習するん?」
「するよ」
「辞めるって言ったじゃろ」
「言ったよ。でも、土曜に見えた場所は確かめたい」
心春はホワイトボードを指した。
「うちが見つけたんよ」
芽衣は【陽の右側】から【七海一人分】までを読んだ。
「一回見えただけじゃろ」
「じゃけ、もう一回見る」
「うちが入らんでも?」
「それは芽衣ちゃんが決めることじゃろ」
心春は言い終えると椅子へ戻った。ファスナーへ手をかけたものの、すぐには開けない。
凪は網袋から潮核を一つ取り出し、残りの三つを底へ戻した。
「最初は、私があかりを追ったところからやりたい」
遥香のマーカーが止まった。
「凪さんが接触を続けて、西高屋さんへの進路を空けた場面ですね」
「うん。どこで離れれば、潮核と受け手を両方見られるのか確かめたい」
あかりの足へ触れていたあいだ、凪の目には青い発光ラインしか残らなかった。足元の戻りも、美咲が入った深さも見えていたのに、自分から手放した。
凪は心春へ顔を向けた。
「私が離れたら、空いた側へ入って」
「分かった」
遥香が配置を書き始める。
【保持 渚】
【接触 凪】
【受け手 七海】
【空いた側 心春】
凪の指がマーカーへ伸びかけた。
芽衣の名前を書けば、また自分の答えを先に置くことになる。
手を下ろした。
芽衣は空の手提げ袋を自分の棚の前へ置き、予備のゴーグル、タオル、使いかけのテーピングを入れていった。結がそちらへ顔を向けたが、陽が袖を引く。二人とも準備へ戻った。
最後に取り出したのは専用ドライスーツだった。芽衣は黒い生地を胸の発光ラインに沿って畳み、袋へ入れようとする。手の部分が口からはみ出したため、一度取り出して畳み直すと、今度は底まで収まった。
棚を閉める前に、芽衣の手が上の段へ伸びた。
だるまが並んでいる。
花のだるまがあった場所だけが空き、その隣に芽衣のだるまが残っていた。背中は棚の奥を向き、片方の目を白く残している。
芽衣が持ち上げる。
赤い背中が、部室へ向いた。
【花先輩を追い越す】
右上がりの文字だった。最後の一字だけ、だるまの丸みに押されて小さくなっている。
芽衣はだるまを手提げ袋へ下ろした。底にはドライスーツがあり、その上にはタオルとゴーグルが重なっている。
だるまの足が、袋の縁に触れた。
芽衣の手が上がる。
花のだるまがあった隙間には置かず、元の場所へ戻した。背中の文字が棚の奥へ隠れ、白い目だけが部室へ向く。
遥香がマーカーのキャップを閉めた。
「退部届は、今日出しますか」
「今日は出しません」
「練習は?」
芽衣は手提げ袋から、畳んだばかりのドライスーツを取り出した。
「入ります」
心春のファスナーが動いた。
「芽衣ちゃん、手のとこ裏返っとるよ」
芽衣が袖口を確かめると、内側の生地が指先だけ折り返されていた。
「先に言ってや」
「今言ったじゃん」
心春が伸ばした手を、芽衣は払わなかった。
* * *
港の練習区画には、潮核が一つだけ浮いていた。
岸壁へ当たった水が浅い位置を戻り、主流へ合流する手前で幅を細くしている。浮いた潮核が境目へ入るたび、岸壁側へ向いていた縫い目が半回転した。
遥香がホワイトボードを水際へ立てる。
【潮核 一つ】
【三分】
【位置確認】
「得点は狙いません。渚さんが保持し、凪さんが三秒タッチへ入ります。七海さんは受け手、心春さんは凪さんが空けた側を埋めてください」
渚が潮核を掴むと、胸と手足の発光ラインが赤くついた。七海は主流側へ下がり、心春はその内側に止まる。
凪が渚の左足へ触れた。
笛が鳴る。
渚が水を蹴り、凪は接触を保ったままついていった。一秒。岸壁から戻る水が二人の腰へ入り、渚の体を主流側へ傾ける。凪の肩も同じ方向へ引かれた。
二秒目に、七海が受ける位置へ動いた。
潮核が離れる場所も、その先で待つ七海も見えている。それでも凪の手は渚の足から離れない。ここで手を放せば、花がいなくなってから空いた場所が、また残る。
渚が潮核を手放した。
凪が反転したときには、七海が受ける進路が空いていた。心春はその場所ではなく、動き始めた七海の横へついている。同じ方向へ泳いだ二人の肩が近づき、七海は潮核へ伸ばした腕を引いた。
遥香の笛が鳴った。
「近かった」
七海が心春から半歩離れ、手で二人の距離を確かめる。
「七海先輩に合わせた方が、受けやすいかと思った」
「同じ場所へ入っとる」
陽が岸から二人の間を指した。
遥香はホワイトボードの【空いた側】へ線を引いた。
「心春さんは七海さんを追わず、凪さんが離れた場所へ入ってください」
心春は七海ではなく、凪がいた位置を見た。
「分かりました」
凪は渚の足へ触れていた手を開いた。接触を残すことだけを考え、手放された潮核を見るのが遅れた。心春へ置いた課題と、自分の失敗は離れていなかった。
「次は、私も早く離れる」
二回目。
凪は渚の左足へ触れながら、七海が待つ深さと、浅い戻りが細くなる位置を見た。一秒。水が渚の腰へ入り、手のひらが足首側へ滑る。
七海の肩が動いた。
凪は二秒になる前に手を離した。三秒タッチは成立しない。その代わり、渚が潮核を手放す前に七海の進路へ入る。
心春も七海を追わなかった。凪が離れた側へ進んだが、岸壁からの戻りが腰へ当たり、半歩外へ押し出される。七海とのあいだには、潮核一つ分より広い隙間が残った。
渚が手を開く。
七海は潮核を掴まず、手のひらで心春側へ軌道を変えた。発光ラインが一瞬赤くつき、すぐに消える。
潮核は心春の指先を抜けた。
届かなかった。
心春は流れていく潮核を追わず、自分が立っていた位置へ戻った。
「遠かった」
「入る場所は合っています。戻りに押された分だけ、外へずれました」
遥香が【心春】の横へ矢印を一本足す。
【半歩内側から】
心春は矢印と水面を見比べた。
「もう一回やる」
「次は接触する選手を変えます」
芽衣が前へ出た。
「うちがやります」
凪は渚から潮核を受け取った。胸と手足の発光ラインが赤くつき、芽衣の手のひらが左足のラインへ重なる。
笛が鳴った。
凪は浅い戻りに沿って横へ動いた。一秒目で芽衣の肩が遅れ、手のひらが踵側へ滑る。それでも芽衣は腕を伸ばし、凪の足だけを追ってきた。
岸壁から返った水が、芽衣の腰の下へ入り込んでいる。
次に浮く場所が、凪には見えた。
二秒。凪がもう一度水を蹴ると、戻りが芽衣の腰を持ち上げた。足を追って伸びた腕と、押し戻された胴体が別の方向へ引かれ、赤い発光ラインから指先が外れる。
計測が零へ戻った。
芽衣はすぐには追わなかった。水中で膝を曲げ、浮かされた体をいったん沈めると、凪が次に入る浅い層へ先回りする。もう一度、左足へ触れた。
凪は同じ戻りへ入った。芽衣が腕の力だけで食らいつくのか、水の向きごと追ってくるのかを見たかった。
一秒。芽衣は足首ではなく、凪の腰が向いた側へ自分の体を寄せる。二秒目に戻りが入っても、今度は肩が遅れなかった。
凪が主流側へ向きを変える。
芽衣の手が離れた。
遥香の笛が鳴り、二人は水面へ上がった。芽衣は息を吐きながら、まだ赤く光っている凪の左足を見る。三秒には届いていない。
「戻りに浮かされる前に、体の向きは変わりました」
遥香が水際から声をかけた。
「でも、凪さんが主流へ入ったところで、足を追い直しています」
「はい」
芽衣は顔の水を拭い、開始位置へ戻った。
「もう一回お願いします」
心春も、さっき矢印を足された場所へ入った。芽衣の横ではなく、芽衣が接触へ向かったあとに空く側だった。
凪は潮核を握り直した。
赤い発光ラインが、水面の下で揺れた。
* * *
練習後、濡れたドライスーツが部室の奥へ並んだ。
芽衣は自分の名札があるハンガーへスーツを掛け、手の部分に残った水をタオルで押さえた。持ってきた手提げ袋は畳まれ、棚の下に置かれている。
棚には、だるま一つ分の隙間が残っていた。
その隣で、芽衣のだるまは背中を隠している。
片方だけ白い目が、部室を向いていた。




