第71話 追い越す、途中
西条付属戦の翌日、放課後の三原港では、フェリーが港へ入るたびに岸壁沿いの水が持ち上がり、浮標をつないだロープが石垣へ寄っては離れていた。
凪が部室からボールバッグを持ち出そうとすると、棚の前にいた芽衣がタオルを畳み、自分のバッグへ入れていた。いつも置いているノートも、その横に重ねられている。
ゴーグルとドライスーツだけは棚に残っていた。
「今日は入りません」
凪が手を止めると、芽衣は棚の奥へもう一度手を伸ばした。
「荷物、片付けに来ただけです」
「うん」
芽衣が次に取り出したのは、水筒の下へ敷いていた古いタオルだった。バッグの口へ押し込んでも、棚にはまだ細かな物が残っている。
そこへ遥香がロープを取りに戻ってきた。芽衣の足元にあるバッグを見ると、持っていたロープを棚の脇へ置いた。
「先生のところへ行くなら、練習が終わってから一緒に行きます」
芽衣の手が、棚の中で止まった。
「……はい」
返事を聞いても遥香はそれ以上聞かず、ロープを抱えて外へ戻った。
凪もボールバッグを持って岸壁へ出ると、陽と渚はすでに浮標を水へ出していて、優奈と七海が二人で絡んだロープをほどいていた。結は岸壁の縁から水面を見ながら、浮標の間隔を指で示している。
その少し離れた自販機の前に、心春が制服のまま立っていた。
誰かと話しているわけでもなく、低い岸壁の向こうで揺れる浮標を見ている。
「心春は?」
七海がほどいたロープを引きながら聞いた。
「今日は見とく」
「入らんの?」
「うん」
心春は七海へ答えてから、また海へ顔を戻した。
昨日の大久野島でも、試合が終わるまで低い岩礁の岸側を見ていた。光っている選手を追わず、七海が動いたあとに誰もいなくなった場所だけを見て、自分なら入れたかもしれないと言った。
遥香も心春の方を一度見たが、そのまま浮標の一本を岸寄りへ動かした。
「昨日の低い岩礁のところ、ここで一回やってみたいです」
向かいの浮標も七海と優奈に寄せてもらい、いつもより狭い区画を作ると、遥香は潮核を一つだけ水へ流した。
結が浮標の外側から水へ入る。
「うちは見る方?」
「お願いします」
遥香は水面へ浮いた潮核を見た。
「三対三で。空いたところが昨日と同じようにできるか見たいです」
凪、優奈、七海と、陽、渚、遥香の三人ずつに分かれ、結は浮標の外、水面から全体を見られる位置へ残った。
最初に潮核を拾ったのは凪だった。
胸と手足の発光ラインが点くと、正面から陽が入り、凪の左手へ右手を伸ばしてくる。右側では七海が浮標寄りから中央へ身体を向け、優奈はその外側へ残っていた。
陽の手が発光ラインへ触れた。
一秒。
凪が右へ身体を振ると陽もそのままついてきて、さっきまで陽がいた中央の内側が開いた。七海がそこへ入りかけたのを見て潮核を浅く流したが、反対側に残っていた渚が先に軌道へ身体を入れ、両腕の前で受け止めた。
遥香が片手を上げ、全員が元の位置へ戻った。
浮標の外では、心春が凪ではなく、陽が離れたあとの場所を見ていた。
次は渚が潮核へ先に入り、発光ラインが点くのと同時に凪が正面から距離を詰めた。渚は凪が右手を伸ばす前から岸壁と反対側へ身体を振り、ゴールから外れる方向へ進んでいく。
凪の指が発光ラインへ触れた。
一秒。
そのまま渚を追えば、さらに外へ連れていかれる。その向こうでは遥香が中央へ入り始め、さっき陽が離れたあとと同じ場所が開いていた。
ここまで追わなくていい。
凪は手を離して中央へ身体を返した。渚が外へ泳ぎながら遥香へ潮核を流すと、その軌道へ先に入った凪の腕に潮核が当たり、遥香の手前を抜けていった。
「今、一秒じゃったよね?」
浮標の外から結の声が飛んだ。
「うん」
凪が息を吸いながら水面へ上がると、渚も外側から戻ってきた。
「もう追わんのかと思った」
「そっちに行くの分かったから」
凪は渚が泳いでいた外側ではなく、自分が戻った中央を見た。三秒まで触っていなくても、次の潮核には間に合った。
「そこ」
岸から心春の声がした。
凪たちが顔を向けると、心春は自販機の前から浮標の手前まで来ていた。
「昨日も、そこみたいなとこ空いとった」
七海が水面から振り返る。
「うちが前行ったあと?」
「うん。昨日は岩があったけえ分かったけど、今も陽先輩が凪先輩についていったあと、そこ誰もおらんかった」
心春は浮標の向こうを見たまま指を下ろした。
遥香が水面から聞いた。
「入ってみますか?」
心春の口が開きかけた。
そのまま部室の方を見る。
開いた扉の内側には、バッグを足元へ置いた芽衣が立っていた。棚から出した荷物を持ったまま、こちらを見ている。
心春と目が合っても、芽衣は何も言わなかった。
心春はもう一度海を見た。
「……入ってみたいです」
そう答えると、部室へ向かって走っていった。
凪が水面へ戻る横で、七海が心春の背中を見送った。
「昨日、ずっと見とったもんね」
「うん」
数分後、心春はドライスーツに着替えて岸壁へ戻ってきた。ゴーグルのバンドが髪に引っかかり、一度外して付け直してから石段を下りる。
部室の入口には、まだ芽衣がいた。
七海と交代して心春が優奈、凪と並ぶと、向かいには陽、渚、遥香が入った。結はそのまま浮標の外に残っている。
「最初から空いてる場所へ行かなくていいです」
遥香は昨日のように答えを示す代わりに、潮核を水へ戻した。
「見えたら、入ってみてください」
「はい」
優奈が先に潮核を拾うと、陽が正面から寄り、遥香も外側から進路を狭めていった。心春は二人の方へ寄らず、浮標の手前に残ったまま、陽の位置を見ている。
優奈が岸壁と反対側へ身体を振った。
陽がその進路へついていく。
中央が開いた。
心春が水を蹴り、優奈もその動きを見て潮核を浅く離した。流れてきた潮核へ腕を伸ばしたところで岸壁から返った水が腰へ当たり、身体だけが沖側へ押される。
指先に触れた潮核が腕の外へ抜け、その先へ入った遥香に拾われた。
心春が水面へ顔を出した。
「取れんかった」
遥香も浮上し、心春のいた場所から岸壁へ目を向けた。
「今、腰を押されてました」
心春は返事をせず、岸壁の下を見る。石垣へ当たった水が戻るところだけ泡が沖側へ伸び、浮標のロープも同じ方向へ膨らんでいた。
もう一度位置へ戻ると、今度は浮標より岸壁側へ寄らず、泡の筋から身体一つぶん外れて止まった。
優奈が潮核を受け取る。
陽が寄る。
心春はまだ動かない。
優奈が外へ身体を振り、陽がそのあとを追ったところで中央が開いた。岸壁から返った泡が心春の前を横切り、その筋が抜けたあとに心春が斜めへ身体を入れる。
優奈が浅く流した潮核が、今度は心春の正面へ来た。
両腕の間へ収めると、胸と手足の発光ラインが点いた。
遥香がすぐ正面から距離を詰めてきたため、心春は前へ出ようとせず、潮核を抱えたまま一度だけ岸へ顔を上げた。
「芽衣ちゃん!」
部室の入口にいた芽衣の肩が動いた。
「見えた!」
芽衣は荷物の入ったバッグを持ったまま、発光ラインの点いた心春を見ていた。
「……見えとるよ」
その声が届いたところで遥香の手が伸び、心春は慌てて身体を返した。
そこから練習を続けると、凪も触れた手を早く離せば毎回うまくいくわけではなかった。一秒で離したあとに渚が身体をゴール側へ戻し、そのまま抜かれた回もあれば、二秒まで追ったせいで遥香への流しに間に合わない回もあった。
相手がどこへ身体を向けたか、その先に味方と相手がどこに残っているかまで見てからでなければ、手を離す場所は決められない。
最後の一本では、渚が外へ身体を振ったところで凪が手を離し、中央へ戻った直後に遥香への浅い流しが来た。伸ばした腕に潮核が当たり、軌道が外へ逸れると、浮標の外から結が指を一本上げた。
練習が終わるころには、港の水面へ夕方の光が細く伸びていた。
心春は海から上がると、タオルを頭へかぶせたまま芽衣のところへ行った。
「一回取れた」
「見とった」
「昨日、見えたとこじゃった」
「うん」
返しながら、芽衣はバッグの持ち手を握り直した。練習前より中身が増え、口の近くまでタオルやノートが詰まっている。
「芽衣ちゃん、帰るん?」
「うん」
「先生んとこは?」
芽衣は部室の中を見た。少し離れたところでは、遥香が浮標のロープを巻いている。
「今日は、行かん」
ロープを巻く音が止まった。
「芽衣ちゃん」
遥香呼ばれて、芽衣が振り返った。
「どしたん?」
「私、三原に来て最初に仲良くなったの、芽衣ちゃんと渚さんでした」
三原港の方から、フェリーの汽笛が響いた。
芽衣は肩に掛けかけていたバッグを下ろした。
「……潮球辞めても、友達じゃろ」
遥香はすぐに頷いた。
「はい。友達です」
巻き終えたロープを足元へ置いて、もう一度芽衣を見た。
「でも、私は芽衣ちゃんとまだ潮球したいです」
「……分からん」
「はい」
港へ入ってきたフェリーの波が岸壁へ届き、浮標のロープが水面で張った。
心春が芽衣を見上げた。
「明日は?」
「それも、分からん」
芽衣はバッグを肩へ掛けると、そのまま港を離れていった。
凪は岸壁に残った潮核をボールバッグへ戻し、最後の一つを持ち上げた。指の間から海水が落ちる向こうで、心春は芽衣の背中ではなく、さっき自分が潮核を受け取った場所を見ていた。
* * *
港を離れて駅の方へ歩き始めてから、芽衣は腹が減っていることに気づいた。
昼に食べたパンから何も口にしていない。練習には入っていないのに、肩に掛けたバッグだけがいつもより重く、駅裏へ近づくころには、どこかで何か食べて帰ろうと思った。
曲がり角を一つ越えると、来々軒の赤い暖簾が見えた。
いつもの時間だった。引き戸の隙間から湯気が漏れ、醤油と出汁の匂いが歩道まで流れている。
芽衣の足が店の前で止まった。
地区大会で負けた日も、この匂いだった。
泣いていないふりをしながらラーメンをすすって、鼻を啜るたびに紙ナプキンが減っていった。あとから先輩たちが入ってきて、花先輩が隣に座った。誰も負けた試合のことをすぐには話さず、湯気の向こうで麺をすする音だけが続いていた。
あの日は、来年も花先輩がここにいると思っていた。
芽衣は暖簾へ手を伸ばさなかった。
腹は減っている。
店の中から丼を置く音がして、店主の声も聞こえたがそのまま通り過ぎた。
来々軒を過ぎると信号が赤になり、芽衣は横断歩道の手前で立ち止まった。左を向くと、高架の向こうへいつもの駅前通りが伸びていた。
去年の夏、同じ通りをやっさの列が通った。
太鼓が鳴って、法被姿の人が並び、その前に花先輩がいた。呼ばれてあかりたちと列へ入ったときも、芽衣には次にどちらの足を出すか分かっていた。小さいころから何度も見てきた踊りで、花先輩はいつも少し前を歩いていた。
信号が青に変わった。
隣で待っていた人たちが歩き始めるが、芽衣は動けなかった。
来々軒へ行っても花先輩がいる。
駅前へ来てもいる。
港へ戻れば、もっといる。
どこに行ってもいる。
目の前の青信号が滲んだ。
芽衣は手の甲で目元を拭ったが、次の涙がすぐ頬を伝い、抱えていたバッグへ落ちた。
「帰って来て……。花先輩」
声がうまく出なかった。
「うち、どうすりゃええん」




