第70話 岸から、見る
大久野島の桟橋を降りると、芝生へ続く道の脇にいた兎が人の足音を避けて植え込みへ入り、その向こうでは島影の間を抜けた潮が岸沿いの水面を押していた。
芝生を離れて海側へ回ると、岸寄りの大きな岩礁と、その沖側にある低い岩礁の間へ浮標で囲まれた競技水域が取られている。
去年、西条付属と戦ったのと同じ海だった。
審判がボードを掲げた。
【本日の潮況】
時刻:13:30
方向:南→北 秒速0.2m
特記:島影複数・潮目あり
岩礁周辺で流れが変わる
凪は水際へ入り、脛へ当たる水を受けた。岸寄りの大岩礁へ当たった流れは沖側へ割れ、低い岩礁の裏では泡の筋が岸へ曲がっている。岩礁のない場所より押し方が強く、膝を曲げなければ立っている位置までずらされた。
ベンチ側には遥香、渚、芽衣、心春が残った。芽衣と心春は練習着のままで、ドライスーツも着ていない。
競技水域の反対側では、西条付属が準備を終えていた。あかりがゴーグルを額へ上げる横で、美咲は低い岩礁の脇を流れる泡を見ていた。
あかりがこちらへ顔を向けた。
芽衣と目が合ったところで審判から集合の声がかかり、凪、陽、優奈、七海が水へ入った。結は水面近くに残り、四つの潮核が競技水域へ流されると、両校の選手も岩礁の間へ散っていく。
開始の笛が鳴った。
低い岩礁の沖側へ流れた潮核には、美咲が先に入った。浅い層で受け取って胸と手足の発光ラインが点くと、凪は岩礁の岸側から、陽も反対側から距離を詰めたが、美咲はゴールへ向かわず、岸へ返る流れの中に身体を残していた。
凪と陽が両側から手を伸ばせるところまで来てから、美咲が抱えていた潮核を真下へ沈めた。
凪が軌道を追って一段深く潜る。耳にかかる水圧が強まり、胸も詰まり始める中、美咲の身体に隠れていた深い層で発光ラインが点いた。
あかりだ。
誘われた。
あかりは潮核を受け取ると、すぐには大岩礁と低い岩礁の間へ出ず、横から追ってきた優奈が進路へ入るのを待った。優奈がゴールとの間へ寄ったところで、あかりは身体を外へ振り、低い岩礁の裏から岸へ返る水を足へ受けて一気に前へ出た。
凪も追ったが、美咲を追って深く潜った分だけ息が先に苦しくなった。水面へ上がって吸い直したときには、あかりの発光ラインがもうゴール側へ沈み、ブザーが水面まで響いた。
残る三つの潮核では得点が動かず、第一ピリオド終了時の得点板には0対1が残った。
五分のインターバルで岸寄りへ戻ると、凪はゴーグルを上げながら低い岩礁を見た。去年、美咲はあの岩礁の脇で泡を見てから動いていた。今日は凪たちが寄る前から、流れの変わる場所に身体を置いていた。
「下におったの見えた?」
結が水を払いながら聞いた。
「美咲で隠れてた」
「うちも発光するまで分からんかった」
結が息を入れ直す横で、七海は低い岩礁の向こうへ流れていく潮核を見ていた。
第二ピリオドが始まると、大岩礁の外側から入った潮が一つの潮核を岸側へ押した。凪は泡が折れる手前で待ち、岩礁へ寄ってきたところへ先に手を入れた。
胸と手足の発光ラインが点いたときには、低い岩礁の向こうで七海が身体を返し、もうゴール側へ泳ぎ始めていた。
早い。
凪との距離が開いていく中、美咲が岩礁の外から入り、左手の発光ラインへ手を残した。
一秒。
凪は七海のいた場所へ潮核を流そうとしたが、七海はすでに低い岩礁を越え、代わりに内側へ入り直した優奈との間には美咲の身体があった。
二秒。
凪は三秒を待たず、大岩礁の裏へ潮核を離した。岸へ返る流れに乗せて結の下へ通すつもりだったが、美咲から離れていた西条の選手がその軌道へ先に入り、身体の前で受け止める。
七海が振り返ったときには、自分がいた低い岩礁の岸側を別の西条の選手が通り、そこから浅い層へ潮核がつながっていた。
最後に受けた美咲へ陽と優奈が寄る。美咲は二人との距離が詰まっても低い岩礁の手前に残り、陽が正面へ、優奈が下へ回ったところで潮核を真下へ沈めた。
深い層で待っていたあかりが受け取り、大岩礁との間へ身体を向ける。凪も追って潜ったが、浅い美咲から深いあかりへ身体を返す間に距離が開き、そのままゴールまで運ばれた。
第二ピリオド終了時、得点は0対2になっていた。
岸へ戻ると、七海は水から上がらず、低い岩礁の岸側を見ていた。
「次、空いとったけえ」
「うん。でも、私がまだ持っとった」
七海が凪へ顔を向ける。
「流すまで、あそこにいて」
「分かった」
そのやり取りを聞いていた心春が、芽衣の隣から低い岩礁を指した。
「さっき、七海がおったとこ。前行ったあと、ずっと誰もおらんかった」
芽衣もその先を見る。
「そこ見とったん?」
「うん。光ってる人追ったら分からんようになるけえ、岩だけ見とった」
遥香が心春へ顔を向けたところで審判から再開の声がかかり、凪たちはもう一度水へ戻った。
第三ピリオドでは、大岩礁の外側へ流れた潮核を凪が拾うと、美咲が正面から寄ってきた。低い岩礁の手前には七海が残っている。
美咲の手が右手の発光ラインへ届く前に、凪は七海へ浅く流した。七海は受け取っても前へ出ず、陽が大岩礁の外を抜けるまで潮核を抱え、その進路へ西条の一人が動いたところで反対側の優奈へ流す。
優奈が受け取って発光ラインが点くと、正面にはあかりが入った。
あかりはすぐには距離を詰めず、優奈が低い岩礁の外へ身体を向けるのを待っている。優奈もあかりの胸元ではなく、腰から下へ顔を向けた。
あかりが右膝を身体の下へ引いた。
優奈はその足が水を蹴るより先に反対側へ切り、伸びてきたあかりの手を外した。低い岩礁の岸側へ回り込み、裏から押し返す水へ身体を乗せると、追いつかれる前に潮核をゴール枠へ沈めた。
ブザーが鳴り、水面へ戻った凪の先で得点板が1対2へ変わっていた。
息を吸いに上がってきた優奈へ凪が顔を向ける。
「何見た?」
「右足」
優奈はそれだけ返し、あかりから目を離さないまま再び水へ潜った。
残る潮核では得点が動かず、第三ピリオドは一点差のまま終わった。
第四ピリオドから七海に代わって渚が入り、岸へ上がった七海は水際から競技水域を見ていた。
再開後、低い岩礁の向こうで優奈が潮核を受け取り、その正面へあかりが入った。優奈の視線がまた足元へ落ちると、あかりが右膝を身体の下へ引いた。
同じだ。
優奈が先に左へ切ったが、あかりは蹴らなかった。身体の下へ引いた右足を戻し、横へ抜けた優奈との距離を詰めると、右手の発光ラインへ手を残した。優奈が先に左へ切ったが、あかりは蹴らなかった。身体の下へ引いた右足を戻し、横へ抜けた優奈との距離を詰めると、右手の発光ラインへ手を残した。
一秒。
優奈が腕を引いて身体を沈めても、あかりは同じ深さへついていき、岩礁側へ逃げる身体に合わせて水を蹴った。
二秒。
優奈が潮核を腹の下へ逃がそうと腕を伸ばしても、あかりはその動きに肩を合わせ、触れた手を残した。
三秒。
優奈の手から離れた潮核へ、そのすぐ上にいた美咲が入った。
受け取った美咲へ陽と渚が浅い層から寄り、凪も大岩礁側から身体を返した。美咲は三人が近づいても低い岩礁の手前を離れず、陽との距離が詰まるまで潮核を抱えている。第一、第二ピリオドと同じなら、次は真下へ落としてあかりにつなぐ。
凪は美咲の腕が動く前に身体を沈め、低い岩礁の底側へ回った。先に入れば、落ちてくる潮核とあかりの間へ入れる。耳にかかる水圧が強くなったところで美咲の腕が下へ伸び、潮核が真下へ沈んできたが、その先にはもう、あかりが岩礁の底側へ身体を向けて待っていた。
凪が潮核へ手を伸ばすより先にあかりが受け取り、発光ラインを点けたまま岩礁沿いの深い層をゴールへ向かった。凪も身体を返して追ったが、美咲が流す前から先回りして潜っていたぶん、数度蹴ったところで胸が詰まり、蹴りも短くなった。もう一度強く水を蹴っても、距離は詰まらない。
間に合わない。
あかりの発光ラインがゴール側へ沈み、続いてブザーが水面まで響いた。
そのまま試合終了の笛が続き、凪が水面へ戻ると得点板には1対3が残っていた。
岸へ上がると、七海が渚へタオルを渡し、優奈はゴーグルを外して一度だけ西条側を見た。あかりもこちらへ顔を向けたが、美咲から声をかけられると、いったん自分たちの荷物の方へ戻っていった。
凪がドライスーツの水を払いながら低い岩礁を見ると、心春も同じ場所へ顔を向けていた。
「第二ピリオドのとこ、うちならあそこ入れたかもしれん」
芽衣が心春を見る。
「さっき言っとった場所?」
「うん。入ってみんと分からんけど」
心春は芽衣へ答えながらも、岩礁の岸側から目を外さなかった。
その向こうから砂利を踏む足音が近づき、あかりが芽衣の前まで来た。美咲も少し後ろにいた。
「ねえ。なんで出んかったん」
芽衣は座ったまま顔を上げた。
「今日は登録してないけえ」
「なんでなん」
芽衣の手が膝の上で重なった。
「……辞めるかもしれんけえ」
あかりの眉が寄った。
「潮球?」
「うん」
「なんで」
「花先輩が辞めるけえ……」
あかりは芽衣を見たまま口を閉じ、美咲も二人の間へ顔を向けた。
「は? 先輩が辞めるのと芽衣が辞めるん、同じなん?」
「同じじゃないけど」
「じゃあ、なんで芽衣まで辞めるん」
「分からんよ」
芽衣の声が強くなった。
「分からんけど、花先輩がおらんのに続けるとか、まだ考えられんの」
「去年の夏、うちが抜いたとき、次は止めるって思わんかったん?」
芽衣が顔を上げた。
「思ったよ」
「じゃあ、勝手にそこまでなくさんでよ」
「勝手って何」
「うちは芽衣とまたやるつもりだったんよ」
芽衣があかりを見返すと、あかりはそのまま続けた。
「あの一回で終わったと思っとらん。内陸校でも地区大会に出れるって証明したかったし、次も試合で芽衣とやるつもりで練習しとった」
「そんなんあかりの勝手じゃん」
「ほうよ。うちの勝手よ。じゃけえなんなん」
あかりはすぐに返した。
「勝手に消えんでよ。勝手に辞めんでよ。うちはまた芽衣とやりたいんよ」
「あかり」
美咲が横から声を入れた。
「言い過ぎ」
「分かっとる! 言い過ぎでも言う」
美咲があかりの腕へ手をかけても、あかりは芽衣から目を外さなかった。
「うちら絶対、地区大会行くけえ」
芽衣の唇が動いた。
「私が辞めるかは、私が決める」
「うん」
あかりが頷いた。
「じゃけえ、うちは来いって言う。芽衣も来んかったら許さんけえ」
美咲が今度はあかりの腕を引いた。
「もう行くよ」
「美咲、ごめん」
あかりはようやく芽衣から顔を外し、美咲と一緒に西条の列へ戻っていった。
芽衣は膝の上で重ねていた手をほどき、二人の背中を追わず、低い岩礁の岸側へ顔を戻した。試合が終わったあとも、岩礁の裏では泡の筋が岸へ向かって曲がり続けていた。




