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潮球  作者: カミツキ
3年目の海

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第69話 言いに、来た

金曜の放課後。


 部室の奥に、前日の練習で使ったドライスーツが並んでいた。胸と手足の発光ラインは消え、ファスナーの脇に白い塩が残っている。閉めた窓の内側には、乾ききっていない生地の匂いが籠もっていた。


 ホワイトボードには、翌日の予定が書かれている。


【公式戦】

【西条付属高校】

【集合 9:00】


 その下には、出場選手を書くための空欄が残っていた。


 遥香は黒いマーカーを持っていたが、まだ一人も書いていない。


 部室には九人が揃っていた。


 誰も着替えていなかった。渚の足元には開いたままのボールバッグがあり、網袋に入った四つの潮核が床へ転がらないよう、陽が足先で押さえている。


 七海は椅子に座り、ゴーグルの縁を指でなぞっていた。優奈は窓際に立ち、廊下を通る足音のたびに顔を上げる。


 心春は、花が使っていた椅子の横にいた。


 芽衣は入口に近い机へ鞄を置き、スマートフォンの画面を点けては消していた。親指は動いているのに、通知は一つも開かれていない。


 凪は鞄の肩紐を握った。


 花が来ることは、昨日のうちに全員へ伝えてある。


 それでも、扉が開くまで何を話すのかは分からなかった。


 廊下から、一人分の足音が近づいた。


 芽衣の親指が止まる。


 扉が開いた。


 花が立っていた。


 制服を着て、右手には大きな手提げ袋を持っている。教室から来たはずなのに、通学鞄はなかった。


「花ちゃん」


 心春が一歩出た。


 花は心春を見てから、部室の中へ入った。


「全員おるね」


 花の後ろから三谷が姿を見せた。机の上に置かれたファイルを開き、退部届が挟まれていることを確認する。


「話が終わったら、職員室へ来い」


「はい」


 三谷は部室の中を一度見渡した。それ以上は何も言わず、扉を閉める。


 革靴の音が、廊下の先へ離れていった。


 花は手提げ袋を自分の椅子へ置いた。


「荷物、取りに来た」


 結の指が、机の縁を掴む。


「ほんまに取りに来たん」


「そのための袋じゃろ」


 花は自分の棚を開けた。


 名前を書いたタオル。予備のゴーグル。使いかけのテーピング。練習後に買ったまま忘れていた小さな飲料ゼリーも、奥から出てきた。


 花は一つずつ、手提げ袋へ入れていく。


 心春が袋の口を持とうとした。


「自分でやる」


 花の声は強くなかった。


 心春の指が袋から離れ、芽衣の隣へ戻った。


「退部届、本気なん?」


 結が聞いた。


「本気じゃなかったら出さんよ」


「でも先生、まだ受理してないって」


「今日、話す」


「話したら、変わるかもしれんじゃん」


「変わらん」


 花は棚の奥へ手を入れた。


 赤いマーカーが一本出てくる。側面には、大きな字で「花」と書かれていた。


「それ、部のじゃない?」


 結が言った。


「名前書いたけん、うちのじゃろ」


「名前を書いたら私物になるん?」


「ずっとうちが使っとったよ」


 遥香がマーカーへ顔を向けた。


「部費の購入記録にあります」


「そうなん?」


「はい」


 花はキャップを一度押し、机へ戻した。


「じゃあ置いとく」


 いつものやり取りに近かった。


 結の口元は動かなかった。


 花は棚を閉めようとして、上の段へ顔を向けた。


 だるまが並んでいる。


 どれも背中を棚の奥へ向け、片方の目を白く残していた。春を待つように置かれてから、向きは変わっていない。


 花は、その中から一つを持ち上げた。


 だるまの背中が、初めて部室へ向く。


【優勝して、ばあちゃんに報告する】


 花の大きな字だった。


 芽衣の指が、鞄の肩紐から離れた。


 七海の手から、ゴーグルが膝へ落ちる。


 凪は、昨日の花の声を思い出した。


 勝ったと言うつもりだった。

 帰りのフェリーへ乗る前に、電話が来た。


 花はだるまをタオルで包み、手提げ袋の底へ入れた。


 白いままの目が、袋の縁より下へ消える。


 棚には、だるま一つ分の隙間が残った。


 その隣には、芽衣のだるまがある。背中は棚の奥へ向いたままだった。


 芽衣は一度だけその隙間を見て、花へ顔を戻した。


 花は棚を閉めた。


「うち、退部する」


 乾きかけたドライスーツの袖が、ハンガーの上で擦れた。


 花は机の上の退部届へ顔を向けたまま続ける。


「家のこともあるし、今は練習行っても集中できん。そんな状態で試合に出たら、迷惑かけるじゃろ」


「休むだけではだめなんですか」


 遥香が聞いた。


「休部?」


「はい。今、決めなくても」


「待たれるのも嫌なんよ」


 遥香の持つマーカーが、ホワイトボードの前で止まった。


「戻らんといけん場所があるみたいになるじゃろ。今は、ばあちゃんのことと潮球を分けられん」


 花はそれ以上を話さなかった。


 凪は口を閉じた。


 花が昨日話したことを、自分から全員へ渡すことはできない。


 芽衣が入口のそばから動いた。


「なんで、相談してくれんかったんですか」


「相談して、何が変わるん」


「変わらなくても、言えばよかったじゃないですか」


「言ったら止めるじゃろ」


「止めますよ」


 芽衣の声が壁へ返った。


 息を吸う音が、そのあとから続く。


「当たり前じゃないですか」


 花が初めて、芽衣を正面から見た。


「じゃけ、言えんかったんよ」


「一人で決めたかっただけじゃないですか」


「うちのことじゃけ、うちが決めるよ」


「部活のことでもあります」


「退部するかどうかまで、みんなで決めるん?」


 芽衣の口が閉じた。


 握った手の中で、爪が掌へ食い込んでいる。芽衣は一度唾を飲み込んだが、次の言葉は出なかった。


「花ちゃん」


 心春が二人の間へ顔を向ける。


「ほんまに、もう来んの?」


「来んよ」


「練習も?」


「うん」


「試合も?」


 花の顔がホワイトボードへ向いた。


【西条付属高校】


「明日の試合も出ん」


 芽衣も同じ文字を見る。


 花は手提げ袋の持ち手を握った。布が捩れ、包まれただるまの形が袋の底で傾く。


「うちがおらんでも九人おる。試合には出られるじゃろ」


 花がいなくなって最初の練習では、芽衣が二人分の距離を泳いだ。


 三秒タッチを続けたまま中央へ戻ろうとして、何度も姿勢を崩した。最後には自分から水を出て、花の代わりを決める練習はしないと言った。


 それでも五人は揃う。交代する選手も残る。


 試合には出られる。


 その言葉だけなら、花が正しかった。


「人数の問題ではありません」


 遥香が言った。


「でも、人数が足りんかったら、うちもこんなことできんよ」


 花は手提げ袋を椅子から持ち上げた。


「もう大丈夫じゃろ。凪もおる。陽も結もおる。遥香が組んで、渚らもおる」


 七海の親指が、ゴーグルの縁を一周した。


 いつもなら次の試合について先に口を開く。今日は何も言わない。


「大丈夫かどうか、花が決めるん?」


 結の声が低くなった。


「うちがおらん状態でやるのは、みんなじゃけ」


「なら、勝手に大丈夫って決めんでや」


 花は結を見た。


 結の目は、机の上の退部届へ向いている。


「花、前に言ったじゃん」


「何を」


「何も言わんで来んくなったら、退部したのと同じじゃって」


 花の手が、袋の持ち手で止まった。


 陽が窓際から顔を向ける。


「言った」


 花は陽を見たあと、結へ戻った。


「じゃけ、今日来たんよ」


 部室の音が止まった。


「紙だけ置いて終わりにしたくなかったけん、全員おるときに言いに来た」


「言いに来たら、それで終わりなん?」


「終わらせに来た」


 結は何も返さなかった。


 花の手提げ袋が、消えた発光ラインの並ぶドライスーツへ触れた。手の部分が揺れ、すぐに止まる。


 凪は椅子から立った。


「昨日言ったこと、取り消さない」


 花が凪を見る。


「知っとる」


「花がいない形に慣れたくない」


「それも聞いた」


「今日も同じ」


 花の口元が一度だけ動いた。


「しつこいね」


「うん」


「そこは否定せんのんじゃ」


 凪は返さなかった。


 花はホワイトボードの前へ移動した。


「明日、西条付属じゃろ」


 遥香が頷く。


「はい」


「鏡山さんはもうおらんけど、あかりと美咲はおるんじゃろ」


「登録されています」


 花の顔が芽衣へ向く。


「芽衣、あかりとまた戦いたいって言いよったじゃん」


 芽衣はすぐには答えなかった。


 肩が一度上がり、息を吸う。


「出たいです」


 掠れた声だった。


 花の指が、袋の持ち手から少し緩む。


「なら出んさい」


「あかりと、もう一回戦いたいです。前の試合で止まったところ、今度は止まらんって見せたい」


「なら、明日やればええじゃろ」


「だから嫌なんです」


 芽衣の声が花の声へ重なった。


 花の眉が動く。


「何が嫌なん」


「花先輩がおらん明日に出るのが嫌なんです」


「うちと芽衣の試合は別じゃろ」


「別じゃないです」


「別にしんさい」


「できません!」


 芽衣の声が裏返った。


 次の息がうまく入らず、口を開いたまま一度止まる。それでも、芽衣は花から目を逸らさなかった。


「うち、あかりに勝って、花先輩に見せたかったんです」


 花の手が止まる。


「前より止まらんかったって。もう花先輩の後ろを追うだけじゃないって、見せたかったんです」


「うちを見るために試合するん?」


「違います。あかりにも勝ちたい。西条付属にも勝ちたいです」


「なら」


「まだ言い終わってません」


 芽衣は息を吸った。喉の奥が鳴る。


「うち、まだ一回も花先輩に勝ってないです。練習でも、試合でも、ずっと追っとったのに」


 声が震え始める。


「追いつく前に、勝手におらんくなるんですか」


 花は答えなかった。


「自分のことじゃけ自分で決めるって、そんなの分かってます。でも、花先輩が始めさせたんじゃないですか」


「始めたんは澪さんじゃ」


「そういう話じゃない!」


 芽衣の手が机へ当たった。


 空になっていたペットボトルが倒れ、床を転がる。優奈が足で止めたが、誰もそちらを見なかった。


「うちが入ったのは、花先輩がおったからです。止まっても、また行くところを見とったからです」


 芽衣はもう一度息を吸った。


「それなのに、花先輩が先に止まるんですか」


 花の袋を持つ手に力が入った。


「止まったんじゃない」


「同じです」


「同じじゃない」


「うちから見たら同じです!」


 二人の声がぶつかった。


 凪の呼吸が浅くなった。


 花がいなくなることだけでも、まだ受け入れられない。


 その花を追ってきた芽衣まで、同じ扉から出ようとしている。


 花一人分の動きを分けることさえできなかった海で、芽衣の手までなくなる。凪が流した潮核の先から、受け取る手が一つずつ消えていく。


 見ているだけでは、また決められてしまう。


「花先輩が終わらせるなら」


 芽衣が言った。


「うちも終わらせます」


 花の顔が上がる。


「何を」


「潮球です」


 凪の足が動いた。


 考えるより先に、花と芽衣の間へ入っていた。


「待って」


 芽衣が凪を見る。


「待てません」


「芽衣まで辞めるのは違う」


「何が違うんですか」


「花に腹が立ったまま、自分の試合まで捨てるのは違う」


「捨ててません」


「捨ててる」


 凪の声も、いつもより強くなった。


「あかりと戦いたいって言ったのは芽衣でしょ。止まらないって見せたいのも、芽衣が決めたことじゃないの」


「でも、見せたい相手がおらんくなるんです」


「それでも、やったのは芽衣」


「凪先輩には分からないです」


「分からない」


 凪は否定しなかった。


「花を追って入ったのも、花に見てほしかったのも、全部は分からない」


 芽衣の息が止まる。


「でも、花がいなくなるだけでも嫌なのに、芽衣までいなくなるのはもっと嫌」


「また凪先輩の都合ですか」


「うん」


 凪は芽衣から目を逸らさなかった。


「私の都合でも、止める」


 芽衣の口が開き、閉じる。


 花が凪の肩越しに芽衣を見た。


「うちの退部まで真似せんで」


「真似じゃないです」


「じゃあ何なん」


「花先輩がおらん部活で続けたら、最初からうち一人で頑張ったみたいになるじゃないですか」


「ならんよ」


「なります。花先輩はおらんのに、うちだけ試合に出て、あかりと戦って」


 芽衣の声が途切れた。


「そんなの、ずるいです」


 花の手から、袋の持ち手が少し滑った。


 だるまが中で動き、底へ当たる。


 鈍い音がした。


「芽衣」


 花が呼ぶ。


「うちが辞めても、芽衣がやったことは消えんよ」


「花先輩が言わないでください」


 芽衣は顔を伏せなかった。


「消そうとしとる人が、言わないでください」


 花の唇が止まった。


 廊下を、別の部の生徒が通っていく。笑い声が扉の前を横切り、階段の方へ消えた。


 その間に、心春が立っていた。


「芽衣ちゃんも辞めるん?」


 芽衣の顔が心春へ向く。


「うん」


「明日も出んの?」


「出ん」


 心春は芽衣を見たあと、花を見る。


 二人が別々の場所に立っている。


 心春の指が、制服の裾を掴んだ。


「なら、うちも辞める」


「だめ」


 凪の声が、心春の言葉へ重なった。


 部室の全員が凪を見る。


 凪自身も、声が出たあとで息を吸った。


「なんで」


 心春の眉が下がる。


「二人を見てから言ったから」


「でも、二人とも辞めるんよ」


「心春は、潮球を辞めたいって言ってない」


「二人がおらんかったら、続ける意味ない」


「それは二人のことしか言ってない」


 心春の指が、制服の裾をさらに強く掴む。


「花も芽衣も、自分の理由を言った」


 凪は心春を見た。


「心春の理由は、まだ二人しかない」


「二人がおらんのが、うちの理由じゃもん」


「それで本当に潮球を辞めたいのか、自分で決めて」


「決めたよ」


「二人を見て決めた」


 心春の口が止まった。


 凪はホワイトボードへ顔を向けた。


【西条付属高校】

【集合 9:00】


 明日の海では、あかりが待っている。


 花がいない海に入ることも、芽衣がいない海に入ることも、心春がいない海に入ることも、凪はまだ受け入れていない。


「明日、来て」


 芽衣の顔が上がる。


「出ません」


「出なくてもいい。会場には来て」


「何のために」


「辞めるか決めるため」


 凪は芽衣を見たあと、心春へ顔を向けた。


「花を見て決めるんじゃなくて、海を見て決めて」


 芽衣は答えなかった。


 心春も制服の裾を掴んだまま動かない。


 花のだるまがなくなった棚には、一つ分の隙間がある。


 その隣で、芽衣のだるまは背中を隠したまま残っていた。

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