第68話 それが、嫌
夕方の住宅地には、学校帰りの自転車がときどき通り、家々の間からテレビの音や夕飯を作る匂いが流れていた。凪が送ってもらった場所まで歩くと、花の家の前には見覚えのない靴がいくつも並んでいるのが玄関越しに見え、奥から大人たちの話し声が聞こえてきた。
呼び鈴を押して待つと、花が出てきた。
「ほんまに来たんじゃ」
「うん」
「今、親戚おるけえ」
花は一度家の奥を振り返ってから靴を履いた。
「ちょっと歩こ」
凪が頷くと、花はそのまま住宅地の細い道へ出た。
二人で並んで歩いても、花は部活のことには触れなかった。曲がり角では自転車を押した中学生とすれ違い、道路脇の家から犬の鳴き声が聞こえてくる。やがて道を抜けると、さつき祭りのときに来た公園が見え、夕方の敷地を犬を連れた人がゆっくり横切っていた。
二人は公園の端で足を止めた。
南の方から新幹線の走る音が届き、家々の向こうへ消えていった。
「退部届、見たんじゃろ」
「うん」
「芽衣らから、ばあちゃんのことも聞いた?」
「聞いた」
花は公園の奥へ顔を向けた。
「じゃあ、何聞きに来たん」
「花が、なんで辞めるのか」
「今、潮球やる気になれんけえ。それじゃ駄目なん?」
凪はすぐには答えず、犬を連れた人が公園の出口へ向かうのを見た。
「今日、一回だけ練習した」
花が凪を見る。
「もうやったん」
「うん。花がいつも入るところに芽衣が入ったら、今度は芽衣がいたところが空いた」
「そりゃそうじゃろ。一人減っとるんじゃけ」
「うん」
「なら、そこ誰か入れたらええじゃん」
「七海も同じこと言った」
花の眉がわずかに動いた。
「芽衣が怒った?」
「怒ったというか、もう無理って上がった」
「……芽衣らしいね」
花は口元を緩めかけたが、そのまま公園へ顔を戻した。
凪は海で誰もいなかった場所を思い出した。
「花がいない形に、みんなが慣れるのが嫌」
花がこちらを向いた。
「それ、凪らの都合じゃろ」
「うん」
「花が決めたことなのに、戻ってほしいと思ってる」
「勝手じゃね」
「うん」
「うんしか言わんじゃん」
「勝手なのは分かってるから」
花は凪を見たまま鼻から息を吐き、近くのベンチの背へ手を置いた。
「分かっとって来たん」
「うん」
「ほんま勝手」
花の指がベンチから離れた。
「うちが辞めたいって言っとるのに」
「潮球、嫌いになった?」
花の足が止まった。
「……嫌い」
「海も?」
公園の向こうには家の屋根が重なり、その先までは見えなかった。花はそちらへ顔を向けたまま、しばらくしてから口を開いた。
「嫌い。海も、潮球も。三原も全部嫌い」
声がさっきより低くなった。
「しんどいんよ。ここ歩いたら、さつき祭りのこと思い出すじゃろ。商店街行ったら、やっさのときばあちゃんが座っとった場所を思い出すし、来々軒の前通ったら一緒に飯食ったこと思い出す」
花はそこまで一気に言うと、息を吸った。
「……港行ったら、あの日の電話思い出す」
凪は何も言わなかった。
「どこ行ってもおるんよ。ばあちゃんがおったときのことばっかり出てくるのに、家帰ったらおらん」
花の声が揺れた。顔を伏せる代わりに公園の奥へ向けたまま、指先で目元を強く擦った。
「もう嫌なんよ。三原歩くんも、海見るんも、みんなと潮球するんも。何してもばあちゃん思い出すけえ」
公園の端で、風に押された木の葉が舗装の上を転がっていった。
花は目元から手を下ろした。
「しかも、あの日」
そこで声が止まり、唇を噛んでから続けた。
「うち、嬉しかったんよ」
凪は花を見た。
「本郷に勝ったじゃろ。三対ゼロで。試合終わったとき、嬉しかった。次も勝てるかもしれんって思ったし、今年は地区大会行けるかもしれんって」
花の呼吸が浅くなった。
「うちが試合行かんかったら何か変わったとか、そんなん思っとらんよ。そんなことじゃないって分かっとる」
花は両手を握った。
「でも、ばあちゃんが死んだ日に、うちは勝って嬉しかったんよ」
声が掠れた。
「それが、嫌」
公園の向こうで子どもの乗った自転車が通り過ぎ、タイヤの音が遠ざかっていった。
「潮球やったら、また勝ちたいって思う。みんなとおったら楽しいし、次どうするか考える。そうしたら普通に笑うじゃろ」
花は凪を見た。
「そんな自分が嫌なんよ」
凪はすぐには言葉が出なかった。
花が潮球を嫌いになったから辞めるのだと思っていた。
違った。
嫌いになれないことまで、嫌になっていた。
「……理由、分かった?」
「うん」
「なら、もうええじゃろ」
「よくない」
花の眉が寄った。
「なんで」
「聞いても、花がいない形に慣れるのは嫌だったから」
「だから、それ凪らの都合じゃって」
「うん」
「またそれ」
花は目元を擦った手で額を押さえ、息を吐いた。
「戻るとは言っとらんけえね」
「うん」
「退部届も、取り下げるって言ってない」
「分かってる」
花は凪を見たまま息を吐き、公園の入口へ顔を向けた。
「……明日、部室行く」
「戻るの?」
「違う」
「みんなに、自分で言う。芽衣にも心春にも、まだ何も言ってないけえ」
「うん」
「凪」
「何?」
「今の話、先に全部言わんでよ」
「言わない」
花はそこで初めて小さく頷いた。
公園の街灯が一つ点き、さっき犬を連れた人が歩いていた道まで薄い光が伸びた。二人は来た道へ戻り、家々の間を並んで歩いた。




