第68話 それが、嫌
呼び鈴の音が消えても、家の中から返事はなかった。
凪は門柱の横に立ったまま、玄関の曇りガラスを見ていた。もう一度押すべきか迷っていると、廊下を歩く音が近づいてくる。
鍵が外れ、扉が半分だけ開いた。
花が立っていた。
制服ではなく、黒い長袖のシャツと灰色のズボンを着ている。髪は後ろで一つにまとめられていたが、横の毛が何本か頬へ落ちていた。
花は凪を見たあと、門の外へ顔を向けた。
「一人?」
「うん」
「芽衣らは?」
「来てない」
花の手が、扉の取っ手から離れた。
「何しに来たん」
凪は来る途中で考えていた言葉を探した。退部届のこと。練習のこと。花がいない海のこと。
先に出てきたのは、別の言葉だった。
「来々軒のおじさんが、ラーメン食べろって」
「それ言いに来たん?」
「違う」
花の口元が一度だけ動いた。笑ったようにも見えたが、すぐに消えた。
玄関の奥から、線香の匂いが流れてくる。廊下の端には、黒い靴と見慣れない革靴が何足か並んでいた。
「今、親戚おるけん」
花は足元のサンダルを履き、扉を閉めた。
「ちょっと歩く?」
凪が頷くと、花は住宅の間を通る道へ入った。いつものように先を歩いていたが、凪との間は一歩分しか空いていない。
道を抜けると、遊具のない広い公園が見えた。夕方の敷地を、犬を連れた人がゆっくり横切っている。
二人は公園の端で足を止めた。
南の方から列車の走る音が届き、家々の向こうへ消えていった。
「退部届、見たんじゃろ」
「見た」
「先生、何か言いよった?」
「まだ受理してないって」
「受理してもらわんと困るんじゃけど」
花は自分の手を見た。右腕の袖が少し上がり、本郷戦で何度も掴まれた場所に薄い跡が残っている。
「学校も休んどるし、家のこともある。今、海入っても集中できんと思う」
「うん」
「そんな状態で試合出たら、みんなにも迷惑かけるじゃろ」
花は膝の上で指を組んだ。
「それに九人おる。うちがおらんでも、試合はできる」
凪は返事をしなかった。
間違っていない。五人いれば試合には出られる。交代する選手も残る。
今日の練習でも、遥香は花がしていた動きを四つに分けた。
「今日、練習した」
花の顔が凪へ向く。
「したん?」
「花がいない場合の動きを確認した」
「早いね」
責める声ではなかった。
その方が、凪には返しづらかった。
「花がしてたことを、みんなで分けようとした」
「できたん?」
「できなかった」
花は公園の芝へ顔を向けた。砂の上に残っていた靴跡を、サンダルの先で崩す。
「なら、練習すればええじゃん」
「うん」
「芽衣は触り続けられるし、渚は最初に行ける。心春も慣れたら空いた方へ入れるじゃろ。七海もおる」
「たぶん、できるようになる」
「じゃろ」
花の声が少しだけ軽くなった。
「なら、うちがおらんでも大丈夫じゃん」
凪は膝の上で手を握った。
花がいなければ、芽衣が接触を続ける。心春が空いた側へ入り、七海が中央へ戻る。何度も失敗すれば、いずれ形になる。
花がいない海で、九人の動きが合っていく。
「それが嫌」
花が凪を見る。
「何が」
「花がいない形に、みんなが慣れるのが嫌」
公園の外を、自転車が一台通り過ぎた。籠に入った袋が、段差で小さく跳ねる。
「それ、凪らの都合じゃろ」
「うん」
凪は否定しなかった。
「花が決めたことなのに、戻ってほしいと思ってる」
「勝手じゃね」
「うん」
「うんしか言わんじゃん」
「勝手なのは分かってるから」
花は息を吐き、ベンチの背もたれへ体を預けた。視線は凪から外れ、雲の残った空へ向いている。
「戻れんよ」
凪の指に力が入った。
「今は、でも」
「今だけじゃない」
花の声は大きくなかった。
「うち、試合行ったんよ」
凪は花を見た。
「朝、母さんから電話あった。今日は病院来た方がええかもしれんって」
花の右手が、左腕の袖口を掴んだ。
「朝なら寄れた。でも佐木島の集合に遅れるかもしれんかったけん、試合終わってから行くって言った」
本郷戦へ向かうフェリーで、花は帰りの便を確認していた。
十六時台で戻れば、面会時間には間に合う。
あのときの声が、凪の中へ戻ってきた。
「試合、勝ったじゃろ」
「うん」
「ばあちゃんに言うつもりじゃった。本郷、最初はめちゃくちゃじゃったけど、最後は海見始めたって。うち、ずっと足掴まれとったって」
花の袖口を握る指が、薄い跡の上へ重なる。
「帰りのフェリー乗る前に、電話来た」
凪は何も言えなかった。
「もう亡くなったって」
風が止まり、ベンチの下の葉も動かなくなった。
「花のせいじゃない」
ようやく出た言葉に、花の指が止まる。
「それ、みんな言う」
「でも」
「試合行かんでも、間に合わんかったかもしれんって。朝行っても、話せんかったかもしれんって」
花が袖口から手を離した。
「間に合わんかったかもしれんのと、行かんかったのは違うじゃろ」
凪は口を閉じた。
花が試合へ行かなければ、祖母の死を止められたわけではない。それでも、病院へ行く時間はあった。
正しい言葉を探しても、どれも花がすでに聞いたものにしかならなかった。
「ばあちゃん、ずっとうちの話聞いてくれよったんよ」
花は公園の入口を見たまま続けた。
「試合で負けた日も、何回練習してもできんかった日も、来々軒で全部話した。ばあちゃんが来られんくなってからも、家帰って話しよった」
花の指が、膝の上で一度だけ開く。
「勝ったって言っても、もう聞く人おらんじゃん」
「私たちは聞く」
花の顔が凪へ向いた。
「違うんよ」
凪はそれ以上続けなかった。
「みんながおるのは分かっとる。潮球が嫌いになったわけでもない」
花は自分の足元へ目を落とす。
「じゃけど海入ったら、また試合のこと考えるじゃろ。勝ちたいって思うじゃろ。家より潮球選ぶかもしれん」
「選んだらだめなの?」
「今は、無理」
花の答えは早かった。
「また誰か置いていく気がする」
凪の足元を、枯れた葉が一枚だけ通り過ぎた。
祖父の海難を、凪は覚えていない。会ったこともない人を失った怖さと、目の前にいた人の最期へ行かなかった花の後悔は同じではなかった。
自分の経験へ重ねて話すことはできない。
それでも、帰る気にはなれなかった。
「戻ってきてほしい」
「無理」
「今じゃなくても」
「待たんで」
花の声が、先に重なった。
「次の試合の準備しんさい。遥香も困るじゃろ。芽衣らも、うちの代わり探さんといけん」
「代わりじゃない」
「同じことよ」
「違う」
今度は凪の声が先に出た。
花が目を上げる。
「花がしてたことは分けられる。でも、花になるわけじゃない」
「なら、それでええじゃん」
「よくない」
「なんで」
「私が嫌だから」
花の眉が動いた。
凪は言葉を止めなかった。
「花がいない海に慣れたくない。花がいた場所へ誰かが入って、それが普通になるのが嫌」
「じゃけ、それは凪の都合じゃろ」
「分かってる」
「うちにどうしてほしいん」
「戻ってきてほしい」
「戻れんって言っとるじゃん」
「それでも言いに来た」
二人の声が止まった。
公園の外では、列車が線路の継ぎ目を通る音が続いていた。姿は家の向こうに隠れ、音だけが遠ざかっていく。
花は膝の上で両手を組み直した。
「凪って、もっと諦めええと思っとった」
「私も思ってた」
「自分で言うん」
「花が戻らないからって、分かったとは言えない」
花はしばらく凪を見ていた。
やがて立ち上がり、服の後ろについた砂を払う。
「今日は戻らんよ」
「うん」
「明日も行かん」
「うん」
「退部届も取り下げん」
凪はすぐには答えなかった。
「分かったとは言わない」
「面倒じゃね」
「うん」
花の口元が、今度は少しだけ上がった。
笑いは続かなかった。
「金曜、部室行くけん」
凪も立ち上がる。
「練習に?」
「荷物取りに」
花は公園の出口へ向かって歩き出した。
「みんなにも、自分で話す」
凪は半歩遅れて隣へ並ぶ。
「私もいる」
「みんなおるじゃろ」
「いる」
花は何も返さなかった。
家の前まで戻ると、玄関の曇りガラスに明かりがついていた。花が門を開き、中へ入る。
「来々軒のおじさんには、今度行くって言っといて」
「ラーメン食べてから話せって」
「何を話すん」
「分からない」
「適当じゃね」
「花が食べに来れば分かると思う」
花は門の内側から凪を見た。
「金曜」
「うん」
花が玄関へ向かう。扉が開くと、線香の匂いがもう一度外へ流れた。
凪は門柱の前に残った。
花を戻せなかった。
退部届も、そのままだった。
それでも月曜、花は部室へ来る。
凪は「潮田」と書かれた門柱から目を離し、来た道を戻った。




