第67話 空いた場所
退部届は、遥香が閉じられなかったファイルと並んで、机の中央に残っていた。
三谷は二つを見下ろしたが、退部届へは触れなかった。
「預かっただけだ。まだ受理はしていない」
結の顔が上がる。
「じゃあ、花はまだ部員なん?」
「書類の上ではな」
「なら」
「戻るってことじゃない」
芽衣の声が重なり、結の言葉が止まった。
遥香はファイルの表紙に指を置いたまま、三谷を見る。
「先生は、花さんと話したんですか」
「渡されたときに少しだけな」
「何て言っていました?」
「それを私から話すつもりはない。本人と話すまでは、この書類も預かる」
三谷は腕時計を確認し、部室にいる九人を見渡した。
「今日は休みにしてもいい。練習するなら、無理はするな」
扉が閉まり、廊下を離れていく革靴の音だけが残った。
七海がホワイトボードへ顔を向ける。本郷戦の先発欄には、凪、花、結、芽衣、七海の名前が消されずに並んでいた。
「九人おったら、次の試合には出られますよね」
芽衣の顔が七海へ向いた。
「今日くらい、次の試合の話やめてや」
「でも、試合は来るじゃん」
「分かっとるよ」
「じゃあ、いつから考えればええん」
七海も声を下げなかった。芽衣の手が膝の上で握られ、心春は二人の間を見たあと、花の使っていた椅子へ顔を向けた。
椅子は机から少し離れたままになっていた。
遥香がホワイトボードの前へ移動し、マーカーのキャップを外す。
【本日】
そこまで書いたところで、結が口を開いた。
「練習するん?」
「します」
「今から普通に?」
「普通ではありません。花さんがいない場合の動きを確認します」
結はホワイトボードを見た。
「それ、花がおらんのを普通にする練習じゃろ」
遥香のペン先が止まった。
「次の試合は待ってくれません」
「花も、まだ戻らんって決まったわけじゃないじゃん」
「退部届は出ています」
「じゃけ、すぐ花なしの形を作るん?」
結の声が部室の壁へ返った。
遥香は答えず、ホワイトボードへ続きを書いた。
【五対四】
【潮核 二つ】
【六分】
【動きの確認】
その下に九人の名前を分ける。
【赤】
凪
芽衣
心春
七海
結
【青】
陽
渚
遥香
優奈
「芽衣さんは、最初に潮核を持った選手へ触れてください。心春さんは芽衣さんの反対側へ入り、七海さんは中央で受ける。凪さんは流れを見て、受けられる位置へ送ってください」
芽衣は返事をしなかった。
心春も花の椅子を見たまま動かない。
「準備をお願いします」
遥香がマーカーのキャップを閉めた。
結はしばらく立ったままだったが、最後にはホワイトボードのケースを持ち上げた。七海は何も言わず、先に部室を出た。
凪は最後に鞄を持った。
本郷戦の先発欄だけが、消されずに残っていた。
* * *
港には低い雲が残っていた。
風は弱かったが、水面は落ち着いていない。沖へ向かった水が岸壁へぶつかり、足元へ戻る細い流れを繰り返していた。
凪は階段を下りる前に、泡の筋を追った。沖へ進む流れと、岸壁から返る流れが練習区画の中央でぶつかり、水面の下に薄い乱れを作っている。
強い流れではない。
普段なら、避けるか利用できる程度だった。
潮核は中央と、東側の浮標近くに一つずつ置かれた。結が赤側の水面へ入り、残る八人も練習区画へ下りる。
誰も声を出さなかった。
花がいた日は、笛より先に「行くよ」と声が飛んでいた。今日は遥香が操作したタイマーの電子音だけが鳴り、六分の計測が始まった。
陽が中央の潮核へ向かい、芽衣が後ろから追う。陽が先に掴み、胸と手足へ青い光が走った瞬間、芽衣の手が右足首へ触れた。
一秒。
陽が岸壁側へ体を向ける。返し流れが二人の胸を押し戻し、芽衣の腕が伸びた。接触を切らないためには、陽と同じ方向へ泳ぎ続けなければならない。
二秒になる前に、陽は潮核を放した。
発光ラインが消え、流れに乗った潮核が遥香の方へ向かう。芽衣は陽の足首から手を離すと、すぐ中央へ戻ろうとした。
いつもなら、空いた中央には花がいた。
今日は芽衣自身が戻らなければならない。
一度蹴る。
岸壁からの返しに、進んだ分を押し戻される。
もう一度蹴った。
陽を追った時間の分だけ、息が足りない。芽衣が中央へ戻る前に、潮核は遥香の手へ届いた。
心春は芽衣について岸壁側まで来ていた。反対側へ入るように言われていたが、芽衣が戻り始めると、その背中を追ってしまう。
遥香の胸と手足へ青い光が走った。
凪は横から距離を詰める。遥香の足へ触れるより先に、潮核が優奈へ流された。
凪は向きを変えた。
中央へ戻ろうとする芽衣と重なる。心春もその後ろにいる。
三人の間隔が狭くなった。
東側では渚がもう一つの潮核を拾い、青い光を点けていた。
赤側の五人が、二つの青い光の間で止まる。
水面の結が両腕を動かした。
「分かれて!」
声が届いた七海が東へ向かう。凪は中央に残ったが、芽衣も心春もまだ近くにいた。
全員が花のいた場所へ入ろうとしていた。
中央だけが詰まり、外側が空く。
渚は七海が来る前に潮核を流した。浅く放たれた潮核は返し流れに押され、七海の手前で中央へ曲がった。
凪が取りに行く。
芽衣も動く。
心春も続く。
三人が同じ潮核へ向かった。
凪の指が先に触れ、赤い光が一瞬だけ走る。保持にはならず、潮核の軌道だけが変わった。
岸壁側の返しへ入る。
凪は追った。
一度蹴っても距離が縮まらない。二度目で手を伸ばしたが、潮核は胸元を抜けて後ろへ戻った。
優奈が拾い、青い光が点く。
凪はその場で向きを変えた。太腿に重さが残り、次の一蹴りが遅れた。
強い海ではなかった。
ただ、一人が一つの動きを終えるたび、別の場所まで戻らなければならない。岸壁から返る細い水が、そのたびに足を止めた。
芽衣が優奈の右足へ触れる。
一秒。
優奈は岸壁側へ進んだ。
芽衣もついていく。
二秒。
心春は反対側へ入ろうとした。芽衣を見る。中央を見る。東側の七海を見る。
どこへ行けばいいのか決められないまま、三人の間に残った。
優奈が潮核を放した。
遥香が受け取る。
芽衣はまた中央へ戻ろうとする。今度は一度目の蹴りで体が浮かず、水を飲んだ。
水面へ上がる。
息を吸う。
もう一度沈もうとして、腕が止まった。
「無理」
芽衣の声が、水面に落ちた。
遥香がタイマーを止める。
「一度上がります」
「違う」
芽衣は岸へ向かわなかった。
「今の、もう一回とか無理」
息が切れ、言葉の間に水が入る。
「花の代わり決める練習なんか、今できん」
遥香は水面に浮いたまま、芽衣を見る。
「代わりを決めているわけでは」
「同じじゃろ」
結が水面から声を上げた。
「花がおらんところに誰を置くか決めよるんじゃけ」
「動きを確認しないと、次の試合で」
「また試合の話?」
芽衣の声が強くなった。
「花のばあちゃん、亡くなったんよ。花、三日も学校来とらんのよ。なんで今日すぐ、花がおらん形にできるん」
七海がゴーグルを額へ上げた。
「でも、何もせんかったら変わらんじゃん」
「変えたくないんよ、今は」
「じゃあ、ずっとこのまま?」
「そんなこと言っとらん!」
二人の声が重なった。
心春は芽衣の近くにいたが、肩へ手を伸ばせなかった。触れようとして、途中で指を閉じる。
陽は潮核を持たず、水面へ浮かんでいた。
凪は足を動かすのをやめた。
返し流れが胸へ当たり、岸壁側へ体を押す。何もしなければ、全員が少しずつ同じ方向へ流されていく。
花がいたときは、先に流された。
そのまま体を入れ、ほかの選手が動く場所を残した。
今日、誰もそれをできなかった。
遥香が岸へ向かう。
「今日は、ここまでにします」
誰も返事をしなかった。
* * *
岸へ上がった芽衣は、タオルを取る前に膝へ両手をついた。肩が上下し、水滴が足元へ落ちていく。
遥香はホワイトボードを水際まで運んだ。
【花さんの代わり】
書いた文字を見て、芽衣の眉が動く。
「それ、消して」
遥香はすぐには動かなかった。
「消してや」
今度は心春だった。
遥香はイレーザーを取り、書いたばかりの文字を消した。黒い跡が横へ伸び、その下に四つの動きを書く。
【最初に触る】
【触れ続ける】
【空いた側へ入る】
【受ける】
「花さんがしていたことは、一つではありません」
結がホワイトボードを見る。
「それを分けるん?」
「いずれは、分ける必要があります」
「今日じゃない?」
遥香はマーカーを持ったまま、練習区画へ顔を向けた。二つの潮核が、返し流れに押されて岸壁の近くへ集まっている。
「今日は、できませんでした」
遥香はキャップを閉めた。
「片付けます」
渚が海へ戻り、潮核を一つずつ回収した。七海も無言で浮標の紐を外す。
芽衣はまだ、膝へ手を置いたままだった。
心春がその隣へ立つ。
今度は肩へ触れた。
* * *
部室へ戻っても、誰もすぐには着替えた荷物を片付けなかった。
濡れたタオルとドライスーツの匂いが残り、床には九人分の水滴が広がっている。
遥香は練習で書いた四つの動きを、ホワイトボードの端へ残した。
【最初に触る】
【触れ続ける】
【空いた側へ入る】
【受ける】
明日は、この四つを誰かへ割り振る。
明後日には、今日より長く動けるかもしれない。
九人いれば、試合には出られる。練習も続けられる。花がいない形へ、チームは少しずつ変わっていく。
凪は、その文字を見ていた。
それが嫌だった。
誰かが最初に触る。誰かが触れ続ける。別の誰かが空いた側へ入り、潮核を受ける。
役割は分けられる。
花がいなくても、形だけなら作れる。
それでも、今日の海で凪が流した先には花がいなかった。
凪は、花が受けると思って潮核を放した。
もういないと分かっていたのに、手がその場所を選んだ。
花のいない形に、まだ慣れたくなかった。
結はスマートフォンを開き、花との画面に文字を打った。
【退部届って何】
全部消す。
【今、話せる?】
その文字も送らず、画面を閉じた。
「芽衣、花から返事あった?」
「ない。既読もついてない」
心春が二人の間へ入り、芽衣のスマートフォンを覗き込む。
「家、行ったらだめなん?」
「今は家も忙しいじゃろ」
「でも」
「分かっとる」
芽衣の声が止まり、心春もそれ以上は続けなかった。
遥香は机の中央にある退部届へ顔を向ける。
「三谷先生が、本人と話すと言っていました。今、全員で行くのは違うと思います」
「じゃあ、待つん?」
結が聞いた。
遥香は答えず、閉じたままのファイルへ手を置いた。
凪は以前、陽とぶつかった日の帰りを思い出した。
何を言えばいいのか分からなかった凪を、花が来々軒へ連れていった。先にラーメンを食べて、それから話した。
花は、凪が話せる場所を作った。
今度は花が何も話していない。
退部届を持ち上げる。日付と氏名、必要な欄は埋まっていた。
【退部理由】
そこだけが空いている。
凪は紙を机へ戻した。
「私、花のところに行ってくる」
結の顔が上がる。
「今から?」
「うん」
「一人で?」
「一人で行く」
凪は、花を説得できるとは思っていなかった。何を言えば戻るのかも分からない。
それでも、花がいない形を作る前に、花本人の声を聞きたかった。
できるなら、戻ってきてほしかった。
芽衣がスマートフォンを開く。
「家、分かる?」
「分からない」
「送る」
届いた地図では、花の家を示す印が来々軒より少し先にあった。凪は鞄を持ち、いつもより強く肩紐を握った。
* * *
三原駅の裏から、花に初めて連れてこられた道を歩いた。
あの日は花が先に立ち、凪は少し遅れて後ろをついていった。今日は、凪の前に誰もいない。
『来々軒』
赤い暖簾が夕方の風に揺れていた。
引き戸を開けると、醤油と出汁の匂いがした。老いた店主が厨房から顔を出す。
「一人か」
「はい」
奥のテーブルは空いていた。以前、花と座った場所で、花が使っていた側の椅子だけが机の下へ深く入っている。
「花、来てませんか」
店主の手が止まった。
「来とらんよ」
「三日前から?」
「その前からじゃ。ばあちゃんの具合が悪うなってから、寄る回数も減っとった」
凪は空いた椅子を見た。
「亡くなったことは?」
「聞いた」
店主は水の入ったコップを一つだけテーブルへ置いた。
「食べていくか」
花と来た日は、同じラーメンを頼んだ。湯気の向こうで、祖母の話を聞いた。
「今日は、やめておきます。また来ます」
「そうか」
凪が引き戸へ向かうと、背中から名前を呼ばれた。
「凪ちゃん」
振り返る。
「花が来たら、ラーメン食え言うといてくれ。話は、食ってからでええ」
凪は頷き、店を出た。
* * *
芽衣から送られた地図を開き、駅から離れる道を歩いた。低い塀の続く細い道には植木鉢が並び、家々の窓へ夕方の空が映っている。
地図の印と現在地が重なった。
門柱には、潮田と書かれていた。
家の中から音はしない。
凪は呼び鈴の前に立ち、丸いボタンへ人差し指を伸ばした。
触れる。
指が止まった。
花が出るかもしれない。出ないかもしれない。何を言えばいいのかも、まだ決まっていない。
海へ入る前と同じように、呼吸が浅くなった。
凪の人差し指が、一度だけ曲がる。
それから、押した。
家の奥で、短い音が鳴った。




