第66話 癖のない、手
部室の窓に、昨日の雨が筋を残していた。
机の上と、制服のポケット。
十台のスマートフォンが、ほとんど同時に震えた。
七海が一番に画面を開く。
【地区予選 第1試合】
三原中央高校 対 本郷高校
会場:佐木島沖
集合時刻:13:00
「来た」
立ち上がった拍子に、椅子の脚が床を擦った。
「公式戦ですよね」
「そうです」
遥香は自分の画面を閉じ、ホワイトボードの前へ立った。
七海は通知を最後まで送る。
「本郷高校って、戦ったことあります?」
「ないよ」
凪の隣では、優奈がもう検索欄へ学校名を入れていた。
【本郷高校 潮球部】
出てきたのは、学校の部活動紹介だけだった。
四月。潮球部創部。
海を背に、専用ドライスーツを着た選手が並んでいる。大会結果も、過去の対戦記録もない。
「今年できたばっかりじゃん」
七海が優奈の画面へ顔を寄せる。
「初公式戦?」
「たぶん」
「じゃあ、うちらの方が――」
優奈の指が、写真の上で止まった。
「全員、今年からじゃね」
「そう書いてあるじゃろ」
「旧ルール、やったことないんじゃ」
遥香のペン先が、ホワイトボードへ触れた。
【本郷高校】
創部一年目
公式戦記録なし
旧ルール経験 なし
花が腕を組む。
「経験ない方が有利なん?」
「潮や試合には慣れていません」
遥香はペンを置かなかった。
「でも、足を狙うことを新しい動きだと思わなくていい」
芽衣が自分の手を開く。
「うちらも、もう慣れましたよ」
「ほんまに?」
結が椅子から立ち、芽衣の前へ片足を出した。
「芽衣が潮核持っとるとして、どこ触る?」
芽衣の手が、足首へ伸びる。
途中で迷わなかった。
「ここ」
「早っ」
結が足を引いた。
七海も花の前へしゃがみ込む。
「花先輩、持ってください」
「今ここで?」
「形だけでいいので」
花が両手で潮核を抱える真似をした。
七海の手は、最初から花の足へ向かった。
花が腰を引く。
「まだ光っとらんじゃろ」
「光ったらここです」
隣で、凪も片手を出した。
渚が潮核を持つ形を作る。
胸。
手。
足。
凪の指は胸元へ伸びかけた。
途中で下がり、渚の足首へ触れる。
渚は、自分の胸と足を交互に見た。
「今、胸に行きましたよね」
「途中まで」
「やっぱ残っとるじゃん」
七海が花の足首から手を離した。
陽はボールバッグから潮核を出した。
「海」
陽が一つ持ち上げた。
部室の音が止まった。
「今からやるん?」
結が窓の外を確かめる。
雨は止んでいた。
港の水面には、まだ低い雲の色が残っている。
* * *
二人一組。
一人が潮核を保持し、もう一人が三秒タッチを狙う。
最初は花と芽衣だった。
花が潮核を掴む。胸と両手、両足へ赤い光が走った。
芽衣は後ろへ回り、迷わず右足首へ触れる。
一秒。
花が水を蹴る。芽衣の腕も伸び、接触を切らない。
二秒。
花が足を外へ振った。
芽衣の手が離れる。
花の発光ラインは消えなかった。
次は凪と渚。
凪が潮核を持つと、渚は後ろから距離を詰めた。
凪は体をひねり、胸を渚から遠ざける。
右足が近づいた。
渚の手が、その足首へ触れた。
一秒。
凪の肩が動く。
後ろを確かめようとした分だけ、蹴りが止まった。
二秒。
凪は潮核を浅い流れへ放した。
発光ラインが消える。
陽が受け取ると、胸と手足へ赤い光が走った。
凪が水面へ上がる。
渚も隣へ浮かんだ。
「胸、隠しましたね」
「うん」
「足、空いとったよ」
凪は右足を水中で引いた。
胸を守ろうとする。
その動き自体が、旧ルールの癖だった。
岸では、優奈が計測画面を閉じた。
「本郷は、これが普通なんじゃろ」
凪の足元を、雨のあとの冷たい水が通り抜ける。
胸を狙ったことがない手。
最初から、足へ伸びる手。
遥香がホワイトボードを岸壁へ置いた。
十人分の名前。
その横に、五つの空欄がある。
海から上がった結が、タオルを肩へ掛けた。
「十人おったら、五人は最初出んのよね」
「ピリオド間で交代します」
遥香が一人ずつ名前を書く。
石塚凪。
潮田花。
村上結。
糸崎芽衣。
最後の欄で、ペン先が止まった。
七海は、ホワイトボードの前に立っていた。
優奈は岸壁へ座り、濡れたスマートフォンをタオルで拭いている。
五つ目。
和田七海。
七海の口が開いた。
すぐに優奈へ向く。
「優奈」
「何」
「うち、先発」
「書いてあるじゃん」
「もっと何かないん?」
「最初から次へ行きすぎんこと」
七海は一度だけ、自分の右足首を見た。
遥香は残る名前を、その下へ書く。
【交代候補】
陽
渚
遥香
心春
優奈
心春の目が、先発欄へ動いた。
花と芽衣の名前がある。
自分の名前はない。
「芽衣ちゃんも最初から出るん?」
「うん」
芽衣は濡れた髪を束ね直した。
心春の肩から力が抜ける。
花がその額を指で押した。
「出る準備しときんさい」
「分かっとるよ」
「ほんまに?」
「花ちゃんより先に着替える」
「それは無理」
遥香が五人の名前を見直す。
「優奈さんは、第一ピリオドで相手を見てください」
「全員ですか」
「一人で構いません。足へ来る前に、どこが動くか」
優奈の指が止まる。
「分かりました」
七海が交代候補の欄へ顔を寄せた。
「優奈、後から出るん?」
「相手次第じゃろ」
「出たら一緒にできますね」
「七海が残っとったらね」
「残るよ」
「一回下がったら戻れんよ」
七海は先発欄にある自分の名前を指で押した。
「最初から最後までおればええじゃん」
遥香のペンが、その指の横へ置かれた。
「それを決めるのは、試合を見てからです」
七海の指が下がった。
* * *
試合当日。
佐木島へ向かうフェリーの窓に、六月の海が続いていた。
雲は高い。
島の斜面には、みかん畑の段が重なっている。
心春は花と芽衣の間に座っていた。二人のどちらかが動くたび、膝の向きも同じ方へ変わる。
通路側では、優奈が本郷高校の部活動紹介をもう一度開いていた。
「まだそれ見とるん?」
前の座席から、七海が振り返る。
「他にないけん」
「写真だけじゃ分からんじゃろ」
「腕の長さくらいは分かる」
「そこまで見る?」
「七海は見なさすぎ」
七海は座席へ戻った。
花が腕時計を見る。
「帰りのフェリー、何時じゃった?」
「十六時台と十七時台があります」
遥香が乗換案内を開いた。
「十六時台で戻れば、病院の面会時間には間に合います」
「じゃあ、それで帰る」
芽衣が花へ顔を向けた。
「試合、長引いたら?」
「終わったらすぐ動けばええよ」
花は腕時計から目を離した。
窓の外で、佐木島の桟橋が近づいてくる。
競技区画の岸には、潮況ボードが出ていた。
【計測時刻 12:45】
【潮流 南東→北西 秒速0.3m】
【特記事項】
島側・浮標二番から三番の水面下に戻り流れ
十三時半頃、航路通過波の影響あり
凪は、島側の浮標を見た。
水面の泡は北西へ流れている。
浮標二番を越えたところで、一部だけが島側へ戻っていた。
表面では外へ進む。
その下では、戻る。
本郷高校は、先に競技区画へ入っていた。
五人。
隊列は揃っていない。
一人が潮核を流す。
受け手の前へ送ったはずだった。
潮核は浮標二番の横を通り、水面下の戻りへ入る。前へ進む速度が落ち、受け手の一人分手前で島側へ曲がった。
本郷の受け手が手を伸ばす。
届かない。
別の選手が拾う。
胸と手足へ青い光が走った。
本郷の選手が後ろから追う。
胸へは回らない。
手が最初から足首へ伸びた。
一秒。
持球者が足を振る。触れた手も、同じ方向へ動く。
二秒。
持球者が体を沈める。
本郷の選手の腕は離れない。
三秒。
青い光が消え、潮核が落ちた。
本郷の選手の手は、そのまま潮核へ向かった。拾った瞬間、胸と手足へ青い光が走る。
七海が岸壁の端まで進んだ。
「速い」
「泳ぎは、そうでもない」
優奈は、本郷の足元だけを追っていた。
「手が迷ってない」
凪は、本郷が最初に流した潮核を見ていた。
浮標二番の近くで、まだ島側へ戻されている。
人へ伸びる手は迷わない。
その手から離れた潮核だけが、海の中で迷っていた。
遥香が先発五人の名前を確認する。
凪。
花。
結。
芽衣。
七海。
「準備します」
七海がゴーグルを下ろした。
本郷高校の手は、また足首へ伸びていた。
* * *
第一ピリオド。
開始の笛が鳴った。
本郷高校の三人が、中央の潮核へ集まった。
凪は行かなかった。
島側の浮標二番へ向かう。
表面の流れに押された潮核が、浮標の外側へ進んでいた。その下では、戻り流れが島側へ引いている。
凪は潮核より先に沈んだ。
戻りへ入った潮核が、目の前へ落ちてくる。
掴む。
胸と両手、両足へ赤い光が走った。
本郷の一人が、すぐ後ろへ回った。
凪は体をひねる。
胸を遠ざける。
相手の手は、そこへ来なかった。
右足首。
一秒。
掴まれた足が後ろへ引かれる。流れも島側へ戻っている。凪が前へ蹴っても、進んだ距離の半分を水に返された。
二秒になる前に、潮核を放す。
芽衣が待つ方向ではない。
浮標二番の外側へ、浅く流した。
本郷の守備が潮核を追って向きを変える。
潮核は表面を北西へ進み、浮標の影へ入った。
そこで沈む。
水面下の戻りへ引かれ、島側へ曲がった。
芽衣が、曲がった先で受け取る。
凪の発光ラインが消え、芽衣の胸と手足へ赤い光が走った。
本郷の選手は、潮核が直進する位置にいた。
振り返るまでに一拍かかる。
それでも、足へ伸びる手は速かった。
芽衣の右足首へ触れる。
一秒。
芽衣が体を沈め、横の流れへ潮核を乗せる。
花が受け取った。
赤い光が、花の胸と手足に走る。
本郷の二人が向きを変える。
花はゴールゾーンへ進まず、凪へ戻した。
本郷の手は迷わない。
凪が掴んだ瞬間、もう右足へ伸びている。
一秒。
凪はすぐに放した。
中央では、七海が別の潮核へ向かいかけていた。
足が一度だけ東へ動く。
花が持つ赤い光を見る。
七海は中央へ戻った。
本郷も潮核を取った。
青い光が走る。
受け手へまっすぐ流す。
潮核は浮標二番の横で速度を失い、戻り流れへ引かれた。
受け手の手前で曲がる。
本郷の二人が、同じ潮核へ寄った。
肩がぶつかる。
青い光を持つ選手だけが、その外に残った。
花が後ろへ入る。
右足首へ触れた。
一秒。
本郷の選手が足を振る。花の肩まで引かれたが、手は離れない。
二秒。
持球者が潮核を放した。
パスは浅い。
戻り流れに押され、二人の間へ戻ってきた。
芽衣が先に掴む。
赤い光。
本郷の手は、すぐ芽衣の足へ伸びる。
人には合っている。
海には合っていない。
それでも、三原中央もゴールゾーンまでは運べなかった。
本郷のタッチが早い。
保持すれば、一秒で足へ来る。
二秒になる前に流す。
受け手が海に合わせる前に、次の手が伸びる。
十三時半。
航路を通ったフェリーの波が、遅れて競技区画へ届いた。
浮標が島側から順に持ち上がる。
紐が水面下で引かれ、四つの潮核が一度に上下した。
本郷の一人が、浮いた潮核へ手を伸ばす。
次の波で潮核が沈む。
指が水だけを掴んだ。
凪は、一つ先の波を見た。
浮標二番が上がる。
その下で、戻り流れが一度だけ強くなる。
凪は先に沈んだ。
潮核が降りてくる。
掴んだ直後、本郷の手が右足へ触れた。
一秒。
水が凪の胸を島側へ押す。
芽衣は外側にいる。
届かない。
凪は潮核を深く沈めた。
手を離す。
発光ラインが消える。
潮核は戻りの下へ落ち、芽衣の手前よりさらに深く沈んだ。
芽衣は追いつけなかった。
本郷も拾えない。
潮核だけが、二人の下を通り過ぎた。
終了の笛が鳴った。
スコア:本郷高校 0-三原中央高校 0
* * *
インターバル。
岸へ上がると、花の右腕に赤い跡が残っていた。
「離れんね」
結がタオルを渡す。
「うちも離れんかったけど」
「花と同じこと、向こう全員がやるんよ」
花は腕を拭いた。
赤い跡は消えない。
遥香がボードへ四つの丸を描いた。中央の一つだけを、三本の線で囲む。
「本郷高校は、一つへ集まりすぎています」
結が丸の外側を指でなぞった。
「こっち二つ、空いとる」
「はい。ただし、持ってから探さないでください」
遥香のペンが、丸から丸へ短い線を引く。
「触られたら、切ろうとするより先に流してください」
凪は、浮標二番の方を見た。
「島側へ流してください」
遥香のペンが止まる。
「表面では外へ行きます。でも、二番の下で戻ります」
凪はボードの外側から、島側へ曲がる線を指で描いた。
「本郷は、曲がる前の位置へ行っています」
遥香が、その線をペンでなぞる。
「曲がった先へ、先に受け手を置きます」
七海が自分の右足首を押さえた。
手を離す。
「次の潮核は?」
「今の攻撃が終わってからです」
「分かっとるよ」
優奈が隣から七海を見上げた。
「今、間があった」
「確認しただけじゃけ」
* * *
第二ピリオド。
本郷高校は、また中央へ寄った。
凪は浮標二番へ進む。
潮核は表面の流れに押されて、外側へ動いている。
凪はその手前で沈んだ。
水面下の戻りが、足首へ絡む。
一度蹴っても、体が半歩戻される。
もう一度。
太腿が重くなったところで、潮核が目の前へ落ちてきた。
掴む。
赤い光。
本郷の手が右足へ触れた。
凪は振り返らない。
一秒。
外側へ浅く流す。
本郷の選手が潮核を追う。
潮核は浮標の影で沈んだ。
島側へ曲がる。
芽衣が先に待っている。
受け取る。
凪の赤い光が消え、芽衣の胸と手足が赤く光った。
本郷の二人が芽衣へ寄る。
一人の手が足首へ触れた。
一秒。
二秒。
芽衣が潮核を放す。
七海が受け取った。
赤い光が点く。
東側の潮核が、表面の流れに乗って動いた。
七海の体が、そちらへ向きかける。
止まる。
芽衣から受けた今の潮核は、まだ七海の手にある。
本郷の手が伸びるより先に、花へ流した。
花が掴む。
胸と手足へ赤い光が走った。
一人目が右足へ触れる。
花が蹴る。
手が離れた。
二人目が正面から入る。
今度は、花の右手。
一秒。
花は潮核を左手へ移し、右腕を引いた。
接触が切れる。
ゴールゾーンが真下にある。
花が沈む。
赤い光が、濁った水の中へ消えた。
ブザー。
スコア:本郷高校 0-三原中央高校 1
本郷の五人は、沈んだ花ではなく、潮核が通った場所を見ていた。
浮標二番の外側。
影。
曲がった先。
その次の攻防で、本郷の持球時間が短くなった。
三秒まで持たない。
二秒になる前に、隣へ流す。
まだ深さは合わない。
流した潮核が戻りに押され、受け手の膝元へ落ちた。
それでも、一人目ではなく二人目が拾った。
第一ピリオドより、青い光の移動が速い。
終了の笛が鳴った。
スコア:本郷高校 0-三原中央高校 1
* * *
インターバル。
七海が岸へ上がる。
遥香のボードには、次の五人が書かれていた。
凪。
花。
結。
芽衣。
優奈。
「第三ピリオド、七海さんと優奈さんを交代します」
七海の手がゴーグルへ上がった。
一度外せば、この試合には戻れない。
留め具が外れる。
「はい」
優奈が立った。
スマートフォンの画面には、一人分の記録だけが並んでいた。
【本郷 三番】
【足へ来る前、左肩が沈む】
【二回目は手】
「三番だけ?」
七海が画面を覗く。
「全員見たら、どれも分からんくなるけん」
遥香が本郷の三番へ顔を向けた。
「優奈さん。三番をお願いします」
「分かりました」
優奈がゴーグルを下ろす。
七海は水際から一歩下がり、場所を空けた。
* * *
第三ピリオド。
本郷の三番が凪へ近づいた。
左肩が沈む。
手が、凪の右足へ伸びる。
触れられる前に、潮核は優奈へ渡っていた。
凪の発光ラインが消え、優奈の胸と手足へ赤い光が走る。
三番が向きを変えた。
一度目は足。
二度目。
左肩が沈みきる前に、右肘が開く。
手を狙っている。
優奈は潮核を放した。
発光ラインが消える。
三番の指が、水だけを掴む。
芽衣が受け取り、胸と手足へ赤い光を点けたままゴールゾーンへ沈んだ。
ブザー。
スコア:本郷高校 0-三原中央高校 2
優奈は、得点した芽衣を見なかった。
本郷の三番を追っている。
三番の左肩が、また沈んだ。
今度は、その手が最初から足へ来なかった。
同じ癖。
違う選択。
本郷は優奈に読まれたことを、もう変え始めていた。
次の攻防。
本郷の選手が島側の潮核を掴んだ。
青い光が走る。
凪が近づく。
本郷は二秒まで持たなかった。
浮標二番の外側へ、浅く流す。
第二ピリオドまでと同じ場所。
凪は曲がった先へ向かった。
潮核は影へ入る。
沈む。
けれど、島側へ戻ってこなかった。
凪の手が止まる。
本郷は、さっきより深く流していた。
戻り流れの下へ入った潮核が、そのまま北西へ抜けていく。
本郷の二人目が受け取った。
胸と手足へ青い光が走る。
花が追いつき、右足へ触れる。
一秒。
本郷の選手は粘らない。
隣へ流す。
受け手は半歩遅れた。
それでも、潮核を掴んだ。
青い光が、三人の間を移っていく。
凪は最後の受け手へ向かった。
島側から来る水が、胸を押し返す。
一度蹴る。
思ったほど進まない。
もう一度蹴ったときには、本郷の持球者が潮核を放していた。
深さが足りない。
潮核は受け手の手前で浮き始め、花が横から掴んだ。
本郷は得点できなかった。
それでも、もう海の外側だけを見てはいなかった。
終了の笛が鳴る。
スコア:本郷高校 0-三原中央高校 2
* * *
インターバル。
芽衣が岸へ上がる。
代わって渚が水際へ立った。
遥香はボードに本郷の動きを書き足す。
【保持時間 短くなった】
【配置 分散】
【浮標二番 戻りの下を通した】
【三番 触る場所を変更】
「もう使われました」
凪が、浮標二番を見る。
「戻る流れを?」
「その下です」
遥香のペン先が、凪の描いた曲線より下へ線を足した。
「本郷高校は、こちらのやり方を覚えています」
海の向こうでは、本郷の五人が話していた。
一人が水面へ手を入れる。
もう一人が、潮核を浅く流す。
沈んだ位置を、三人目が指す。
誰も、最初の位置へ戻ろうとはしていなかった。
* * *
第四ピリオド。
開始の笛が鳴った。
本郷高校の五人は、もう中央へ集まらなかった。
一人目が潮核を持つ。
青い光。
凪が近づく前に、二人目へ流す。
渚の手が足首へ触れた。
一秒。
二秒になる前に三人目へ渡った。
青い光が、ゴールゾーンへ近づく。
結の両腕が水面で動く。
右。
花が進路を変えた。
本郷の受け手が潮核を掴む。
ゴールゾーンまで、あと数メートル。
島側から来た流れが、青い光を内側へ押す。
本郷の選手は逆らわなかった。
流れに乗ったまま体を沈める。
花が後ろへ入り、右足首へ触れた。
一秒。
本郷の選手が足を振る。
花の腕も水を切り、接触は離れない。
二秒。
持球者がさらに沈む。
花も沈む。
流れが二人の肩へ重なり、花の体が半歩外へ押された。
腕が伸びる。
手は離れない。
三秒。
青い光が消えた。
潮核が落ちる。
凪が拾った。
胸と手足へ赤い光が走る。
息を吸いに上がる時間はない。
結の右腕が、水面を外側へ振った。
凪は潮核を戻り流れの下へ沈めた。
第三ピリオドで、本郷が通した深さ。
本郷の二人が先に動く。
もう、曲がる前では待っていない。
渚がさらに下へ入った。
潮核が戻りの下を抜け、浮き始める場所へ手を伸ばす。
掴む。
凪の発光ラインが消え、渚の胸と手足へ赤い光が走った。
本郷の二人が追う。
渚は速度を落とさない。
右から優奈が入った。
本郷の三番の左肩が沈む。
足へ届く前に、潮核が優奈へ渡った。
三番が向きを変える。
今度は左肩が沈まない。
優奈の右手へ、まっすぐ手が伸びる。
優奈は保持しなかった。
潮核へ触れた直後、内側へ流す。
優奈の赤い光は一瞬で消える。
浮標の影を抜けた場所で、凪が受け取った。
赤い光。
ゴールゾーンは真下にある。
凪が沈む。
ブザー。
スコア:本郷高校 0-三原中央高校 3
水面へ戻ると、胸が一度で開かなかった。
凪は二度、短く息を吸う。
本郷は、もう次の潮核へ向かっていた。
残り時間、本郷の手は何度も三原中央の足へ伸びた。
三原中央の赤い光は、その前に消える。
隣の選手が受け取り、新しい赤い光を点ける。
本郷も同じように、青い光を動かした。
深さが合わず、二度は届かない。
三度目だけ、受け手の手に入る。
花が追う。
右足へ触れる。
一秒。
本郷の選手は潮核を放す。
その先には、もう次の選手がいた。
第一ピリオドにはなかった位置だった。
青い光が、三原中央のゴールゾーン手前まで進む。
凪が正面へ入る。
渚が後ろから足へ触れる。
一秒。
本郷はパスを出した。
浮標二番の戻りを避けるため、深く流している。
ただ、深すぎた。
潮核は失速し、受け手の指先より手前で止まった。
青い光は点かない。
花が掴む。
胸と手足へ赤い光を走らせ、残り時間を使って外側へ流した。
試合終了の笛が鳴る。
スコア:本郷高校 0-三原中央高校 3
勝った。
けれど本郷高校の最後の攻撃は、第一ピリオドの形とは違っていた。
* * *
優奈が岸へ戻った。
七海がタオルを差し出す。
「二回目、ほんまに手じゃった?」
「手じゃったよ」
「水の中でも分かった?」
「左肩が先に動くけん」
本郷の三番が、最後の潮核を拾い上げた。
左肩は沈まなかった。
隣の選手へ潮核を手渡す。
優奈の目が、その肩を追う。
「もう変わっとる」
七海も本郷の選手を見る。
「次やったら、もっと強い?」
「たぶん」
凪は、浮標二番の向こうを見た。
本郷の選手が一人、水面へ手を入れている。
流れの向きを確かめるように、指を開いていた。
試合前、本郷は人の足だけを見ていた。
最後は、海へ手を入れていた。
花は少し離れた場所で、右腕をタオルで拭いていた。
第一ピリオドについた赤い跡は、まだ残っている。
本郷高校の選手たちは、最後まで足へ伸ばした手を迷わせなかった。
癖のない手だった。
花の荷物の中で、スマートフォンが鳴った。
花は右手にタオルを握ったまま、左手で取り出す。
【母】
芽衣が花を見る。
花は通話ボタンを押した。
「もしもし」
スマートフォンを耳へ当てる。
一度開いた口が、そのまま閉じた。
右手が開く。
タオルが足元へ落ちた。
右腕に残った赤い跡が、日の下へ出る。
花はタオルを拾わなかった。
* * *
三日後。
花は学校へ来ていなかった。
二日前、芽衣から部のグループへ一行だけ届いていた。
【花さんのおばあちゃんが亡くなりました】
その下には、誰からの返事もなかった。
結は何度か画面を開いた。
文字を打たないまま閉じた。
放課後。
部室には十脚の椅子がある。
花がいつも使っていた椅子だけ、机から少し離れていた。
心春はそこへ座らず、芽衣の椅子の横に立っている。
ホワイトボードには、本郷戦の先発五人が消されずに残っていた。
石塚凪。
潮田花。
村上結。
糸崎芽衣。
和田七海。
扉が開いた。
三谷が一枚の紙を持って入ってくる。
遥香が立ち上がった。
三谷は何も言わず、紙を机の中央へ置いた。
遥香が持ち上げる。
【退部届】
氏名欄には、大きな字が書かれていた。
潮田花。
遥香は、いつも受け取った書類を挟むファイルへ手を伸ばした。
指が、表紙へ触れる。
ファイルは開かなかった。
退部届が、机の上へ戻った。




