第65話 次の、潮核
佐木島の斜面は、冬に走ったときより緑が濃くなっていた。
桟橋を離れたフェリーの波が、少し遅れて練習区画へ届く。浮標が端から順に持ち上がり、繋いだ紐が水面の下で引かれた。
潮核は四つ。
一つは区画の中央。二つ目は東側の浮標近く。残りの二つは、島影の内側と南端を別々の速さで流れている。
遥香のノートが、五月のページで開いていた。
【五対五】
【十分】
【潮核 四つ】
【公式戦形式】
七海は東側の潮核へ顔を向けた。
「全部使うんですか」
「公式戦と同じ条件です」
遥香がホワイトボードへ線を引く。
「一つへ集まりすぎないでください。ただし、今の攻防を途中で捨てないこと」
「四つあったら、ずっと攻撃できますね」
優奈がゴーグルを拭く手を止めた。
「取れたらね」
「取るよ」
「一人で行かんでよ」
「優奈も来ればええじゃん」
「行くかどうかは、そのとき決める」
七海はもう水際へ向かっていた。
【赤】
凪
花
結
芽衣
心春
【青】
陽
渚
遥香
七海
優奈
結が赤の水面側へ入る。
青は遥香が水面に残った。笛を手首へ通し、残る四人を浮標の内側へ並べる。
中央から一人分離れた場所に、心春がいた。その先を、東側の潮核が浮標の外へ向かって流れている。
黒いドライスーツが五人ずつ。
胸と手足の発光ラインは、まだ透明だった。
遥香の笛が鳴った。
* * *
渚が中央の潮核へ先に触れた。
胸と両手、両足に青い光が走る。
花が後ろへ入り、渚の右足へ手を伸ばした。渚は足を外へ払って接触を避けたが、反対側から来た芽衣の手が左足の発光ラインへ触れた。
一秒。
渚は水を蹴らず、中央を横切る流れへ体を預けた。芽衣の腕を引いたまま体の向きを変える。
二秒。
渚の手から潮核が離れた。
浅い流れへ乗った潮核を、陽が受け取る。青い光が移り、凪が正面から進路を切った。花も右足へ触れ、陽は七海が待つ右斜め前へ半身を開く。
七海の顔は、もう東を向いていた。
二つ目の潮核が、フェリーの波に押されて浮標の外側へ近づいている。東へ向かう水は、中央へ戻ろうとする流れと正面からぶつかっていた。
七海が水を蹴る。
一度では、体が思ったほど進まない。腿へまとわりつく水をもう一度押し、陽の右側から離れていく。
陽が潮核を放した。
七海がいた場所へ潮核が流れる。
受け取る手はなかった。
凪が横から掴む。青かった発光ラインが赤へ変わった。
中央では、七海が抜けた分だけ青の守りが薄くなっていた。芽衣が陽の進路へ入り、心春は花の横へ寄る。凪が浅く流した潮核を花が受け取り、赤い光を引いたまま青の二人の間へ体を沈めた。
渚が追う。
間に合わない。
花の赤い光がゴールゾーンへ沈み、得点を知らせるブザーが鳴った。
東側では、七海が二つ目の潮核へ手を伸ばしていた。
流れに逆らって泳いだ分、息がもう浅い。潮核を掴むと青い光が点いたが、心春が正面へ入り、その左足へ手を触れた。
一秒。
七海が強く蹴る。
心春の腕が伸び、肩まで同じ方向へ引かれる。七海の一蹴りは長かったが、横から入る水に削られ、心春を振り切るところまでは進まない。
二秒。
七海の顔が南へ向いた。
三つ目の潮核が、島影から出たところで浮いている。南端へ向かう水へ乗れば、今度は流れに逆らわなくていい。
七海の両足が止まった。
三秒。
判定音が水中へ響き、青い光が消える。潮核が手から落ちた。
七海は拾い直さなかった。
足が、もう南へ向いていた。
優奈が東側へ着いたときには、七海は心春から離れ始めていた。優奈が伸ばした手は届かず、落ちた潮核を心春が拾う。
東側でも、赤い光が点いた。
七海が水面へ顔を出す。
正面には、得点を終えた花の赤い光があった。振り返れば、東側では心春が潮核を持っている。
中央も、東も、赤だった。
七海の足は南へ向いたまま、水を蹴らなかった。
遥香の笛が二度鳴った。
* * *
「まだ時間、ありましたよね」
七海がゴーグルを額へ上げる。
「ありました」
遥香は中央を指した。
「陽さんは、七海さんがいた場所へ潮核を流しました」
七海の顔が、中央へ戻る。
「もう取られると思った」
「花先輩のタッチは、まだ二秒じゃった」
優奈が水を払いながら隣へ浮かんだ。
「七海がいなくなったけん、中央を取られたんよ」
「でも、二つ目は取ったよ」
「一人で取って、心春に渡したじゃん」
「渡してない」
「結果は同じじゃろ」
七海の指が、水面を一度押した。
小さな波が優奈の胸へ届く。
「次のが見えたんよ」
「今のが終わってないのに?」
七海は東側を見た。
心春が持っていた潮核は、すでに元の位置へ戻されている。
凪は南端を流れる三つ目へ顔を向けた。
自分にも見えていた。
陽から潮核を奪った直後、南へ向かう流れが強くなっていた。あのまま一人で行けば、七海より先に三つ目へ触れたかもしれない。
右足を南へ向けたとき、中央へ戻る水が脛へ巻きついた。
一蹴りで進める距離が、半分になる。
そこから南へ行けば、着くまでに息を一つ使う。取ったとしても、中央へ戻る分は残らない。
だから花へ渡した。
南端の流れは、まだ足の裏に残っていた。
見えているのに、行かなかった潮核。
遥香が四つを順番に元の位置へ戻した。
「もう一度、同じ位置から始めます」
七海がゴーグルを下ろす。
優奈も隣で水へ沈んだ。
* * *
二本目。
中央の潮核へ、今度は花が先に触れた。赤い光が走り、陽が正面へ入る。渚が右足へ触れたが、花は足を大きく振って手を外し、芽衣へ浅く潮核を流した。
芽衣が受け取る。
七海の顔が東へ向いた。
二つ目の潮核は、さっきと同じ場所から浮標の外側へ流れ始めている。七海の足が一度動いたが、中央では優奈が芽衣の左側へ入り、遥香の手が右を示していた。
七海は東へ行かなかった。
芽衣の右足へ優奈が触れる。一秒。芽衣が足を引いても、優奈の手は離れない。
二秒。
芽衣が心春へ潮核を流した。
心春が受け取ると、陽が左足へ触れた。心春は花の方へ動きかけたが、水面にいる結の手が中央を示す。
向きを変え、凪へ潮核を放す。
陽の指が発光ラインから外れた。
凪が受け取る前に、渚の手が潮核の端へ触れる。青い光が一瞬だけ走って消え、保持にはならないまま軌道だけがずれた。
赤も青も、中央へ寄る。
花と渚の手が同時に伸び、花の指が先に潮核を掴んだ。
赤い光が点く。
七海が東へ向かって水を蹴った。
今度は、中央へ一度だけ顔を戻していた。
渚と陽が花へ寄り、優奈も中央に残っている。遥香の手が東を示した。
優奈が向きを変える。
七海はその動きを見てから、二つ目へ向かった。
それでも、先に出たのは七海だった。
東へ向かう流れが胸を押し返した。
七海は蹴る。
思ったほど進まない。
もう一度蹴ると、太腿の奥が重くなり、吐いた息がゴーグルの横を白く塞いだ。
七海が潮核を掴む。
青い発光ラインが点いた。
心春が中央から振り返り、七海の左足へ向かう。優奈はまだ追いついていない。
七海は外側へ回ったが、心春の指が発光ラインへ触れた。
一秒。
前を向いたまま強く蹴る。
心春の体もついてくる。流れへ逆らう水が七海の肩へ重なり、肺に残る空気が一度で減った。
二秒。
七海の目が、右へ動いた。
優奈はまだ半歩後ろにいる。
七海の足が、次の一蹴りだけ弱くなった。
止まってはいない。
優奈が横へ入る。
七海は潮核を放した。
心春の指が発光ラインから外れ、計測が途切れる。優奈が受け取ると、青い光が七海から移った。
遥香の手が右へ動く。
陽が中央から東へ向きを変え、渚はその場に残って花の赤い光を追う。優奈は陽の位置を一度確かめ、島影の端で下へ落ちる流れへ潮核を乗せた。
潮核が陽の手前で沈む。
遅れて浮き上がったところを、陽が受け取った。
青い光が、七海から優奈、陽へ繋がった。
凪と芽衣が東側へ戻る。中央には、赤く光る花と、その足へ触れた渚が残っている。
凪の足元へ、南端へ向かう流れが届いた。
三つ目の潮核が動いている。
今なら取れる。
右足を南へ出すと、逆向きの水が膝の裏へ入り、体を中央へ押し戻した。ここから強く蹴れば流れを越えられる。その代わり、東へ戻る息は残らない。
陽の青い光が、凪の横を進んでいる。
南へ行きたい。
足の裏には、取れる流れがある。
凪はその流れを蹴らなかった。
陽の正面へ入る。
陽は潮核を深く沈めた。東側の流れが弱くなり、潮核が二人の下で失速する。
浮かび始めた潮核へ、七海が先に手を伸ばした。
青い光がもう一度点く。
ゴールゾーンまで、浮標二つ分。
凪が正面へ入り、芽衣が七海の右足へ触れる。一秒。七海は足を払って芽衣の手を外したが、凪が胸へ触れる前に陽の位置を見た。
すぐには放さない。
陽が半歩だけ右へ開く。
七海が潮核を戻した。
陽から優奈へ渡り、優奈がゴールゾーンの手前で受け取る。花が中央から追いつき、右足へ触れた。
一秒。
優奈の体が傾く。
二秒。
優奈が七海を見る。
七海はもう次の位置へ出ていた。
ただし、今度は一人分先へ行っていない。
優奈が潮核を流す。七海が手を伸ばし、指先へ触れた。
青い光が走る。
終了の笛が鳴った。
潮核は七海の手の中にあった。
ゴールゾーンの縁まで、半歩届いていない。
* * *
七海が水面へ顔を出した。
「あとちょっとだった」
優奈も隣へ浮かぶ。
「今度は、一人じゃなかったじゃろ」
「最初に来たの、優奈じゃったね」
「分かっとるじゃん」
「陽先輩も来ました」
「うちが先」
陽は何も言わず、七海の手から潮核を受け取った。
遥香は時計を止め、ホワイトボードへ目を落とす。
「七海さん」
「はい」
「二本目も、動き出すのは早かったです」
七海の口が少し開く。
「でも、一度だけ優奈さんを見ました」
七海は隣へ顔を向けた。
優奈はもう岸へ向かっている。
「次は、待つんですか」
「止まる必要はありません」
遥香が四つの潮核を見る。
「次へ行く前に、今いる人を見てください」
七海の目が、中央から東へ動く。
島影。
南端。
四つの潮核が、それぞれ別の場所にある。
凪も同じ順番で見た。
全部の流れが分かっても、全部へは行けない。
選ばなかった潮核は、誰かへ任せるしかない。
片付けが始まった。
四つの潮核をケースへ戻す。
七海が一つ目を入れた。
潮核はケースの底へ当たり、そのまま半周した。
七海の手は、もう二つ目へ伸びている。
優奈がケースの縁を押さえた。
「まだ止まっとらんよ」
一つ目の潮核が、底を転がる。
七海の手が途中で止まった。
潮核が角へ当たる。
小さく戻る。
もう一度、角へ触れる。
動かなくなった。
七海は、それから二つ目を持ち上げた。




