第64話 隣の、速さ
港の練習区画に、日が残るようになっていた。
四本の青い浮標が、西日を受けて水面に長い影を伸ばしている。岸壁へ並べたドライスーツは、まだ乾いたままだった。
遥香がホワイトボードへ名前を書く。
【二人一組】
【各組 潮核一つ】
【青い浮標で交代】
【声なし】
【凪・渚】
【花・七海】
【芽衣・優奈】
【陽・心春】
最後に、
【結・水面】
心春の顔が、二つ上の組へ動いた。
「うち、花ちゃんか芽衣ちゃんじゃないん?」
「今日は、普段一緒にいない相手と組んでもらいます」
遥香がペンの蓋を閉めた。
「二人で潮核を運んでください。青い浮標を通過するたびに持球者を替えます。潮核を落とした場合は、その浮標からやり直しです」
「陽先輩と?」
陽はもうゴーグルを下ろし、水際へ向かっていた。
花がドライスーツの袖へ腕を通す。
「心春、迷惑かけんよ」
「まだ何もしとらんじゃん」
「何もせんのが一番迷惑じゃけ」
「花ちゃん厳しい」
「先輩じゃけえね」
心春は芽衣へ顔を向けた。
芽衣は、優奈の足首にできた生地のねじれを直している。
「芽衣ちゃん」
「陽先輩、もう行っとるよ」
水際では、陽が潮核を手にしていた。
心春は片方だけ外していたゴーグルを戻し、その背中を追った。
四本の青い浮標が、練習区画を横切るようにジグザグに並んでいる。
一つ目で受け渡す。
二つ目でもう一度。
最後の浮標を回り、開始位置へ戻る。
水中では言葉を使わない。
遥香の指が上がった。
陽が潮核を掴む。
胸、両手、両足。
赤い発光ラインが水中へ浮かんだ。
笛。
陽が前へ出る。
心春は、その真後ろを追った。
陽が水を蹴るたび、泡が心春のゴーグルへ当たった。白い粒に遮られ、陽の手足が途切れて見える。
一つ目の浮標へ着くと、陽が右へ半身を開いた。潮核を持った手が横へ伸び、その指が開く。
心春は、まだ後ろにいた。
赤い光が消えた。
潮核は誰もいない水の中を進み、浮標の下へ沈んでいく。
心春が潜った。
一度深く沈んだ潮核が、遅れて浮き始めている。両手で拾い、水面へ顔を出した。
「陽先輩、次どこへ入ればええですか」
陽の指が、自分の右側を示した。
「右?」
指は動かない。
「陽先輩の右? うちから見て右?」
陽は二つ目の浮標へ顔を向けた。
遥香の笛が鳴る。
「一つ目からやり直します」
心春は潮核を陽へ戻した。
二本目。
今度は、最初から陽の右へ入った。
近すぎた。
陽が腕を掻くたび、心春の肩へ肘が触れそうになる。一つ目の浮標が近づき、陽が潮核を流した。
心春の手が先に出る。
指先だけが触れ、胸と手足へ赤い光が一瞬走った。
すぐに消える。
潮核は二人の間を抜けた。
陽が潜る。
心春も同時に潜った。
二人の手が同じ側から潮核へ伸び、ゴーグルの端がぶつかった。硬い枠が眉の上へ食い込み、視界が横へずれる。
心春が先に水面へ上がった。
「ごめんなさい」
陽はゴーグルを額へ上げ、位置を直した。
何も言わない。
怒っているのか、最初の位置へ戻ろうとしているだけなのか、心春には分からなかった。
隣のコースでは、花と七海が一つ目の浮標を回っていた。
七海が潮核を落とす。
花が拾うより早く、七海は二つ目の浮標へ泳ぎ出している。
「そっちじゃない!」
花が七海の足首を掴み、元の位置へ引き戻した。
反対側では、芽衣から潮核を受け取った優奈が止まっている。
「次は、どちらへ入ればいいですか」
「浮標の外」
「今の外は右ですか」
「左」
優奈の顔が、浮標と芽衣の間を往復した。
心春の体も、芽衣の方へ向きかける。
芽衣はこちらを見ていなかった。優奈の立つ位置を指で直している。
花も、七海を浮標まで引き戻していた。
二人とも、自分の組を見ている。
心春は手を上げかけた。
組を替えてもらえますか。
言葉は口まで来た。
陽はもう潮核を拾い、開始位置へ戻っている。
心春は上げかけた手を下ろし、その後ろを追った。
* * *
三本目。
笛が鳴っても、陽はすぐに前へ出なかった。
左足が一度、水を蹴る。
もう一度。
それから体が進んだ。
心春は一拍遅れて水を蹴り、陽の右斜め後ろへ入った。近くない。離れすぎてもいない。
一つ目の浮標が来る。
陽の左足が、同じ間隔で二度動いた。
心春も同じ間で水を蹴る。
陽が右へ半身を開いた。
心春はその横へ入り、手から離れた潮核を両手で受け取った。
赤い発光ラインが、陽から心春へ移る。
初めて、一度で受け取れた。
心春が進む。
今度は陽が、右斜め後ろにいる。
二つ目の浮標へ近づくと、陽の左足が一度だけ強く動いた。
心春も同じ強さで蹴った。
二人が同時に左へ寄る。
空けたはずの場所が潰れ、心春の肘が陽の肩へぶつかった。その瞬間、港の外を通った小型船の引き波が二人の体を持ち上げる。
次の波が岸壁へ当たり、斜めに返ってきた。
陽の体が心春へ押しつけられた。肩へもう一度衝撃が入り、心春の肺から息が漏れる。ゴーグルの隙間へ海水が入り、陽の赤い線が歪んだ。
心春も陽と同じ方向へ逃げようとした。
二人の体が、また重なる。
潮核が心春の手から外れた。
赤い光が消える。
潮核は返し波に押され、二人の足元を抜けた。
陽が潜る。
心春も追った。
息が足りない。
右目へ入った海水で、陽の輪郭が二つに見える。それでも同じ側から手を伸ばし、陽の指へ自分の指を重ねてしまう。
どちらも掴めなかった。
潮核が浮標の外へ流れていく。
遥香の笛が鳴った。
「止めます!」
心春は水面へ顔を出した。
吸い込んだ空気が咳になった。肩の奥が熱い。ゴーグルを上げると、右目から海水が流れた。
陽も浮上する。
心春は息を整えながら、陽の顔を見られなかった。
「うち、陽先輩の邪魔ばっかりです」
陽の手が止まった。
二人の間には、潮核一つ分より広い水が空いていた。
陽はそこへ手を入れ、心春の方へ半歩近づく。
「近い」
それだけだった。
心春は陽の手と、二人の間に残った水を見た。
陽と同じに動いた。
同じように蹴って、同じ方向へ逃げた。
そのたび、二人の間から水がなくなった。
* * *
隣のコースで、凪と渚が開始位置へ戻った。
凪は二つ目の浮標へ向かう流れを見ていた。
岸壁側から戻る水が、途中で外へ曲がっている。
あそこへ潮核を流せば、渚へ届く。
笛。
凪が潮核を持って先へ出た。
渚は斜め後ろについてくる。
一つ目の浮標を回ったところで、渚の蹴りが弱くなった。足元の水が軽い方へ体を滑らせ、凪が選んだ線から外れていく。
凪は流れを変えなかった。
予定していた場所へ潮核を放す。
赤い光が消えた。
潮核は曲がった。
渚はそこにいない。
潮核が二人の間へ落ちる。
結の笛が鳴った。
「凪、そっちもやり直し!」
凪は浮上した。
渚が潮核を拾い、開始位置へ戻っていく。
水は読めていた。
潮核も、狙った場所へ流れた。
渚が来なかった。
違う。
渚を見ずに、来ると決めていた。
開始位置へ戻ると、渚は凪の半歩後ろへ入った。
凪がさっき選んだ流れへ合わせるための位置だった。
合わせてもらったのは、自分の方だった。
凪の指が、潮核の表面へ沈む。
水を読めれば、仲間も来ると思っていた。
陽だけを見て重なった心春と、水だけを見て渚を置いていった自分。
向きは違っても、二人とも隣を見ていなかった。
「次」
渚が浮標を見たまま言った。
凪は潮核を持ち直した。
「今度は、渚を見てから流す」
渚の顔が凪へ向いた。
「海、変わりますよ」
「変わったら、そのとき変える」
返事をした凪の胸に、まだ小さな痛みが残っていた。
* * *
遥香が二つ目の浮標を岸壁側へ寄せた。
浮標同士の間隔も、さっきより広げる。
「もう一本やります」
陽が先に水へ戻った。
「陽先輩」
ゴーグル越しの顔が、心春へ向く。
「次、うちから持ってええですか」
陽が潮核を水面へ置いた。
心春が掴む。
胸と両手、両足が赤く光った。
四本目。
笛。
心春が進む。
陽の蹴る間へ、自分の足を重ねない。
それでも、どこへ入ればよいのかは分からなかった。
一つ目の浮標が近づく。
陽は右斜め後ろにいる。
心春は半身を開き、陽が来ると思った場所へ潮核を放した。
早すぎた。
陽の指先より手前で潮核が沈む。
赤い光が消えた。
遥香の笛が鳴る。
「一つ目からです」
心春は水面へ顔を出した。
また失敗した。
花のいる方へ顔が動きかける。
止めた。
陽が沈んだ潮核を拾っている。
心春は、その上へ泳いだ。
陽が顔を出す。
「もう一回」
心春が先に言った。
陽は潮核を差し出した。
やり直し。
心春は陽と同じ間で蹴らなかった。
近づきすぎないようにすると、今度は離れすぎた。一つ目の浮標で放した潮核は陽まで届かず、途中で下へ落ちた。
陽が戻って拾う。
心春の足が止まる。
陽は二つ目の浮標へ進みかけ、心春が来ていないことに気づいて振り返った。
心春は花も芽衣も見なかった。
陽のところへ泳いだ。
二人で開始位置へ戻る。
もう一度。
今度は受け渡す前に引き波が入った。陽の体が岸壁側へずれ、心春との間が開く。
心春は追いつこうとして、同じ方向へ蹴りかけた。
肩の痛みが戻る。
足を止めた。
陽が流された先ではなく、その手前へ入る。正しい位置かは分からない。陽の次の動きも読めない。
心春は両手を開いた。
陽が潮核を放す。
返し波に押された潮核は、心春の右手へ届かず、その下を抜けた。
失敗。
心春は潮核を追わなかった。
陽が潜る側と反対へ回る。
二人のゴーグルはぶつからなかった。
陽が潮核を拾う。
心春はその斜め後ろへ戻った。
終了の笛が鳴る。
最後の浮標へは、一度も届かなかった。
心春が水面へ顔を出す。
花と芽衣は、それぞれ自分の組と岸へ戻っていた。
心春は二人を呼ばなかった。
陽が潮核を持って開始位置へ戻る。
心春も、その横を泳いだ。
* * *
練習が終わった。
花と芽衣は先にドライスーツを脱ぎ、部室へ続く道へ出ていた。
「心春、帰るよ」
花が振り返る。
「鞄、持ってきてあるけん」
芽衣の肩には、心春の鞄も掛かっている。
「うん」
心春が岸へ上がった。
花たちの方へ一歩進む。
陽は、浮標を繋いでいた紐を岸壁へ引き上げていた。濡れた紐が石の角を擦り、一つ持ち上げるたび、残りの浮標が水の中で引っかかる。
花と芽衣の足音が遠ざかった。
心春はドライスーツの首元を開ける。
陽がもう一度、紐を引いた。
浮標が岸壁へ当たり、止まる。
心春は花たちの背中から顔を戻した。
「半分持ちます」
陽のところへ戻る。
陽が紐の束を差し出した。
二人の間に、濡れた紐が伸びる。
心春が先に歩くと、紐が張った。
足を緩める。
陽が隣へ来た。
浮標が岸壁の角を越える。
「三本目」
陽の口が動いた。
「はい?」
「最初、合っとった」
心春の足が止まりかける。
陽は同じ速さで歩いている。
心春も足を出した。
「次も、陽先輩とがええです」
返事はなかった。
陽が紐を持つ位置をずらした。
心春側に残っていた長さが、半分になる。
二人の間で、紐は弛まず、張りすぎなかった。




