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潮球  作者: カミツキ
3年目の海

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64/101

第64話 五人ずつ

 連休が明けるころには、三原港を抜ける風から冷たさがほとんど抜けていた。


 凪が部室の窓を開けると、潮の匂いを含んだ風が入り、机の上に置かれた細長い段ボール箱の蓋を揺らした。側面には、西宮優奈の名前が印刷されていた。


 優奈は箱から出した黒いドライスーツを机いっぱいに広げ、手の先まで続く生地や、胸、両手、両足に走る透明な発光ラインを順に指で追っていた。足首の生地を裏返して縫い目を確かめようとすると、向かい側から七海が身を乗り出す。


「まだ着んの?」

「確認しとる」

「説明書、もう読んだんじゃろ?」

「実物は今日初めてじゃん」

「着た方が早いよ」


 優奈は足首の生地を元へ戻し、七海へ顔を上げた。


「七海は着ても、一人で脱げんかったじゃん」

「今は脱げる」

「この前も芽衣先輩に手伝ってもらっとったよ」


 七海は伸ばしかけた手を止め、そのまま自分のロッカーへ戻った。


 部室の反対側では、遥香がホワイトボードへ十人分の磁石を並べていた。五つ置いて間を空け、残りの五つも並べ終わると、横から数えていた結が声を上げる。


「ほんまに五人ずつおる」

「今までがおかしかったんよ」


 花が腕を組むと、結がすぐに振り返った。


「七人で五対五はできんじゃろ」

「気持ちで三人増やす」

「花が三人分動くん?」

「動ける」

「動きそう」


 隣にいた芽衣が頷いた。


「芽衣まで乗らんで」


 花は笑いながら芽衣の肩を押した。


 その間に遥香は組み分けを終えていた。凪、花、結、芽衣、七海が発光ラインを赤に設定し、陽、渚、遥香、心春、優奈は青に設定した。


 心春は自分の磁石から、反対の列にある花と芽衣へ目を移した。


「花ちゃんと別なん?」

「試合なら相手になることもあるじゃろ」

「芽衣ちゃんも?」

「うちも相手」


 芽衣が答えると、心春はもう一度二人の名前を見た。


「触ってええん?」

「光っとったらね」


 花が笑いながら心春の額を指で押す。


「遠慮したら置いてくよ」

「花ちゃん、後輩に厳しい」

「ちゃん付けする後輩には厳しいんよ」


 優奈はそのやり取りを見たあと、自分の磁石が置かれた列へ顔を戻した。


「今日、もう入るんですよね」

「最初は五分だけです」


 遥香は十人の磁石を見渡してから、優奈へ続けた。


「潮核も一つにします。今日は位置と三秒タッチの確認を優先してください」

「はい」


 優奈は机の上のドライスーツを抱えた。


 先週まで岸に立っていた優奈が、今日は自分のスーツを腕に抱えている。凪は何も言わず、その黒い生地を見た。


 * * *


 浮標で囲った区画へ入ると、結と遥香が水面に残り、ほかの八人が中央の潮核を挟んで開始位置についた。


 凪は中央の潮核よりも自分たちが守るゴール枠寄りに位置を取り、岸壁寄りの浮標へ目を向けた。低い波が石積みに当たり、返ってきた水が右の脛を斜めに押している。中央に浮かぶ潮核も、そのたびに七海と渚の間を行き来していた。


 遥香の手が下がると二人が同時に出たが、七海の指が返し波に寄せられた潮核へ先に届いた。発光ラインが赤くなり、すぐ右足へ渚が回る。陽も正面から距離を詰めたため、七海は二人に挟まれる前に潮核を潮流へ流した。潮核が沈むと七海の発光ラインから赤い光が消え、そのまま岸壁から戻った水に押されて陽の前を抜けた。その先に優奈がいた。


 優奈が潮核を受け取ると、胸と手足の発光ラインが青くなった。すぐに凪の後ろに沈むゴール枠へ身体を返し、凪もその進路へ入ろうとしたが、岸壁側から追った花の方が早い。


 花の右手が、優奈の右足首を走る青いラインへ重なった。


 一秒。


 優奈は振り返らず、膝を曲げて右足を外へ払った。前の練習で七海に指摘した動きと同じだった。花の手のひらが発光ラインの端まで滑り、そこに残ったのは指先だけだった。


 凪の脛を押していた水が、そこで抜けた。岸壁寄りの浮標が沈む。


 二秒。


 来る。


 優奈はもう一度右足を振った。花の指が発光ラインから外れかけたが、そのぶん右の腰まで外へ開いている。


 岸壁から返った水が、そこへ入った。


 右腰を下から押し上げられ、続いて横から来た短い波を左肩に受けると、優奈の身体が斜めに回った。外へ払った右足が深い方へ流れ、両腕で水を掻いても姿勢は戻らず、口元から上がった泡の向こうで、伸びた左手まで水面とは逆へ向いた。


 上下を失った。


 花が手を離すと、凪は優奈との距離を詰め、伸びた腕を引かずに肘だけを水面へ向けた。泡の向こうで優奈が腕の先へ顔を向け、次の一掻きで身体が上がった。


 顔を出した途端、優奈は息を吸うより先に咳き込み、遥香の笛が二度鳴った。


「止めます!」


 花も優奈の横へ戻った。凪が手を離すと、優奈はもう一度咳をしてから、ようやく息を吸い直した。


「大丈夫?」

「大丈夫です」


 声はまだ掠れていた。


 遥香も近くまで泳いでくる。


「岸へ戻りますか」

「戻りません」


 優奈はゴーグルに入った水を抜き、岸壁を確かめてから、自分が回った場所へ顔を向けた。


「今、どっちが上か分からんくなりました」

「うん」

「足だけ見とったとき、こんなんならんかったのに」


 七海が中央から顔を出した。


「岸におったけんじゃろ」


 優奈は言い返さなかった。


 凪も岸壁へ目を戻した。さっき優奈を崩した水はもう抜け、次の波を受けた浮標が低く沈んでいる。


「一度休んでから再開します」


 遥香が時計を止めても、優奈は岸壁と浮標の間を見たままだった。


 * * *


 再開してから、優奈はさっきほど深く潜らなくなった。


 最初の二度は、花へ近づこうとしても先に距離を開けられた。三度目、花が潮核を持って浮標沿いを抜けたところでようやく後ろへ入り、右足首の発光ラインへ手を重ねる。


 一秒。


 花は速度を落とさず、触れられた右足を外へ振った。優奈の腕が伸び、肩まで同じ方向へ引かれる。


 凪は花の先で潮核を受けられる位置を取りながら、その後ろを見た。


 二秒。


 花がもう一度膝を曲げると、優奈の腰が浮いた。


 さっきと同じ形だ。


 今度は、手が離れた。


 優奈は三秒を取り切る前に右手を開き、その手で水を押して身体を起こした。花との距離は一蹴り分開いたが、一度水面へ顔を向けてから後ろへつき直した。


 三秒には届かなかった。


 花から流れてきた潮核を凪が受け取り、そのまま前へ流した。追ってきた陽が潮核の先へ回り、凪が受け直す前に拾った。


 その後も、優奈は陽の後ろへ戻る途中で渚や芽衣と進路が重なるたびに陽との距離を開けられ、岸壁からの水を受けるたびに足を置き直していた。最初のように身体を回すことはなく、傾くと一度水面へ顔を向けて姿勢を戻した。


 残り時間が少なくなったころ、陽の手から離れた潮核が心春の前へ流れ、左から花、右から芽衣が寄った。心春の顔は先に花へ向き、凪もその足を追う。


 動かない。


 心春は岸壁寄りの浮標へ一度顔を向けると、花の後ろにはつかず、二人の間へ身体を滑らせた。


 流れてきた潮核を掴むと発光ラインが青くなり、すぐ芽衣の右手が胸の発光ラインへ触れた。心春はその場に残ったまま水面の遥香へ顔を向け、芽衣の手が残っているうちに潮核を離した。


 短い返し波に乗った潮核は遥香の手元より岸壁側へずれたが、遥香が伸ばした腕で拾ったところで終了の笛が鳴った。


 五分間で、どちらもゴールまでは届かなかった。


「ゼロ対ゼロじゃん」


 七海が浮標へ腕を掛けた。


「もう五分やろうや」

「今日はここまでです」


 遥香は時計を止めながら優奈へ顔を向けた。


「優奈さんも初日なので」

「まだできるよね?」


 七海に聞かれても、優奈はすぐには答えなかった。右手を水の中へ残し、花の足から手を離したときと同じ形に指を開いている。


「優奈?」

「聞こえとる」


 ようやく返してから、優奈は岸へ泳ぎ始めた。


 七海が先に水際の段へ上がり、花と芽衣は浮標のロープを外し始める。心春も二人の近くまで来たが、花の後ろにはつかず、反対側に残ったロープへ手を伸ばした。


 凪も浮標を外しながら、水際まで戻った優奈を見た。


 岸壁へ低い波が当たり、一つの浮標が沈む。張ったロープに引かれて隣まで傾くと、優奈の顔もその揺れを追った。


 胸まで海に残ったまま、戻ってくる水を見ていた。

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