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潮球  作者: カミツキ
3年目の海

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63/92

第63話 五人ずつ

連休の間に、港の風から冷たさが抜けていた。


 開けた部室の窓から潮の匂いが入る。机の上には、これまでのものとは形の違う、細長い段ボール箱が置かれていた。


 側面に印刷された名前は、西宮優奈。


 優奈は説明書を箱の横へ置き、黒いドライスーツを机いっぱいに広げていた。手の先まで続く生地。胸と両手、両足に走る透明な発光ライン。足首の判定部分を指で押し、縫い目を裏返している。


 七海が向かい側から身を乗り出した。


「まだ着んの?」


「確認しとる」


「昨日も説明書読んどったじゃん」


「実物は今日初めてじゃろ」


「着た方が早いよ」


 優奈は足首の生地を元へ戻した。


「七海は着ても、一人で脱げんかったじゃん」


「今は脱げる」


「昨日も芽衣先輩に手伝ってもらっとったよ」


 七海の手が、自分のロッカーへ戻った。


 ホワイトボードの前では、遥香が十人分の磁石を並べている。


 五つ。


 間を空けて、もう五つ。


【五対五】

【潮核 一つ】

【五分】


 結が磁石の数を指で追った。


「ほんまに二組できる」


 花が腕を組む。


「今までできんかった方がおかしいんよ」


「七人で五対五は無理じゃろ」


「気持ちで三人増やす」


「花だけ三人分動くん?」


「動ける」


 芽衣が花の横で頷いた。


「動きそう」


「芽衣まで乗らんで」


 遥香が赤と青の磁石を分けた。


【赤】

 凪

 花

 結

 芽衣

 七海


【青】

 陽

 渚

 遥香

 心春

 優奈


 心春の顔が赤い列へ動いた。


 花。


 芽衣。


 自分の名前は、反対側にある。


「花ちゃんと別なん?」


「試合なら相手になることもあるじゃろ」


「芽衣ちゃんも?」


「うちも相手」


 芽衣が赤い磁石を押した。


 心春は青い列の一番下へ指を置く。


「二人とも触ってええん?」


「光っとったらね」


 花が心春の額を指で押した。


「遠慮したら置いてくよ」


「花ちゃん、後輩に厳しい」


「ちゃん付けする後輩には厳しいんよ」


 優奈は青い列を見たまま、ドライスーツを抱えた。


「結先輩は赤なんですね」


「うん。今日は赤を水面から見るよ」


「青は?」


 遥香の手が、自分の磁石へ触れた。


「最初は私が水面へ上がります。途中で陽さんと役割を替わります」


 優奈の視線が、赤と青の列を往復した。


 岸からなら、十人全員が見える。


 今日は、自分もその中へ入る。


 凪は青の一番下に置かれた磁石を見た。


 先週まで、優奈は岸にいた。数字を取り、他人の足を見ていた。


 今度は、誰かに見られる側になる。


* * *


 浮標の内側へ、五人ずつが並んだ。


 黒いドライスーツが二列。胸と手足の発光ラインは、まだ透明なままだった。


 三原港の水面には、南から入る風で短い波が立っている。岸壁へ当たった波は少し遅れて戻り、中央の潮核を北側へ押していた。


 波は同じ間隔では来ない。


 風が弱まれば低くなる。港の外を船が通れば、その何倍もの水が遅れて入ってくる。


 結が水面から手を上げた。


 反対側では、遥香がゴーグルを直している。


 潮核は中央に一つ。


 笛。


 七海と渚が同時に飛び出した。


 潮核は波に押され、開始位置より半歩だけ赤側へ寄っている。七海の指が先に届いた。


 赤い光が、胸、両手、両足へ走る。


 渚が右足へ触れる前に、七海は体を沈めた。赤い線が波の下へ入る。


 心春は花を追いかけそうになり、足を止めた。


 水面にいる遥香の手が、中央を示している。


 心春は向きを変え、半拍遅れて七海の進路へ入った。


 そこへ花が来た。


 二人の肩がぶつかる。心春の体は岸壁から戻った波に押され、横へ流された。


 花の方を向いたまま、水面へ顔を出す。


 その間に七海は潮核を放していた。


 赤い光が消える。


 潮核はその場で一度沈み、岸壁から戻る水に押されて中央へ戻った。


 同じ波が、心春を流し、潮核を戻した。


 潮核へ陽が先に触れる。青い光が一瞬走ったが、保持する前に花の指が軌道をずらした。


 潮核が優奈の前へ流れてくる。


 優奈が掴んだ。


 青い光が、胸、両手、両足へ走った。


 花がすぐ後ろへ回る。


 右足首へ手が伸びた。


 一秒。


 優奈は前を向いたまま、七海へ書いた注意をなぞるように足を動かした。振り返らない。足を止めない。右足を外へ払って、花の指を発光ラインから外そうとする。


 二秒。


 岸壁から戻ってきた厚い水が、優奈の腰を下から持ち上げた。同時に南から来た短い波が横顔へぶつかり、二つの水が斜めに重なる。


 優奈の体が半回転した。


 ゴーグルの前が、泡で真っ白になる。


 足を下へ向けたつもりだった。


 何も蹴れない。


 水面の明るさが左にあった。次の瞬間には下へ移る。自分が回っているのか、水だけが動いているのか分からない。


 驚いて吐いた息が、泡になって視界を塞いだ。


 胸の中が空になる。


 口を閉じるより先に、塩水が舌の奥へ入った。喉が焼けるように縮まり、息を止めるという判断より先に、体が空気を吸おうとした。


 優奈の指が、何もない水を掻く。


 一秒目までは数えられた。


 二秒目も、たぶん数えた。


 その次が、どこにもなかった。


 水面へ手を伸ばしたつもりだった。指先は暗い方へ向かっている。


 判定音が水中へ響いた。


 三秒。


 青い光が消え、潮核が手から落ちた。


 花の赤い光が、優奈の下を通り過ぎていく。


 下。


 赤い光がある方が下だった。


 優奈は反対へ足を蹴った。蹴った水が体をどちらへ動かしたのか分からない。胸が空気を求め、口がまた開きかける。


 腕を掴まれた。


 強く引かれたのではない。


 肘の向きだけを変えられた。


 その先に、明るい水面があった。


 優奈が顔を出す。


 空気を吸うより先に咳が出た。喉の奥に塩辛さが残る。もう一度息を吸い、岸壁の位置を確かめた。


 すぐ隣に凪がいた。


 凪は優奈の腕から手を離した。優奈ではなく、岸壁へ当たる次の波を見ている。


 遥香の笛が二度鳴った。


「一度止めます!」


 花も潮核を放し、優奈の方へ戻ってきた。


「大丈夫?」


 優奈はもう一度咳をした。


「大丈夫です」


「ほんまに?」


「はい」


 声は出た。


 上下も戻った。


 それでも、一秒目と二秒目の間に何が起きたのか、優奈の中から消えていた。


 遥香が水面から顔を確かめる。


「岸へ戻りますか」


「戻りません」


 返事だけはすぐに出た。


 優奈は凪を見た。


「今の波が来る前に、動きましたよね」


 凪の顔は、まだ岸壁へ向いている。


「戻ってきたから」


「来る前でした」


 凪は答えなかった。


 浮標が一つ沈む。


 優奈が見ている間に、隣の浮標が持ち上がった。


「三十秒休んで再開します」


 遥香が時計を止めた。


 優奈は自分の右足を見た。


 黒い生地。


 透明に戻った発光ライン。


 岸から見ていたとき、水は画面の外にあった。


 中へ入ると、人を見る前に自分の位置を失う。


* * *


 練習が再開した。


 優奈は前より深く潜らなかった。顔を上げれば水面が見える位置を残し、花の動きを追った。


 赤が潮核を拾う。


 花が前へ出た。


 一度目の蹴りは浅い。二度目で体を伸ばし、三度目の前だけ右足が深く沈む。


 優奈は追いつけなかった。


 次の攻防でも同じだった。


 一度。


 二度。


 三度目の前に右足が沈み、その直後に強く跳ね上がる。


 花は蹴り方を変えていない。


 同じ順番だった。


 赤が潮核を失うと、陽が前へ出た。陽から渚。渚が潮へ放した潮核を遥香が受け取る。


 優奈は遥香の斜め後ろへ入った。


 花が追ってくる。


 遥香が優奈の前へ潮核を放す。


 優奈が掴んだ。


 青い光が走る。


 花の手が、すぐ右足へ触れた。優奈は振り返らずに足を払う。返し波は来ていない。それでも足を動かした反動で体が横へ傾き、花の指は発光ラインから離れなかった。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 青い光が消える。


 優奈は浮上しなかった。


 潮核を拾った花の後ろへ、そのままつく。


 花が一度、強く水を蹴った。二度目で渚の横を抜ける。


 三度目。


 右足が深く沈んだ。


 優奈は、その場所へ先に手を伸ばしていた。


 花の右足が跳ね上がり、赤い発光ラインが優奈の手の中へ入った。一秒。花が足を外へ振ると、優奈の肩まで同じ方向へ引かれた。それでも、手のひらは離れない。二秒。今度は花の膝が曲がる。優奈は足首を追わず、曲がった膝の内側へ手を滑らせた。次に伸びる位置も角度も、もう分かっている。あと一秒。


 港の外を通った作業船の引き波が、浮標の列へ斜めに入った。


 最初の低い波は、二人の下を通り過ぎた。


 次の波が、優奈の腰だけを持ち上げる。


 肘が浮いた。


 手のひらが赤い線から外れる。


 計測は、零へ戻った。


 花の右足が伸びる。


 優奈の指先は、水だけを掴んだ。


 花は振り返らない。


 赤い光が離れていく。


 優奈の位置は合っていた。


 花の動きも、三度目の足も、伸びる角度も、全部合っていた。


 合っていたはずなのに、手の中には何も残っていない。


 優奈はその場に浮いた。


 花を追わない。


 岸壁も見ない。


 右手だけが水中に残っていた。二秒まで触れていた手だった。指を閉じても、入ってくるのは海水だけだった。


 何を間違えたのか、書けない。


 自分の動き。


 花の動き。


 接触した位置。


 どれを並べ直しても、手が外れた理由にはならなかった。


 優奈の口が開く。


 何も出なかった。


 その横を、赤い光が通り過ぎた。


 花が放した潮核が、作業船の引き波に持っていかれる。


 狙った場所ではない。


 誰もいないところへ流れたはずだった。


 赤い手が、そこへ伸びた。


 凪だった。


 波へ追いついたのではない。潮核が曲がるより先に、もう進路を変えていた。


 凪が潮核を掴む。


 赤い光が、胸、両手、両足へ走った。


 優奈には、凪が水面を見て動いたようには見えなかった。


 浮標が揺れるより先に動いた。


 潮核が流されるより先に、流された先へいた。


 まるで凪だけが、まだ来ていない水に触れている。


 優奈は凪の足元を見た。


 何も見えない。


 泡も、目印になる線もない。


 凪は優奈の方を見なかった。


 海の中にある何かを追い、そのまま泳いでいく。


* * *


 凪の足には、作業船の引き波がまだ残っていた。


 優奈は花の動きを三度で読んだ。


 触れる場所も、次に伸びる角度も合っていた。


 それでも海に外された。


 成功してほしい。


 そう思うのに、全部は分からないでいてほしい。


 優奈が海まで数字にできるようになったら、自分は何を渡せるのだろう。


 凪が初めて潮核を持つまでには、九日かかった。


 優奈は初日から海へ入り、もう凪の足元を見ている。


 手の中の潮核が重くなった。


 凪は強く握り直した。


 赤い光が、水の中で揺れた。


 残り一分。


 心春は青の後方にいた。


 花は左。


 芽衣は右。


 二人の発光ラインは透明なまま、心春の進路を塞いでいる。


 花が左側を開け、手招きした。


 心春を呼ぶとき、昔から使っている動きだった。


 心春の足が左へ向きかける。


 水面にいる遥香の手は、反対側を示していた。


 右。


 芽衣の後ろには、半身分の隙間がある。


 心春は花を追わなかった。


 芽衣の横へも並ばない。


 隙間へ体を滑らせた。


 陽が潮へ乗せた潮核が、心春の前へ来る。


 心春が掴んだ。


 青い光が走る。


 芽衣がすぐ胸の発光ラインへ触れた。


 一秒。


 心春は潮核を抱えたまま、遥香の方へ手を伸ばす。


 二秒。


 潮核を放す。


 青い光が消えた。


 短い返し波に乗った潮核は、遥香の手元より半歩だけ岸壁側へずれた。


 遥香が腕を伸ばす。


 届く。


 掴んだ瞬間、青い光がもう一度走った。


 終了の笛。


 潮核はゴールゾーンまで届かなかった。


 結が水面から点数板を返す。


【赤 0】

【青 0】


「初めての五対五、引き分け」


 七海が浮標へ腕を掛けた。


「もう五分やりたい」


「今日は動きの確認までです」


 遥香が時計を止める。


「優奈さんも初日なので」


 優奈は水面の端で、自分の右手を見ていた。


 花の足へ、二秒まで触れていた手。


 次に岸壁と浮標の間へ顔を向ける。


 戻ってくる水を探すように、水面を追った。


 片付けの笛が鳴った。


 七海が先に岸へ上がる。


 心春は花と芽衣の間で、浮標の紐を外していた。


 優奈は水面に残った。


「優奈?」


 七海が岸から振り返る。


 優奈は花の方へ泳いだ。


「花先輩」


「何?」


「もう一回、潮核を持ってください」


 花の手には、片付ける前の潮核が一つ残っていた。


「三回目、変えるんじゃろ?」


「変える」


「それでも触れるか試したいです」


 花の口元が上がる。


 優奈は凪へ顔を向けた。


「さっきの波、来る前に分かってましたよね」


 凪は答えなかった。


 岸壁へ当たった水が、二人の間へ戻ってくる。


「凪先輩が言った場所を通ってください」


 花の顔も凪へ向いた。


「うち、実験されとる?」


「私も入る」


 凪は花の前へ泳いだ。


「返し波が来る場所まで誘導する」


 遥香は笛を首から外しかけていた。その手が止まる。


「一本だけです」


 花が潮核を握った。


 赤い光が、胸、両手、両足へ走る。


 凪は花の斜め前へ入った。


 優奈は後ろへ回る。


 片付けを始めていた七海が、岸壁の端まで戻ってきた。


「うちも見る」


「岸から」


 優奈が返した。


 波が岸壁へ当たる。


 凪の足に、戻ってくる水が触れた。


 まだ弱い。


 花は蹴り方を変えるはずだった。


 優奈は花の足を見る。


 凪は水を見る。


 浮標は、まだ動いていない。


 凪だけが右へずれた。


「今じゃない」


 花がついていく。


 岸壁へ二つ目の波が当たった。


 凪の足が止まる。


「ここ」


 笛。


 花の右足が、水を蹴った。

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