第63話 二文字、消す
次の練習日、凪が三原港へ着いたときには、優奈がもう水際にいた。
制服のまま岸壁の段へ腰を下ろし、浮標の間を行き来する水を眺めている。足元には鞄が置かれ、その上で開いたスマートフォンの予定表には、前の練習で潮球・見学と入れた予定がまだ残っていた。
「早いね」
凪が声を掛けると、優奈は海から顔を上げた。
「時間聞いとったんで」
「七海は?」
「まだです」
答えた直後、港沿いの道から靴音が近づいた。
「優奈、早いじゃん」
七海が鞄を揺らしながら走ってくる。優奈は立ち上がらず、息を切らした七海を見上げた。
「遅れそうになったん七海じゃろ」
「間に合っとるし」
「走っとるじゃん」
七海は港の時計を確かめ、返事の代わりに部室へ続く階段を駆け上がった。
優奈もようやく立ち、スマートフォンを鞄へ入れる。その前に一度だけ予定表へ目を落としたが、見学の二文字には触れなかった。
* * *
この日の最初の練習でも、七海は芽衣と向かい合った。
前回、足へ触れられたあとに振り返ると蹴りが止まることは分かっている。七海が潮核を掴むと、胸と両手、両足の発光ラインが赤く浮かび上がった。
優奈が岸壁の端へ出る横で、凪も水際の段へ降りた。優奈の顔は七海へ向いているが、追っているのはその足だった。
遥香が手を下ろした。
七海が浮標へ向かって泳ぎ出し、芽衣がその後ろから距離を詰めた。右足首の赤いラインへ手が重なると、七海は振り返らずに足を外へ払い、芽衣の指を外す。
芽衣はすぐ左足へ触れ直した。
七海が膝を深く曲げ、触れられた足を後ろへ引いたところへ、港の外を通ったフェリーの波が岸壁へ当たった。斜めに返った水が七海の腰の下へ入り、曲げていた左足を持ち上げる。同じ水を肩に受けた芽衣の伸ばした腕も沖側へ流され、赤いラインへ残していた手のひらが外れた。
七海はそのまま浮標まで泳ぎ切った。
「切れた!」
顔を上げた七海が岸へ手を振る。
「今のよかった」
優奈もすぐに返した。
凪の脛には、岸壁から戻った水がまだ当たっていた。七海が足を引いた直後、その足だけでなく芽衣の腕も同じ返し波に動かされていた。
「優奈」
凪が呼ぶと、優奈が七海から顔を外した。
「今、芽衣の手が外れたの、七海の動きだけじゃないよ」
「何がですか」
「芽衣も流された」
優奈はもう一度海を見た。
七海は浮標に腕を掛け、芽衣はその手前でゴーグルを直している。接触を外した返し波はもう抜け、水面には細かな揺れだけが残っていた。
「七海が足引いたけん、外れたんじゃないんですか」
「それもある。でも、岸壁から返った水が芽衣の肩にも入った」
「どっちから?」
凪は岸壁と二人のいた位置を見比べた。
「岸壁の方から。斜めに」
優奈もそちらへ目を向けた。
「今は?」
「もう抜けた」
浮標が低く上下しているだけで、さっき芽衣を押した水の形は残っていない。優奈はその場所を見たまま動かなかったが、七海はもう浮標を蹴って開始位置へ戻り始めていた。
「もう一回やる!」
遥香が開始位置を指す。
「同じ形でお願いします。ただし、波を待たずに始めます」
「はい」
七海はすぐに位置を取り直し、芽衣もその後ろへついた。
二本目でも、右足への接触は七海が前を向いたまま外した。芽衣が左足へ触れ直すと、七海はさっきと同じように膝を曲げ、足を後ろへ引く。
今度は、二人の間に返し波は入らなかった。
芽衣の肩は流されず、手のひらも赤いラインへ残っている。七海がもう一度足を振ろうとしたところで判定が入り、発光ラインが一斉に消えて、潮核が手から落ちた。
「え」
七海は顔を上げるなり、自分の左足を見た。
「さっきと同じにしたのに」
岸では、優奈が何も言わなかった。
「優奈、どこ違った?」
前の練習なら、七海の足が止まった場所をすぐに答えていた。今は口を開かず、二人がいた水面から岸壁寄りの浮標へ目を動かし、また七海の足元へ戻す。
「……分からん」
七海が口を閉じた。
優奈はそのまま凪へ顔を向ける。
「凪先輩。さっきの、岸から見えました?」
「浮標が沈んだのは見えた」
「流れも?」
凪は、返ってきた水を足で受けたときの感触を思い出した。
「来るのは分かった」
優奈の眉が寄った。
「うちは、七海しか見てなかった」
そう言って、優奈は七海から目を外した。視線が岸壁から浮標へ移り、二人がいた水面へ戻る。
少し離れたところでは、花たちの練習が始まっていた。花が潮核を持って進み、渚がその後ろへ入る。花が三秒タッチを切ると、優奈の視線はその足ではなく、周囲の浮標へ先に動いた。
「岸からじゃ、全部は分からんのですね」
凪も水面を見た。
「人は前より追えるけどね」
優奈は返事をせず、そのまま海を見ていた。
* * *
練習が終わると、七海は岸壁へ座り込んでドライスーツの足を引っ張っていた。
「抜けん」
「また?」
優奈がしゃがみ込み、足首の生地が内側へ巻き込まれているのを直した。
「家で練習したんよ」
「スーツ持って帰ってないじゃん」
「動きだけ」
「何を練習したん」
「こうやって引くやつ」
七海が両手で大きく引く真似をすると、優奈は足首の生地を裏返しながら首を振った。
「原因そこじゃないじゃん」
「でも抜けた」
「うちが直したけんね」
足が外れると、七海はそのまま芝生へ寝転がった。
「次は一人でできる」
「前も聞いた」
優奈は立ち上がったが、鞄の方へは戻らず、遥香が時計と防水ケースを片付けているところまで歩いていった。
「遥香先輩」
「はい」
「入部届、ありますか」
遥香の手が止まり、近くで髪を拭いていた七海も、タオルを頭に載せたまま起き上がった。
「入るん?」
「聞こえたじゃろ」
「いや、聞こえたけど」
遥香はケースの中から一枚の用紙を出した。
「あります。今日書きますか」
「はい」
優奈は紙を受け取ってベンチへ座り、すぐ隣へ来た七海を横目に氏名欄へペン先を置いた。
「なんで急に?」
「急じゃない」
「見学って言っとったじゃん」
「岸からじゃ、分からんけん」
優奈が答えると、七海は海へ顔を向けた。
「何が?」
「今日のやつ」
「波?」
「それも」
「中入ったら分かるん?」
「知らん」
優奈は氏名欄に、西宮優奈と書いた。
「知らんのに入るん?」
「分からんけん入るんじゃろ」
七海は一度黙り、それから笑った。
「潮球できるん?」
「それはこれから」
遥香が入部届を受け取った。
「専用スーツの申請も必要なので、明日サイズを確認します」
「どれくらいで来ますか」
「一週間くらいです。早ければ来週には使えます」
「分かりました」
七海が両手を上げた。
「十人!」
「まだスーツないよ」
「部員は十人じゃん」
「それはそう」
優奈は鞄からスマートフォンを取り出し、予定表を開いた。
指先でカーソルを動かし、見学の二文字だけを消した。
予定表には、潮球だけが残った。




