第63話 五人ずつ
連休の間に、港の風から冷たさが抜けていた。
開けた部室の窓から潮の匂いが入る。机の上には、これまでのものとは形の違う、細長い段ボール箱が置かれていた。
側面に印刷された名前は、西宮優奈。
優奈は説明書を箱の横へ置き、黒いドライスーツを机いっぱいに広げていた。手の先まで続く生地。胸と両手、両足に走る透明な発光ライン。足首の判定部分を指で押し、縫い目を裏返している。
七海が向かい側から身を乗り出した。
「まだ着んの?」
「確認しとる」
「昨日も説明書読んどったじゃん」
「実物は今日初めてじゃろ」
「着た方が早いよ」
優奈は足首の生地を元へ戻した。
「七海は着ても、一人で脱げんかったじゃん」
「今は脱げる」
「昨日も芽衣先輩に手伝ってもらっとったよ」
七海の手が、自分のロッカーへ戻った。
ホワイトボードの前では、遥香が十人分の磁石を並べている。
五つ。
間を空けて、もう五つ。
【五対五】
【潮核 一つ】
【五分】
結が磁石の数を指で追った。
「ほんまに二組できる」
花が腕を組む。
「今までできんかった方がおかしいんよ」
「七人で五対五は無理じゃろ」
「気持ちで三人増やす」
「花だけ三人分動くん?」
「動ける」
芽衣が花の横で頷いた。
「動きそう」
「芽衣まで乗らんで」
遥香が赤と青の磁石を分けた。
【赤】
凪
花
結
芽衣
七海
【青】
陽
渚
遥香
心春
優奈
心春の顔が赤い列へ動いた。
花。
芽衣。
自分の名前は、反対側にある。
「花ちゃんと別なん?」
「試合なら相手になることもあるじゃろ」
「芽衣ちゃんも?」
「うちも相手」
芽衣が赤い磁石を押した。
心春は青い列の一番下へ指を置く。
「二人とも触ってええん?」
「光っとったらね」
花が心春の額を指で押した。
「遠慮したら置いてくよ」
「花ちゃん、後輩に厳しい」
「ちゃん付けする後輩には厳しいんよ」
優奈は青い列を見たまま、ドライスーツを抱えた。
「結先輩は赤なんですね」
「うん。今日は赤を水面から見るよ」
「青は?」
遥香の手が、自分の磁石へ触れた。
「最初は私が水面へ上がります。途中で陽さんと役割を替わります」
優奈の視線が、赤と青の列を往復した。
岸からなら、十人全員が見える。
今日は、自分もその中へ入る。
凪は青の一番下に置かれた磁石を見た。
先週まで、優奈は岸にいた。数字を取り、他人の足を見ていた。
今度は、誰かに見られる側になる。
* * *
浮標の内側へ、五人ずつが並んだ。
黒いドライスーツが二列。胸と手足の発光ラインは、まだ透明なままだった。
三原港の水面には、南から入る風で短い波が立っている。岸壁へ当たった波は少し遅れて戻り、中央の潮核を北側へ押していた。
波は同じ間隔では来ない。
風が弱まれば低くなる。港の外を船が通れば、その何倍もの水が遅れて入ってくる。
結が水面から手を上げた。
反対側では、遥香がゴーグルを直している。
潮核は中央に一つ。
笛。
七海と渚が同時に飛び出した。
潮核は波に押され、開始位置より半歩だけ赤側へ寄っている。七海の指が先に届いた。
赤い光が、胸、両手、両足へ走る。
渚が右足へ触れる前に、七海は体を沈めた。赤い線が波の下へ入る。
心春は花を追いかけそうになり、足を止めた。
水面にいる遥香の手が、中央を示している。
心春は向きを変え、半拍遅れて七海の進路へ入った。
そこへ花が来た。
二人の肩がぶつかる。心春の体は岸壁から戻った波に押され、横へ流された。
花の方を向いたまま、水面へ顔を出す。
その間に七海は潮核を放していた。
赤い光が消える。
潮核はその場で一度沈み、岸壁から戻る水に押されて中央へ戻った。
同じ波が、心春を流し、潮核を戻した。
潮核へ陽が先に触れる。青い光が一瞬走ったが、保持する前に花の指が軌道をずらした。
潮核が優奈の前へ流れてくる。
優奈が掴んだ。
青い光が、胸、両手、両足へ走った。
花がすぐ後ろへ回る。
右足首へ手が伸びた。
一秒。
優奈は前を向いたまま、七海へ書いた注意をなぞるように足を動かした。振り返らない。足を止めない。右足を外へ払って、花の指を発光ラインから外そうとする。
二秒。
岸壁から戻ってきた厚い水が、優奈の腰を下から持ち上げた。同時に南から来た短い波が横顔へぶつかり、二つの水が斜めに重なる。
優奈の体が半回転した。
ゴーグルの前が、泡で真っ白になる。
足を下へ向けたつもりだった。
何も蹴れない。
水面の明るさが左にあった。次の瞬間には下へ移る。自分が回っているのか、水だけが動いているのか分からない。
驚いて吐いた息が、泡になって視界を塞いだ。
胸の中が空になる。
口を閉じるより先に、塩水が舌の奥へ入った。喉が焼けるように縮まり、息を止めるという判断より先に、体が空気を吸おうとした。
優奈の指が、何もない水を掻く。
一秒目までは数えられた。
二秒目も、たぶん数えた。
その次が、どこにもなかった。
水面へ手を伸ばしたつもりだった。指先は暗い方へ向かっている。
判定音が水中へ響いた。
三秒。
青い光が消え、潮核が手から落ちた。
花の赤い光が、優奈の下を通り過ぎていく。
下。
赤い光がある方が下だった。
優奈は反対へ足を蹴った。蹴った水が体をどちらへ動かしたのか分からない。胸が空気を求め、口がまた開きかける。
腕を掴まれた。
強く引かれたのではない。
肘の向きだけを変えられた。
その先に、明るい水面があった。
優奈が顔を出す。
空気を吸うより先に咳が出た。喉の奥に塩辛さが残る。もう一度息を吸い、岸壁の位置を確かめた。
すぐ隣に凪がいた。
凪は優奈の腕から手を離した。優奈ではなく、岸壁へ当たる次の波を見ている。
遥香の笛が二度鳴った。
「一度止めます!」
花も潮核を放し、優奈の方へ戻ってきた。
「大丈夫?」
優奈はもう一度咳をした。
「大丈夫です」
「ほんまに?」
「はい」
声は出た。
上下も戻った。
それでも、一秒目と二秒目の間に何が起きたのか、優奈の中から消えていた。
遥香が水面から顔を確かめる。
「岸へ戻りますか」
「戻りません」
返事だけはすぐに出た。
優奈は凪を見た。
「今の波が来る前に、動きましたよね」
凪の顔は、まだ岸壁へ向いている。
「戻ってきたから」
「来る前でした」
凪は答えなかった。
浮標が一つ沈む。
優奈が見ている間に、隣の浮標が持ち上がった。
「三十秒休んで再開します」
遥香が時計を止めた。
優奈は自分の右足を見た。
黒い生地。
透明に戻った発光ライン。
岸から見ていたとき、水は画面の外にあった。
中へ入ると、人を見る前に自分の位置を失う。
* * *
練習が再開した。
優奈は前より深く潜らなかった。顔を上げれば水面が見える位置を残し、花の動きを追った。
赤が潮核を拾う。
花が前へ出た。
一度目の蹴りは浅い。二度目で体を伸ばし、三度目の前だけ右足が深く沈む。
優奈は追いつけなかった。
次の攻防でも同じだった。
一度。
二度。
三度目の前に右足が沈み、その直後に強く跳ね上がる。
花は蹴り方を変えていない。
同じ順番だった。
赤が潮核を失うと、陽が前へ出た。陽から渚。渚が潮へ放した潮核を遥香が受け取る。
優奈は遥香の斜め後ろへ入った。
花が追ってくる。
遥香が優奈の前へ潮核を放す。
優奈が掴んだ。
青い光が走る。
花の手が、すぐ右足へ触れた。優奈は振り返らずに足を払う。返し波は来ていない。それでも足を動かした反動で体が横へ傾き、花の指は発光ラインから離れなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
青い光が消える。
優奈は浮上しなかった。
潮核を拾った花の後ろへ、そのままつく。
花が一度、強く水を蹴った。二度目で渚の横を抜ける。
三度目。
右足が深く沈んだ。
優奈は、その場所へ先に手を伸ばしていた。
花の右足が跳ね上がり、赤い発光ラインが優奈の手の中へ入った。一秒。花が足を外へ振ると、優奈の肩まで同じ方向へ引かれた。それでも、手のひらは離れない。二秒。今度は花の膝が曲がる。優奈は足首を追わず、曲がった膝の内側へ手を滑らせた。次に伸びる位置も角度も、もう分かっている。あと一秒。
港の外を通った作業船の引き波が、浮標の列へ斜めに入った。
最初の低い波は、二人の下を通り過ぎた。
次の波が、優奈の腰だけを持ち上げる。
肘が浮いた。
手のひらが赤い線から外れる。
計測は、零へ戻った。
花の右足が伸びる。
優奈の指先は、水だけを掴んだ。
花は振り返らない。
赤い光が離れていく。
優奈の位置は合っていた。
花の動きも、三度目の足も、伸びる角度も、全部合っていた。
合っていたはずなのに、手の中には何も残っていない。
優奈はその場に浮いた。
花を追わない。
岸壁も見ない。
右手だけが水中に残っていた。二秒まで触れていた手だった。指を閉じても、入ってくるのは海水だけだった。
何を間違えたのか、書けない。
自分の動き。
花の動き。
接触した位置。
どれを並べ直しても、手が外れた理由にはならなかった。
優奈の口が開く。
何も出なかった。
その横を、赤い光が通り過ぎた。
花が放した潮核が、作業船の引き波に持っていかれる。
狙った場所ではない。
誰もいないところへ流れたはずだった。
赤い手が、そこへ伸びた。
凪だった。
波へ追いついたのではない。潮核が曲がるより先に、もう進路を変えていた。
凪が潮核を掴む。
赤い光が、胸、両手、両足へ走った。
優奈には、凪が水面を見て動いたようには見えなかった。
浮標が揺れるより先に動いた。
潮核が流されるより先に、流された先へいた。
まるで凪だけが、まだ来ていない水に触れている。
優奈は凪の足元を見た。
何も見えない。
泡も、目印になる線もない。
凪は優奈の方を見なかった。
海の中にある何かを追い、そのまま泳いでいく。
* * *
凪の足には、作業船の引き波がまだ残っていた。
優奈は花の動きを三度で読んだ。
触れる場所も、次に伸びる角度も合っていた。
それでも海に外された。
成功してほしい。
そう思うのに、全部は分からないでいてほしい。
優奈が海まで数字にできるようになったら、自分は何を渡せるのだろう。
凪が初めて潮核を持つまでには、九日かかった。
優奈は初日から海へ入り、もう凪の足元を見ている。
手の中の潮核が重くなった。
凪は強く握り直した。
赤い光が、水の中で揺れた。
残り一分。
心春は青の後方にいた。
花は左。
芽衣は右。
二人の発光ラインは透明なまま、心春の進路を塞いでいる。
花が左側を開け、手招きした。
心春を呼ぶとき、昔から使っている動きだった。
心春の足が左へ向きかける。
水面にいる遥香の手は、反対側を示していた。
右。
芽衣の後ろには、半身分の隙間がある。
心春は花を追わなかった。
芽衣の横へも並ばない。
隙間へ体を滑らせた。
陽が潮へ乗せた潮核が、心春の前へ来る。
心春が掴んだ。
青い光が走る。
芽衣がすぐ胸の発光ラインへ触れた。
一秒。
心春は潮核を抱えたまま、遥香の方へ手を伸ばす。
二秒。
潮核を放す。
青い光が消えた。
短い返し波に乗った潮核は、遥香の手元より半歩だけ岸壁側へずれた。
遥香が腕を伸ばす。
届く。
掴んだ瞬間、青い光がもう一度走った。
終了の笛。
潮核はゴールゾーンまで届かなかった。
結が水面から点数板を返す。
【赤 0】
【青 0】
「初めての五対五、引き分け」
七海が浮標へ腕を掛けた。
「もう五分やりたい」
「今日は動きの確認までです」
遥香が時計を止める。
「優奈さんも初日なので」
優奈は水面の端で、自分の右手を見ていた。
花の足へ、二秒まで触れていた手。
次に岸壁と浮標の間へ顔を向ける。
戻ってくる水を探すように、水面を追った。
片付けの笛が鳴った。
七海が先に岸へ上がる。
心春は花と芽衣の間で、浮標の紐を外していた。
優奈は水面に残った。
「優奈?」
七海が岸から振り返る。
優奈は花の方へ泳いだ。
「花先輩」
「何?」
「もう一回、潮核を持ってください」
花の手には、片付ける前の潮核が一つ残っていた。
「三回目、変えるんじゃろ?」
「変える」
「それでも触れるか試したいです」
花の口元が上がる。
優奈は凪へ顔を向けた。
「さっきの波、来る前に分かってましたよね」
凪は答えなかった。
岸壁へ当たった水が、二人の間へ戻ってくる。
「凪先輩が言った場所を通ってください」
花の顔も凪へ向いた。
「うち、実験されとる?」
「私も入る」
凪は花の前へ泳いだ。
「返し波が来る場所まで誘導する」
遥香は笛を首から外しかけていた。その手が止まる。
「一本だけです」
花が潮核を握った。
赤い光が、胸、両手、両足へ走る。
凪は花の斜め前へ入った。
優奈は後ろへ回る。
片付けを始めていた七海が、岸壁の端まで戻ってきた。
「うちも見る」
「岸から」
優奈が返した。
波が岸壁へ当たる。
凪の足に、戻ってくる水が触れた。
まだ弱い。
花は蹴り方を変えるはずだった。
優奈は花の足を見る。
凪は水を見る。
浮標は、まだ動いていない。
凪だけが右へずれた。
「今じゃない」
花がついていく。
岸壁へ二つ目の波が当たった。
凪の足が止まる。
「ここ」
笛。
花の右足が、水を蹴った。




