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潮球  作者: カミツキ
3年目の海

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62/89

第62話 二文字、消す

木曜日。


 三原港には、フェリーが残した波がまだ届いていた。


 沖から来た波が岸壁へ当たり、少し遅れて練習区画へ戻ってくる。黄色い浮標が一つ沈み、隣の浮標が持ち上がった。


 凪の足元にも、岸壁から返った水が触れた。


 一定ではない。強く押すときもあれば、足首を撫でるだけで消えるときもある。


 港の柵には、スマートフォンが立て掛けられていた。画面には計測用の数字が並んでいるが、まだどれも零だった。


 優奈は水際の段差へ座り、ほどけかけた靴紐を結び直している。


「早いじゃん」


 七海が港沿いを走ってきた。肩から下げた鞄が、腰の横で何度も跳ねている。


「時間聞いたけん」


「うちより先に来ると思わんかった」


「遅れそうになったの、七海じゃろ」


 七海は柵の時計へ顔を向けた。


 開始まで、あと三分。


「間に合っとる」


「走って来とるじゃん」


 息を整えるより先に、七海は部室へ続く階段を上がっていった。


 優奈はスマートフォンを手に取る。予定表には、前回入力した文字が残っていた。


【潮球・見学】


 画面を閉じ、七海の後を追った。


* * *


 最初の練習は、三秒タッチだった。


 七海が潮核を掴むと、黒いドライスーツの胸、両手、両足へ赤い光が走る。


 守備役の芽衣が、七海の後ろへ入った。


 遥香の笛が鳴る。


 七海は浮標へ向かって真っすぐ泳いだ。


 右足へ芽衣の手が伸びる。


 優奈の親指が、スマートフォンの画面を叩いた。


 七海が足を外へ払う。芽衣の指先が赤い線から離れた。


 優奈が計測を止める。


【1.8】


 芽衣の手が、すぐ左足へ触れ直した。もう一度、数字が動き始める。


 七海が振り返った。


 両足が止まる。


 三秒。


 判定音と同時に赤い光が消え、潮核が七海の手から水中へ落ちた。


 優奈の画面にも数字が残る。


【3.0】


 七海が顔を上げた。


「どうじゃった?」


「最初は切れた。次は三秒」


「何が違った?」


「振り返った」


「それだけ?」


「足も止まっとる」


 七海は浮かんできた潮核を拾った。


「もう一回」


 失敗した場所を確かめるより先に、開始位置へ戻っていく。


 芽衣が一度息を吐き、その後を追った。


 二本目。


 右足、一・六秒。左足、二・四秒。


 三本目。


 右足への接触は途中で切れた。左足へ触れ直されたあと、七海が振り返り、赤い光が消えた。


 七海が岸へ戻るたび、優奈の画面に数字が増えていく。


「左が遅い」


「右の方が動かしやすいんよ」


「左を触られたら、毎回振り返っとるじゃん」


「見えんけん」


「見ようとするけん止まるんじゃろ」


 七海の手が、潮核の上で止まった。


「じゃあ見ん」


「急にできるん?」


「やってみんと分からん」


 もう浮標へ向かっている。


 四本目。


 芽衣の手が左足へ触れた。


 七海は振り返らなかった。前を向いたまま膝を深く曲げ、触れられた足を後ろへ引く。


 その瞬間、岸壁から返ってきた波が二人の間へ入った。


 七海の腰が持ち上がる。


 芽衣の肩は反対側へ押された。


 触れていた指先が、赤い線から外れる。


 七海はそのまま浮標まで泳ぎ切った。


 優奈の親指が止まる。


【2.2】


「切れた!」


 七海が浮標を掴んだまま、岸へ顔を向ける。


 優奈は画面を持ち上げた。


「二・二秒」


「できたじゃん」


 凪の足には、岸壁から返ってきた水がまだ残っていた。


 七海が外したのではない。


 少なくとも、全部ではなかった。


 七海はすぐ浮標を蹴った。


「次もやったら二回になる」


 遥香の笛が二度鳴る。


「交代します。七海さん、一度休んでください」


「まだできます」


「休憩も練習です」


 七海は水面に浮いたまま、次の保持役になる花へ潮核を渡した。


 花が開始位置へ出る。追うのは、引き続き芽衣だった。


 優奈はスマートフォンを膝の上へ置いた。


 七海の練習は終わった。もう測る理由はない。


 笛が鳴る。


 花が潮核を掴み、赤い発光ラインが水中へ伸びた。


 芽衣の手が右足へ触れる。


 優奈の親指が動く。


 考えるより先だった。


 花は足を強く外へ振った。


 接触が切れる。


【1.3】


 そのまま前へ出るはずだった。


 けれど花が足を振った方向から、岸壁へ戻る流れが来ていた。蹴った水と流れがぶつかり、花の体が横へ押し戻される。


 芽衣が追いついた。


 左足へ触れ直す。


 花はもう一度、力で振り払った。指先は外れた。


 今度は一・七秒。


 それでも浮標は近づかない。


 遥香の笛が鳴った。


 花が顔を上げる。


「今の、切れとった?」


「二回とも」


 優奈の口から先に答えが出た。


 花の顔が岸へ向く。


「測っとったん?」


「手が動いただけです」


「何秒?」


「一回目が一・三。二回目が一・七」


 花は自分と浮標の間に残った距離を確かめた。


「全然進んどらんね」


 凪は花の右側へ残った泡を見た。


「流れに逆らって蹴ってた」


 花が凪を見る。


「じゃあ、切れても意味ない?」


「触られたのは切れた。でも、逃げる方向を海に戻された」


 花は潮核を掴み直した。


「次、逆に払う」


「花さんも一度休憩を」


 遥香が岸を指す。


「今のは休んだ」


「水面に浮いただけです」


 花は何か言い返しかけたが、芽衣の荒い呼吸を見て岸へ向きを変えた。


 優奈は花の記録を画面へ残した。


【1.3】

【1.7】


 その下へ、短い文字を入れる。


【二回とも解除】

【浮標まで進まず】


 凪は優奈の隣へしゃがんだ。


「七海の二・二秒も、同じように残すの?」


「成功した時間なので」


「今のは、七海が切ったんじゃない」


 優奈の指が止まった。


「何がですか」


「岸壁から戻った流れが入った。七海が足を引いたとき、芽衣が反対へ押された」


 七海が水面から顔を向ける。


 優奈は画面の二・二秒と、浮標の間に揺れる水面を見比べた。


「どれくらいの流れですか」


 凪の口が止まった。


「どれくらいって?」


「速さです。どっちから来て、何秒続いたんですか」


 分かる。


 足元へ来た水は、今も凪の中に残っている。岸壁から斜めに入り、七海の腰を持ち上げ、芽衣の肩だけを外へ押した。


 けれど、それを数字に変える方法を凪は知らなかった。


「測ってない」


「じゃあ、七海が自分で切った可能性もありますよね」


「流れが来た」


「それは凪先輩には分かるんですよね」


 優奈は画面を消さなかった。


「うちには分かりません」


 数字の横には、まだ成功として二・二秒が残っている。


 凪は、それを消してほしいと言えなかった。


 見えた。


 確かに分かった。


 それなのに、その水がどこから何秒来たのかと聞かれた途端、凪の中にしかなかった感覚は、何も渡せないものに戻ってしまった。


 自分には分かる。それだけでは、後輩の画面に残った数字一つも動かせない。


 七海が浮標を蹴った。


「もう一回やれば分かるじゃん」


 遥香の笛が鳴る。


「七海さん、休憩です」


「でも今の、どっちか分からんじゃん」


「だから休んで、条件を揃えます」


 優奈は凪ではなく、次に岸壁へ当たる波を見た。


 浮標が一つ沈む。


 少し遅れて、隣が持ち上がる。


 優奈の指が、新しい入力欄を作った。


【波】

【流れの方向】

【解除後の位置】


「そこまで測るの?」


 凪が聞く。


「時間だけじゃ分からんのなら、増やします」


「流れは、毎回同じじゃないよ」


「じゃあ毎回書けばええじゃないですか」


 優奈は水面から目を離さなかった。


* * *


 次の保持役は凪だった。


 芽衣の手が右足へ触れる。


 一・九秒。


 凪は足を大きく振らず、体を斜めにして接触を切った。解除後も速度はほとんど落ちない。


 優奈は時間を止めたあと、浮標の揺れと凪の位置を見比べた。


【返し波・弱】

【進路変化なし】


 次は手の甲。


 二・一秒。


 潮核を反対の手へ持ち替えながら腕を引き、芽衣の指を外す。泳ぐ方向は変わらなかった。


【波なし】

【速度維持】


 優奈の文字が増えていく。


 凪は水面へ上がった。


 さっきまでなら、自分の感覚の方が正しいと分かっていれば、それでよかった。


 今は、優奈の画面にある【返し波・弱】が気になった。


 弱い。


 何を基準にした弱さなのか。


 凪には分かる。優奈には測れない。


 けれど優奈は、分からないまま空欄にしなかった。


 それが少しだけ、腹に残った。


 次は渚だった。


 芽衣が追いつく前から、渚の足は左右へ位置を変えている。一秒を超える前に二度、接触を切った。


 三度目。


 芽衣の手が左足へ触れる。


 渚が振り返り、両足が止まった。


 三秒。


 赤い光が消える。


 優奈は画面へ入力した。


【渚先輩】

【接触前から足を変える】

【振り返ると停止】


 七海が横から覗き込む。


「渚先輩、速いね」


「切るのはね。三回目で止まっとる」


「次、勝てるかも」


「何に?」


「三秒タッチ切る勝負」


「勝負になっとらんじゃろ」


「次はなる」


 七海は濡れた髪を後ろへ払った。


 凪は岸へ上がり、優奈の画面を覗く。


「渚と七海、似てた?」


「振り返ったときは。でも、渚先輩の方が触られるまでが速いです」


「その前は?」


 優奈は海を見た。


 渚は芽衣が追いつくより先に、足の位置を変えていた。七海は真っすぐ進み、触られてから外そうとする。


「七海は触られてから動いとる。渚先輩は、その前から変えとる」


 凪は七海を見た。


 すでに次の潮核へ手を伸ばしている。


「それ、七海に教えてあげて」


「うちが?」


「自分では後ろが見えないから」


 七海が優奈の肩越しに顔を出した。


「何?」


「近い」


「何教えてくれるん?」


「まだ整理しよる」


「じゃあ待つ」


 七海はそう言ったが、三秒もたたずにもう一度画面を覗いた。


 優奈は肘で押し戻した。


 凪は二人を見たあと、水面へ顔を戻した。


 優奈に渡したつもりだった。


 けれど実際には、凪の方も問われている。


 分かるだけで終わるのか。


 分かったものを、誰かが使える形にできるのか。


 岸壁から戻る波が、また凪の足首へ触れた。


 今度は優奈も見ていた。


* * *


 練習は陸上での位置確認へ移った。


 遥香の合図で、花が右へ、芽衣が左へ動く。心春は二人を追いかけそうになり、途中で足を止めた。


 遥香の手は中央を示している。


 心春は二人の間を抜け、空いた場所へ入った。


 位置は一拍遅れていた。それでも花も芽衣も追わなかった。


 凪が心春の横へ立つ。


「今、自分で見た?」


「はい。途中で花ちゃんの方、見ましたけど」


「戻れたなら大丈夫」


 心春は遥香の手へ顔を戻した。


 次の合図。


 今度は遅れなかった。


 練習が終わると、花と芽衣が潮核をケースへ戻し、心春は浮標の紐を巻き始めた。


 途中で紐が絡まる。


「花ちゃん」


 花はドライスーツの袖を抜いている。


「芽衣ちゃん」


 芽衣はケースの蓋を閉めていた。


 心春の指が、絡まった紐の間に入る。


 二人の返事を待つ前に、一度ほどいて逆側から巻き直した。紐が丸く収まる。


 心春は花も芽衣も呼ばず、そのまま道具箱へ入れた。


 凪は少し離れた場所から、その手元を見ていた。


 全部を一人で決められるようになったわけではない。ただ、呼んでから待つ時間が一つ減った。


 七海はベンチへ座り、ドライスーツの足を引いている。


「抜けん」


「また?」


 優奈が七海の前へしゃがんだ。


「昨日、家で練習したんよ」


「スーツ持って帰ってないじゃん」


「動きだけ」


「意味ないじゃろ」


 優奈が足首の生地を掴む。黒い生地が裏返り、七海の足が抜けた。


「次は一人でできる」


「毎回それじゃん」


 遥香が二人の前へ入部届を置いた。


 七海の手が、濡れた髪の途中で止まる。


 優奈は紙を見たあと、海へ顔を向けた。


 岸壁へ当たった波が、少し遅れて浮標を揺らしている。


「遥香先輩」


「はい」


「潮の速さって、毎回測ってますか」


「練習前の目安は記録しています。でも、区画の中は場所で変わります」


「さっき七海のところに来た流れは?」


「記録していません」


 優奈の指が、スマートフォンに残る二・二秒で止まる。


「じゃあ、この数字だけじゃ分からんじゃん」


 七海が横から覗く。


「何が?」


「七海ができたんか、海がやったんか」


「できたでええじゃん」


「よくない」


 優奈の声が強くなった。


「次に同じことして、できんかったら困るじゃろ」


 七海は口を閉じた。


 優奈は入部届を手に取る。


「スーツって、今頼んだらいつ届きますか」


「申請してから一週間くらいです」


「来週には海へ入れます?」


「早ければ」


 優奈は鞄からペンを出した。


 氏名欄に四文字を書く。


 西宮優奈。


 七海が隣から覗き込む。


「入るん?」


「海の方も見んと、測れんけん」


「泳げるん?」


「それはこれから」


 遥香が入部届を受け取った。


「明日、サイズを測りましょう」


「はい」


 七海は濡れた髪のまま、両手を上げた。


「十人!」


「まだスーツないよ」


「入ったのは十人じゃん」


 優奈はスマートフォンを開いた。


 予定表。


 木曜日の欄には、前回の文字が残っている。


【潮球・見学】


 指が二度動く。


【見学】の二文字が消えた。


【潮球】


 画面を閉じる。


 次に計測用の画面を開き、空いていた欄へ文字を足した。


【潮】


 数字は、まだ入っていなかった。

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