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潮球  作者: カミツキ
3年目の海

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第61話 まだ、岸から

部室の窓の外で、桜の枝はもう緑になっていた。開けた窓から入る風が、新入生募集の紙を机の端で揺らしている。


 床には、段ボール箱が二つ増えていた。


 宮浦心春。

 和田七海。


 凪は二つの名前を見た。


 先週まで七つだった箱が九つになった。自分の名前が増えたときより、部室が狭くなったように見える。


 七海は鞄を置くより先に、自分の箱のテープへ指を掛けた。


「開けていいですか」


 遥香が名簿から顔を上げる。


「いいですよ」


 テープが音を立てて剝がれた。七海は箱から黒い生地を引き上げ、両腕で抱える。


「重っ」


 手の先までつながった専用ドライスーツだった。胸と両手、両足には、まだ光っていない透明な発光ラインが走っている。


 七海は生地の厚さを確かめるように、手袋部分を握った。


「これ着て泳ぐんですよね」


「そうです」


「すぐ着ます」


「まだ部室では着ません」


 遥香が答える前に動き始めるところは、先週と変わっていない。


 隣の箱は、まだ閉じたままだった。


 心春は花と芽衣の間に立ち、二人の顔を順番に見ている。


「花ちゃん、開けて」


「自分で開けんさい」


「芽衣ちゃん」


「はさみ、そこ」


 芽衣が机を指した。


 心春ははさみを取り、箱の前へしゃがんだ。刃をテープへ当てたところで、手が止まる。


「こっちからでええ?」


「どっちからでも開くよ」


 花は自分の荷物をロッカーへ入れ、芽衣は潮核のケースを持ち上げた。二人が別々の方向へ動くと、心春だけが箱の前に残った。


 はさみの刃が、テープの上で傾いている。


 凪は一歩だけ心春へ近づいた。


「真ん中なら、箱の中まで刃が入りにくいよ」


 心春が顔を上げる。


「真ん中?」


 凪はテープの中央を指した。それ以上は手を出さなかった。


 心春は刃先を置き直した。今度は花にも芽衣にも聞かず、ゆっくりテープを切る。


 箱が開いた。


「あった」


 心春の声が少し上がった。


「そりゃあるじゃろ」


 花がロッカーから振り返る。


「自分で開けたけん」


「箱は逃げんよ」


 心春は聞いていないように、自分のスーツを持ち上げていた。


 入口では、優奈が鞄を肩に掛けたまま立っている。七海がスーツを広げ、優奈の方へ差し出した。


「優奈、これ持って」


「なんで」


「着るけん」


「床に置けばええじゃん」


 優奈は受け取らなかった。


 七海はスーツを机へ置き、靴紐へ手を掛ける。


「今日、海に入れるんですよね」


「サイズ確認と陸上での動作確認が終わってからです」


 遥香が名簿へ二人の名前を書き足した。


「先に港へ行きます。着替え方も向こうで説明します」


「すぐ入れますか」


「説明を聞けば」


 七海の手が靴紐から離れた。


 港へ向かう準備は、誰よりも早かった。


* * *


 三原港には、南から風が入っていた。浮標の列が水面で揺れ、島の上には薄い雲が掛かっている。


 心春は片足だけドライスーツへ入れ、芽衣の隣で止まっていた。


「芽衣ちゃん、次どっち?」


「反対の足」


「それは分かるよ」


 花はもう着替え終わり、肩を回している。


「心春、腰まで一気に上げんさい」


「花ちゃん、待って」


「待っとるよ」


「もう立っとるじゃん」


 心春は座ったまま花を見上げた。芽衣がしゃがみ、足首の生地を直す。


「ここ、ねじれとる」


「花ちゃんと同じようにしたのに」


「花先輩は慣れとるけん」


「芽衣ちゃんも花ちゃんって呼べばええのに」


 芽衣の手が止まった。


「呼ばんよ」


 心春は笑いながら、もう片方の足を入れた。


 隣のベンチでは、七海が袖へ腕を押し込んでいる。


「入らん」


「手を開いてください」


 遥香が袖口を押さえた。七海の指が、手袋の中へ一本ずつ収まっていく。


「これで潮核を持ったら光るんですよね」


「はい」


「早く持ちたい」


「先に準備運動です」


 七海は立ち上がると、すぐ両腕を回した。袖の生地に引かれ、肩まで一緒に上がる。


 優奈は岸壁の柵へ鞄を置いた。


「動きにくそう」


「水に入ったら変わるかもしれんじゃん」


「まだ入ってないじゃろ」


 七海はそのまま屈伸を始めた。遥香の合図より一回早い。


「七海さん、合わせてください」


「はい」


 七海の膝が途中で止まった。


 次の合図を待ち、今度は全員と同時に腰を落とす。


 凪は七海の足元を見た。止められたあと、気まずそうに立ち直す間がない。動きが間違っていたと分かれば、もう次の動作を待っている。


 準備運動のあと、陸上で移動方向を確認した。


 遥香が右手を上げる。


 花が右へ動き、芽衣が左へ動く。


 心春の足は中央に残った。


「心春、前」


 花の声で、心春がそちらへ踏み出す。


「違う。うちじゃなくて、遥香の合図」


 遥香の手は左を示していた。


 心春は足を戻し、芽衣の後ろへ入る。


「芽衣ちゃん、ここ?」


 芽衣は前を向いたまま答えた。


「うちに聞かんで」


 次の合図。


 花が左、芽衣が右へ動く。


 心春の足が、また止まった。


 凪は心春の斜め後ろへ移動した。


「人じゃなくて、遥香だけ見て」


 心春が凪を振り返る。


「遥香先輩だけ?」


「うん。花ちゃんも芽衣ちゃんも、今は見なくていい」


 心春の顔が花へ向きかけ、途中で戻った。


 遥香の手が上がる。


 右。


 心春は右へ出た。


 芽衣と同じ方向だったが、真後ろには入らない。一歩分だけ横を空けて止まる。


 花が左側から列へ戻り、心春の位置を見た。


「今のはぶつからんね」


 心春は遥香を見たままだった。


「合っとる?」


「合っとるよ」


 今度は花ではなく、凪が答えた。


 次の合図が出る。


 心春は一拍遅れた。それでも、誰にも聞かずに左へ動いた。


* * *


 水中では、三秒タッチの練習から始まった。


 最初の保持役は七海。守備役は芽衣だった。


 七海が潮核を掴む。


 胸、両手、両足。


 黒いスーツへ赤い発光ラインが走った。


 七海が水面から手の甲を持ち上げる。


「光った」


「始めます」


 遥香の笛が鳴った。


 七海は前へ出た。迷いのない直線だった。


 芽衣が後ろから追う。七海の足が水を蹴るたび、赤い線が泡の中で上下した。


 芽衣の手が、右足首へ触れる。


 七海が振り返った。


 足が止まる。


 一秒。


 七海が体をひねる。赤い足首は芽衣の手の中に残った。


 二秒。


 強く蹴る。


 三秒。


 判定音と同時に光が消え、潮核が七海の手から落ちた。


 七海は顔を上げた。


「もう一回」


「一度戻ってください」


 遥香が岸を指す。


 七海は失敗した場所を振り返らず、すぐ岸へ向きを変えた。


 二本目。


 七海は最初から足を大きく動かした。


 芽衣の手が左足へ触れる。七海が外へ払い、指先を赤い線から外した。


 半身分、前へ出る。


 今度は右足首を掴まれた。


 七海が振り返る。


 両足が止まった。


 三秒。


 赤い光が消える。


 水面へ出た七海は、岸にいる優奈を見た。


「優奈、何秒だった?」


「知らんよ」


「見とったじゃろ」


「見学しとっただけ」


「次、測って」


「遥香先輩がおるじゃん」


「優奈も」


「なんで二人要るん」


 七海は返事を待たず、潮核を拾いに戻った。


 優奈の手は鞄へ向かったが、スマートフォンを取り出す前に止まった。


 凪は水際まで戻り、防水ケースに入っていた予備のストップウォッチを取った。


「これ、使う?」


 優奈が凪を見る。


「うちが?」


「七海は、振り返ったあとに止まってる。外からの方が分かると思う」


 優奈の顔が海へ戻った。


「時間だけでええんですか」


「止まった場所も」


 凪はストップウォッチを差し出した。


 優奈は一拍置いてから受け取る。


「見学なのに?」


「見る人がいた方が分かることもあるから」


 優奈は返事をしなかった。親指だけが、ボタンの上へ乗った。


 三本目。


 笛が鳴る。


 七海が前へ出て、芽衣が後ろへ入った。


 右足へ触れる。


 優奈の親指が動いた。


 七海が足を外へ払い、芽衣の手が離れる。


 親指がもう一度動く。


 すぐに左足へ触れ直された。


 七海は振り返った。


 両足が止まる。


 赤い光が消えた。


 水面へ出た七海が、すぐ優奈を見る。


「何秒?」


「最初は途中で切れた。二回目は三秒」


「もっと早く教えてや」


「水の中で聞こえんじゃろ」


「上がってからでも」


 優奈はストップウォッチを七海へ見せた。


「時間より、振り返ったとき。両足止まっとる」


「止めてない」


「止まっとったよ」


「どっち?」


「両方」


「両方は無理じゃん」


「振り返るけんじゃろ」


 七海の指が岸壁から外れた。


「次も測って」


「まだやるん?」


「止まらんかったら切れるかもしれん」


 七海は潮核を受け取り、開始位置へ戻る。


 優奈の親指は、ストップウォッチの上に残っていた。


 凪は少し離れた場所から二人を見た。


 先週なら、また来てもいいと言えなかった。


 今日は道具を一つ渡した。


 それだけで優奈の目が、七海の顔ではなく足へ向いている。


 四本目。


 芽衣が後ろへ入る。


 笛。


 七海が泳ぎ出した。


 右足へ手が触れる。


 七海は振り返らない。前を向いたまま、右足を外へ払った。


 芽衣の手が離れる。


 左足へ触れ直される。


 七海の体が傾いた。それでも顔は前を向いたまま、左足を大きく引く。


 芽衣の指が赤い線から外れた。


 光は消えない。


 七海は潮核を持ったまま、浮標まで泳ぎ切った。


 顔を上げる。


「今のは?」


「一回目、一秒ちょっと。二回目も二秒いってない」


 優奈はストップウォッチを見たあと、七海の足元を指した。


「右を払ったあと、左が下がっとる。そこ触られとる」


「じゃあ、右上げたら左も上げる?」


「泳げんじゃろ」


「じゃあどうするん」


「知らん。次は左右逆にしてみたら」


「やる」


 七海は浮標を蹴った。


 遥香の笛が二度鳴る。


「休憩してください!」


 七海の足だけが、もう開始位置へ向かいかけていた。


* * *


 最後の笛が鳴ったときも、七海の髪から水が落ちていた。


 芽衣が空のケースを岸壁へ置く。花は潮核を二つ拾い、心春の前へ差し出した。


「心春、これ持てる?」


 心春は両腕を出した。


「持てる」


 花の後ろにも、芽衣の横にも入らない。二つの潮核を胸へ抱え、そのまま岸壁のケースへ歩いていく。


 途中で一度、花へ顔を向けた。


 花は自分の荷物を片付けている。


 心春は前へ向き直り、ケースの空いた場所へ潮核を一つずつ収めた。


 凪はケースの蓋を持ち上げて待った。


「ここでええ?」


「うん。向きも合ってる」


 心春の手が二つ目の潮核から離れる。


「凪先輩」


「何?」


「次も、遥香先輩だけ見たらええ?」


 凪は心春ではなく、ケースの中に並んだ潮核を見た。


「最初はね。でも、水に入ったら隣も見ないとぶつかる」


「難しい」


「私も、最初は一つしか見られなかった」


 心春の顔が上がる。


「凪先輩も?」


「海しか見えなかった」


 言ってから、少し違うと思った。


 海を見ていたのではない。海から目を離せなかった。


 凪はケースの蓋を閉じた。


「次は、遥香と隣の人。二つでいいよ」


 心春は指を二本立てた。


「二つ」


 そのまま芽衣の方へ走っていく。


 まだ誰かのところへ戻る。


 それでも、潮核は一人で運んだ。


 七海はドライスーツの足を抜きながら、遥香へ顔を上げた。


「次、いつですか」


「木曜の放課後です」


「木曜か」


 優奈がスマートフォンを取り出した。


「何時まで?」


 遥香が優奈を見る。


「十八時頃までです」


「雨でも?」


「海の状態によります。中止なら連絡します」


「見学にも連絡来ますか」


「七海さんから伝えてもらえれば」


 七海の手が止まった。


「優奈、また来るん?」


「七海のスーツ、まだ一人で脱げんじゃろ」


「次は脱げるよ」


「じゃあ来んでええ?」


 七海は口を閉じ、途中まで脱いだ袖を引いた。手袋部分で指が引っかかる。


「優奈」


「何」


「ここ持って」


 優奈は七海の袖口を掴んだ。


 黒い手袋から、七海の手が抜ける。


 優奈は袖を放すと、借りていたストップウォッチを凪へ返した。


「これ、次もありますか」


「あるよ」


「スマホでも測れますけど」


「じゃあ、次は自分ので」


 優奈は小さく頷き、予定表を開いた。


 木曜日の欄へ、文字を打ち込む。


【潮球・見学】


 七海が横から画面を覗いた。


「見学って、いつまで?」


「知らん」


「入るまで?」


「勝手に決めんで」


 優奈はスマートフォンを閉じた。


 それでも、予定は消さなかった。

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