第60話 見学、だけ
四月。
部室の机に、段ボール箱が七つ並んでいた。潮球運営委員会から届いた箱で、側面には登録選手の名前とサイズが印刷されている。
石塚凪。
潮田花。
村上結。
木梨陽。
糸崎芽衣。
沖野渚。
望月遥香。
凪は一番端にある自分の名前を見た。
初めて部室のホワイトボードに書かれていたときは、一番下の文字だけが自分のものに見えなかった。今はもう、間違えずに自分の箱を取れる。
遥香が一番上の箱へカッターを入れた。テープが切れ、折り畳まれた黒い生地が現れる。
結が横から手を伸ばした。
「厚っ」
「まだ出している途中です」
「触っただけじゃん」
遥香は結の手を避けながら、専用ドライスーツを持ち上げた。首から足先までが一つにつながり、袖の先にも手袋の形で生地が続いている。黒い生地の上には、胸、両手の甲、両足を通る細い透明な線があった。
陽が手の甲にある線へ指を置く。
「ここも」
「はい。潮核を持つと、胸と両手、両足の発光ラインが全部光ります」
花も自分の箱を開けた。
「通知で読んだけど、ほんまに足まであるんじゃね」
渚は説明を聞きながら、すでに片足をスーツへ入れていた。
「後ろから足に触られても、三秒ですよね」
「発光している場所なら、どこでも判定されます」
「逃げながら蹴ったら?」
遥香は箱に入っていた説明書を開いた。
「相手の手が離れれば、三秒の計測は切れます。触れ続けられたら、泳いでいてもそのまま三秒です」
「じゃあ、速ければええんじゃ」
渚はもう片方の足も押し込んだ。膝の辺りで生地がねじれ、足が止まる。
「入らん」
「着替える速さの話はしてません」
芽衣が渚の前へしゃがんだ。
「膝、裏返っとる」
「どうりで」
「一回脱いで」
渚の肩が落ちた。
結は自分のスーツを胸へ当て、鏡の代わりに窓ガラスを見る。
「全部光るって、めっちゃ目立たん?」
「持っとる人が分かりやすくなるんじゃろ」
花が袖へ腕を通す。
「分かりやすくなりすぎじゃない?」
凪は自分のスーツを机の上へ広げた。箱の横には、これまで使っていた発光ゼッケンが畳んで置かれている。
旧ルールでは、胸元を相手の手から遠ざければよかった。今度は、手も足も光る。
足首の透明な線を指でなぞる。潮核を持っていない今は、黒い生地の上に細い筋が残っているだけだった。
見える場所が増える。それだけなら、分かりやすい。
水の中では、分かりやすいものほど相手にも見える。
部室の扉が開いた。
「花ちゃん、芽衣ちゃん」
片腕だけスーツへ通していた花が振り返る。
「心春?」
入口に一年生が立っていた。
宮浦心春は、花の姿を頭から足まで見たあと、そのまま芽衣の隣へ入った。
「何それ」
「今年からの専用ドライスーツ」
「うちのは?」
「なんであると思ったん」
「潮球部、入るけん」
心春が芽衣の腕へ肩を寄せる。芽衣の手が止まった。
「聞いとらんよ」
「昨日決めた」
「昨日なん」
花が片腕を抜こうとした。手首の辺りで生地が引っかかる。
「ちょっと待って。これ脱げん」
芽衣が花の手首を掴んだ。
「引っ張るよ」
「待って、腕取れる」
心春も反対側の袖を持つ。
「花ちゃん、力抜いてや」
「二人とも雑!」
黒い袖から花の手が抜けた。
その後ろで、廊下の床が鳴る。
「ここ、潮球部ですか」
別の一年生が、開いた扉から顔を出した。髪を後ろで結び、体の半分をすでに部室へ入れている。その肩越しには、もう一人の女子が立っていた。鞄を肩へ掛けたまま、部室には入ってこない。
「和田七海です。見学に来ました」
七海が後ろを振り返る。
「こっちは西宮優奈」
「うちは見学だけ」
優奈の声は廊下から届いた。
「一緒じゃん」
「七海が勝手に連れてきたんじゃろ」
「でも来たじゃん」
「帰ろうとしたら、鞄持っていったじゃん」
七海の手には、二つの鞄があった。
結が扉の方へ寄る。
「それは誘ったというか、荷物ごと運んどるね」
七海は二つの鞄を床へ置いた。
「海でやるんですよね」
「うん」
「今日、見られますか」
「今から港に行くよ」
結が答えると、七海の顔が部室の奥へ向いた。机の上のドライスーツ、手足に走る透明な線、箱の横に置かれた潮核を順番に見る。
七海は花のスーツの前へしゃがんだ。
「持ったら、ここが光るんですか」
「手と足と胸」
花が袖を持ち直す。
「今年から、光っとる場所全部が三秒タッチの対象になるんよ」
「足も?」
「足も」
七海は足首の透明な線をもう一度見た。
「面白そう」
返事が早かった。
凪が潮球部へ来た最初の日、面白いと思う前に海があった。怖いと言うこともできず、帰る理由だけを探していた。
廊下の壁へ背中を預けていた優奈が、部室の中を覗く。
「逃げにくくなっただけじゃないん」
花の手が止まった。
「そうなんよ」
「まだ使ってないじゃろ」
「見たら分かるよ」
優奈は床に置かれた自分の鞄を拾い、もう一つを七海の前へ押し戻した。
帰るとは言わなかった。
* * *
港の練習区画に、春の風が入っていた。水面は明るく、岸壁の影は冬より短い。黄色い浮標の間を、細い泡の筋が東へ流れている。
凪はドライスーツの首元へ指を入れ、位置を直した。水は入ってこない。その代わり、肩と膝へ生地が張りつき、腕を上げるたびに背中側が引かれる。
花が両腕を大きく回した。
「動きにくい」
「水に入ったら変わるかもしれんよ」
結も指を何度も開いている。
「うちも、これ着る必要ある?」
「全選手に着用義務があります」
遥香は説明書を防水ケースへ戻した。
「結さんも登録選手です。水面担当でも同じです」
「手がふやけんのは減りそう」
陽は水際へしゃがみ、手の甲を水へ入れた。水に触れただけでは、透明な線は光らない。
保持判定は、手袋部分のセンサーが潮核を掴んだときだけ作動する。
芽衣は陽の横で、足首に余った生地を引き上げた。渚はすでに浮標の手前まで出ている。
「入っていいですか」
「まだです」
遥香が時計を確認した。
「最初に保持判定と三秒タッチを確認します。花さんが潮核を持って、芽衣は後ろから追ってください」
「うち?」
花が水際へ出る。
「足を触るん?」
「まずは右足の発光ラインを狙ってください。接触したまま泳げるかも確認します」
花の眉が寄った。
「ほんまに嫌じゃね」
芽衣がゴーグルを下ろす。
「本番で初めて触られるよりええじゃろ」
花の口が閉じた。
「言うようになったね」
「花ちゃんに似たんじゃない?」
岸にいた心春が、芽衣のタオルを抱えたまま笑った。
花と芽衣が同時に顔を向ける。心春は笑ったまま、体だけ芽衣の後ろへ半分隠した。
「始めます」
遥香の笛が鳴った。
花が海へ入り、芽衣が続く。十メートル先に浮かべられた潮核へ、花が先に着いた。
手袋越しに潮核を掴む。
赤い光が走った。
両手、胸、両足。
黒いスーツの上に、花の体の形をなぞるような赤い線が一斉に浮かんだ。
岸壁の端まで出ていた七海が、身を乗り出す。
「足、ほんまに光った」
花は潮核を胸の近くへ抱え、前へ泳ぎ出した。これまでと同じように体を斜めにし、胸の発光部分を芽衣から遠ざける。
芽衣は胸へ回り込まなかった。花の真後ろに入り、そのまま足元を追う。
花の右足が水を蹴った。赤い線が泡の中を伸びる。
芽衣の手が、その足首へ触れた。
花は強く水を蹴った。芽衣の腕が伸びる。手は離れない。
「一」
岸の遥香が数える。
花が右足を振った。水が割れ、芽衣の肩が横へ引かれる。
「二」
花は体をひねり、左へ進路を変えた。芽衣も引かれながら向きを変える。手袋は、右足の赤い線に触れたままだった。
「三」
判定音が鳴った。
花の手から潮核が外れ、赤い発光ラインがすべて消える。潮核は水中で一度沈み、浮力に押されてゆっくり水面へ戻っていった。
花が顔を上げる。
「足はずるいじゃろ!」
芽衣も浮上した。
「ルールじゃけ」
結が水面担当の位置から花の足を指す。
「胸は完全に隠せとったけど、足はずっと見えとったよ」
「言わんでええ!」
遥香がノートに記録した。
「保持判定、接触判定ともに正常です。接触中の移動も問題ありません」
「正常じゃないのは、うちの気持ちよ」
岸から七海の声が飛ぶ。
「もう一回やらないんですか」
花が振り返った。
「やるよ」
「次は逃げ切れそうですか」
「逃げる」
花は浮かんできた潮核へ泳いでいった。
七海の足が、岸壁の端で何度も位置を変えている。海へ入れない代わりに、体だけが花の動きを追っていた。
優奈は、その横顔を見ていた。
二本目は、渚が保持役になった。渚の手が潮核を掴み、赤い線が全身へ走る。
追うのは凪だった。
渚は最初から足を狙われないよう、体を横へ倒して泳ぐ。右足を奥へ隠し、潮核を持つ手を凪から遠ざけた。
凪は足を追わず、横から入る。狙うのは、潮核を持つ右手の発光ライン。
指先が近づく。
渚は右腕を引き、潮核を左手へ持ち替えた。
それでも、右手の赤い光は消えない。左手で保持していても、胸、両手、両足のすべてが発光したままだった。
凪は渚の右手へ触れた。
渚が腕を引く。接触は一秒になる前に切れた。
二人が水面へ上がる。
渚は自分の手を見た。
「持ち替えても、空いた方の手が光ったままです」
「保持中は全身の発光ラインが点灯します」
遥香が岸から答える。
「潮核を持っとらん手も隠さんといけんのか」
花が息を整えながら戻ってきた。
「手だけじゃないよ。足も胸も全部」
渚は水中へ顔をつけ、自分の足元を確かめた。赤い線が波に合わせて揺れている。
「速く泳いでも見えますね」
凪も水中へ手を入れた。
以前より、保持者の姿がはっきり見える。泡の向こうでも足の位置が残り、どちらの足で水を蹴ったか、次にどちらへ曲がろうとしているかまで追える。
赤い光が、渚の動きを水の中へ書き残していた。
見える。凪には、見えすぎるくらいだった。
初めて潮核を持った日は、胸元に点いた赤い光を見る余裕もなかった。花の手が迫り、水の重さと潮核の重さを抱えたまま、三秒になる前に手放した。
あのときの自分が今のスーツを着ていたら、手も足も全部、花に差し出していたかもしれない。
陽が岸壁の近くで手の甲を返した。
短いサイン。
凪の反応が一拍遅れた。
これまでサインに使っていた手も、潮核を持てば光る。指の形は見えやすくなる。
相手からも。
陽も気づいたのか、手を下ろした。次に出したサインは、体の陰へ半分隠れていた。
新しいスーツに慣れるだけでは足りない。見せる動きまで、変えなければならない。
* * *
その後も、保持役と守備役を交代しながら確認が続いた。
花は足へ触れられるたび、次の一本で体の角度を変えた。渚は接触を切ると、落とした潮核を追うより先に、次の隠し方を遥香へ聞いた。陽は保持した状態でサインを出し、指の形が岸から判別できる距離を確かめる。
凪は何度か守備役に入り、光る手、足、胸のどこが一番触れやすいかを試した。
逃げる側より、追う側の方が考えることは増えていない。目標だけが増えている。それでも一度触れれば、相手は接触を切るために体勢を変える。その瞬間、潮核を持つ手が泳ぎの邪魔をした。
足を狙う。手を引かせる。胸を隠したところへ、反対側から入る。
新しいルールは、逃げにくくなっただけではない。守備側が、相手の動きを選ばせられる。
練習が終わるまで、七海は岸壁から離れなかった。花が三秒タッチを取られると、次の潮核へ体が向く。渚が足への接触を切れば、両手を叩く。陽が光る手でサインを変えるたび、遥香のノートを横から覗き込んだ。
優奈は最初と同じ場所にいた。途中で岸壁へ座り、七海の鞄を膝の横へ置いた。海へ身を乗り出すことはない。それでも帰ろうとはしなかった。
凪は優奈へ声をかけなかった。
見るだけで終わる日があってもいい。初めから海へ近づける人ばかりではない。
心春は芽衣のタオルを抱えたまま、花が戻るたびに水筒を差し出した。
「心春、それ芽衣の」
「花ちゃんの、どれか分からん」
「名前書いとるじゃろ」
「濡れとるけん見えんかった」
「消えんよ」
花は水筒を受け取らず、自分の荷物へ向かった。
芽衣が岸へ上がると、心春はすぐそちらへ移り、タオルを広げた。
「芽衣ちゃん、寒くない?」
「大丈夫」
「手、赤くなっとるよ」
芽衣が自分の手を開く。生地の内側にある手は見えない。手の甲の発光ラインに、消えかけた赤い残光だけが残っていた。
「光の跡」
陽が言った。
心春が指先で触れる。赤い光は、黒い生地の中へゆっくり消えていった。
「うちも、これ着るん?」
「入部したらね」
芽衣がタオルを受け取る。
「入るよ」
心春は花の方を向いた。
「じゃろ、花ちゃん」
「うちに聞くん?」
心春の足が止まった。
花は自分の水筒を探し、芽衣は濡れた潮核をケースへ戻し始めた。二人が別々の方向へ動く。
心春だけが、その間に残った。
凪は、部室のホワイトボードに初めて自分の名前が書かれていた朝を思い出した。一番下の文字だけが、自分のものに見えなかった。
誰かが決めてくれれば、その通りに動けた。自分へ返された途端、足元だけが重くなった。
「入るんは、心春じゃろ」
花が水筒の蓋を閉めた。
心春は花を見て、次に芽衣へ顔を向けた。芽衣は何も言わず、ケースの蓋を押さえている。
心春は二人の間から出た。遥香の前まで歩く。
「入部届、ください」
花や芽衣に話すときより、声は小さかった。
それでも、遥香まで届いた。
遥香は防水ケースから紙を一枚取り出す。
「宮浦心春さん、で合っていますか」
「はい」
心春は入部届を両手で受け取った。氏名欄を一度見てから、芽衣の隣へ戻っていく。
七海も遥香の前へ来た。
「うちもください」
「和田七海さんですね」
「はい」
遥香がもう一枚取り出す。
「専用ドライスーツは、入部届を提出してからサイズを申請します。届くまでは海に入れません」
「どれくらいかかりますか」
「申請してみないと分かりません」
「明日出したら、早くなりますか」
「遅くはならないと思います」
「じゃあ今日書きます」
七海は入部届を受け取ると、その場で氏名欄を確認した。迷わない。まだ潮核にも触れていないし、海にも入っていない。それでも、もう次のことを聞いている。
凪は、自分が最初に入部届を受け取った日のことを思い出そうとした。けれど、紙の感触より、海から上がったあとの冷たさの方が先に戻ってきた。
少し離れた場所で、優奈が七海の鞄を持っている。
遥香はもう一枚だけ、入部届へ手を伸ばした。
「西宮さんは?」
「うちは、見学だけです」
優奈の返事は変わらなかった。
七海が振り返る。
「面白かったじゃろ」
「七海がうるさかった」
「そこじゃなくて」
「見とっただけじゃけ、分からん」
七海は入部届を折らないよう、両手で持った。
「じゃあ、また見たらええじゃん」
「また来ることになっとるん?」
「うちのスーツ届くまで」
「長い」
優奈は七海の鞄を肩へ掛けた。自分の鞄は反対側の肩にある。
断ったのに、二つとも持っていく。
凪は少しだけ口を開いた。
また来てもいい。
言いかけて、やめた。七海が言ったあとなら、もう必要なかった。
七海は入部届を読んだまま、先に港沿いを歩き出す。
「優奈、保護者のところって空欄でええん?」
「家で聞きんさい」
「今日書いて帰りたい」
「帰るよ」
二人の足音が、港沿いの歩道へ続いた。
心春は花と芽衣の間を歩いている。手には、まだ何も書かれていない入部届があった。
七海は自分で書く場所を探し、心春は紙を持ったまま二人の間へ戻る。優奈は入部届を受け取らず、七海の鞄を持って帰る。
三人とも、同じ入口には立っていなかった。
凪は岸壁へ残されたドライスーツを拾った。
七着。
次に届く箱は、九つになる。
胸、手、足。
赤く光っていた線は、もう黒い生地の中へ消えていた。




