第59話 三つの、願い
二月。
遥香の手が、部室の棚の前で止まった。
赤いだるまが五つ並んでいる。
背中は、全部壁の方を向いていた。
「このだるま、神明市で買ったんですか?」
花が鞄を肩に掛けた。
「そうじゃけど」
「今日行くところですよね」
「そう」
遥香は棚の端から端まで数えた。
「五つあります」
「去年は五人じゃったけんね」
結がマフラーを首に巻く。
渚が棚の前へ入った。
「うちらも買うんですか」
「買いたいん?」
「買いたいです」
花が部室の鍵を取った。
「じゃあ買うよ」
芽衣も棚へ近づいた。
五つの白い右目が、同じ方を向いている。
「願いを書くんですか」
「背中にね」
「先輩たちは、何を書いたんですか」
花の腕が、だるまの前へ伸びた。
「見せんよ」
「なんでですか」
「後ろ向けとるじゃろ」
渚が棚の横へ回ろうとした。
花の手が、渚の肩を元の位置へ戻す。
「見るんはなし」
「気になります」
「うちらも、お互いの知らんのよ」
結が扉を開けた。
廊下から冷たい風が入ってくる。
「祭り行ったら、忘れるじゃろ」
「忘れません」
渚は棚へ顔を残したまま、廊下へ出た。
三原駅の改札を抜けると、人の流れが道まで続いていた。
植木の土。
焼けた醤油。
揚げ物の油。
露店から上がった湯気が、人の頭の上で崩れている。
遥香の足が改札の前で止まった。
人の向こうに、大きな赤いだるまがあった。
「大きいですね」
「毎年あれよ」
花は人の間へ入っていく。
結が遥香の袖を引いた。
「ここで止まったら流されるよ」
「はい」
遥香は鞄を胸の前へ移した。
芽衣と渚が続く。
凪と陽は最後尾に回った。
露店が切れない。
苗木。
鉢植え。
縁起物。
湯気の上がる鍋。
陽の足が、植木の前で止まった。
細い枝に、白いつぼみがついている。
「梅」
芽衣も隣に並んだ。
「もう咲くんじゃね」
陽が頷いた。
二人の前を、人が何人も通り過ぎる。
「陽、芽衣ー」
結の声が、人の流れの先から戻ってきた。
陽と芽衣が、同じタイミングで歩き出した。
だるまを並べた露店の前で、花が足を止めた。
棚の上から地面まで、赤い顔が並んでいる。
眉の太さも、口の曲がり方も違った。
店主が花の顔を覚えていた。
「今年も来たんか」
「今年は後輩の分」
花の親指が、後ろの三人を示す。
渚がすぐに前へ出た。
「うち、これにします」
一番手前のだるまを抱える。
赤い顔が、渚の顎の下に収まった。
結がだるまの底をのぞいた。
「まだ一個しか触っとらんよ」
「これがよかったです」
芽衣は同じ大きさのだるまを二つ持ち上げた。
片方を置き、もう片方も置く。
もう一度、最初のだるまを抱えた。
「重さ、違います」
陽の指が、右側のだるまの底に触れた。
「こっち」
芽衣は右側を持ち直した。
「これにします」
遥香は棚の端から順に持ち上げていた。
正面を確かめる。
底を台へ置く。
手を離して、揺れが止まるまで待つ。
結が隣にしゃがんだ。
「遥香、だるまにも選考あるん?」
「部室に置くので、倒れにくい方がいいです」
「だるまは戻るもんじゃろ」
遥香の手の中で、だるまが傾いた。
底が台の上へ戻る。
「これにします」
三人の腕に、一体ずつ収まった。
渚が花の横へ寄った。
「何を書けばいいんですか」
「なんでもええよ」
「なんでも?」
「自分のでも、部のでも」
「花先輩は?」
「見せん」
「凪先輩は?」
凪は首を横へ振った。
「結先輩」
「うちも秘密」
渚の顔が陽へ向く。
陽は、並んだだるまの眉を指で追っていた。
「聞いても教えてくれんよ」
結が立ち上がる。
渚は腕の中のだるまを抱え直した。
「決めました」
「もう?」
「はい」
芽衣の指が、だるまの背中をなぞる。
遥香は赤い背中へ手のひらを当てた。
三つとも、まだ何も書かれていなかった。
露店を抜けて港へ向かう頃には、人の声が遠くなっていた。
植木の土の匂いが薄れ、風に潮が混じる。
渚の片手に、たこ天の袋が増えていた。
もう片方の腕には、だるまが収まっている。
「いつ買ったん?」
結の指が袋へ向く。
「空いとったけん」
「ずっと近くにおったよね」
渚はたこ天を一つ口へ入れた。
花が、傾いただるまの底を支える。
「落とさんように食べんさい」
「はい」
芽衣は両腕でだるまを抱えていた。
露店の袋は持っていない。
「芽衣、何も食べんかったん?」
「部室に戻ってから食べます」
「真面目じゃね」
「落としたくないので」
風が強くなった。
芽衣の腕が、だるまを胸へ寄せる。
遥香は列の先頭を歩いていた。
だるまの底が、腕の中で上を向いている。
港から、フェリーの汽笛が届いた。
凪の両手は空いていた。
去年は、腕の中にだるまがあった。
今日は、三人の背中が前を歩いている。
部室へ戻ると、花が机に新聞紙を広げた。
結が筆ペンを三本並べる。
陽は棚の五つを横へ寄せた。
凪が空いた場所を布で拭く。
三つのだるまが、新聞紙の上に並んだ。
花が棚から自分のだるまを下ろした。
正面を三人へ向ける。
左目が黒い。
右目は白い。
「背中に書いて、こっち」
花の指が黒い目の前へ移る。
「叶ったら、反対も入れる」
渚が筆ペンを取った。
「背中から書きます」
だるまを膝で押さえる。
筆先が赤い背中を走った。
一画目が太い。
二画目は、その横へ曲がった。
最後の線が、底の近くまで伸びる。
「できました」
「ほんまに早いね」
花が自分のだるまを棚へ戻した。
芽衣は、だるまの背中を正面へ向けた。
中央へ指を置く。
筆ペンを握る。
一画ずつ、黒い線が増えていった。
途中でだるまが揺れる。
芽衣の手のひらが、底を押さえた。
陽が新聞紙を引き寄せる。
だるまの下へ、紙が一枚増えた。
「ありがとうございます」
芽衣は筆を止めなかった。
遥香の前には、まだ赤い背中が残っていた。
筆ペンは机の上にある。
蓋も閉じたままだった。
渚が、自分のだるまを回しかける。
花の手が、背中を新聞紙の方へ戻した。
「見せんの」
「うちのです」
「自分のも、置いたら見えんようにするんよ」
渚はだるまを抱え込んだ。
「忘れません」
芽衣の筆先が、最後の線から離れた。
遥香は棚の方へ体を向けた。
古い五つのだるまは、横へ寄ったまま並んでいる。
背中は壁の方を向いていた。
遥香の手が、筆ペンへ伸びる。
蓋が外れた。
最初の一画が、赤い背中に入った。
三人が左目を入れ終える頃には、窓の外が暗くなっていた。
渚の目は、輪郭からはみ出している。
芽衣の目は、黒が何度も重なっていた。
遥香の目は、白い縁を残して丸く収まっている。
結が三つを順にのぞき込んだ。
「性格出るね」
「目だけで分かるんですか」
遥香が筆ペンの蓋を閉じる。
「分からんけど、出とる気がする」
渚が最初にだるまを持ち上げた。
「どこに置きますか」
「空いとるとこ」
花が棚を顎で示す。
渚は古い五つの隣へ置いた。
背中を壁側へ向ける。
芽衣も隣へ置く。
底を棚へ押し当て、揺れが止まってから手を離した。
遥香が最後の一体を棚の端へ運んだ。
三つの赤い背中が、古い五つと同じ方を向いた。
結が棚の端へ指を差し込んだ。
「次、置けんじゃん」
花が下の段を叩いた。
「増やしゃええ」
木の棚が、乾いた音を返した。




