第58話 同じ島
十二月の三原港は、風の音が硬かった。
桟橋の手すりに触れると、指が冷える。
海から上がった風が、上着の裾を揺らした。
吐いた息が白くなって、すぐ消えた。
海は、目の前にある。
でも、今日は入らない。
遥香が紙を広げた。
【佐木島】
前回と同じ道
一周
途中、隊列確認
結の肩が落ちた。
「同じって、あの一周?」
「はい」
「あの、戻っただけのやつ?」
「今日は戻るだけでは終わりません」
花が靴紐を結び直した。
「ええじゃん。前より走れるか分かるし」
「分かりたくないこともあるんよ」
陽はポケットに手を入れていた。
渚は売店の方へ顔を向けている。
「終わったら何かありますか」
「あります」
遥香が紙を裏返した。
【帰り】
ポーバ
結が鞄を抱え直す。
「行くよ」
陽がスマホを開いた。
「決めた」
「何を」
「飲み物」
「早い」
フェリーの汽笛が鳴った。
白い船体が、桟橋へ寄ってくる。
凪の靴の下で、板が鳴った。
同じ島。
同じ道。
その言葉が、風の中に残っていた。
フェリーが三原港を離れると、港の建物が低くなった。
甲板には、冬の海の匂いがあった。
夏よりも、潮の匂いが薄い。
そのぶん、風の冷たさだけが頬に当たる。
花は手すりに肘を置いた。
「佐木島、久しぶりじゃね」
結がマフラーに口元を埋める。
「久しぶりにしたかった」
芽衣が靴先を揃えた。
靴紐は、新しいものに替わっていた。
「前は結構しんどかったです」
「今日もきついよ」
花の声に、芽衣は頷いた。
「でも、止まりません」
渚が横から顔を出した。
「お腹空いたら?」
「走ります」
「強い」
陽が海へ顔を向けた。
波は低かった。
島影の向こうで、冬の光が細く割れている。
凪は手すりから手を離した。
指先に冷たさが残った。
佐木島の港に着くと、風の向きが変わった。
桟橋の先に、前にも通った道が伸びている。
畑。
低い石垣。
海沿いのカーブ。
坂。
前に来たとき、結は港を出てすぐ文句を増やした。
今日は、靴音が先に出た。
遥香が時計を押す。
「行きます」
花が先頭に出た。
その後ろに、芽衣。
一歩空けて、渚。
凪と陽が並ぶ。
結は最後尾で、遥香の横についた。
「なんでうち後ろなん」
「声が届くので」
「便利に使われとる」
走り出した。
冬の道は、音がよく返った。
靴底がアスファルトを叩く。
息が白く流れる。
海からの風が、横から列に当たる。
最初のカーブで、陽の手が上がった。
指が右へ倒れる。
花の足が半拍止まる。
芽衣は詰めない。
渚は空いた場所へ入った。
でも、抜けきらない。
芽衣の肩が通るまで、渚の足が残る。
「お」
結の声が後ろで跳ねた。
「今の、祭りのやつじゃん」
「何がですか」
渚の顔は真っ直ぐ前を向いていた。
「今の」
「走ってます」
「知っとる」
花が笑った。
列は崩れなかった。
坂に入る。
前回、結の靴音がここで途切れた。
今日は続いている。
「坂、長い」
声も続いていた。
「前より文句が安定しています」
遥香の時計が、手の中で揺れた。
「褒められとる?」
「はい」
「ならええか」
芽衣は花の背中を追いすぎない。
花が速度を上げても、一歩分を残す。
その空きへ、渚が入る。
渚は入って、すぐ出ない。
佐木島の道に、体育館の青い線はない。
でも、靴音の間隔は崩れなかった。
海沿いの直線に出た。
右側に海。
左側に石垣。
風が正面から来る。
遥香が手を上げた。
「ここから、通しです」
結の声が後ろから飛ぶ。
「右、詰めん!」
陽の手が動く。
花が半拍待つ。
芽衣が空ける。
渚が入る。
凪は風の当たり方で、次のカーブを拾った。
海側から風が押している。
列は、次の坂の手前で左へ膨らむ。
凪の歩幅が落ちた。
坂の手前。
ここで緩める。
渚は、坂の中腹で待った。
芽衣が通れる幅は残った。
花も止まらなかった。
結の声も届いた。
でも、列の前だけが詰まった。
凪の足元にできた空きと、渚が残した空きが、半歩ずれている。
花の靴が鳴った。
芽衣の肩が揺れる。
遥香の指が、時計を止めた。
「もう一回」
坂の上で、遥香が時計を戻した。
誰も息を整えきれない。
白い息が、七つ重なった。
もう一度、同じ坂。
陽の手。
結の声。
花の半拍。
芽衣の一歩。
渚の待つ場所。
さっきより、近い。
でも、また半歩ずれた。
凪は坂の手前で止まりたかった。
渚は坂の途中で残った。
どちらも、列を壊してはいない。
遥香のペンが、紙の上で止まった。
白い余白の上で、インクだけが濃くなった。
遥香が時計を下ろした。
「続けます」
花が息を吐いた。
「まだ行ける」
「行けるけど、脚は嫌がっとる」
結の声がかすれる。
渚は坂の下へ戻りかけて、凪の横で止まった。
「どこ?」
短い声だった。
凪は坂の手前を靴先で示した。
「ここ」
渚の靴が、坂の中腹へ向く。
「私は、あそこ」
「うん」
二人の間を、冬の風が抜けた。
芽衣が膝に手をついた。
はじめて顔を上げる。
「もう一回、できます」
花が笑った。
「芽衣はそう来るよね」
遥香が時計を押した。
三本目。
坂の手前で、凪の歩幅が落ちる。
坂の中腹で、渚の足が残る。
芽衣がその間を通る。
列は詰まった。
でも、止まらなかった。
港へ戻る頃には、結の声が細くなっていた。
「戻った」
前にも、同じ言葉を出した。
でも、今日は手すりに掴まらなかった。
膝にも手をつかなかった。
花が隣で息を整える。
「前より戻っとる」
「戻るにも種類があるんじゃね」
結がマフラーを直した。
芽衣は港の端まで歩いて、海の方へ向いた。
渚はその横に並ぶ。
「待った?」
芽衣の声が、風に混じった。
「待った」
「ありがとう」
「でも、ずれた」
「うん」
芽衣は靴の先で、港の白線をなぞった。
「次、合わせます」
「うん」
凪は輪の外で、靴底についた砂を落とした。
坂の手前の砂。
坂の途中の砂。
同じ島の砂が、別々の場所からついていた。
三原へ戻るフェリーの中で、渚はずっと売店の棚を気にしていた。
「ポーバ、港ですか」
「商店街の向こうです」
遥香の声に、渚の返事が早い。
「はい」
「今日一番いい返事じゃね」
結が座席に沈んだ。
三原港へ戻ると、空が早く暗くなっていた。
駅の方の灯りが、冬の道に並んでいる。
ポーバの店の入口に、冬限定の札が出ていた。
【冬限定】
まつきのこの芳醇ポタージュチャイ
世羅茶の焼き栗マロンラテ
結が札の前で止まった。
「ポタージュで、チャイ?」
陽の指が、上の方を差した。
「これ」
芽衣も同じ札へ指を伸ばした。
「うちも、これで」
結の顔が二人の間を行き来した。
「そっち側なん?」
「香りが気になります」
芽衣はメニューから目を離さなかった。
陽は頷いた。
「きのこ」
「二人おると強いね」
花は下の札を選んだ。
「うちは栗。絶対こっち」
「私も栗にします」
遥香が財布を出す。
凪も同じものにした。
渚はメニューの端を指で追っている。
「飲み物以外は」
「ポーバです」
「固形は」
「今日は飲み物です」
渚の肩が落ちた。
湯気の立つカップが七つ、テーブルに並んだ。
陽のカップから、濃い香りが立つ。
芽衣のカップからも、同じ香りが上がった。
結が顔を近づけて、すぐ離れる。
「冬じゃね」
「便利な感想」
花が栗のラテを両手で包んだ。
「こっちは普通にうまい」
「普通に、は余計です」
遥香がカップを両手で持つ。
凪のカップから、焼き栗の匂いと世羅茶の香りが上がった。
窓ガラスに、七人分の湯気が白く映っている。
渚はチャイを一口もらって、眉を寄せた。
「飲むご飯」
陽が頷いた。
「近い」
芽衣もカップを下ろした。
「走った後なら、好きです」
「芽衣、そっちなんじゃね」
結がカップを抱えた。
外の道を、人が肩を丸めて通っていく。
港の方から、また風が来た。
遥香は予定表の端に、チェックを入れた。
【佐木島】
前回と同じ道
ペン先が、紙の上で止まる。
その下に、新しい行が増えた。
同じ道。
違う足。
凪はカップを両手で包んだ。
同じ島だった。
同じ坂だった。
同じ港へ戻った。
でも、戻ってきた足は、前と同じではなかった。
窓の外で、冬の港が暗くなっていく。
海は、まだ冷たい。
凪の靴底には、坂の手前の砂が残っていた。
渚の靴底には、坂の途中の砂が残っていた。




