第57話 待つ、場所
十一月になると、体育館の青い線は、さらに増えた。
床の端に、貼り直した跡が残っている。
丸は歪んでいた。
ゴールゾーンの角だけ、テープが新しい。
海は、まだ遠い。
練習の終わりに、遥香がホワイトボードの前に立った。
【日曜】
休み
結の手が上がった。
「ほんまの休み?」
「はい」
花が横から顔を出した。
「浮城まつりじゃけ、休みにしよって言っといた」
結が花に抱きついた。
「さすが花、祭りの日の花は天使じゃ」
「祭りの日だけなん?」
「あー、三原は毎日祭りみたいなもんじゃろ」
花が息を吐いた。
渚の顔が花へ向いた。
「屋台ありますか」
「ある」
「行きます」
「早い」
結が椅子にもたれた。
「七人で動くんじゃけ、はぐれんようにね」
遥香は予定表を折り畳んだ。
「集合時間だけ決めておきます」
「休みなのに、きっちりしとる」
「はぐれると困るので」
凪はホワイトボードを見ていた。
去年も、この時期に同じ祭りへ行った。
そのときの予定は、澪の字だった。
今日は、遥香の字だった。
窓の外で、風が鳴った。
青いテープの端が、床から浮いていた。
日曜の夕方。
三原駅の前は、人で埋まっていた。
屋台の明かりが、道の両側に並んでいる。
揚げ物の匂い。
ソースの匂い。
甘い砂糖の匂い。
城跡の方へ、人の流れが続いていた。
提灯が揺れている。
石垣が、人の頭の上で薄く照らされていた。
赤い紙の中で、灯りが揺れている。
陽の首が上がった。
「浮いとる」
それだけで、陽は列に戻った。
結が鞄を前に抱えた。
「七人で行くよ」
遥香は紙を開いた。
「まず城跡まで行って、戻りながら食べます」
渚の眉が動いた。
「行きながら食べたい」
「混みます」
「食べれる」
「七人だと無理です」
結が渚の袖を掴んだ。
「一人で行かんの」
渚は結の手を一拍置いてから頷いた。
「はい」
人の流れが前へ動いた。
左の屋台の前。
焼きそばを待つ列と、通り抜ける人の間に、細い隙間ができる。
渚はそこへ入った。
すっと抜ける。
肩も当たらない。
「はしまき、あっちの方が早そう」
声だけが先に行った。
凪が一拍遅れて進む頃には、渚はもう向こう側にいた。
でも、その隙間はもうなかった。
人が流れ込み、屋台の列が伸びている。
「渚ー」
結の声が飛ぶ。
「消えた!」
渚が振り返った。
「何が?」
「道!」
人の背中。
提灯。
紙袋を持った手。
さっき通った場所には、もう別の人が立っていた。
花が笑った。
「渚だけワープしとる」
「歩いただけです」
「歩いただけで置いていかれとるんよ」
渚は戻ってきた。
戻るのも早かった。
次は、はしまきの屋台の横だった。
列の後ろに、人が抜ける隙間ができる。
「今なら買える」
渚が先に入った。
また、人の流れが変わった。
後ろから来た家族連れが、空いた場所に入る。
芽衣の前で列が切れた。
芽衣の足が止まる。
進もうとした肩が、人の流れに押されて戻った。
「芽衣」
花の手が伸びた。
芽衣は頷いた。
「大丈夫です」
でも、前へ進めない。
止まる。
進む。
また止まる。
人の流れが、芽衣の前を横に流れていく。
渚は列の前の方で、はしまきの鉄板に顔を向けていた。
ソースが塗られていく。
青のりがかかる。
「渚、後ろ」
凪の声に、渚の肩が動いた。
芽衣がまだ列の外にいた。
「芽衣、こっち」
「行きたい」
芽衣の指が、袖の端を握った。
前へ出ようとして、また止まる。
渚は、自分の足元へ目を落とした。
空いていた場所は、もう別の人で埋まっている。
「空いとった」
結が芽衣の横に並んだ。
「今は空いとらんね」
結は芽衣の前に半歩体を入れた。
芽衣は結の横を通った。
ようやく列の内側に入る。
はしまきが、鉄板の上で転がった。
城跡へ向かう階段は、さらに混んでいた。
上から降りてくる人。
下から上がる人。
写真を撮る人。
屋台の袋を持って立ち止まる人。
流れが、何度も切れた。
渚はそれでも、すぐに空きを拾った。
石段の右端。
手すりの横。
子どもがしゃがんだあとにできた空き。
大人二人の肩の間。
足が迷わない。
「たこ天、あっち」
渚の声が上から落ちてきた。
凪はその背中を追った。
海にいるときの渚と似ていた。
空いた場所へ入る。
後ろの流れは、すぐ閉じる。
「渚!」
結の声が、階段の下から上がってきた。
渚が止まった。
花と陽はついてきている。
凪もいる。
でも、芽衣と結と遥香が下に残っていた。
芽衣が、人の流れに押されながら上がってくる。
止まりたくないのに、止められている。
渚の手が、はしまきの包みを握った。
「芽衣、こっち」
「うん」
芽衣は上がろうとした。
横から降りてきた人の肩が前を塞ぐ。
芽衣の足が止まる。
その後ろで、遥香が一段ずつ上がっていた。
「大丈夫です」
遥香の声は落ち着いていた。
芽衣は、前だけを向いている。
止まった足だけが、石段の上に残っていた。
渚は、自分が通った場所へ顔を戻した。
そこには、もう別の人が立っている。
たこ天の屋台の前に、列が伸びていた。
渚は、包みを強く握り直した。
城跡の上は、明かりが多かった。
石垣の影が、足元に伸びている。
下には三原の駅前が広がっていた。
屋台の列が、細い光の線になっている。
花が手すりに肘を置いた。
「去年より、人多い気がする」
「七人じゃけ、多く感じるんかもね」
結がはしまきを齧った。
凪は城跡の端に立った。
去年より、足音が多い。
凪は屋台の明かりへ顔を戻した。
渚は、下の道を追っていた。
人の流れは、上からだと分かりやすい。
止まる場所。
詰まる場所。
すっと流れる場所。
隣で、芽衣ははしまきを持ったまま口をつけなかった。
「食べんの?」
渚が首を傾げた。
「今食べると、置いていかれそうで」
芽衣は、はしまきの包みを持ち直した。
まだ口をつけない。
渚は、下の人混みへ顔を戻した。
風が提灯を揺らした。
赤い光が、人の頭の上で流れた。
城跡の下から、太鼓の音が上がってきた。
下へ戻る頃には、道はもっと混んでいた。
城跡前の広場から、駅の方へ人が流れている。
反対側からも人が来る。
屋台の列が伸びて、歩く道が狭くなっていた。
花が前に出た。
「まとまって行くよ」
「花も前出るじゃん」
結が即座に被せた。
「うちは待てる」
「今はね」
「今は待てる」
人の流れが一度詰まった。
渚は、左側に空きを見つけた。
屋台の列と列の間。
人が一人だけ通れる隙間。
そこを抜ければ、駅の方へ出られる。
足が出た。
いつもなら、そこへ入る。
渚の肩が、人の流れの手前で止まった。
後ろで、芽衣の足音が遅れている。
振り返る。
芽衣が、人波に押されていた。
前へ出ようとして、横から来た人に遮られる。
また、止まる。
渚は、空いた隙間へ一歩だけ入った。
でも、抜けきらなかった。
体の半分を、人の流れの中に残す。
肩を横へ向ける。
屋台の列から来る人が、渚の前で止まった。
小さな空きが残った。
「芽衣」
大きな声ではなかった。
芽衣の顔が上がった。
渚は動かなかった。
空いた場所に、体を半分置いたまま待つ。
人の流れが、そこで割れた。
芽衣が通った。
肩が触れそうになって、すぐ横を抜ける。
渚の隣に来る。
「行けた」
「うん」
結が後ろから来た。
口が開きかけて、閉じた。
花も見ていた。
すぐに前を向いた。
渚は、もう一度だけ後ろを確かめた。
自分がいた隙間は、もう人で埋まっていた。
でも、芽衣は隣にいた。
駅前まで戻ると、風が冷たくなっていた。
屋台の明かりはまだ消えていない。
遠くで太鼓の音が鳴っている。
人の声が、駅の壁に跳ね返っていた。
花が振り返った。
「なんか食べ足りん」
「花も?」
渚の顔が上がる。
「渚は最初から足りとらんじゃろ」
「うん」
「認めるんじゃね」
遥香が時計を確認した。
「電車まで、時間あります」
「じゃあ一個だけ」
花が屋台の方へ向いた。
「一個って言いながら増えるやつじゃん」
結が鞄を持ち直した。
芽衣は渚の横に並んだ。
「渚」
「なに」
「さっき、待ってくれたよね」
渚は、手に持ったはしまきの包みを確かめた。
「そうだった?」
「うん」
「じゃあ、よかった」
芽衣は口元を緩めた。
「ありがとう」
渚は頷いた。
「次、何食べる?」
「そこに戻るんだ」
「うん」
結が二人の後ろで笑った。
「渚は渚じゃね」
花が屋台の列へ向かう。
芽衣はその後ろを歩く。
渚は一歩だけ横にずれた。
人が通れる隙間が、そこに残った。
凪は足を止めた。
祭りの音が、夜の駅前に広がっている。
海の音は、ここにはなかった。
渚が一歩ずれた場所だけ、人の流れが細く割れていた。




