第56話 風の日の、1ページ
体育館の床に、青い線が残っていた。
もう、誰も迷って踏まない。
花は線の手前で止まる。
半拍。
それから前へ出る。
芽衣は花の真後ろに入らない。
一歩空ける。
空いた場所へ、渚が入る。
「そこ」
結の声が体育館の端から届いた。
渚の足が止まる。
陽の手が動く。
凪が先に、青い丸の手前へ入る。
靴の音が、床に続いた。
海には、まだ戻っていなかった。
練習前に港へ行くことも減った。
風の強い日は、最初から体育館に集まる。
青い養生テープは端がめくれて、何度も貼り直された跡がある。
結はその端を足で押さえた。
「ここ、また浮いとる」
遥香が新しいテープを出した。
「貼り直します」
「もう常設みたいになっとるね」
「はい」
「はいなんじゃ」
花がゴールゾーンの四角から戻ってきた。
額に汗がある。
「次、速くしてもええ?」
「少しだけです」
「その少しだけ、むずいんよ」
「練習です」
花は息を吐いた。
「それ、最近よう言うね」
遥香は答えず、床の中央へ移動した。
陽がサイン表を持っている。
結の文字と、凪の文字と、陽の小さい字が増えていた。
曲がる前。
流れる前。
先に見る。
聞く。
紙の端は、前よりさらに折れている。
「もう一回、同じ形で」
遥香が中央の丸を指した。
「今度は、潮核を動かします」
渚が顔を上げた。
「誰が動かすんですか」
「私が」
遥香はオレンジ色の小さなコーンを持った。
テープの丸の上に置く。
「ここから、右へ流します」
凪の足が止まった。
右へ流れる。
言われた瞬間に、分かっている。
陽の手が動いた。
花が半拍待つ。
芽衣が空ける。
渚が横へ入る。
形は通った。
オレンジのコーンが、遥香の手で右へ動く。
凪はその先へ入る。
遅れなかった。
崩れなかった。
でも、違った。
遥香が手を下げた。
「止めます」
結の手も下がった。
「今の、通ったじゃん」
花が青い線の上で振り返る。
「うん。通った」
渚はオレンジのコーンを見ていた。
「でも、決まっています」
結の手が、途中で止まった。
花が青い線の上から動かなかった。
陽の指が、サイン表の端に触れた。
凪は、コーンの横にしゃがんだ。
潮核ではない。
誰かが動かす。
右へ流れると決まっている。
速さも、深さも、途中で変わらない。
床の上では、線が残る。
動きも残る。
合図も届く。
「本番では、誰も動かしてくれません」
遥香の手の中で、オレンジのコーンが少し下がった。
結は口を開きかけて、閉じた。
花が青いテープを見下ろした。
「床じゃ、潮は作れんね」
陽が小さく頷いた。
「鳴らない」
「さっき鳴るって言ったじゃん」
「床は鳴る」
陽は、コーンを指した。
「水がない」
凪は立ち上がった。
体育館は乾いている。
靴の裏は滑らない。
声も届く。
オレンジのコーンは、右へ動いても、水を押さなかった。
凪は自分の鞄へ戻った。
潮況ノートを取り出す。
澪の字。
自分の字。
日付の並んだページ。
何度も開いた場所は、紙の端が柔らかくなっている。
凪の指が、その先で止まった。
五月。
佐木島沖。
強風。
水面視界、不良。
澪の字で、短く書かれている。
その下に、凪の字があった。
風、三十秒。
切り替わり直後、安定。
その横に、あとから足された線。
渚、同時。
芽衣、止まらない。
遥香、最後。
凪の指が、そのページの端で止まった。
紙の上では短い。
でも、そこにあった海は、短くなかった。
風が顔に当たった。
波が来た。
水が濁って、陽の手が見えなかった。
声は持っていかれた。
それでも、動いた。
渚が同時に動いた。
芽衣が波の中で止まらなかった。
遥香の指が、最後に水へ入った。
澪の字の横に、凪の字がある。
凪の字の下に、七人の名前があった。
陽が隣に来た。
何も言わず、同じページを見た。
陽の指が、三十秒の文字で止まる。
「風」
「うん」
「聞いた」
陽はそれだけ言って、指を離した。
結も後ろから覗き込んだ。
「佐木島じゃん」
花の足音が近づく。
「それ、いつの?」
「五月」
渚の顔が上がった。
「風の日ですか」
凪は頷いた。
芽衣が半歩だけ前に出た。
ノートの端を見る。
自分の名前のところで、目が止まった。
芽衣、止まらない。
芽衣の指が、膝の横で握られた。
「これ、うちの字じゃないです」
「うちじゃない?」
結が顔を寄せる。
「たぶん、うち」
「いつ書いたんですか」
「覚えとらん」
「覚えてないんですか」
「勝ったあとじゃけ、たぶん何か書いたんじゃろ」
結の声は軽かった。
でも、ノートの文字から目を離さなかった。
遥香はホワイトボードの前に立っていた。
何も書いていない白い板。
その下に、青いテープの予備。
その横に、体育館使用許可の紙。
遥香はマーカーを持った。
【冬】
そこまで書いて、止まる。
花がボードを見た。
「冬?」
「はい」
遥香は続きを書いた。
【冬】
陸で通す
海で読む
来年五月 佐木島
結の口元が動いた。
「五月って、まだ遠いじゃろ」
「はい」
「まだ、十月じゃけど」
「はい」
遥香はボードを見たまま頷いた。
「だから、分けます」
マーカーの先が、ボードの下へ動く。
【陸】
合図
位置
声
【海】
潮
風
変わる場所
花は腕を組んだ。
「うちらは陸でやれるやつ、やる」
「はい」
「凪は海に戻ったら、読む」
遥香の手が止まった。
凪も、ノートから顔を上げた。
花は青い線の方へ戻った。
「でも、それまで何もせんってことじゃないじゃろ」
「はい」
遥香は、もう一行書いた。
【陸で、読む前を作る】
結が首を傾げた。
「難しいこと書いた」
「難しいです」
「それ、自分で言うんじゃ」
遥香はマーカーのキャップを閉めた。
「でも、今はこれです」
体育館の窓が鳴った。
外の風が、ガラスを軽く叩いている。
海の音は、ここまでは届かない。
凪は五月のページを見下ろした。
澪の字。
凪の字。
結の字。
同じページに、違う字が並んでいる。
その下に、まだ余白があった。
凪はペンを取った。
五月のページの下に、細い線を引く。
遥香がボードの前から、こちらを見た。
凪は線の下に、日付だけを書いた。
十月。
その横は、空けた。
潮況も、風も、泡も、まだ書かない。
まだ、海に入っていないから。
陽がサイン表を畳んだ。
花が青い線の上に立つ。
芽衣が一歩空ける。
渚が横に入る。
結が体育館の端へ戻る。
遥香が手を上げた。
「もう一度、通します」
結がすぐに反応した。
「今日はここまでじゃなかったん?」
「もう一度だけです」
「あー、出た」
花が笑った。
「一回だけならええよ」
「花が言うと信用できん」
「ほんまに一回」
「それも信用できん」
陽の手が動いた。
花の足が出かける。
止まる。
半拍。
芽衣が空ける。
渚が横を見る。
凪は、オレンジのコーンではなく、その手前の青い線を見た。
ここに潮はない。
でも、読む前の場所は作れる。
靴の音が続いた。
体育館の床で、青い線が少しだけ浮いた。
結の声が届く。
届きすぎるくらいに、届く。
花がゴールゾーンのテープを踏んだ。
ブザーはない。
光もない。
遥香の手が下がった。
ボードには、五月の文字が残っている。
ノートには、十月の横が空いている。
凪はその空白を閉じた。
海はまだ遠い。
でも、遠さに日付がついた。




