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潮球  作者: カミツキ
七人の海

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第55話 陸の、潮

十月に入ると、海の色が濃くなった。


 夏の青ではない。

 灰色が混じった、重い色だった。


 三原港の練習区画では、浮標のロープが鳴っていた。

 風が水面を斜めに押している。

 白い波が、岸壁の角に当たって砕けた。


 花はゴーグルを手にしたまま、海を見ていた。


「入れんの?」


 遥香は時計を出さなかった。

 笛も首にかけていない。


「今日は入りません」


「潮球部じゃろ」


「はい」


「海に入らんで何するん」


 渚が水際まで行った。

 靴の先に、波しぶきが飛ぶ。


「今日の水、重そうです」


「寒そう、じゃなくて?」


「重そうです」


「じゃあ入らんでええじゃろ」


 結が渚の鞄を掴んだ。


「でも、入らんと潮球じゃないです」


「渚が真面目なこと言っとるの、こわい」


 渚は水面を見たまま首を傾げた。


「真面目です」


 風がまた来た。

 浮標が一つ、いつもの位置から大きく外れた。


 凪は水面を追った。


 泡は読める。

 でも、入る海ではなかった。


 陽は岸壁にしゃがんで、水に手を伸ばしかけて止めた。

 指先は濡れていない。


 遥香が鞄から紙を出した。


 陸で確認

 サイン表

 位置


 結の口が開いた。


「陸上?」


「はい」


「床で潮球するん?」


「します」


 花が振り返った。


「ほんまに言っとるん?」


「はい」


 遥香は紙を折り直した。


「秋になったら、海に入れない日が増えます」


 結の肩が止まった。


「それ、前にうちが言ったやつじゃん」


「はい」


「もうそんな時期なんじゃね」


 遥香は部室の方へ歩き出した。


「体育館を借りています」


 花はゴーグルを鞄へ戻した。


「準備ええじゃん」


「昨日、申請しました」


「いつの間に」


「船の中です」


 結の目が細くなる。


「休みの日の帰りに?」


「はい」


「やっぱり休めてなかったじゃん」


「ノートは出していません」


「申請はしとるじゃん」


 遥香は足を止めなかった。

 港の風が、七人の背中を押した。



体育館の床は乾いていた。


 窓の上の方から、風の音だけが入ってくる。

 海の匂いは薄い。

 代わりに、ワックスと古いボールの匂いがした。


 遥香が青い養生テープを出した。


 床に一本、線を貼る。

 もう一本。

 その横に、四つの丸。


 花がしゃがんだ。


「これ、潮核?」


「はい」


「薄い」


「テープなので」


 渚が丸の中に足を置いた。


「踏めます」


「踏まんで」


 結が丸から渚をどかした。


 遥香は体育館の端に、ゴールゾーンの四角を作った。

 その反対側にも四角。

 中央に浮標の代わりになる小さな三角。


 芽衣は貼られていく線を、最初から最後まで追っていた。

 陽は鞄から、折れたサイン表を出した。


 紙の端が何度も折られている。

 矢印。

 丸。

 曲がった線。

 短い記号。


 花がそれを覗き込んだ。


「やっぱり変じゃね」


 陽の指が、紙の真ん中で止まる。


「いい」


「いや、良くないじゃろ」


 結も紙に顔を寄せた。


「うちは半分くらい分かる」


「半分なんじゃ」


「半分分かればすごい方じゃろ」


 遥香は床の線の横に立った。


「一度、通します。歩きで」


 花の顔が歪んだ。


「歩き?」


「はい」


「遅くない?」


「遅くします」


 遥香は、中央の丸を指した。


「花さんが先頭。凪さんと陽さんは見る側。結さんは水面役。芽衣さんは花さんの後ろ。渚さんは空いた位置へ」


「床で水面役か。かなり乾いとる」


 結は体育館の端へ移動した。


「遥香ー、干潮で流れもないよー」


「真面目にお願いします」


「はいはい」


 凪は青い線の内側へ入った。

 靴の裏が、床を鳴らす。


 水はない。

 冷たさもない。

 息も楽だった。


 なのに、どこへ立てばいいのか分かりにくかった。


 遥香が手を上げた。


「始めます」


 陽の手が動いた。


 花が先に出た。


「早い!」


 結の声が体育館に響いた。


「聞こえとる!」


 花の足が止まる。


 芽衣がその真後ろに入った。

 近い。


「芽衣、近い!」


「はい」


「返事より下がる!」


 芽衣が一歩下がる。

 そこへ渚が入ろうとして、青い線を踏んだ。


「渚、そこ違う!」


「はい」


「はいじゃなくて戻る!」


 渚が戻る。

 花も戻る。

 芽衣も戻る。


 陽の手は、もう下がっていた。


 凪は何もできないまま、床の丸を見ていた。


 遥香の手が下がった。


「止めます」


 結が体育館の端で息を吐いた。


「これ、水なくても崩れるんじゃね」


「分かりやすくなりました」


 遥香はノートに何かを書いた。


 花が腕を組む。


「分かりやすく崩れたね」


「はい」


「嬉しくない」


 陽はサイン表を持ったまま、青い線の上に立っていた。


 凪はその横へ行った。


 紙の矢印は、床の線と合っていない。

 でも、ずれているのではなかった。


 置く場所が違う。


 陽の指が、曲がった矢印の手前で止まった。


「ここ」


 結が近づく。


「ここ、どこ」


 陽の指は動かなかった。


「前」


「前だけじゃ分からん」


 花の声が床に落ちた。


 凪は、青いテープの曲がり角を見た。


「曲がる前」


 陽が頷いた。


「前」


 結がマーカーを取った。

 サイン表の横に、大きく書いた。


 曲がる前。


「これで一個分かった」


 花が腕を組んだまま、紙を見下ろした。


「これ、陽はずっと分かっとったん?」


 陽は答えなかった。

 紙の別の矢印を指した。


「こっち」


「次行くんじゃね」


 結がマーカーを構え直した。


 凪は陽の指を追った。

 今度の矢印は、丸のあとに伸びている。


「潮核が流れたあとじゃなくて、流れる前に入る場所」


 陽が頷いた。


「前」


「前多いね」


「前」


 結が紙に書いた。


 流れる前。


 花が両手を腰に当てた。


「全部、前じゃん」


「陽ちゃん、先に見とるけんね」


 結の声が軽くなった。


「じゃけ、うちらには早すぎたんよ」


 陽の指が止まった。


 凪はサイン表を見ていた。


 陽の矢印は、青い線より少し手前にあった。

 曲がる場所ではなく、曲がる前。

 流れる場所ではなく、流れる前。


 橋の上で見た白い筋。

 水の中で消えた泡。


 同じもののはずなのに、床の上では違う形になっていた。


 凪はマーカーを取った。


 紙の端に、一行足した。


 先に見る。


 陽がその字を見た。

 それから、小さく頷いた。


 花が床の線へ戻った。


「もう一回」


 遥香は時計を見た。


「歩きで」


「分かっとる」


 花は一度、息を吐いた。


 陽の手が動く。


 花の足が出かけた。


 止まった。


 半拍。


 それから、前へ出た。


 結の手が体育館の端で上がる。


「今の」


 花は振り返らなかった。


「分かっとる」


「ほんまに?」


「たぶん」


「たぶんなんじゃ」


 芽衣は花の真後ろに入らなかった。

 一歩空ける。

 空いたところを、渚が横から通った。


 渚の足が、青い線の内側に入る。


「ここですか」


「そこ!」


 結の指が伸びる。


 遥香の手が下がらない。

 通しは続く。


 凪は床の丸から、次の線へ移った。

 水はない。

 潮核もない。


 でも、誰がどこを見るのかは分かる。


 陽が次のサインを出した。

 凪が先に動く。

 花が半拍待つ。

 芽衣が詰めない。

 渚が空いたところへ入る。


 最後に、花の足がゴールゾーンのテープを踏んだ。


 靴の音が一つ鳴った。


 赤い光はない。

 ブザーもない。


 結だけが、両手を上げかけて止めた。


「今の、入ったことにする?」


「しません」


 遥香の返事が早い。


「厳しい」


「水がないので」


 渚が青い線の上に立っていた。


「水がないと、変です」


 体育館に、靴音の残りだけがあった。


 花が渚の方を向いた。


「変でも、今の場所は合っとったじゃろ」


「はい」


「じゃあ覚えとき」


「水の中だと変わります」


「それも覚えとき」


 渚は頷いた。


 陽はサイン表を畳まなかった。

 床に置いて、結が書いた文字をもう一度なぞる。


 曲がる前。

 流れる前。

 先に見る。


 結がしゃがむ。


「陽ちゃんの字も書く?」


 陽はマーカーを受け取った。


 紙の端に、小さく書いた。


 聞く。


 花がそれを覗き込む。


「読むじゃなくて?」


 陽は首を横に振った。


「聞く」


「床でも?」


 陽は体育館の床に手を当てた。


「鳴る」


 結が笑いかけて、やめた。


 床の向こうで、ボールの音が一度だけ響いた。


 遥香が手を叩いた。


「もう一度、同じ形で。今度は少し速くします」


 花の顔が上がる。


「走ってええん?」


「少しだけです」


「少しだけ走るの難しいんよ」


「練習です」


 結が立ち上がった。


「今度はうちも水面っぽく動く」


「水面っぽくって何」


「知らん。やってみる」


 通しが始まった。


 歩きより速い。

 走るより遅い。


 花の足が先に出る。

 でも、陽の手を見る。

 半拍待つ。


 芽衣が距離を取る。

 空いた場所へ、渚が入る。

 凪は丸の手前で止まる。

 陽の指が曲がる前を示す。


 結の声が、体育館の端から飛ぶ。


「花、半拍!」


「やっとる!」


「芽衣、空けて!」


「はい!」


「渚、そこ!」


「はい!」


 声が全部届く。

 水の中ではないから。


 届きすぎて、変だった。


 でも、通った。


 花がゴールゾーンのテープを踏む。

 芽衣がその斜め後ろにいる。

 渚は横。

 凪は手前。

 陽は中央の線から動いていない。


 結の指が、まだ伸びている。

 遥香の笛は鳴らなかった。


 花が息を吐いた。


「床なら、いける」


 結の手が下りた。


「床ならね」


 渚が青いテープを見下ろす。


「海なら、足が滑ります」


「滑るんじゃなくて抜けるんじゃろ」


 花が青いテープを足先で軽く押した。


「そうです」


 凪は、青いテープの曲がり角を見た。


 床では、線が残る。

 海では、残らない。


 遥香はノートを閉じた。


「今日はここまでです」


 花の眉が上がる。


「もう一回やらんの?」


「やりません」


 結が遥香の方へ向いた。


「鬼トレせんのえらい!」


「練習なので」


「あー、今だけね」


 遥香は青いテープの端を見た。


「剥がしますか」


 陽の手が止まった。


「まだ」


 結も床を見る。


「明日も使う?」


「はい」


 遥香はテープの端から手を離した。


「残します」


 体育館の床に、青い線が残った。


 部室に戻ると、窓が鳴っていた。


 港の方から風が来ている。

 海は見えない。

 でも、匂いだけが薄く入ってきた。


 遥香はホワイトボードに新しい文字を書いた。


【秋】

 走る。

 泳ぐ。

 漕ぐ。

 合図。

 位置。

 声。


 結が後ろから覗いた。


「増えたね」


「増えました」


「部活っぽい」


「部活です」


 花が椅子に座った。


「床でやっても、腹減るね」


「花さんもですか」


 渚の顔が上がる。


「花さんも、って何」


「うちも減りました」


「渚はいつもじゃろ」


 花が荷物をまとめた。


「帰り来々軒いこ」


 凪が鞄を肩にかけた。


「みんな入れるかな」


 渚が手を挙げた。


「石庭に行きたいです」


 花は口を曲げた。


「石庭か。行くか」


「ごはん大にします」


「言わんでも毎回大にしよるじゃん」


 芽衣はサイン表を見ていた。

 結の文字と、陽の文字が並んでいる。


 曲がる前。

 流れる前。

 先に見る。

 聞く。


 凪は潮況ノートを開いた。


 澪の字の下。

 自分の字の下。


 新しい行を探す。


 今日の海には入っていない。

 泡もない。

 水温もない。

 でも、残すものはあった。


 凪は一行書いた。


 海に入ったら、変わる。


 ペン先が止まる。


 もう一行は、書かなかった。


 体育館の床には、青いテープが残っていた。

 窓の外で、風がまだ鳴っていた。


 海は、今日は遠かった。

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