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潮球  作者: カミツキ
七人の海

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第54話 上から見る、青い線

ホワイトボードに、バイクの文字が残っていた。


 消されていない。

 隅に、折れた紙が一枚貼られている。


 結は椅子に座る前に止まった。


「遥香、佐木島シリーズはもう終わりにしよう」


 遥香は、紙の端を押さえた。


「今回は、佐木島ではありません」


「島変えたらええわけじゃないんよ」


「尾道で自転車を借ります」


 結の眉が動いた。


「え?」


「そのあと、生口島で返します。帰りは船です」


「帰りが船なら」


 花が紙に近づいた。


「尾道から生口島って、結構あるじゃろ」


「三十キロくらいです」


 結が息を吐いた。


「わからん。これがきついんか判断できんようになってきとる」


 陽が紙を見ていた。


「佐木島四周より、短い」


 結が椅子に座った。


「うん、じゃあ問題ないね。とはならんじゃろ」


「休憩を入れます」


「その休憩、ほんまに休憩?」


 結の声が低い。


 遥香は、もう一枚の紙を貼った。


【目的】

 長く動く。

 足を残す。

 海を見る。


 凪の目が、三行目で止まった。


 海を見る。


「走るためでも、泳ぐためでもありません」


 遥香の指が、三行目に触れた。


「上から見ます」


 陽の顔が、橋の写真へ向いた。


「上」


「はい」


「橋」


 陽は頷いた。


 結が鞄の紐を握った。


「坂あるよね」


「あります」


「長いやつ?」


「あります」


「先に言うの、えらいけど嫌」


 花は口元を曲げた。


「登りならええじゃろ」


「何が」


「気合で行ける」


「それ一番信用できんやつ」


 芽衣は紙の距離を読んでいた。

 渚は、休憩地点の文字だけを読んでいる。


「食べ歩きはありますか」


「食べ歩きではありません」


「休憩ですか」


「休憩です」


「じゃあ食べられます」


 花が渚の肩を押した。


「まだ始まっとらん」


 遥香は紙を揃えた。


「明日、三原駅から尾道へ向かいます」


 結がすぐに手を上げた。


「確認」


「はい」


「練習よね」


「はい」


「でも休憩入れるよね」


「入れます」


「帰りは船よね」


「船です」


 結は鞄を下ろした。


「じゃあ、まだ許す」


 窓の外を、自転車が一台通った。

 ベルの音が、部室の中まで入ってきた。


 遥香はホワイトボードのバイクの文字を消さなかった。



翌朝。


 三原駅のホームに、七人が並んでいた。


 朝の空気は冷たくない。

 でも、夏の朝とは違っていた。


 花はリュックの紐を短くしている。

 結は、自転車を押してホームへ上がってくる人たちを警戒している。

 渚は駅の売店の方へ顔を向けていた。


「まだ買わない」


「何も」


「顔が売店行っとる」


 渚の足が戻った。


 陽はスマホを伏せたまま持っている。

 芽衣は乗換案内の画面を開いていた。

 遥香も同じ画面を開いていた。


 凪はホームの端に立った。


 尾道へ行く電車が入ってくる。

 車体の横に、朝の光が流れた。


 電車が動き出すと、三原の町が後ろへ流れた。


 港が見える。

 練習区画が一瞬だけ窓の端に入った。

 すぐに建物に隠れる。


 花が窓の外へ顔を向けた。


「試合じゃない尾道、変な感じじゃね」


 凪の手が、膝の上で止まった。


 尾道水道。


 負けた海。

 また来ると決めた海。


 今日は、泳がない。


 尾道駅を出ると、すぐ海だった。


 朝の尾道水道は、明るかった。

 対岸の向島が近い。

 フェリーが何本も、短い距離を行き来している。


 結が海と道路の間で立ち止まった。


「相変わらず、近いね」


 花はレンタサイクルの方へ歩き出した。


「近いけど、今日は入らん」


「それはありがたい」


 自転車を借りると、ベルが二回鳴った。


 渚が鳴らした。

 花も鳴らした。

 結が二人を睨む。


「小学生なん」


「確認じゃけ」


「鳴ります」


「分かっとる」


 遥香は全員のサドルを確認した。

 芽衣のサドルだけ、少し下げる。


「乗ったことは?」


「あるよ」


「長い距離は?」


「さすがにないね」


「花さんの後ろに近づきすぎないでください」


 芽衣の返事が早かった。


「はい」


 花が振り返る。


「うち、そんな危なくないよ」


 結の目が細くなる。


「下りで絶対飛ばす」


「まだ飛ばしてない」


「まだ、が怖いんよ」


 青い線が、路面に引かれていた。


 陽の顔が下へ向いた。


「青」


「しまなみの線です」


 遥香の前輪が、線の上に乗った。


「今日は、この線を行きます」


 渡船乗り場へ向かった。


 自転車ごと、小さな船に乗る。

 甲板で、前輪が細く揺れた。


「また船」


 結の声が、潮風に混じった。


「今日はすぐ着きます」


「それも変」


 船が離れる。

 尾道駅の建物が後ろへ下がる。

 水道の流れが、船の横で斜めに割れた。


 凪は自転車のハンドルを握ったまま、海を見下ろした。


 試合の日は、水の中にいた。

 今日は、船の上にいる。


 向島が近づいた。


 向島に着くと、花が先に出た。


「行くよ」


 ペダルが回る。

 芽衣がすぐ後ろにつく。

 渚がその横から前へ出ようとする。


「渚、列」


「はい」


「芽衣、近い」


「はい」


 結の声が後ろから飛ぶ。


「返事よりブレーキ」


 芽衣の自転車が、花の後輪から離れた。


 青い線は、海沿いを進んでいた。

 民家の壁。

 畑。

 海の向こうの船。

 路地から出てきた軽トラックが、ゆっくり止まる。


 花が片手を上げる。


「ありがとうございます!」


 軽トラックの運転席から、手だけが上がった。


 渚は店先ののぼりに反応するたび、顔がそちらへ向いた。


「渚」


「はい」


「前」


「前に店が」


「道を見んさい」


 陽は、青い線から外れなかった。

 線の曲がりに合わせて、無言でハンドルを切る。


 凪はその後ろを走った。


 海は横にある。

 でも、いつもの港とは違う。

 自分が動くたび、海の角度も変わる。


 流れを読みに行くのではなく、流れの横を走っている。


 それが、まだ体に馴染まなかった。


 橋へ向かう道が上り始めた。


 結の声が消えた。


 坂は、まっすぐではない。

 大きく回りながら、少しずつ高度を上げていく。

 青い線も、何度も曲がる。


 花は前へ出た。

 立ち漕ぎになっている。


「花さん、飛ばさないでください」


 遥香の声が後ろから来る。


「登りは飛ばすとこじゃろ」


「違います」


「違うん?」


「違います」


 結はサドルに沈んでいた。


「登り、嫌い」


「知っとる」


 花が笑う。


「笑う余裕あるなら、荷物持って」


「無理」


 渚は息を吐きながらも、前の方にいる。

 腹が減ったとは、まだ言っていない。


 芽衣のペダルが重くなっていた。

 花との距離がまた詰まる。


「芽衣」


 花の声が前から落ちる。


「はい」


「近い」


 芽衣のブレーキが鳴った。


 自転車一台分、間が空く。


 凪はその後ろで、ペダルを踏んだ。

 足が重い。

 でも、地面はある。


 水の中みたいに、下が抜けない。


 踏めば、返ってくる。


 橋の入口が近づいた。


 因島大橋は、鉄の骨の中に道があった。


 上に車の音が走る。

 下に海がある。

 自転車のタイヤの音が、橋の中で細く響いた。


 陽の首が上を向いた。


「骨」


「橋ね」


「骨」


 結の声が、鉄の中で返ってきた。


「陽、好きそう」


 陽は頷いた。


 花は速度を落とさなかった。

 芽衣は距離を保っている。


 橋の隙間から、海が細く見えた。

 船が通る。

 白い筋が、橋の影に入って消える。


 凪はペダルを踏みながら、その白い筋を目で拾った。


 上からなのに、見えにくい。

 鉄の骨が、視界を何度も切る。


 橋を抜けると、下りだった。


 結の声が戻った。


「下り、好き」


 花が笑う。


「さっきまで死んどったのに」


「下りは生きる」


 花の自転車が前へ伸びる。


「花」


 結の声が低い。


 花の背中が止まる。

 ブレーキが鳴った。


「まだ何もしてない」


「今、しようとした」


「分かるん?」


「分かる」


 遥香の自転車が横へ並んだ。


「下りで足を使い切らないでください」


「下りで足使わんじゃろ」


「集中を使います」


 花の口が閉じた。


 結が勝った顔で頷く。


「いいこと言う」


「茶化さないでください」


「はい」


 下りの風が、髪を後ろへ流した。


 因島に入った。


 青い線が町の中を通る。

 港の匂いと、畑の匂いが混じる。

 自転車の人が何台も通った。


 陽の顔が、通りの奥へ向いた。


「ポーバ」


 結の手も、ブレーキにかかった。


「因島店」


 花が後ろを振り返る。


「行かんよ」


 結の手が、ブレーキから離れた。


「分かっとる」


 陽は、まだ通りの奥を向いている。


「メッカ」


「言わんで。余計行きたくなる」


 遥香が時計を確認した。


「寄ると、船の時間がずれます」


 結の口が曲がった。


「今日の遥香、正しいの腹立つ」


 陽はペダルに足を乗せ直した。


「次」


「次も練習じゃなかったらね」


 凪の顔が、通りの奥へ向いた。


「あそこ、陽と地区大会の時に行ったんだよね」


 結が前を向く。


「言わんで、来年の地区大会で絶対行く」


「ポーバが目的?」


「黙って」


 通りの端に、無人販売のかごがあった。

 中に、小さなみかんが入っている。


 陽の自転車が止まる。


「ある」


 花が後ろから覗いた。


「今日はあるね」


 陽は財布を出した。

 一つだけ買う。


 前かごの中で、黄色い実が転がった。


「食べんの?」


 渚が横から顔を出す。


「後で」


「後で食べるんですか」


「後で」


 渚の目が、みかんに残った。


「渚は自分で買いんさい」


「買います」


 結が自転車を押しながらため息をつく。


「休憩、短いよ」


「はい」


 渚は小銭を出した。


 次の橋へ向かう道は、また上りだった。


 結は最初から黙った。

 花は前へ出ない。

 芽衣は距離を保つ。

 遥香の自転車が列の後ろを何度も確認する。


 生口橋が、前に見えてきた。


 白い主塔。

 斜めに伸びるケーブル。

 空へ向かう線。


 橋に入ると、視界が開けた。


 下に、海があった。


 因島と生口島の間を、水が流れている。

 船の跡ではない白い筋が、海面にいくつも走っている。

 色の濃い場所。

 薄い場所。

 橋の影の手前で、筋が曲がる。


 凪のペダルが、同じ速さで回った。


 足は止まらない。


 でも、目だけが下へ残った。


 浮標二番の下。

 下が抜ける水。

 戻らなかった潮。


 上からだと、筋になっている。


 渚の自転車が横に並んだ。


「上からだと、流れ、見えますね」


 凪は答えなかった。


 風が強くなった。

 橋の上で、音が横から来る。


 渚は前を向き直した。


「でも、泳いだら分からないです」


「うん」


 凪の声は、風に混じった。


 海の筋は、橋の下で曲がっていた。

 その先で、また別の筋に重なる。


 ノートの矢印とは違う。

 でも、間違いではなかった。


 角度が違うだけだった。


 生口島側へ下り始める。


 遠くに、次の大きな橋が見えた。

 海の向こうへ、まだ道が続いている。


 陽の自転車が、その橋の方へ向いた。


「次」


「今日は行かんよ」


 結の声が戻る。


「次って言うな。足が先に諦める」


 下りで、結の自転車が芽衣の横へ並んだ。


 芽衣のペダルが重くなっている。

 足の動きが、さっきより遅い。


「先に行ってください」


 芽衣の声が息に混じる。


「下りまで待つ」


「下りです」


「次の下り」


「次?」


「うちの得意区間」


 芽衣の口元が動いた。

 笑いにはならない。

 でも、肩の力が抜けた。


 結は自分のペースで横にいた。


「花について行きすぎなんよ」


「はい」


「返事はええけえ、ペダル」


 芽衣の足が、また回った。


 前で、花が振り返る。


「芽衣!」


 結の声が先に飛んだ。


「呼ばんでええ! 来とる!」


 花は前を向いた。


 芽衣は、結の横で坂を下った。


 瀬戸田の港に着いた。


 自転車を返すと、足の裏が地面を探した。

 サドルから降りた渚が、両膝に手をつく。


「お腹減りました」


「ここで来たね」


 結もベンチに沈んだ。


「自転車は、走るよりええ」


 花が笑った。


「さっきまで文句ばっかりじゃったじゃん」


「下りがあるけん」


「海に下りはないよ」


「じゃけえ海は嫌なんよ」


 遥香は受付でもらった控えをノートに挟んだ。


 先週、船で来た港だった。

 同じベンチ。

 同じレモンの匂い。

 同じ海。


 でも今日は、七台分のタイヤの跡が、足の奥に残っていた。


 陽は前かごからみかんを取り出した。

 皮をむく。

 白い筋が、指に残る。


 渚の顔が近づく。


「一房」


 陽は一房渡した。


「ありがとうございます」


「自分のは?」


「食べました」


「早」


 結がベンチから顔だけ上げた。


「船まで、ほんまに休憩」


「はい」


 遥香は頷いた。


 花は港の方へ歩いて、海を覗き込んだ。


「上から見るの、変じゃったね」


 凪は、花の隣に立った。


「うん」


「海の中だと分からんのに、橋の上だと線みたいに見えた」


 花の手が、空中で一本の線を描いた。


「ずるいね」


「ずるい?」


「上から見たら分かるんじゃもん」


 凪は海面を追った。


 港の中の水は、橋の下より穏やかだった。

 でも、端の方で白い泡が流れている。


「でも、試合は中だから」


 花は唇を曲げた。


「じゃけえ、戻るんじゃろ」


 凪の顔が花へ向いた。


 花はもう港の方を見ていない。


「海に」


 それだけで、花はベンチへ戻った。


 帰りの船に乗った。


 自転車はない。

 足元が広い。


 結は座った瞬間、壁にもたれた。

 芽衣は膝の上に手を置いて、呼吸を整えている。

 渚はみかんの皮を小さく畳んでいた。

 陽はスマホを出さない。

 さっきまでハンドルを握っていた手が、膝の上で空いていた。


 船が離れる。


 瀬戸田の港が後ろへ下がる。

 橋の線が、遠くなる。


 遥香はノートを開いた。


【目的】

 長く動く。

 足を残す。

 海を見る。


 三行目に、小さな丸がついた。


 ペン先は、その下で止まる。


 計画通り。


 その言葉は書かなかった。


 ノートの端に、レンタサイクルの控えが挟まっている。

 紙の角が、風で一度だけ浮いた。


 凪は窓の近くに座った。


 船の下で、白い筋が流れる。

 橋の上で目に残った筋とは、角度が違う。


 それでも、同じ水だった。


 三原へ向かう船の波が、その筋を崩した。


 白い線は、すぐ海に戻った。

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