第53話 耕三寺の夕焼けレモンエスプレッソトニック
ホワイトボードに、また佐木島の文字があった。
その下に、一語だけ足されている。
バイク
結の手が、マーカーケースの上で止まった。
「待って」
遥香は、次の紙を持っている。
「佐木島でランとスイムを確認しました」
「待ってって」
「残りはバイクです」
「佐木島シリーズを完走せんで」
結の声が低くなった。
「ランとスイムはわかるけどバイクは関係ないじゃろ」
花が椅子の背に腕をかけた。
「うちら、潮球部じゃろ」
「はい」
「自転車部じゃないよね」
「はい」
渚がホワイトボードの前へ来た。
「自転車は、お腹減りますか」
「減るじゃろ」
花の返事は早かった。
「じゃあ大事です」
「渚は一回黙りんさい」
芽衣は、バイクの文字を読んでいた。
陽は、紙の端に描かれた小さな自転車の絵に指を置く。
「車輪」
「はい。長く動くための練習です」
遥香は、紙をもう一枚貼った。
【目的】
長く動く。
足を残す。
海を見る。
結が両手を机についた。
「休み」
遥香の手が止まる。
「練習をですか」
「休み」
「でも」
「休み」
結はホワイトボードを指した。
「佐木島で走って、泳いで、次は自転車。遥香、三種目そろえる必要はないじゃろ」
「必要です」
「必要でも、足は二本しかないんよ」
結の指が、順番に動く。
「花も、息上がっとった。凪も、最後の方は顔出すの遅かった。渚も、腹減った以外の声が減った」
「それはいつもです」
渚が小さく手を上げる。
「じゃけえ、なおさら」
遥香の手元で、紙の角が曲がった。
陽が、ホワイトボードの隅にあった古い磁石を直した。
白い丸い磁石だった。
結は息を吐いた。
「今週は、海も足も休ませる」
「休むと、体力は」
「壊れたら増えん」
校庭から、ボールの音。
廊下を走る靴の音。
窓の外で、自転車のベルが鳴った。
遥香は、持っていた紙を机に置いた。
「分かりました」
結の肩から力が抜けた。
「ほんまに? じゃあ……」
「週末は、生口島に行きます」
結の肩が戻った。
「島を変えれば良いんじゃないんよ」
「日帰りです」
「そこじゃない」
「レモン風呂があります」
「好き」
花の顔が上がった。
「風呂?」
「はい」
「部活で?」
「休息です」
結が額を押さえた。
「さっきのなし。休みまで部活にせんで」
「休むためです」
「言い方が部活なんよ」
陽がスマホを出した。
画面の明かりが、机の上に落ちる。
「生口島限定」
結の顔が、ゆっくり陽の方へ向いた。
「陽が乗った」
画面には、黄色と青の飲み物が映っていた。
「瀬戸田シャリっと凍結レモネード」
結が途中で眉を寄せる。
「名前から冷たい」
渚の顔が上がった。
「食べられるんですか」
「飲み物じゃろ」
花の指が画面へ伸びる。
「黄色い氷みたいなの、全部レモンなん?」
陽が頷いた。
「たぶん」
結がスマホを受け取った。
「青い必要ある?」
陽が頷いた。
「海」
「そこは頷くんじゃね」
陽の指が、別の画像へ滑った。
白い層。
透明な層。
上に、黒い層。
「耕三寺の夕焼けレモンエスプレッソトニック」
結がスマホから顔を離した。
「長い。もう一回はいい」
陽は画面を閉じない。
「下、白」
遥香の指が画面の下をなぞる。
「レモンシャーベットですね」
「上、黒」
花の眉が寄る。
「コーヒーとレモン?」
「炭酸もあります」
結が立ち上がった。
「飲み物でトライアスロンするのやめて」
渚が画面に顔を近づける。
「甘いんですか」
陽の指が、黒い層のところで止まった。
「混ざる」
「混ざるのがええん?」
陽は頷いた。
結がスマホを返した。
「陽が一番行く気じゃん」
遥香は机の上の紙をまとめた。
「では、週末は生口島です」
「休みよね」
「休みです」
「走らんよね」
「走りません」
「泳がんよね」
「泳ぎません」
「自転車は?」
遥香の手が止まった。
結が目を細める。
「遥香」
「乗りません」
「え、何今の、こわっ」
「乗りません」
花が鞄を肩にかけた。
「レモン風呂なら行く」
「花、風呂で釣れるんじゃね」
「走らんのならええ」
凪は、窓の外へ顔を向けた。
秋の光が、校舎の壁に斜めに当たっていた。
夏より影が長い。
休む日。
遥香の紙の上に、その文字はまだなかった。
週末の三原港は、平日より人が多かった。
リュックを背負った人。
小さな旅行鞄を転がす人。
自転車を押している人。
船の待合所の外に、風が通る。
潮の匂いに、どこかの売店の揚げ物の匂いが混じっていた。
結が改札の前で遥香を指した。
「確認します。今日は休みです」
「はい」
「走らない」
「はい」
「泳がない」
「はい」
「自転車」
「乗りません」
結は頷いた。
「よし」
陽のスマホ画面には、すでにポーバのページが開いていた。
「早いね」
花がのぞき込む。
陽の指は、夕焼けレモンエスプレッソトニックの画像で止まっている。
「まだ飲めんよ」
陽は画面を閉じなかった。
船が入ってきた。
エンジンの音が、桟橋の下で低く響く。
凪の顔が、海の方へ向く。
佐木島へ行く海とは、角度が違う。
島影の重なり方も、船の進む向きも違う。
同じ瀬戸内の海だった。
船に乗ると、風が強くなった。
三原の町が後ろへ流れる。
島と島の間に、橋の線が見えてくる。
海面に白い光が散っていた。
渚が座席に座る前に、鞄を開けた。
「何か食べるん?」
花が隣からのぞく。
「酔わないように」
「食べたら酔うんじゃないん?」
「空腹もよくないです」
「都合ええね」
芽衣は窓の外へ背中を伸ばしていた。
陽はスマホ画面と窓の外を交互に追っている。
結は、遥香の隣に座った。
「休めそう?」
遥香の膝に、ノートはない。
「まだ分かりません」
「分からんのんかい」
「ノートは出していません」
結の目が大きくなった。
「えらい」
「鞄には入っています」
「うん、出さんかったらええ」
遥香は頷いた。
船の揺れで、鞄の中のノートが膝に当たった。
生口島に着くと、道の空気にレモンの匂いが混じっていた。
店先のかごに、黄色い実が積まれている。
自転車で走っていく人の背中に、細い影が伸びていた。
港の近くの看板には、島の地図と、橋の線が描かれている。
結が看板の前で止まった。
「自転車の道、見んで」
「見ていません」
遥香の目が、横へ動いた。
「見とる」
「地図です」
「それを見とるって言うんよ」
花が前を歩き出した。
「風呂、どっち」
遥香は地図の下を指した。
「こっちです」
細い道を歩く。
古い家の壁に、午後の光が残っていた。
路地の奥から、海の色が見える。
どこかで、金属の看板が風に鳴った。
旅館の入口に、レモン風呂の文字があった。
結がその文字の前で手を合わせた。
「今日の目的地」
「拝まんで」
花が暖簾をくぐる。
湯気の中に、レモンの匂いがあった。
湯船に黄色い実が浮いている。
丸いもの。
半分に切られたもの。
皮だけになって、湯の端で揺れているもの。
渚が湯船のふちに手を置いた。
「食べられますか」
「食べるな」
花の声が湯気の中で響いた。
芽衣はタオルをきちんと畳んで置く。
結は湯につかった瞬間、肩まで沈んだ。
「休み」
遥香は湯船の端に座った。
足先が湯の中で揺れる。
「入らんの?」
結が湯の中から顔だけ出す。
「入ります」
「計画立てんでいいけえね」
遥香はタオルを置いた。
湯に入る。
レモンが、腕に当たった。
皮の匂いが近い。
花が息を吐いた。
「走らんの、ええね」
「走らない良さに今気づいたん?」
結が返す。
「うるさい」
陽は、湯に浮いているレモンの前で止まっていた。
「陽、風呂でも見るんじゃね」
「浮く」
「それは浮くじゃろ」
凪は、窓の外にある海の色を拾った。
湯気で輪郭が滲んでいる。
でも、海はそこにあった。
入る海ではない。
読む海でもない。
湯気の向こうにある海。
遥香は、ノートを出さなかった。
風呂を出たあと、陽の足が早くなった。
結が髪を拭きながら追う。
「陽、今日一番速いじゃん」
ポーバの看板が見えていた。
店先の黒板に、生口島限定の文字がある。
黄色いチョークと青いチョークで、二つの商品名が書かれていた。
陽は迷わなかった。
「耕三寺の夕焼けレモンエスプレッソトニック」
芽衣も迷わなかった。
「うちも同じの」
結が黒板を読む途中で止まる。
「やっぱり長い」
花は別の文字を指した。
「うちはこっち。凍結レモネード」
「私も」
渚の声が重なる。
「食べる気じゃろ」
「飲みます」
凪はしばらくメニュー表を見た。
「凍結レモネード、チヌで」
結が凪の隣に来た。
「せっかくじゃし、うちも同じのにしとく」
遥香は黒板の説明を読んだ。
「凍らせた瀬戸田レモンを砕くそうです」
「その場で?」
花の指が黒板の下を追う。
「はい。生ミントのシロップと、青い炭酸水」
「青いんじゃ」
「瀬戸内海をイメージ、と書いてあります」
結が肩をすくめた。
「飲み物も海見るんじゃね」
陽はもうレジの前にいた。
注文を終えて、七人は窓際の席についた。
最初に、凍結レモネードが並んだ。
カップの底に、黄色い氷が詰まっている。
上に、青い炭酸。
二つの色の境目で、泡が細く上がっていた。
渚がストローを刺す。
中のレモンが、しゃりっと崩れる。
「音がします」
「飲み物で音を楽しむんじゃね」
結が笑う。
次に、陽のカップが置かれた。
白い層。
透明な層。
黒い層。
陽の手が、カップの横で止まる。
「飲まんの?」
花がのぞき込む。
「まだ」
「まだ?」
「沈む」
陽はストローを入れなかった。
黒いエスプレッソが、透明な層へゆっくり落ちていく。
白いシャーベットの上で、色が薄く伸びた。
結が頬杖をつく。
「陽の好きなやつじゃね」
陽は頷いた。
遥香は自分のレモネードを混ぜずに置いていた。
黄色と青の境目が、崩れていく。
結がそのカップを指した。
「遥香」
「はい」
「休んどる?」
遥香の手が、カップの水滴に触れた。
「はい」
「ノートは?」
「出していません」
「よし」
結はストローを回した。
「休みも、書かんでいい日があるんよ」
遥香は答えなかった。
ただ、レモネードを一口飲んだ。
凍ったレモンが、ストローの先で崩れる。
生ミントの匂いが、口の中に残った。
窓の外では、自転車が一台通り過ぎていった。
橋の方へ向かう道だった。
遥香の目が、追いかける前に止まった。
結のストローが、カップの中で鳴る。
「見んでええよ」
「見ていません」
「今、我慢したじゃろ」
遥香は、レモネードをもう一口飲んだ。
「休みなので」
結は満足そうに頷いた。
帰りの船では、七人の声が低かった。
花は座席に沈んでいた。
渚はレモネードのカップをまだ持っている。
芽衣は髪の先をタオルで押さえていた。
陽はスマホの写真を拡大して、三層の崩れ方を確かめている。
船の外で、夕方の海が広がっていた。
凪は窓の近くに座った。
海の色は、佐木島の夕方と違った。
生口島の帰りの光は、橋の線に引っかかっていた。
波の上に、細い白が残っている。
遥香は鞄に手を入れた。
結の目が動く。
遥香の手は、すぐに出てきた。
ノートは持っていない。
指先に、レモンの匂いが残っていた。
三原港に着く頃、空は暗くなり始めていた。
駅前の明かりがついている。
自販機の白い光が、歩道に四角く落ちていた。
港から上がる風が、濡れた髪を冷やす。
部室には戻らなかった。
遥香は、駅前のベンチに座って鞄を開けた。
結が隣に座る。
「結局、書くんじゃね」
「一行だけです」
ノートが開く。
白いページ。
ペン先。
船の揺れが、まだ体に残っている。
遥香は一行書いた。
休む日。
ページの端に、折れた紙の角が見えていた。
その横に、レモンの匂いが少し残っていた。




