第52話 佐木島の、水
ホワイトボードに、また佐木島の文字があった。
花の鞄が、机に落ちた。
「また佐木島?」
「はい」
遥香の手には、前より少ない紙があった。
結が一歩だけ後ろへ下がる。
「遥香、佐木島をシリーズ化せんで」
「今回は走りません」
結の肩が少し下りた。
「好き」
遥香が紙を貼った。
【佐木島】
スイム 1.5km
結の肩が戻った。
「今のなし」
渚がホワイトボードの前まで来た。
「泳ぐんですか」
「はい」
「それなら潮球部っぽいです」
「一・五キロです」
渚の口が止まった。
「長いですね」
「走るより短いです」
「たしかに」
花が腕を組んだ。
「また一周とか言わんよね」
「今日は全部は泳ぎません」
結の指が、紙の端で止まった。
「その言い方、怖い」
遥香は、もう一枚の紙を貼った。
【目的】
佐木島の水に慣れる。
長く泳ぐ。
戻る場所を覚える。
凪の視線が、三行目で止まる。
戻る場所。
花の腕が、少しだけ緩んだ。
「戻る場所?」
「佐木島は、来年の地区予選会場になります」
部室の音が薄くなった。
外のグラウンドの声だけが、窓から入ってくる。
結の口が閉じた。
渚が紙を読み直す。
芽衣の背中が伸びる。
花は、窓の外へ顔を向けた。
「なら、入るしかないね」
「はい」
陽の指が、一・五の下で止まった。
「遠い」
「今日は、遠いことを確認します」
結の眉が寄る。
「遥香、たまに怖いこと言うよね」
「確認です」
「それが怖いんよ」
三原港へ向かう道は、前より少し涼しかった。
空は高い。
でも、日差しはまだ肩に残る。
駅前の自販機の前で、渚の足が止まりかけた。
「行きに買うと荷物になります」
遥香の声が先に出た。
渚の足が戻る。
「まだ何も言ってません」
「顔が言っていました」
結が笑う。
「遥香、花みたいなこと言うようになっとる」
「そうですか」
「そこは喜ばん方がええよ」
前を歩く花の肩が少し動いた。
「聞こえとるよ」
港に近づくと、潮の匂いが濃くなった。
桟橋の向こうで、船のエンジン音が鳴っている。
待合所のガラスに、七人の制服が薄く映った。
凪の顔が、海の方へ向く。
前に佐木島へ渡った時と、同じ海だった。
でも、今日は入る。
船が岸壁を離れた。
三原の町が少しずつ後ろへ動く。
造船所の音が遠くなる。
島影が重なって、船の横を風が抜けた。
結は座席に座って、膝に手を置いていた。
「今日は走らんのよね」
「泳ぎます」
「走らんのよね」
「走りません」
「確認しとかんと」
花は窓の外へ肘を置いた。
「走るより泳ぐ方がええじゃろ」
「十キロ走らされた人間の言葉じゃね」
結の膝が、少しだけ揺れた。
渚は鞄の中を探っていた。
「帰り、何か食べますか」
「まだ行きじゃけ」
芽衣の声は短い。
「泳いだら腹減ります」
「走っても言ってました」
「どっちも減ります」
陽の頬に、海面の光が細く揺れている。
船の下で、水が白く割れていた。
佐木島の港から、向田の浜へ向かった。
前に走った道の一部を歩く。
道の端の草が少し伸びていた。
昨日ではないのに、足の奥だけが道を覚えている。
花が坂の方へ顎を上げた。
「あそこ、嫌い」
「一回しか走ってないじゃろ」
「一回で十分」
坂を越えると、浜が開けた。
夏の海水浴の賑わいは、もう薄い。
砂の上に、小さな貝殻が散っている。
看板の端は、日に焼けて白くなっていた。
海の向こうに、島影が低く並んでいる。
遥香は浜の端に荷物を置いた。
「今日は浮標の手前まで行って戻ります。距離は短く切ります。無理に長く泳ぎません」
結の手が、胸の前で小さく合わさった。
「学んどる」
「はい」
「この前の遥香なら一・五キロ行っとった」
「ちゃんと学んでいます」
「えらい」
花がゴーグルをつける。
「で、誰から」
「六人で入ります。私は浜から見ます。最初はゆっくりです」
「ゆっくりね」
花の顔が、渚の方へ向く。
渚はもう足首まで海に入っていた。
「冷たくないです」
「速く泳ぐなよ」
「まだ泳いでません」
芽衣は砂に沈む足先を気にしていた。
波が来る。
足の甲が濡れる。
体が少し引く。
凪は水際に立った。
佐木島の水は、三原港の練習区画と色が違う。
浜から入る水は明るい。
少し先だけ、急に濃い。
遥香の笛が鳴った。
「始めます」
水に入る。
最初は浅い。
足の裏に砂がある。
花が先に進む。
渚が横へ出る。
芽衣は一歩ずつ足を置く。
陽は水面の光に頬を向けたまま進む。
結は口を結んで、ゆっくり肩まで沈んだ。
「冷たいじゃん」
「冷たくないです」
「渚の基準で言わんで」
凪は、腰まで水に入った。
波が来る。
体が少し揺れる。
練習区画の水とは違う。
床がない。
壁もない。
浮標までの距離が、見た目より遠い。
遥香の笛が鳴った。
六人が泳ぎ出した。
花と渚が、すぐ前に出る。
陽は一定の速さで横にいる。
芽衣の腕は少し硬い。
結の息は、最初から大きい。
浮標は、近くならない。
波の上で、黄色い点が上下する。
顔を上げるたびに、位置が少しずれている。
渚が前へ出すぎた。
「渚!」
浜から声が飛ぶ。
渚の顔が、水面に出る。
「はい!」
「戻る場所、確認してください!」
渚の体が半分だけ返る。
浜が、思ったより遠い。
渚の足が止まった。
花も振り返る。
「ほんまじゃ」
結が少し遅れて顔を出した。
「まだそんな泳いでないのに、浜遠くない?」
「遠いです」
遥香は浜に立っていた。
ノートは持っていない。
笛だけが、手の中にある。
「一度、戻ります!」
結の顔が上がった。
「え、もう?」
「今日は、戻る場所を覚えます!」
花は浮標の方へ体を向けた。
まだ手前だった。
「最後まで行かんの?」
「行きません」
遥香の声は、風で揺れなかった。
「戻ります」
花の口が少し曲がる。
「了解」
全員が向きを変えた。
戻る方が難しかった。
来た時より、波が横から当たる。
浜はある。
でも、まっすぐ近づかない。
足を伸ばしても、砂がない。
凪は息を吸った。
水が口元で跳ねる。
胸の奥が縮む。
でも、腕は止まらなかった。
浜。
波。
横の花。
順番に拾う。
花の顔が水面に出た。
「凪、行ける?」
声が届く。
「行ける」
凪は水をかいた。
渚が少し先で待っている。
芽衣は必死に腕を回している。
陽はいつの間にか、芽衣の横にいた。
結は砂に足がついた瞬間、両手を膝についた。
「地面」
それだけだった。
渚が浜に上がる。
「近く見えたのに」
「遠いじゃろ」
花の髪から、水が落ちる。
遥香の時計が光った。
「短くします」
結の顔が上がる。
「今より?」
「はい」
「好き」
遥香は、足で浜に線を引いた。
小さな貝殻の近くに、印をつける。
「次は、浮標の手前まで行きません。途中で戻ります。戻る時は、浜の看板を使ってください」
花が浜の看板へ顔を向ける。
「あれ?」
「はい」
「泳いでると、見えにくいね」
「だから、覚えます」
遥香は海の方へ半歩出た。
「地区予選で、戻る場所を間違えたら終わります」
波の音だけが、浅いところで崩れた。
二本目は、短かった。
でも、一本目よりまっすぐ戻れた。
渚は前に出すぎなかった。
花は一度だけ後ろを確認した。
芽衣の腕は、少しだけ柔らかくなった。
結は文句を言いながらも、浜の看板を探した。
陽は、戻る時だけ少し速度を落とした。
凪は、浜の看板を追った。
水面が揺れるたびに、消える。
また出る。
顔を上げる。
息を吸う。
看板を拾う。
また水へ戻る。
前の海ではない。
この前見た夕方の海でもない。
入ると、島は遠かった。
三本目の後、笛が鳴った。
「今日はここまでです」
結の両手が上がった。
「えらい」
「褒められるところですか」
「かなり」
花の足先が、まだ海の方を向いている。
「一・五キロは?」
「まだです」
「まだって言った」
結の手が、すぐ花の方へ向いた。
遥香はノートを開いた。
「最終目標です」
「最終、遠すぎん?」
「遠いです」
遥香のペン先が、紙の上で止まった。
「だから、最終です」
渚が砂浜に座った。
「腹減りました」
「泳いでも言うんじゃね」
芽衣が水筒を渡す。
陽は浜の端で、濡れた貝殻の前にしゃがんでいた。
拾わない。
ただ、見ている。
凪は、少し離れて水際に残った。
浜からだと、浮標は近い。
水に入ると、遠い。
同じ海なのに、違う。
波が足元まで来た。
引いていく時、砂が少し削れる。
遥香のノートに、文字が増えた。
佐木島、スイム。
少し空いて、その下。
一・五キロは、まだ遠い。
ページの端に、水滴が落ちる。
もう一行。
戻る場所を覚える。
船の時間が近づいていた。
七人は荷物をまとめた。
結は髪を拭きながら、浜の方へ背中を向けていた。
花は看板をもう一度だけ確認した。
渚は帰りの食べ物の話をしている。
芽衣は足元の砂を払っていた。
凪は、最後に一度だけ振り返った。
佐木島の水は、浜の光を残したまま揺れていた。




