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潮球  作者: カミツキ
七人の海

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第51話 秋の、佐木島

「佐木島を一周します」


 遥香はホワイトボードの前に立っていた。


 花が顔を上げた。


「何を?」


「走ります」


 結の手から、マーカーのキャップが落ちた。


 部室の床で、小さく転がる。

 陽が拾って、机の上に置いた。


 遥香はホワイトボードに資料を貼った。


【長く動き続ける競技】

 その下に、小さな文字で、距離が並んでいた。


 スイム。

 バイク。

 ラン。


 結が、貼られた紙を見た。


「三つある」


「長時間動き続ける競技を調べました」


「なんで」


「因島のあと、全員動けなくなったので」


「無理、無理無理無理」


「今日はランだけです」


 結が息を吐いた。


「よかった」


「佐木島一周、十キロです」


 結の息が止まった。


「よくなかった」


 花が椅子の背に腕をかけた。


「なんで海の部活で島走るん」


「海に長く入るためです」


「海に入ればええじゃろ」


「入れる時間を伸ばすためです」


 遥香は、もう一枚の紙を出した。


『一人の時間を伸ばす』

 

 前より少し大きな字だった。


 渚が紙を見た。


「十キロって、どのくらいですか」


「走ったら分かる」


 花が返す。


「分かりたくないです」


 芽衣は紙を最初から最後まで読んでいた。


「一周、全部走るん?」


「最初から全部は無理です。止まらないことを優先します」


 結が遥香を見た。


「止まらない十キロ」


「はい」


「体力って言ったの、うちじゃけど」


「はい」


「ここまでとは言ってない」


 遥香は頷いた。


「参考にしました」


「参考の仕方が重い」


 陽がホワイトボードの数字を見ていた。

 バイク四十二キロのところで、指が止まる。


「四周」


「今日はしません」


「いつかする?」


 結が陽を見た。


「聞かんで」


 花が立ち上がった。


「で、いつ」


「今日です」


 結の指が、机の上のキャップに触れたまま止まった。


 渚が鞄を開けた。


「弁当、持ってないんです」


「走りに行くんよ」


 結が言った。


「走ったらお腹減ります」


「正しいけど違う」


 花が紙を見る。


「これ、全部やるん?」


「今は無理です」


「今は?」


「目標です」


 結が、机の上のマーカーのキャップを指で転がした。


「目標がでかい」


 凪は、窓の外を見た。


 校舎の向こうに、少しだけ海の光が見える。

 夏の強さは残っている。

 でも、空の端だけが薄くなっていた。


 遥香は時計を見た。


「三原港から船に乗ります。帰りの便までに戻ります」


 花が鞄を肩にかけた。


「戻れんかったら?」


「戻ります」


「そこだけ強いね」


 結が小さくつぶやいた。


 三原港へ向かう道は、まだ暑かった。


 商店街を抜ける。

 自転車が海の方へ走っていった。

 信号待ちの横で、渚が自販機を見て止まりかける。



港に近づくと、潮の匂いが強くなる。


 桟橋の方から、人の声とエンジンの音が混じって届く。

 白い船が、岸壁に腹を寄せていた。


 結が船を見た。


「ほんまに行くんじゃね」


「はい」


「ポーバで言った体力の話、ここまで育つとは思わんかった」


 遥香は改札の方を見ていた。


「育てました」


「育てんでよかった」


 凪は船の向こうを見た。


 海の上に、島影が重なっている。

 遠い島は、少し霞んでいた。


 船に乗ると、風が変わった。


 港が少しずつ離れる。

 三原の建物が横に流れていく。

 防波堤の先で、波が白く崩れた。


 花は手すりに寄りかかっていた。


「走る前に船乗るって、なんかずるい」


「何がですか」


 芽衣が聞く。


「もう疲れた気がする」


「まだ座ってるだけじゃないですか」


「気持ちの話」


 結は座席に座り、スマホを見ていた。


「帰りにポーバ寄れるかな」


「走る前から帰りの話しないでください」


 遥香が言う。


「大事じゃろ」


 陽は窓の外を見ていた。

 海面の光が、頬に細く揺れている。


 凪も、少しだけ海を見た。


 目を逸らすまでに、前より時間がかかった。


 佐木島に着くと、空気が少し違った。


 港の前の道は静かだった。

 家の壁に、午後の光が貼りついている。

 坂の上の方から、草の匂いがした。


 遥香がノートを開いた。


「まず、港から外周に出ます。最初はゆっくりです。先頭は花さん。後ろは結さん。私は真ん中で見ます」


「うち、後ろ?」


 結が顔をしかめた。


「無理をした人を拾ってください」


「うちが拾われる側かもしれん」


「その場合は、渚さん」


「はい」


 渚は水筒を握った。


「拾います」


「食べ物じゃないんよ」


 花が道の先を見た。


 海沿いの道が、ゆっくり曲がっている。

 その先に、低い坂が見えた。


「一周ね」


「はい」


「歩いてもええんじゃろ」


「止まらなければ」


「そこ、厳しいんじゃね」


 遥香が笛を持った。

 でも、吹かなかった。


 花が先に息を吸った。


「行くよ」


 走り出した。


 最初は、足音が軽かった。


 海が左にある。

 道の端に、乾いた葉が寄っている。

 風が吹くと、葉が小さく動いた。


 花と渚が少し前に出る。

 芽衣が花の後ろを追う。

 凪はその少し後ろ。

 遥香が時計を見ながら走る。

 陽は無言で、道の端の草を見ていた。

 結は最後尾で、すでに口を閉じていた。


「結さん、大丈夫ですか」


 遥香が振り返る。


「大丈夫に見える?」


「見えません」


「じゃろ」


 花が前から振り返った。


「まだ始まったばっかじゃろ」


「知っとる!」


 結の声が少し高くなった。


 坂に入ると、足音が変わった。


 花の速度が落ちる。

 渚も少し遅れる。

 芽衣は呼吸を数えているように、同じ間隔で足を出していた。


 凪は海を見た。


 道の向こうで、水面が低く光っている。

 走っているのに、海が横にある。

 水中ではない。

 でも、逃げる場所でもなかった。


 風が、汗を冷やした。


「凪さん」


 遥香の声が後ろから来た。


「前、詰まっています」


 花が坂の途中で止まりかけていた。

 渚がその横にいる。

 結はさらに後ろで、手を膝につきたいのを我慢している。


「止まらんのじゃなかったん?」


 花が振り返る。


「止まっとらん」


「ほぼ止まっとる」


「坂が悪い」


 結が後ろから来た。


「坂に謝って」


「はあ?」


 花が眉を寄せた。


 遥香が時計を見た。


「歩きます」


 花が遥香を見る。


「ええん?」


「止まらないことを優先します」


 花は少しだけ口を曲げた。


「最初からそう書いといて」


「次から書きます」


 結が息を吐いた。


「次があるんじゃね」


「あります」


「あるんじゃ……」


 坂道に、七人分の息だけが残った。


 歩き始める。


 七人の足音が、ばらばらになった。


 海沿いの道を進む。

 小さな畑があった。

 網のかかった木の下に、落ちた葉が集まっている。

 道の端で、陽が少し止まった。


「陽」


 花が振り返る。


 陽は、道路脇の無人販売の箱を見ていた。

 中には何も入っていない。


「空」


「走るよ」


 陽は頷いた。

 少し遅れて戻ってくる。


 渚がその箱を覗いた。


「何が売ってたんですかね」


「帰りに見んさい」


 結が言う。


「帰りも通るんですか」


「一周じゃけえね」


 渚の顔が少し曇った。


 道は、海から少し離れたり、また近づいたりした。


 走る。

 歩く。

 また走る。


 遥香は、そのたびに時計を見た。


 花は前に出すぎて、二回戻った。

 渚は途中で腹が鳴った。

 芽衣は何度も歩幅を合わせ直した。

 結は、文句の数が減っていった。

 陽は、汗を拭かずに空を見ていた。


 凪は、何度も海を見た。


 水面が遠い場所。

 すぐ横にある場所。

 島影の間に、光が残る場所。


 どれも、同じ海ではなかった。


 坂を下りる時、花が少し速度を上げた。


「花さん、上げないでください」


 遥香の声が飛ぶ。


「下りじゃけえ」


「下りで上げると後で落ちます」


「もう落ちとる」


 結が後ろから返す。


 花は一度だけ笑って、速度を戻した。

 凪は、その後ろで息を吸った。


 苦しい。

 でも、水の中の苦しさとは違った。


 足の裏に、道がある。

 横に、海がある。


 前に、花の背中がある。


 港が見えた時、誰も声を出さなかった。


 最初に見えたのは、船の待合所の屋根だった。

 その向こうに、桟橋がある。


 結がそれを見て、少しだけ足を早めた。


「自販機」


「港じゃなくて?」


 渚が聞く。


「自販機」


 結の声は、はっきりしていた。


 花は膝に手をついた。

 汗が顎から落ちる。


「一周、長い」


「十キロなので」


 遥香が時計を見た。


「知っとる」


「今、知りました」


 芽衣はその場にしゃがみ込んだ。

 渚も隣に座る。


「お腹減りました」


「それ、ずっとじゃろ」


 結は自販機の前から動かなかった。

 飲み物を選ぶ指だけが動いている。


 陽は港の端に立っていた。

 海を見ているのか、夕方の光を見ているのか、分からなかった。


 凪は、その隣に立った。


 海の色が変わっていた。


 走っている間に、夏の明るさが落ちていた。

 島影の端が濃くなっている。

 波の上に、細い光だけが残っていた。


 遠くに三原の方が見える。

 白い建物の形が、夕方の色に沈みかけている。


 凪は、海を見ていた。


 息はまだ苦しい。


 でも、目は逸れなかった。


 遥香は少し離れたところで、ノートを開いた。

 ページの端が汗で少し湿っている。


 佐木島一周。


 そこまで書いて、ペンが止まった。


 完走。


 その字は、書かなかった。

 遥香は、少しだけ迷ってから、下に一行足した。


 戻った。


 字は、前より少し太かった。


 船の音がした。


 結が自販機の前で顔を上げる。


「帰れる」


 花が空を見た。


「帰ったら、もう走らんけえね」


 遥香はノートを閉じた。


「次は、少し短くします」


 結が振り返った。


「あるんじゃね」


「あります」


 渚が地面に座ったまま、手を上げた。


「帰りに何か食べたいです」


「来々軒いこ」


 花が答えた。


 佐木島の港に、夕方の光が残っていた。


 七人の影が、少しずつ長くなっていた。

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