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潮球  作者: カミツキ
七人の海

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第50話 ひとりぶん

ホワイトボードの文字の下は、まだ空いていた。


 昨日の文字は消していない。


 水中、五人。

 水面、一人。

 記録、一人。


 七人の名前は、全部そこに入っている。

 遥香はマーカーを持ったまま、同じ場所を見ていた。


 部室の窓は開いていた。

 外から、グラウンドの声が少しだけ入ってくる。

 どこかの教室で椅子を引く音がした。


 花は水筒のふたを閉めた。


「遥香」


 遥香は顔を上げた。


「はい」


「それ、穴開くよ」


 花の指が、ホワイトボードを指している。


 遥香は、マーカーの先が同じ場所に当たっていることに気づいた。

 白い面に、小さな点ができていた。


「すみません」


「謝るとこじゃない」


 花は鞄を肩にかけた。


「うちは帰る。腹減った」


 渚がすぐ反応した。


「どこ行きますか」


「渚は帰ってタオル洗いんさい」


「乾いてます」


「洗って」


 結が言った。


 渚は口を閉じた。

 芽衣がタオルを二枚、渚の鞄に押し込んだ。


「増えました」


「洗う量が?」


「はい」


「自業自得じゃね」


 陽はサイン表をケースにしまっていた。

 凪は潮況ノートを鞄に入れる。

 表紙の端に、まだ昨日の水の跡が残っていた。


 部員たちが一人ずつ出ていく。


 遥香は最後までホワイトボードの前にいた。


 結が、扉のところで止まった。


「遥香」


「はい」


「相談ある顔しとる」


 遥香の手が、マーカーを握り直した。


「あります」


「じゃあ、ポーバ」


「今ですか」


「今」


 結はスマホを出した。

 画面を遥香へ向ける。


「新作出とる」


 遥香は画面を見た。


 小豆島のオリーブハニー白桃ソーダ。


 文字が長かった。


「情報量が多いです」


「じゃろ」


 結は満足そうに頷いた。


「相談するには、ちょうどええ」



校舎を出ると、まだ暑かった。


 でも、風は真夏より少し軽い。


 制服の生徒が何人か前を歩いていた。

 自転車のベルが一度だけ鳴る。


 結は少し先を歩く。

 遥香は、その半歩後ろを歩いた。


 港の方から、フェリーの低い音が届く。


 遥香は鞄の紐を直した。

 中に入れたノートが、歩くたびに膝へ当たる。


「外に、探しに行くべきかと思っています」


 結は振り返らなかった。


「人?」


「はい」


 信号が赤になった。

 二人は止まる。


 横断歩道の向こうに、ポーバの看板が見えた。

 緑の看板の下に、新作のポスターが貼ってある。

 白桃の絵と、オリーブの葉。


「他校か、社会人の方か。練習に入ってもらえる人がいれば」


 遥香は続けた。


「水中五人、水面一人、記録一人で、七人が埋まります」


「うん」


「交代が、ありません」


 信号が青になった。


「練習相手もです」


 結は歩き出した。


「うん」


「春まで待つしかないのは分かっています。でも、待つだけでいいのか分からなくて」


「うん」


「私が、部長なので」


 結の足が遅くなった。


 ポーバの自動ドアが開いた。

 冷たい空気が出てくる。


 店内は、夕方の生徒と会社帰りの人で少し混んでいた。

 窓際の席が一つ空いている。

 テーブルの上に、前の客が置いた紙ナプキンが一枚残っていた。


 結がレジの前でメニューを見上げる。


「小豆島のオリーブハニー白桃ソーダ、チヌで」


 店員が頷く。


「サイズ、チヌですね」


「はい」


 遥香はメニューを見た。


 サヨリ。

 チヌ。

 マナガツオ。


 白桃ソーダの写真の下に、小さく秋限定と書いてある。


「同じものを、サヨリで」


 結が遥香を見た。


「相談、サヨリで足りる?」


「飲み物の量と相談の量は関係ありません」


「あるよ。たぶん」


 注文番号の札を受け取って、二人は窓際へ座った。


 駅前の通りが見える。

 バスが一台、ゆっくり停まった。

 降りてきた人が、日傘を開く。


 遥香は鞄からノートを出そうとして、やめた。


 結はそれを見ていた。


「出さんの?」


「ここで開くと、部室と同じになります」


「えらい」


「えらいんですか」


「たぶん」


 飲み物が来た。


 透明なソーダの中に、白桃の色が沈んでいる。

 上の方に、薄い蜂蜜の線が残っていた。

 氷が、からんと鳴る。


 結がストローを挿した。


「甘」


「まだ飲んでいません」


「匂いで分かる」


 遥香もストローを挿した。

 一口飲む。


 白桃の甘さが先に来た。

 その後で、少しだけ青い匂いが残る。


「思ったより、後ろに残ります」


「オリーブじゃね」


「たぶん」


 結は窓の外を見た。


「人、探しに行くのは悪くないと思うよ」


 遥香の手が、カップの上で止まった。


「はい」


「でも、今すぐ一人増やすの、できんじゃろ」


「はい」


「春に新入生来るかも、分からんし」


「はい」


「うちら、五人のときも、この時期に人増やそうとか考えんかった」


 遥香は結を見た。


「五人で、足りていたんですか」


「足りとらんよ」


 結はソーダを飲んだ。

 氷が、また鳴る。


「足りんまま、やっとった」


 外で、自転車が二台続けて通り過ぎた。

 片方の前かごに、スーパーの袋が揺れている。


「澪がいて、花が突っ込んで、陽が変なサイン出して、凪が途中から来て」


「変なサイン」


「変じゃろ。陽のサイン」


 遥香は口元を動かした。


「今も変です」


「じゃろ」


 結はストローを指で回した。


「でも、五人のときは五人の形しかなかったんよ」


 遥香はカップの水滴を指でなぞった。


「七人の形」


「そう」


 結は言った。


「一人増やすことは、今できん。なら、今いる一人の分を増やすしかないんじゃない」


 遥香の指が止まった。


 水滴が、縦に流れた。


「一人が、できることを増やす」


「そうそう。そういう真面目な言い方」


 結が笑った。


 遥香は笑わなかった。

 でも、カップを持つ手の力が少し抜けた。


「でも、役割を増やすと、負担も増えます」


「じゃけえ、体力じゃない?」


 結は軽く言った。


 遥香が顔を上げる。


「体力」


「因島のあと、みんな死んどったじゃろ」


 宿泊棟の部屋。

 ベッドに倒れた陽。

 支給弁当を開ける渚。


 遥香は、あの日の天井の白さを思い出した。


「動けなくなりました」


「七人しかおらんのに、動けん時間が増えたら終わるじゃん」


「はい」


「これから、海に長く入れん日も増えるし」


 結は窓の外を見た。


「秋になったら、日も短いし。風強い日もあるし。ずっと海だけで練習できんじゃろ」


 結はカップを手にした。


「海に入れん日に、何を増やすかじゃね」


 遥香は、カップの横に置いた紙ナプキンを見た。


「走るんですか」


「うちは嫌じゃけど」


「嫌なんですね」


「嫌」


 結は即答した。


「でも、やるんじゃろ」


 遥香は、ゆっくり頷いた。


「水中五人。水面一人。記録一人」


 言ってから、首を横に振った。


「それだけじゃなくて、一人が水中にいられる時間を伸ばす。水面に上がるまでの間を伸ばす。交代できない時間を伸ばす」


「ほら、出た」


「何がですか」


「遥香のやつ」


 結はチヌサイズのカップを持ち上げた。


「一人の時間を伸ばす」


 遥香は、その言葉を小さく繰り返した。


「一人の時間を伸ばす」


 外の通りで、バスが発車した。

 排気の音が、ガラス越しに少しだけ響いた。


 遥香は鞄からノートを出した。


 今度は、開いた。


 結は何も言わなかった。


 遥香はページの端に書いた。


 春まで。

 一人の時間を伸ばす。


 文字は、いつもより大きかった。


 結は白桃ソーダを飲み切った。

 氷だけが残る。


「で」


「はい」


「走るなら、花に最初に言いんさい」


「どうしてですか」


「一番文句言うけえ」


「花さんがですか」


「絶対言う」


 遥香は考えた。


「でも、一番最初に走りそうです」


「そうなんよ」


 結が空のカップを見た。


「面倒じゃろ」


「少し」


「それが花」


 遥香はノートを閉じた。

 窓の外で、日が少し落ちていた。

 ポーバを出ると、空気がまだぬるかった。


 結がカップの氷を揺らす。

 中身はもうない。


「遥香」


「はい」


「部長っぽくなろうとしすぎん方がええよ」


 遥香は結を見た。


「この前の上がれ、まだ笑っていますか」


「ちょっと」


「忘れてください」


「無理」


 結が歩き出した。


「でも、今日のは遥香っぽかった」


 遥香は半歩遅れて歩いた。


 自販機の明かりが、夕方の道に白く浮いていた。

 遥香は、鞄の中のノートに触れた。


 部室へ戻る頃には、窓の外が少し暗くなっていた。


 誰もいない部室で、遥香は電気をつけた。

 ホワイトボードの白い面が、少しだけ明るくなった。


 水中、五人。

 水面、一人。

 記録、一人。


 七人の名前が、全部埋まっている。

 遥香は、その下に一行足した。


 『一人の時間を伸ばす。』


 字は、前より少し大きかった。

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