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潮球  作者: カミツキ
七人の海

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第49話 ノートにない潮

 八月も終わりに近づき、開けた窓から入る蝉の声は真夏ほど強くなくなっていた。凪はその声を聞きながら、部室の机で潮況ノートを開いていた。


 今日に近い条件のページには、澪の小さな字が行からはみ出さず並び、途中で書き直した跡もない。八月下旬の南寄りなら、岸壁側へ戻った流れが浅い位置で曲がり、岸壁から二つ目の浮標の下にも泡が残ると記録されていた。


 潮の向きを示す矢印や、危険な場所を囲む色鮮やかな丸。その記録を読み終えても、凪はページを閉じず、開いたまま机へと置いた。


 ホワイトボードに書かれた今日の練習は、前回より減っていた。潮核の動きと水面との連携まで順に目で追った花が、最後に腕を組んだ。


「今日は少ないね」

「前回、多すぎたので」

「気づいたんじゃ」

「はい」


 遥香は時計を確認して笛を手に取った。


「行きます」


 先に扉へ向かった花が振り返った。


「今日は早いじゃん」

「前回、始めるまで時間を使ったので」


 靴を履いていた結が顔を上げた。


「それ、自分で言うんじゃね」


 遥香はもう扉へ向かっていた。


「次は減らします」


 * * *


 港の練習区画では、岸壁の影が真夏より長く水面へ伸びていた。黄色い浮標が練習区画を囲み、そのうち岸壁から二つ目の浮標の手前でだけ、細い泡の筋が途中から見えなくなっている。


 港へ入るフェリーの低い音を聞きながら、凪は岸壁へ腰を落とし、部室から持ってきた潮況ノートと水面を見比べた。


 記録では、二つ目の浮標の下まで来た泡は岸壁側へ戻るはずだった。けれど今の筋は横へ曲がらず、浮標へ届く手前で細くなったまま水面から消えている。


 隣で渚が片足を水へ入れ、岸壁を支えに膝まで沈んだ。


「先輩、ここ変です」


 足を後ろへ蹴ると、渚の腰が前へ出るより先に脚だけが深く入った。


 凪はノートからその足元へ目を移した。


「どう変?」

「蹴った時、足が落ちます」


 渚はもう一度蹴った。水面に広がった波は岸壁へ届くのに、身体はほとんど前へ進まない。


「いつもなら、足の裏に水が返ってくるんですけど」


 渚は水から脚を抜き、濡れた脛を見た。


「今日はないです」


 凪も同じ場所へ足を入れ、足首を包む水へ体重を預けて後ろへ蹴った。脛へ来るはずの圧がなく、脚だけが深く入って身体が前へ出ない。


転流だ。


 伯方島沖で流れが切り替わり始めた時も、触れていた水の圧が抜けた。予定より早く始まり、泡の列が崩れて、誰も次の流れをすぐには掴めなかった。


 凪は浮標へ目を上げた。


 いや、違う。


 岸壁から二つ目の浮標も、その隣もロープは同じ方向へ張り、その向こうの泡も崩れていない。流れ全体は変わってない。


 変なのは、ここだけだ。


 渚が蹴った場所から伸びた泡は横へ流れず、途中で水面から見えなくなる。


 下へ引かれてる?


 凪はもう一度足を沈めた。今度は前へ進もうとせず、水がどこへ逃げるかだけを確かめる。足首を包んだ冷たさが脛へ上がる前にほどけ、そのまま下へ引かれていった。


「それ、ノートにあります?」


 渚が澪のページを覗き込んだ。


 凪は二つ目の浮標の周りに残された矢印と丸を追った。


「ない」

「じゃあ、書くんですか」


 凪は答える前に水面へ目を戻した。さっき渚が蹴った場所で、また一筋の泡が途中から消えている。


「まだ。試してから」


 渚も同じ場所を見た。


 岸壁では遥香が時計を構え、陽はその横に残った。結は先に水へ入り、水面担当の位置へ回っている。花、凪、渚、芽衣が水際へ並ぶと、花が全員を見た。


「行くよ」


 花の掛け声で水が割れ、凪と芽衣もその後へ続いた。渚だけは二つ目の浮標の手前で泡が消える場所へ、最初から身体を向けている。


 凪は渚を追った。花は二つ目の浮標近くの潮核へ向かい、芽衣も花の斜め後ろへ入った。


 まだ下へ流れているなら、潮核も岸壁側には戻らない。


 凪は澪の矢印に残された位置へは行かず、泡が消えた場所の下へ身体を出した。花が潮核を拾うと胸元のゼッケンが赤く光り、すぐに手を離した。


 潮核は岸壁側へ戻らなかった。


 岸壁側へ流れるはずだった潮核が途中で軌道を落とし、凪の正面へ斜めに沈んでくる。


 来た。


 凪も腕を伸ばしたが、渚の方が先に潮核の進路へ入った。潮核へ届く直前に脚が深く落ちても、身体をひねって沈んでくる軌道からは外れない。


 そこで岸から笛が鳴った。


 凪が水面へ戻ると、花と芽衣も顔を出し、渚も沈んだ位置から浮かんできた。遥香が時計を止める。


「ここまでです。上がってください」


 花が岸壁へ手をかけ、ゴーグルを額まで上げた。


「今の、途中で沈んだね」


 凪も岸へ上がったが、潮況ノートには手を伸ばさず、二つ目の浮標の下へ目を戻した。


 隣では渚が片足を伸ばし、足首を回している。


「さっきの場所、もう一回入れる?」

「はい。でも、蹴ると足取られます」


 そこへ遥香が来て、二人の視線の先を追った。


「次、どうしますか」


 凪は泡が消える二つ目の浮標の手前から、渚へ目を戻した。


「同じ形でもう一回。渚が先に入って」

「私ですか」

「うん。今度は沈むところを見たい」


 遥香は頷くと花へ向き直った。


「花さんは、渚さんが入ってから潮核を離してください。芽衣は正面ではなく、花さんの横へ」

「はい」


 芽衣の返事に花がそちらを見る。


「次は返事より体ね」

「はい」


 同じ速さで返ってきたので、花が口を曲げた。


「まあええわ」


 結が水面担当の位置へ戻ると、花が三人を見た。


「行くよ」


 今度は渚が最初から二つ目の浮標の手前、泡が消える場所へ向かい、凪もその後を追った。泡の筋が消える場所で渚が身体を沈めると、蹴った脚がまた深く入り、腰から上が置いていかれる。


 凪も同じ場所へ入ると、脛を押す水が消え、身体が沈んだ。


 やっぱり下だ。


 芽衣が正面を塞がず花の横へ回り、渚は泡が消える場所へ身体を沈めた。花は渚が位置につくのを見てから、潮核を離した。


 今度も潮核は岸壁側へ戻らず、泡が消えた場所へ差しかかると軌道を落とし、その下で待つ渚の前に沈んだ。凪も肩越しにその動きを追う。


 ただ、渚がそこへ合わせるために何度も強く蹴ったせいで、隣を泳ぐ凪との間が開いていた。芽衣も花の横へ回れたものの、寄りすぎて二人の進路が重なっている。


 肺の奥が狭くなり、凪は一度水面へ上がった。


「花、待って!」


 結の声が届き、花も顔を出して進むのを止めた。


 凪は息を入れるとすぐ潜り直した。渚は沈んだ潮核の進路へ身体を合わせていたが、その位置を保つために何度も強く蹴っている。


 そこで岸から笛が鳴った。


「ここまでです。上がってください」


 水面へ戻った花が遥香を見る。


「今のは?」

「潮核が沈む場所までは追えてます」

「じゃあ、もう一回」


 渚は岸壁へ手を伸ばしたまま息を吐いた。


「きついです」


 水面の結が目を丸くした。


「うそじゃろ、渚が?」

「足が落ちるたびに、上へ戻すのに蹴るんで」


 岸壁へ上がった渚は、その場で両足を伸ばした。


「いつもより足使います」


 凪はその言葉を聞きながら、岸に置いた潮況ノートを見た。


 開かなかった。


 花の掛け声で水に入ると、凪は最初から二つ目の浮標の手前、泡が消える場所を基準にした。渚がそこへ身体を沈めれば、その後ろへ入り、花と芽衣の位置も視界に残す。


 渚が沈みすぎれば凪との間が開き、芽衣が花へ寄りすぎれば二人の進路が重なる。そのたびに遥香の笛が鳴り、岸へ戻って位置を直しては、また花の掛け声から入り直した。


 渚は脚が落ちる瞬間にだけ身体を沈め、そのまま下へ逃げる水へ乗って潮核の軌道へ出た。


 凪も同じように身体を沈めた。


 今度は余計に蹴らなくていい。


 花は渚が泡の消える位置へ入ったのを見て潮核を離した。軌道はそこで下へ折れ、渚がその先へ身体を沈めた。凪も渚の後ろへ続き、芽衣は花の横から潮核を追う。


 渚は一度身体を沈めたあと、さっきのように何度も蹴り直さなかった。凪との間も開かない。


 これなら使える。


 * * *


 練習を終える頃には、岸壁から伸びる影が水際を越えていた。


 渚は岸壁に座り込み、髪から落ちる水を首へ掛けたタオルで拭いている。


「お腹減りました」


 結が自分の荷物をまとめながら振り返った。


「さっき水飲んどったじゃろ」

「水じゃお腹いっぱいになりません」

「そういう話しとらん」


 丸めたタオルが飛び、渚の肩に乗った。


 その横では芽衣がゴーグルを外しながら、まだ二つ目の浮標の方を見ている。花が隣へ立った。


「横、入れたじゃん」

「はい」

「次もやりんさい」

「はい」

「返事はええけえ、忘れんこと」


 芽衣も花と同じ浮標へ顔を向けた。


 凪は花たちから離れて潮況ノートを開き、今日確かめた流れを澪の記録の下へ書き足した。岸壁側へ戻らず、二つ目の浮標の手前で泡が消え、その下へ水が抜けることまで書いたところで顔を上げる。


 渚はまだ岸壁に座り、両足を投げ出していた。


 凪はもう一度ノートへ目を戻し、最後に付け足した。


『渚、先に気づく。』


 ペンを置くと、岸壁から二つ目の浮標の手前で、また一筋の泡が水面から消えていった。

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