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潮球  作者: カミツキ
七人の海

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49/91

第49話 ノートにない潮

夏の色が薄くなっていた。


 自販機の横に、空になったペットボトルが一本立っている。

 遠くで鳴いている蝉の声は、真夏より細かった。


 凪は、部室の机で潮況ノートを開いていた。


 同じページを、三回読んでいた。


【八月下旬】

 南寄り。

 岸壁側に戻りあり。

 浅い位置で曲がる。

 浮標二番の下、泡が残る。


 澪の字だった。


 小さい。

 でも、迷っていない字だった。


 ページの端には、潮の向きが矢印で書いてある。

 別の色で、危ない場所に丸がついていた。


 凪の指が、その丸の横で止まった。


 陽が隣に来て、ノートを覗いた。

 何も言わない。


 凪がページを少し傾ける。


 陽は、丸のない場所を指した。


「ここ?」


 凪は水面の方を見た。


「たぶん」


 陽は頷いた。

 それだけで、窓際に戻った。


 遥香はホワイトボードの前にいた。

 今日の練習メニューは、前より少なかった。


【本日】

 潮核誘導

 水面連携

 記録


 花がそれを見て、腕を組んだ。


「今日は少ないね」


「前回、多すぎたので」


「気づいたんじゃ」


「はい」


 渚が鞄からタオルを出した。

 違うタオルも一緒に出てきた。


「なんで二枚あるん」


 結が覗いた。


「昨日のです」


「洗って」


「乾いてます」


「洗って」


 遥香が時計を見た。


「行きます」


 花が先に立った。


「今日は早いじゃん」


「前回、遅かったので」


 結が少しだけ笑った。


「それ、自分で言うんじゃね」


 遥香は笛を手に取った。


「言います」


 校舎の外は、まだ暑かった。

 でも、影の色だけが少し変わっていた。



港の方から、フェリーの低い音が届く。


 駅へ向かう自転車が、二台続けて通り過ぎた。

 歩道の端で、氷菓子の袋が小さく鳴っていた。


 花が前を歩く。


 結がホワイトボードのケースを肩にかけ直す。

 渚は、まだ昨日のタオルを鞄に押し込んでいた。


「洗って」


「帰ったら洗います」


「今の返事、信用できん」


 遥香は時計を見た。

 それから、少しだけ歩く速さを上げた。


 練習区画の水は、静かに見えた。


 凪はノートを開いたまま、水面を見た。


 岸壁側に、戻りがある。

 そう書いてある。


 でも、泡は戻っていなかった。


 黄色い浮標が、浮いていた。

 側面の番号は、少し薄くなっている。


 二番。


 その手前で、細い泡の筋が薄くなる。

 そこから、横へ流れない。

 下へ抜けるみたいに、消える。


 凪はノートを見た。


 澪の矢印は、そこで曲がっている。


 水面は、曲がっていない。


 渚が隣にしゃがんだ。

 ノートは見ていない。


「下が、抜けてます」


 凪は渚を見た。


「抜けてる?」


「はい。なんか、踏む場所がないです」


 渚は手を水につけた。

 指先で、軽く水を払う。


「軽いです」


 凪は水面を見た。


 軽い。


 その言葉は、ノートのどこにもなかった。

 凪はノートを閉じた。

 岸壁の上に置く。


 遥香が笛を持った。


「始めます」


 花が入った。

 凪が続く。

 陽が静かに沈む。


 渚が少し遅れて水を蹴った。

 芽衣も続いた。


 岸には、遥香の笛があった。

 水面には、結の声があった。


 遥香は岸壁の上で時計を見た。


 最初の潮核は、二番の浮標の近くにあった。

 陽がサインを出す。


 短い。


 花が動いた。

 凪は、ノートの矢印の位置へ向かう。

 岸壁側へ戻るはずだった。


 花が潮核に触れる。

 赤い光がつく。


 凪は受ける位置で止まった。

 潮核は、戻らなかった。


 赤い光が、凪の前を通らない。

 少し下へ落ちる。

 そのまま、泡の薄い場所へ流れた。


 渚が先に動いた。凪より半歩早い。

 でも、花はもう次に出ていた。


 芽衣が止めに入る。

 陽のサインが遅れて浮く。


 形が崩れた。


 遥香の笛が鳴った。


「止めます。上がってください」


 五人が水面に戻った。


 花がゴーグルを額に上げた。


「今の、戻らんかったね」


 凪は岸へ上がって、ノートを取った。


 遥香が近づく。


「ノートと違いますか」


 凪はページを開いた。


 岸壁側に戻りあり。


 その文字の上に、水滴が一つ落ちた。


「違う」


 声が、少し小さかった。


 花が水を払った。


「今日の海でええじゃろ」


 凪は顔を上げた。


 花はもう水面を見ていた。


「澪の海じゃないんじゃけ」


 言ってから、花の口が少し止まった。


 結が水面で浮いたまま、手を上げた。


「凪、もう一回見る?」


 凪はノートを閉じた。

 表紙に、水滴が残った。


「見る」


 渚が顔を上げた。


「水ですか」


「うん」


 凪はノートを岸に置いた。


 遥香はそれを見た。

 何も聞かなかった。


「もう一度、同じ形でいきます」


 遥香が時計を戻した。


「花さん、さっきより半歩遅く。渚さんは、さっきの場所をもう一度。芽衣は、正面に入りすぎないでください」


「はい」


 芽衣の返事が早かった。


 花が芽衣を見る。


「返事はええけど、体も半歩ね」


「はい」


 芽衣は少しだけ口を結んだ。


 結が水面から指を二本立てた。

 陽が頷く。


 花が息を吸った。


「行くよ」


 水が割れた。


 凪は、ノートの矢印を追わなかった。

 泡を見る。


 浮標二番。

 泡の筋。

 薄くなる場所。


 下が抜ける。


 渚が先に動いた。

 今度は凪も遅れない。


 陽のサインは一つだけ。

 結が水面から短く叫ぶ。


「花、待って!」


 花の顔が、一瞬だけ水面に出ていた。


 声が届く。


 花は半歩待った。


 潮核が落ちる。

 戻らない。

 下へ抜ける。


 凪が斜めに入った。

 渚の足が薄い水を蹴る。


 芽衣が正面ではなく、横に入った。

 止まりすぎない。


 花が潮核を受けた。


 赤い光が、少しだけ長く残る。


 遥香の笛が鳴った。


「止めます。上がってください」


 花が水面に顔を出した。


「今のは?」


 遥香はノートを見ていなかった。


「さっきより、通りました」


「点は?」


「入ってません」


「じゃあ、もう一回」


 渚が水面で息を吐いた。


「きついです」


「うそじゃろ、渚が?」


 結が目を丸くした。


「下が軽いと、足が疲れます」


 渚は水をかいた。


「変です」


 凪は、それを聞いていた。


 下が軽い。

 足が疲れる。

 戻らない。


 凪は、潮況ノートを開かなかった。

 花がもう一度、水際に立った。


「行くよ」


 三回目は、二回目より少しだけ早かった。


 そろってはいない。

 でも、同じ場所で崩れなかった。


 結の声が、息継ぎの瞬間だけ届く。

 遥香の笛が、前より早く鳴る。

 芽衣の体が、横に入る。


 陽のサインは、また一つだけだった。


 凪は、泡の消える場所を見た。


 渚が先に動く。


 その後ろへ、凪が入った。


 花が潮核を受けた。

 今度は、赤い光が横へ流れなかった。


 花が水面へ出る。


「次!」


 凪は、もうノートを見なかった。


 水の中で、泡が一本だけ残っていた。


 練習が終わる頃には、空の色が少し落ちていた。


 渚が岸壁に座り込んだ。

 髪から水が落ちている。


「お腹減りました」


「さっき水飲んどったじゃろ」


「水はお腹に入りません」


「入っとるよ」


 結がタオルを投げた。

 渚の肩に乗る。


 芽衣はゴーグルを外して、まだ浮標の方を見ていた。

 花がその横に立つ。


「横、入れたじゃん」


「はい」


「次もやりんさい」


「はい」


「返事はちょっと遅くてええ」


 芽衣が一拍遅れて頷いた。


 陽は岸に置いたサイン表を畳んでいた。

 一枚だけ、端が折れている。


 遥香は記録用のノートを閉じた。


 凪は、潮況ノートを開いていた。


 澪の字の下。

 空いている行。


 ペン先が、少しだけ迷った。

 凪は一行書いた。


 『岸壁側、戻らない。』


 その下に、もう一つ書く。


 『下、抜ける。』


 もう一行足した。


 『渚、先に気づく。』


 字は、少しだけ斜めになった。

 ページの端に、水の跡が残っていた。


 岸壁の向こうで、フェリーの音がした。


 遥香は、ホワイトボードの前に立っていた。


 水中、五人。

 水面、一人。

 記録、一人。


 七人の名前が、全部埋まった。


 遥香のマーカーは、その下で止まっていた。

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