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潮球  作者: カミツキ
七人の海

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第48話 始める声

 鍵が、一度で回らなかった。


 遥香が手元を見ると、部室の扉の前で七人分の足音も止まった。もう一度差し込み直しても途中で引っかかり、隣にいた花が手を出しかける。


「貸そっか?」

「大丈夫です」

「昨日まで澪が開けよったし、癖あるんじゃない?」


 結の声に遥香は鍵穴を見直した。


「だから今日は、私が開けます」


 遥香が鍵を奥まで押し込み直すと、今度は錠が鳴った。扉を開けたところから湿ったタオルと古いマーカーの匂いが流れ、七人が部室へ入っていく。


 遥香が部室の窓を開ける横で、凪は机の上に残ったホワイトボードを見た。昨日決めた新体制として書かれているのは、部長の遥香と、試合中にまとめる花の名前だけだった。


 花も同じところを見て、口を曲げた。


「ほんまにこれだけなんじゃ」

「これで足りるか、今日見ます」


 遥香は鞄から付箋だらけのノートを出し、結からマーカーを受け取ると、今日確認する練習をホワイトボードへ書き込んでいった。アップのあとには三秒タッチと潮核の動き、水面との連携、交代の入り方まで続いている。


 花は最後まで目で追ってから、机の表面を人差し指で小突いた。


「全部やるん?」

「今日は確認なので」

「確認多いね」

「最初なので」


 遥香がノートを閉じると、花はまだ何か言いたそうだったが、隣から結に肘をつつかれた。


「十分くらい待てるじゃろ」

「待てるわ。着替えるだけじゃけ」


 立ち上がった花の向こうでは、陽が机の下に落ちていたマーカーのキャップを拾って遥香の横へ置いた。遥香が陽に会釈するあいだにも、バッグのファスナーが開き、ロッカーの扉が鳴り、水着やタオルを引き出す音が部屋のあちこちから重なる。


 * * *


 港の練習区画は、まだ夏の色をしていた。岸壁の影は短く、水面には光が残り、黄色い浮標の間を細い泡の筋が流れている。


 凪は澪から受け取った潮況ノートを開き、今日に近い条件のページを探した。南寄りの風が吹く午後なら、岸壁側へ戻った流れが浅いところで曲がると残されている。


 ところが顔を上げると、浮標の間を抜ける泡は岸壁へ戻らず、そのまま沖方向へ伸びた途中で薄くなっていた。凪がページと水面を見比べていると、横から渚が覗き込んだ。


「それ、澪さんのですか」

「うん」

「すごいですね」


 渚は書かれた文字を追ったあと、水面へ目を移して片足を入れた。


「でも今日、なんか軽いです」


 凪も足先へ水を当てる。ノートにあるような岸壁側へ足を取る水は弱く、脛へまとわりついた水も途中でほどけていた。


「ノートと違うんですか」

「うん」


 渚がもう一度、澪の字を見た。


「じゃあ、これが間違っとるんですか」


 凪は足首を抜ける水と、浮標の間をまっすぐ流れる泡を見た。


「違う。たぶん、今日の海じゃない」


 渚も水面へ顔を戻した。


 岸壁では遥香が笛とノート、時計を揃え、結は先に水へ入って水面担当の位置へ回った。花、凪、陽、渚、芽衣も水際に集まる。


「最初はアップからです」


 五人全員で十五分のアップを終えて岸へ戻ると、遥香は花、凪、陽、芽衣を呼び、渚には岸で待つよう伝えた。


 遥香が時計を見ても、誰も水へ入らなかった。


 花が水面と遥香を見比べた。


「……入ってええんよね?」

「はい」


 返事が終わるより先に花が水へ入り、凪もその水音を追って続いた。陽が横から静かに沈み、その後から芽衣が水を蹴った。


 遥香が最初の潮核を水面へ出すと、花が真っ先に向かい、芽衣もその後を追った。だが芽衣は花との距離を詰めすぎ、浮標の手前で身体を止めた。二人の後ろで陽の手がサインを出し、凪には見えたものの、花はもう潮核へ手を伸ばしている。


 結が水面から手を上げたところで凪の肺の奥が詰まり始め、水を蹴って顔を出した。


「凪、浮標側、薄い!」


声を拾ってすぐ潜り直し、浮標側へ出た。足首へ当たる水は澪のノートに残された流れより弱く、流れに身体を預けても花の横までは届かず、芽衣の後ろに残った。芽衣は、潮核を拾って胸元のゼッケンを赤く光らせた花を止めようと、正面へ入りすぎている。花も進路を変えず、芽衣の肩が花の腕へ触れかけたところで、ようやく岸から笛が鳴った。


 凪が水面へ顔を出すと、花と芽衣も近くに浮かび、陽は立ち泳ぎのまま岸を見ていた。


「上がれ」


 水面の結が口元を押さえ、肩を揺らした。岸の遥香がそちらへ顔を向けると、結は口元を隠したまま首を横へ振った。


 花は岸壁へ手をかけながら、遥香を見上げた。


「今の、なんか硬かったね」


 遥香の指が笛の紐を握り直した。


「……一度、上がってください」

「そっちの方が遥香っぽい」


 花が岸へ上がると足元へ水が広がり、芽衣もその後へ続いた。凪も岸壁へ手をかけ、隣では陽がゴーグルを上げていた。


 遥香はノートを開き、予定していた三秒タッチの確認を後へ回した。横から覗き込んだ花が眉を寄せる。


「やらんの?」

「後にします」

「じゃあ何するん」


 遥香はノートではなく、さっき花だけが先に入った水際を見た。


「さっき、花さんだけ先に入りました」

「……そうじゃった?」

「そうだった」


 凪が答えると、花がこちらを見た。


「凪さんたちは花さんを見てからでした。陽さんのサインが出た時には、もう先にいました」


 水面から岸へ寄ってきた結が、花を見る。


「そこ、澪がおった時は考えんでもよかったけえね」

「勝手に始まっとったし」

「勝手じゃないじゃろ。澪が始めよったんよ」


 凪も、最初に誰の声を聞いていたかなんて考えたことがなかった。練習でも試合でも、澪が何かを言えば身体を動かしていた。それを合図だと思う必要すらなかった。


 前髪を持ち上げていた花の手が止まった。遥香と目が合う。


「うちが澪の代わりするん?」


 海から入った風に、遥香のノートのページがぱらぱらとめくれた。遥香はその上を押さえた。


「代わりじゃないです。花さんの声で始めたいです」


 花は口を曲げたまま、結へ視線を振った。


「じゃあ『行くぞ』って言うん?」

「似合わん」

「まだ言ってないじゃろ」

「言わん方がええよ」


「結」


 結は肩を揺らしたまま、遥香を見た。


「花さんの言い方でいいです」


 花は水面へ目を戻した。浮標のロープが波に引かれて張り、また緩んだ。


「分かった」


 その横で凪は、開いたままの潮況ノートへ目を落とした。澪の字はそこに残っているのに、顔を上げれば今の泡は岸壁へ戻らず、渚が言った通り足へ返る水の押しも弱い。


 書いてあることだけ信じるな。


 凪はノートを閉じ、岸壁の濡れない場所へ置いた。


 花も水際へ戻ると、隣に来た芽衣を見て、自分の肩の位置を手で示した。


「芽衣」

「はい」

「さっき、前に入りすぎ」

「はい」

「でも、下がったままよりはええ。次に入るときは、うちの肩まで出てこんで、後ろから来て」

「はい」


 遥香は次の組み合わせを確認して、芽衣に岸へ残るよう伝えた。代わって渚が水際へ入り、花、凪、陽と並ぶ。


 結が水面担当の位置へ戻り、遥香も時計を構えた。


「笛は止める時だけにします」

「了解」


 花は全員を一度見てから息を吸った。


「行くよ」


 その声で花が水へ入り、凪と陽も続いた。渚の飛び込む水音だけが掛け声の終わりに重なったものの、最初のように花だけが先へ抜けることはなかった。


 花の後ろで陽の手が動くと、今度は花もサインを見て進路を変えた。四人の位置がまとまりかけたところで、渚だけが弱い水を追って右へずれる。


 肺の奥が苦しくなり始め、凪は一度浮上した。


「浮標側、捨てて!」


 結の声を拾って息を入れ、すぐ身体を沈める。その先では渚が弱い水を先に蹴り、花より右へ身体を出していた。


 花が潮核を拾うと胸元のゼッケンが赤く光ったが、今度はそのまま先へ行かず、陽のサインを見て身体を返し、薄い流れへ潮核を離した。


 潮核が薄い流れへ乗ったところで、岸から笛が鳴った。


 凪が水面へ戻ると、花と陽も顔を出し、右へずれていた渚も水を蹴って戻ってくる。遥香は時計を止めた。


「ここまでです。上がってください」


 岸へ戻った花が腕の水を払い、陽はゴーグルを外し、渚も額へ上げた。


 遥香がノートへ書き込んでいる間に、花はもう水際へ戻っていた。


「もう一回」


 遥香はペンを止めて顔を上げた。


「はい」


 次は陽が岸に残り、芽衣が水際へ戻った。結も水面担当の位置へ入り直し、花、凪、渚の横へ芽衣が並ぶ。さっきのように花の肩まで出ず、進路を塞がない位置にいる。


 凪が水面へ目を戻すと、さっきまでまっすぐだった泡の筋が、浮標の手前で岸壁側へ曲がり始めていた。


 また変わっている。


 澪のノートを開き直す必要はなかった。今ここにある水を見ればいい。


 その横で、花が全員を見渡した。


「行くよ」


 渚の水音は花の掛け声の終わりに重なり、芽衣は凪たちが入ったあとから続いた。それでも今度は、全員が花の声を聞いてから動いていた。


 水へ潜ると花の声はもう届かず、隣を泳いでいた渚だけが泡の筋を追うように進路を変え、花たちの列から外れていった。


 凪は、曲がり始めた泡の先へ身体を向けた。

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