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潮球  作者: カミツキ
七人の海

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第48話 始める声

鍵が、一度で回らなかった。


 遥香は手元を見た。

 部室の扉の前で、七人分の足音が止まった。


 花は何も言わなかった。

 陽は窓の方を見ていた。


 遥香が、もう一度鍵を回した。


 今度は、小さく鳴った。


 扉が開く。


 夏の部室の匂いがした。

 湿ったタオルの匂いと、古いマーカーの匂い。

 窓は閉まっていた。

 机の上に、昨日のホワイトボードが残っている。


【新体制】

 部長 遥香

 試合中 花


 花がホワイトボードを見た。


「ほんまに二行で終わっとる」


「書き足します」


 遥香は鞄からノートを出した。

 ページの端には、付箋がいくつも貼ってあった。


 花が椅子に座ろうとして、やめた。

 机の端に腰だけ預けた。


 渚は窓を開けた。

 外の熱い風が入ってくる。


「暑いです」


「開けても暑いんじゃね」


 結がマーカーを取って、遥香に渡した。


 遥香は受け取った。

 キャップを外す。


 白い跡の残ったホワイトボードに、細い字が並んでいった。


 アップ 十五分

 三秒タッチ確認

 潮核誘導

 水面連携

 交代位置

 記録


 芽衣は、書かれた文字を最初から最後まで読んでいた。


 渚は三行目あたりで、水筒を開けた。


 花の指が、机の上で二回鳴った。


「全部やるん?」


「今日は確認なので」


「確認多いね」


「最初なので」


 遥香はノートを閉じた。


「先に準備をお願いします。十分後に練習区画へ行きます」


 花が口を開きかけた。


 結が、花の肘を指で押した。


「十分くらい待てるじゃろ」


「待てるわ」


 花は立ち上がった。


「着替えるだけじゃけ」


 陽が、机の下に落ちていたマーカーのキャップを拾った。

 遥香の横に置く。


 遥香は、それを見てから小さく頭を下げた。


 準備の音だけが、部室に散らばった。



港の練習区画は、まだ夏の色をしていた。


 水面に光が残っている。

 岸壁の影が短い。浮標の間に、細い泡の筋が流れていた。


 凪は、潮況ノートを開いた。


 澪の字があった。


 午後

 南寄り。

 岸壁側に戻りあり。

 浅い位置で曲がる。


 凪は水面を見た。


 泡の筋は、岸壁側へ戻っていない。

 まっすぐ流れて、途中で薄くなっている。


 ページの端を、親指で押さえる。


 渚が横から覗き込んだ。


「それ、澪さんのですか」


「うん」


「すごいですね」


 渚はノートではなく、水の方を見た。


「でも今日、なんか軽いです」


 凪はノートを閉じなかった。


 遥香が岸壁の上に立った。


 ゴーグル。

 笛。

 ノート。

 時計。


 全部、きちんと揃っていた。


 花が先に水際へ出る。


「入ってええん?」


 遥香は時計を見た。


「はい。最初はアップからです。結さんは水面をお願いします」


「了解」


 結が水面用の位置へ回った。


 芽衣がゴーグルを直した。

 渚はもう片足を水につけている。


 花が遥香を見た。


 遥香は笛を持ったまま止まった。


 水の音が先にした。


 花が入った。


 凪が続く。

 陽が静かに沈んだ。

 渚は勢いよく入りすぎて、水が大きく跳ねた。


「渚さん」


 遥香の声が飛んだ。


 渚が水面で振り返る。


「すみません」


 芽衣が最後に入った。


 七人ではなく、五人が先に入った。

 結は水面担当の位置にいる。

 遥香は岸にいる。


 凪は、水の中で足を伸ばした。


 夏の水だった。

 でも、足に返ってくる押しが弱い。


 花が前に出る。

 速い。


 芽衣が追う。

 追いすぎて、浮標の手前で止まった。


 陽の手が動いた。

 サイン。


 凪の目には入った。

 でも、花はもう先にいた。


 渚が別の泡を追う。

 潮核のない方へ行きかける。


 結が水面で手を上げた。


「渚、そっち違う!」


 渚の顔は水の中にあった。


 声は、水面で切れた。


 凪が浮上する。

 息を吸う。


「凪、右、薄い!」


 結の声が届いた。


 凪は右へ動いた。

 でも、右の水はノートと違った。


 足が遅れる。


 花が潮核に触れた。

 赤い光が、短くついた。


 芽衣が止めに入る。

 正面に入りすぎた。


 花の肩がぶつかりかける。


 遥香の笛が鳴った。


 一拍、遅かった。


 花が水面に顔を出す。

 芽衣も上がる。

 渚が遅れて戻ってきた。


 遥香の手が笛の紐を握っていた。


「上がれ」


 声が、水面に落ちた。


 花の動きが止まった。

 凪は顔を上げたまま、遥香を見た。


 芽衣は急いで浮標の方へ戻った。

 渚は素直に岸の方へ泳いでくる。

 陽は何も言わず、立ち泳ぎのまま遥香を見ていた。


 結だけが口を押さえていた。

 肩が一回だけ揺れた。


 遥香が結を見る。


 結は首を横に振った。

 まだ口を押さえている。


 遥香の指が、笛の紐を握り直した。


「一度、上がってください」


 今度は違う声だった。


 花が岸壁に手をかけた。

 水が腕から落ちる。


「今の、なんか硬かったね」


 結が口元を拭った。


 遥香はノートに目を落とした。


「すみません」


「謝るとこじゃないじゃろ」


 花が岸に上がった。

 足元に水たまりができる。


 芽衣が少し離れて立った。

 肩が固い。


 渚はゴーグルを額に上げた。


「上がりました」


「見たら分かる」


 結が小さく息を吐いた。


 遥香はノートを開いた。

 書いてきた練習メニューに、ペン先を置く。


 線を一本引いた。


 三秒タッチ確認。


 その文字の上に、線が入った。


 花が覗き込んだ。


「やらんの?」


「後にします」


「じゃあ、何するん」


 遥香は水面を見た。

 それから、全員を見た。


「声を合わせます」


 結が口を閉じた。


 渚が首を傾げる。


「声ですか」


「はい」


 遥香はノートを閉じた。


「水の中では聞こえません。でも、上がった時と、始める時は聞こえます」


 花の眉が少し動いた。


 遥香は続けなかった。


 凪は、手の中の潮況ノートを見た。

 表紙はまだ濡れていない。


 もう一度、水面を見る。


 澪の字。

 目の前の泡。

 渚の言葉。


 凪は、潮況ノートを閉じた。


 遥香がそれを見た。


 何も聞かなかった。


 花が水際に戻った。


「で、誰が声出すん」


 遥香は花を見た。


「花さん、最初だけお願いします」


「最初だけ?」


「最初が、一番必要なので」


 花は口を曲げた。


「最初からそう言えばええんよ」


 結が水面に戻った。

 陽がサイン表を一枚だけ岸に置いた。

 渚が先に水へ足を入れる。


 芽衣は花の隣に立った。


「芽衣」


 花が水面を見たまま呼んだ。


「はい」


「さっき、止まりすぎ」


 芽衣の肩が動く。


「はい」


「でも、止まらんよりはええ」


 芽衣が花を見た。


 花はもう前を向いていた。


 遥香が時計を見た。

 笛を持つ。


 今度は、すぐに吹かなかった。


 結が水面から手を上げる。

 陽が頷く。

 凪はノートを岸に置いた。


 花が息を吸った。


「行くよ」


 澪より低く、荒い声だった。


 花が入る。


 凪が続いた。

 陽が沈む。

 芽衣が遅れて入った。

 渚は一拍早く水を蹴った。


 そろってはいない。


 結の指が、水面で短く動く。

 遥香の笛が、一拍早く鳴った。


 凪は顔を上げた。


「右、捨てて!」


 結の声が届く。


 凪は右を捨てた。


 渚が、薄い水を先に蹴る。

 芽衣が止まりすぎず、花の後ろに入る。


 陽のサインは、一つだけだった。


 花が潮核に触れる。

 赤い光がつく。


 すぐには進まない。


 花が一度だけ水面に顔を出した。


「次!」


 遥香の笛が鳴った。


「止めます。上がってください」


 結の肩は、もう揺れなかった。


 花が岸へ戻る。

 渚が水をかいて戻る。

 芽衣の息は少し荒い。


 凪は最後に上がった。


 潮況ノートは、岸に置いたままだった。


 遥香はノートに何かを書いた。

 字はまだ小さい。


 花が水を払った。


「もう一回」


 遥香が顔を上げた。


「はい」


 結が水面へ戻った。

 陽がサイン表の端を折った。

 渚がゴーグルを下ろす。

 芽衣が、花より半歩後ろに立つ。


 凪は水面を見た。


 泡の筋はさっきより曲がっていた。


 花が息を吸う。


「行くよ」


 水音。

 笛の音。

 結の声。


 七人分の音が、少しずつずれて重なった。


 練習が始まった。

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