第47話 白い跡
翌日の部室は、電気がついていなかった。
窓は開いている。
風も入っている。
でも、電気のスイッチは下りたままだった。
机の上には、昨日のままのホワイトボードが立てかけてあった。
【地区大会】
一回戦 庄原北
二回戦 国際広
三回戦 宮島
最後の行だけ、線が濃かった。
三原中央 1-宮島 2
凪は、入口の近くに立っていた。
花は椅子に座らなかった。
部室の真ん中に立ったまま、ホワイトボードの前から動かなかった。
結はケースからマーカーを出して、すぐに戻した。
陽は窓際に立っていた。
外の水面の光が、頬に薄く揺れていた。
渚は壁際にいた。
鞄を、足元に引き寄せていた。
芽衣はタオルを畳んでいた。
畳む必要のないタオルだった。
遥香はノートを膝の上に置いていた。
開いているのに、何も書いていなかった。
ドアが開いた。
澪が入ってきた。
いつもと同じ歩き方だった。
澪はホワイトボードの前に立った。
誰も椅子を引かなかった。
マーカーのキャップも開かなかった。
澪がイレーザーを取った。
白い面の上を、ゆっくり動かす。
庄原北の文字が消える。
国際広の文字が消える。
宮島の文字も消える。
スコアだけが残った。
澪は、もう一度イレーザーを動かした。
数字が消えた。
白い粉が残った。
指でなぞったような跡が、うっすら残っている。
花が息を吸った。
でも、何も言わなかった。
澪はイレーザーを置いた。
「終わった」
短かった。
結が、下を向いた。
渚が壁から背中を離した。
遥香の指が、ノートの端を押さえた。
澪は棚の方へ歩いた。
潮況ノート。
サイン表。
練習区画のメモ。
古いマーカー。
部室の鍵。
ひとつずつ、机の上に置いていった。
鍵だけが、かすかに鳴った。
「凪」
凪は顔を上げた。
澪が潮況ノートを差し出した。
「全部は書いてない」
凪は受け取った。
表紙の端が、少しだけ曲がっていた。
何度も開いた跡があった。
「はい」
「読んだことだけ信じるな」
凪はノートを胸の前で持った。
「はい」
澪は次に、結の前へ水面用のメモを置いた。
水面用のメモ。
相手校ごとのサイン。
息継ぎの位置を書いた紙。
結が両手で受け取った。
「これ、うちでいいん?」
「お前しかおらん」
結はメモを胸の前で持った。
陽の前には、サイン表が置かれた。
陽の指が、紙の端に触れた。
それから、澪の方へ顔が上がった。
「増やすなよ」
陽が首を傾けた。
「増える」
「じゃろうね」
最後に、部室の鍵が机に残った。
澪の手は、鍵の横で止まっていた。
「次を決めろ」
花が顔を上げた。
「今?」
「今」
花は眉を寄せた。
「うちらで?」
「うちらじゃない」
澪は一歩下がった。
「お前らで」
花の指が、机の端で止まった。
「凪、やる?」
凪はすぐには答えなかった。
潮況ノートの重さが、手の中にあった。
「私は、そういうの向いてないと思う」
花の目が細くなった。
「そう?」
「うん」
凪の手元で、潮況ノートの表紙が少し曲がった。
「花か、結の方が向いてると思う」
花の体が結の方へ向いた。
結は小さく首を振った。
「うち、そういうのパス」
花が、最後に陽を見た。
「陽は?」
陽はサイン表を持ったまま、ゆっくり頷いた。
「どっちの頷きなん」
陽はサイン表の端を押さえたままだった。
「花か結」
「二択に戻さんで」
結が、机に手を置いた。
「なら、うちが選んでいい?」
花は目を丸くした。
それから、頷いた。
「ええよ」
結は、迷わず振り返った。
「遥香」
遥香の手が、ノートの上で止まった。
「私ですか」
「うん」
「一年です」
「知っとる」
遥香のノートには、宮内瀬那の線がまだ残っていた。
一本だけ、線のない場所があった。
芽衣の手が、止まった。
「一年にやらせるんですか」
タオルの角が、指の間に沈んでいた。
花の体が、芽衣の方へ向いた。
「先輩面して回せんかったら意味ないじゃろ」
芽衣は下を向いた。
「すみません」
「謝るとこじゃない」
結が遥香の前に鍵を押した。
「部長、やる?」
遥香は鍵を見た。
指が伸びかけて、止まった。
「私、水中で何も決められません」
「水中は、花が決める」
結は花の方へ顎を向けた。
「部長と、試合中に前へ出る人は別でええじゃろ」
花は視線を落とした。
遥香は、ゆっくり鍵を取った。
小さな音がした。
「分かりました」
遥香はまっすぐ結を見た。
「やります」
渚が、壁際で息を吐いた。
「遥香なら、起こしてくれそうです」
遥香の手が、鍵を握り直した。
「起こします」
「優しくお願いします」
「大会の日は無理です」
結の口角が上がった。
芽衣も口元を動かした。
花は机に両手をついた。
「じゃあ、決まりじゃね」
「決まったなら、やれ」
澪はそれだけだった。
遥香は鍵を両手で握った。
花が、澪の前に半歩だけ出た。
「これでええん?」
澪は動かなかった。
「うちに聞くな」
花の目が、また赤くなった。
「聞きたいじゃろ」
「聞くな」
机の上で、花の指が曲がった。
爪の先が、少しだけ白くなっていた。
花の口が、少しだけ開いた。
でも、声は出なかった。
澪は花を見ていた。
「お前らで決めたんじゃけ、うちが言うことじゃない」
花は下を向いた。
しばらく、マーカーの音もしなかった。
窓の外で、水面の光が揺れていた。
ホワイトボードには、消したはずの数字の跡が残っている。
結が、小さく息を吐いた。
「じゃあ、新しいの書く?」
ホワイトボードの前に立つ。
マーカーを取る。
キャップを外す。
先が、白い跡の手前で止まった。
結は、白い跡の残ったボードに、ゆっくり文字を書いた。
【新体制】
その下で、手が止まる。
結が遥香を見た。
遥香は息を吸った。
『部長 遥香』
結が書いた。
花が机に指を置いた。
「試合中は、うちが前に出る」
結が頷いた。
その下に、短く書いた。
『試合中 花』
それ以上は、書かなかった。
澪は、新しい文字の前に立っていた。
何も足さなかった。
窓の外で、フェリーの汽笛が鳴った。
遠かった。
でも、部室まで届いた。
澪が鞄を持った。
花が一歩動いた。
澪は手で止めた。
花の足先だけが、ドアの方を向いていた。
でも、体は動かなかった。
「まだ、終わっとらん」
花の声は、怒っているみたいだった。
澪は手を下ろさなかった。
「終わった」
「終わっとらん」
花の指が、机の端を掴んだ。
机が少し鳴った。
「一点、取ったじゃろ」
「宮内、人に戻したじゃろ」
「最後、届きそうじゃったじゃろ」
声が、そこで割れた。
「なのに、なんで終わるん」
誰も動かなかった。
澪は、花の前に立っていた。
「花」
「何」
「うちは、終わる」
花の顔が歪んだ。
机を掴んでいた指が、少しだけ白くなった。
「でも、お前らは終わらん」
花は顔を上げなかった。
「聞こえとる」
澪の手が、花の肩に一度だけ置かれた。
「なら、ええ」
花は何も返せなかった。
それでも、口だけが動いた。
「明日は?」
澪はドアの前で振り返った。
「明日からは、お前らで決めろ」
澪は出ていった。
ドアが閉まる音は、小さかった。
遥香の手に、鍵があった。
凪の手に、潮況ノートがあった。
結のマーカーは、まだホワイトボードに触れていた。
花の足先だけが、ドアの方を向いていた。
陽が棚の前で止まった。
棚には、だるまが並んでいた。
ひとつだけ、両目が入っている。
その隣に、片目のだるまが四つ。
結が、指先で棚のほこりを少し払った。
「まだ、願い残っとるね」
花は答えなかった。
凪は、片目のまま残っただるまを見た。
白い目が、窓から入る光を受けていた。
終わったものと、終わっていないものが、同じ棚に並んでいた。
ホワイトボードには、新しい文字が残っていた。
【新体制】
部長 遥香
試合中 花
その下に、消したはずの数字の跡が、まだ白く残っていた。




