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潮球  作者: カミツキ
2年目の海

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46/94

第46話 三原の、海

帰りの船は、行きより静かだった。


 窓際を取り合わなかった。

 売店の前も、通り過ぎるだけだった。


 渚も、何も買わなかった。


 船が岸を離れる。

 大三島の影が、ゆっくり後ろへ下がっていく。


 凪は甲板の端に立っていた。


 海を見ていた。


 波の形。

 船の後ろに伸びる白い線。

 島の影で少しだけ変わる水の色。


 読めるものはあった。

 でも、試合中みたいに追いかける必要はなかった。


 白い航跡が、夕方の水面にほどけていく。

 大三島の影が遠ざかるたび、海の色が少しずつ変わった。

 怖いと思った。

 それでも、見ていた。


 綺麗だとは、まだ言葉にできなかった。

 でも、目は逸れなかった。


 澪は船内の席に座っていた。


 隣に、花がいた。


 行きの船と同じだった。

 でも、今度は花の肩が澪に触れていた。


 澪は窓の外を見ていた。

 花も、同じ方を見ていた。


 どちらも喋らなかった。


 陽は通路側の席で眠っていた。

 首が横へ傾いている。


 結がそれを見て、スマホを持ち上げた。


 画面を向ける。


 けれど、撮らなかった。


 スマホを膝の上に伏せる。


 遥香は鞄から時刻表を出していた。

 見ているだけで、ページはめくれなかった。


 芽衣は両手を膝の上に置いていた。

 指が、ずっと同じ場所を握っている。


 渚は座席の背もたれに頭をつけていた。

 目は開いている。

 瞬きだけをしていた。


 船が揺れた。


 誰かの荷物が、足元でずれた。


 花がそれを足で止めた。

 澪の荷物だった。


 澪は花の方へ顔を向けた。


 花は何も言わなかった。



三原港に着いた。


 桟橋に降りると、足元が少し揺れていた。

 船の揺れが、まだ体に残っている。


 フェリーターミナルの灯りが、水面に細く伸びていた。

 いつもの港だった。

 練習してきた海だった。

 負けたあとに戻ってくる海だった。


 凪は一度だけ、岸壁の方を見た。


 初めて澪に声をかけられた場所が、暗い中に残っていた。


 澪が先に歩いた。


 いつもと同じ歩幅だった。


 花が、その後ろを遅れて歩いた。

 結がホワイトボードのケースを持ち直した。


 陽はまだ眠そうだった。

 凪は最後尾で、水面から目を離した。


 駅へ向かう道の手前で、澪が立ち止まった。


「一年は先に帰れ」


 渚が顔を上げた。


「え」


「今日は休め」


 遥香が口を開きかけた。

 でも、言葉にならなかった。


 芽衣は、澪を見ていた。


「明日、部活は」


「連絡する」


 澪はそれだけ言った。


 渚は何か言いかけて、鞄の紐を握った。

 遥香が小さく頭を下げた。

 芽衣も、遅れて頭を下げた。


 三人は駅の方へ歩き出した。


 振り返らなかった。


 一度だけ、渚が足を止めた。

 でも、すぐに前を向いた。


 人の流れに混じって、三人の背中が小さくなっていく。


 澪が歩き出した。


 花が隣に並んだ。


「どこ行くん」


 澪は前を向いたままだった。


「来々軒」


 花の足が、一瞬だけ止まった。


 結も、陽も、凪も止まった。


 澪は振り返らなかった。


「行くぞ」


 花が小さく息を吸った。


「うん」


 五人は、駅の方へ歩いた。


 祭りの日ではない。

 通りに太鼓の音はない。

 露店もない。


 普通の道だった。


 信号が変わる。

 自転車が通り過ぎる。


 花は、いつもより遅く歩いていた。

 澪の歩幅も、そこで落ちた。



来々軒の暖簾が見えた。


 赤い布が、風で揺れていた。

 中から、湯気の匂いがする。


 花が暖簾の前で足を止めた。


「開いとる」


 澪が暖簾をくぐった。


 続いて、花が入る。

 結、陽、凪も入った。


 店の中で、箸の音が止まった。


 テーブル席の奥に、三人がいた。


 渚。

 芽衣。

 遥香。


 三人とも、ラーメンを食べていた。


 芽衣の目元は赤かった。

 鼻をすすりながら、麺をすすっている。


 遥香は紙ナプキンを握っていた。

 目元を拭いたあとが、何枚も小さく丸まっていた。


 渚の前には、空のご飯茶碗があった。

 ラーメンの鉢も、ほとんど空になっている。


 花が、口を開けたまま固まった。


「何しとん」


 渚が箸を止めた。


「お腹が減ったので」


 声が鼻にかかっていた。


 結が目を細めた。


「泣いとるじゃん」


「泣いてません」


 渚はそう言って、残った麺をすすった。


 芽衣が下を向いたまま、丼を両手で持った。


「すみません」


 誰に向けた言葉か分からなかった。


 遥香が紙ナプキンを取ろうとして、コップに指を当てた。

 水面に小さな輪が広がった。

 結がそれを押さえた。


「三人で来たん?」


 遥香は頷いた。


「帰ろうと思ったんですけど」


 そこで止まった。


 続きはなかった。


 厨房から店主が顔を出した。


「入口で詰まるな。入れ」


 花が振り返る。


「おっちゃん」


「水落とすなよ」


 テーブルは三つ。

 カウンターは五席。


 八人でも座れた。

 でも、いつもの来々軒より、ずっと狭く見えた。


 陽がカウンターの端に座った。

 凪もその隣に座る。

 結がホワイトボードのケースを壁に立てかけた。


 澪と花は、三人のいるテーブルに近づいた。


 芽衣が慌てて横に詰めた。

 渚も丼を持ち上げかけた。


「熱いけえ持って動くな」


 店主の声が飛んだ。


 渚は動きを止めた。


 花が、渚の隣に座った。

 澪は向かいに座る。


 遥香が紙ナプキンを畳み直した。

 でも、また目元を拭いた。


 店主が厨房の奥で麺を入れた。


 湯気が上がる。

 ざるが鳴る。

 丼が並ぶ。


 誰も、試合の話をしなかった。


 店主がラーメンを五つ、順番に置いた。


 最後に、暖簾の方へ歩く。

 外を見て、暖簾を半分だけ下ろした。


 花が顔を上げる。


「閉めるん?」


 店主は腰に手を当てた。


「今日は腰が痛いけえな。花ちゃんらの分作ったら、一時間休むわ」


 そう言って、厨房へ戻った。


 花は何も言わなかった。


 澪も、何も言わなかった。


 湯気だけが、テーブルの上に残った。


 凪は割り箸を割った。

 うまく割れなかった。

 片方だけ、細く裂けた。


 陽が、自分の割り箸を一本差し出した。


 凪は迷って、受け取った。


「ありがとう」


 陽は頷いて、ラーメンを見た。


 結がスマホを出した。

 テーブルの上に置く。

 画面を伏せたままにする。


 澪が箸を取った。


「食べろ」


 誰も返事をしなかった。

 ただ、みんな箸を取った。


 麺をすする音が、店の中に広がった。


 芽衣がまた鼻をすすった。

 遥香が紙ナプキンを一枚取った。

 渚は空になりかけた鉢を見て、それから澪を見た。


「スープ、飲んでもいいですか」


 結が目を丸くした。


「そこ確認するん」


「お腹が減ったので」


 声が震えていた。


 花が下を向いた。

 肩が揺れた。


 渚は丼を両手で持って、スープを飲んだ。


 澪は、ゆっくり麺を食べていた。


 花の箸が止まった。

 結の手も、鉢の横で止まった。

 凪は、湯気の向こうにいる澪から目を離せなかった。


 澪は鉢の中の麺を、最後まで食べた。

 それから、箸を置いた。


「負けた」


 澪の声は、いつもと同じだった。


「届かんかった」


 花が唇を噛んだ。


「でも、一点取った」


 澪は花の方へ顔を向けた。


「うん」


「宮内、人に戻した」


「うん」


「でも、負けた」


「うん」


 花の目から涙が落ちた。

 澪の手は動かなかった。


「花」


「何」


「来年、勝て」


 花の口が開いた。

 息だけが出た。


 言葉は出なかった。


 結が両手で鉢を持っていた。

 その手が震えている。


 陽はスープを見ていた。

 何も言わない。


 凪は、自分の膝の上で手を握った。


 渚が丼を置いた。

 芽衣が顔を上げた。

 遥香も、紙ナプキンを握ったまま澪を見ていた。


 花も、結も、陽も、凪も。

 渚も、芽衣も、遥香も、澪の方を向いていた。


「うちは、ここまで」


 店の外を、自転車が通り過ぎた。

 ベルの音だけが残った。


 花が首を横に振った。


 澪は何も言わなかった。


 凪は、来々軒の窓の外を見た。

 道路の向こうに、海は見えない。

 でも、港の方から湿った風が入ってきた。


 三原の匂いだった。


 花が、ラーメンの鉢を両手で掴んだ。

 麺をすすった。

 途中で一度止まって、またすすった。


 結も、箸を取った。

 陽も、ゆっくり麺を口に運んだ。


 渚は、空になった丼を前に置いた。

 芽衣がまた鼻をすすった。

 遥香が紙ナプキンを握りしめた。


 澪は水を飲んだ。


 店主は、厨房の奥に引っ込んでいた。

 何も聞かなかった。


 暖簾は、半分だけ下りていた。


 湯気が、鉢の上に残っていた。

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