第46話 三原の、海
帰りの船は、行きより静かだった。誰も窓際を取り合わず、売店の前もそのまま通り過ぎていく。朝は二杯目のご飯まで食べていた渚さえ、何も買わなかった。
船が岸を離れると、大三島が少しずつ遠ざかっていった。凪は甲板の端に立ち、船の後ろへ伸びる白い航跡を目で追う。波の形も、島陰を抜けるところで変わる水の色も、見ていれば分かるものはいくつもあったが、今日はその先まで読まなくていい。どこで流れが曲がるのか、誰がそこへ入るのかを考える必要もなく、白い線は夕方の水面へゆっくりほどけていった。
船縁のすぐ下を流れる水へ目を落とすと、手すりを握る指に少し力が入った。それでも凪は、しばらく海から目を離さなかった。
船内へ戻ると、澪は行きと同じ席に座っていた。隣には花がいて、今度は肩が触れている。二人とも窓の外を向いたままで、その少し離れた通路側では陽が首を傾けて眠っていた。結はいつものようにスマホを向けかけたものの撮らずに膝へ伏せ、遥香は時刻表を同じページで開いたまま動かない。その隣で芽衣が膝の上の手を握り、渚も背もたれへ頭を預けて窓の外を見ていた。
誰も眠っている陽を起こさず、誰も試合の話をしなかった。
船が大きく揺れた拍子に、澪の足元から荷物がずれた。花が靴の先で止めると、澪がそちらへ顔を向ける。
花は足をどけないまま、また窓の外を見た。
三原港に着くころには、フェリーターミナルの灯りが水面へ細く伸びていた。桟橋へ降りても船の揺れが身体に残り、足元がわずかに頼りない。その先にはいつも練習してきた岸壁が暗く続いていて、凪は歩き出す前に、初めて澪から声をかけられた辺りを一度だけ見た。
今日は、負けてここへ戻ってきた。
澪はいつもと変わらない歩幅で先に進み、その少し後ろを花が歩いた。結はホワイトボードのケースを持ち直し、まだ眠そうな陽も続いていく。凪も最後にもう一度だけ港を振り返ってから、みんなの背中を追った。
駅へ向かう道の手前で、澪が足を止めた。
「一年は先に帰れ」
渚が顔を上げる。
「え」
「今日は休め」
遥香が何か言いかけた横で、芽衣が澪を見た。
「明日、部活は」
「連絡する」
渚は鞄の紐を握り、遥香が小さく頭を下げると、芽衣も少し遅れて続いた。
三人は駅へ向かった。途中で渚だけが一度足を止めたが、こちらを見ることはなく、そのまま人の流れへ入っていく。やがて三人の背中が見えなくなると、澪はまた歩き出した。
花が隣へ追いついた。
「どこ行くん」
「来々軒」
花の足が止まり、結と陽、凪までつられて立ち止まった。澪だけは振り返らない。
「行くぞ」
少し遅れて、花が息を吸った。
「うん」
祭りの日ではないから、通りに太鼓の音も露店もない。信号が変われば自転車が横を通り過ぎる、いつもの三原の道だった。
五人でそこを歩いていくうち、花の歩幅が少しずつ遅くなり、いつの間にか澪の歩幅も同じところまで落ちていた。
来々軒の赤い暖簾が風に揺れ、近づくと引き戸の隙間から湯気とスープの匂いが流れてきた。花が「開いとる」と声を漏らす横で、澪はそのまま暖簾をくぐる。五人が店へ入ったところで、奥のテーブルから箸の音が止まった。
渚と芽衣と遥香がいた。
三人ともラーメンを食べていたが、芽衣は赤くなった目元のまま鼻をすすり、遥香の手元には使った紙ナプキンがいくつも丸まっている。渚の前ではご飯茶碗がもう空で、ラーメンの鉢にもほとんど残っていなかった。
花が口を開けたまま固まった。
「何しとん」
渚が箸を止めた。
「お腹が減ったので」
声が鼻にかかっていた。
結が目を細めた。
「泣いとるじゃん」
「泣いてません」
渚はそう言って、残った麺をすすった。
芽衣が下を向いたまま、丼を両手で持った。
「すみません」
誰に向けた言葉か分からなかった。
遥香が紙ナプキンへ手を伸ばした拍子にコップへ指を当て、水面に小さな輪が広がる。傾きかけたところを結が押さえた。
「三人で来たん?」
遥香は頷いた。
「帰ろうと思ったんですけど」
厨房から店主が顔を出した。
「入口で詰まるな。入れ」
花が振り返った。
「おっちゃん」
店主は奥の三人を一度見た。
「店ん中で水増やすなよ」
テーブルが三つにカウンターも五席あるから、八人が入っても席は足りる。それでも今日は、いつもの来々軒よりずっと狭く見えた。陽がカウンターの端へ座ると、凪と結もその隣へ入り、結はホワイトボードのケースを壁へ立てかけた。
澪と花が三人のテーブルへ近づくと、芽衣が慌てて横へ詰め、渚も場所を空けようと丼を持ち上げかけた。
「熱いけえ持って動くな」
渚は慌てて丼を置き直し、その隣へ花が座ると、澪も向かいの席へ入った。遥香は手元の紙ナプキンを畳み直したものの、すぐまた目元へ持っていく。
厨房では店主が麺を入れ、湯気の向こうでざるが鳴り、空の丼が次々と並んでいった。それでも、誰も試合の話はしなかった。
五つ目のラーメンを置くと、店主は外を一度見てから暖簾を半分だけ下ろした。
「閉めるん?」
「今日は腰が痛いけえの。花ちゃんらの分は作ったけえ、一時間休むわ」
店主はそう言って厨房へ戻った。新しく置かれた五つの鉢から、湯気が上がっていた。
凪が割り箸を割ると片方だけ細く裂けた。それを見た陽が箸立てから新しい一膳を取って、凪の前へ差し出す。
「ありがとう」
陽は頷いて、ラーメンを見た。
結もスマホを取り出したが、画面を伏せたままカウンターへ置いた。
澪が箸を取った。
「食べろ」
返事の代わりにみんなが箸を取り、やがて麺をすする音が店の中へ広がった。その間にも芽衣は鼻をすすり、遥香は新しい紙ナプキンへ手を伸ばしていた。
渚が空になりかけた鉢を両手で持ち上げると、結が目を丸くした。
「まだ飲むん?」
「お腹減ってるので」
いつもの返事なのに声だけが震えていて、花は肩を揺らしながら下を向いた。渚はそのまま丼へ口をつけた。
澪はゆっくり麺を食べ続け、最後の一口を飲み込むと箸を置いた。鉢の縁に触れた箸の音で、凪は顔を上げる。
「花」
呼ばれた花の箸が止まった。
「何」
「来年、勝て」
花が顔を上げた。
「……急に何言いよるん」
澪は答えず、結と陽、凪へ順に目を向けた。奥のテーブルでも渚が丼を置き、芽衣と遥香が顔を上げた。みんなの視線が澪へ集まった。
「うちは、ここまで」
店の外を自転車が通り過ぎ、ベルの音がしばらく残った。花が首を横に振るのを視界の端に入れながら、凪は来々軒の窓の外へ目を向ける。道路の向こうに海は見えなかったが、引き戸の隙間から港の湿った風が入り込んできた。
三原の匂いだった。
花は一度鉢を両手で抱えるように持ってからテーブルへ戻し、途中で何度か箸を止めながらも、また麺をすすった。結と陽もそれぞれ箸を取り、奥のテーブルでは芽衣の鼻をすする音に、紙ナプキンの擦れる音が重なる。
澪が水を一口飲むあいだも、厨房の奥では食器の触れる音だけがしていた。半分だけ下りた暖簾の向こうを人影が通り過ぎ、鉢の上ではまだ湯気が揺れていた。




