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潮球  作者: カミツキ
1年目の海

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第5話 おじいちゃんの、海

やっさ祭りまで、二週間を切っていた。


駅前の商店街に、町内会ごとの旗が並び始めていた。

色とりどりの旗が、夏の風に揺れている。

港に向かう道も、少しだけ祭りの気配を帯びていた。


放課後の練習区画に五人が集まる。

荷物をまとめながら、花が言った。


「今日、町内会の打ち合わせがあるけん。練習終わったら先に帰るわ」


結が顔を上げた。


「やっさ?花ちゃんまた出るん?」


「毎年じゃけ。今年はばあちゃんの代わりにうちが音頭取るんよ」


それだけ言って、花は港の方を向いた。


澪がホワイトボードを出した。

今日は三つのパターンが書いてある。

Aパターン、Bパターン、Cパターン。


「サインを三パターンに増やす。試合ごとに使い分ける。相手に読まれたら切り替えるんじゃ」


「Cパターンって……サインなしって怖くないん?」結が眉を寄せた。


「怖い。でも、サインがあることに依存したら、読まれたとき何もできんくなる」


陽が静かに頷いた。


「Bパターン、頭がこんがらがりそうじゃけど」


「じゃけ今日から体に入れる。反射になるまでやるんじゃ」


花がぼそりと言った。


「……何百回もやるのは、得意じゃけんね」


誰も何も言わなかった。でも全員が、少し笑った。



練習が始まった。


Bパターンが難しかった。

陽が「右手を横に」出したとき、体がいつも通りの方向に動こうとする。

意味が逆なのに、体が覚えている動きに引っ張られる。


何度も間違えた。何度もやり直した。


花だけが、何度も同じことを繰り返していた。

間違えても顔に出さない。十回、二十回。


結が水面から叫ぶ。


「花ちゃん、今のBじゃった!」


「分かっとる!もう一回!」



練習の後半。

澪が凪を呼んだ。


「今日はこれをやる」


花がディフェンス役になった。

凪が潮核を拾って、花が追いかけてくる。

そのとき、あえて浅く流す練習。


「焦ったとき、体が深く行く。それを止める」


何度もやった。

花が来るたびに手が深く行こうとする。そのたびに引き戻す。


七回目。八回目。


十回目、体が先に動いていた。

気づく前に、手が浅く流していた。


「今の、感じたか」


「……手が、先に動いた」


「それが目標じゃ。頭より先に体が知る」


澪はそれだけ残して、次の練習に移った。


花が凪の隣に来た。


「最初からそれができたら苦労せんのじゃけどね」


「……そうですね」



練習の休憩。

凪が港の自販機でお茶を買っていると、花が来た。

隣の缶コーヒーを買って、凪の横に立った。


しばらく二人で、海を見ていた。


「凪ってさ」


花が缶を開けた。


「なんでそんなに流れ分かるん?」


「……分からない。昔から、なんとなく」


「生まれつき?」


「たぶん」


港でフェリーが汽笛を鳴らした。出港の時間だった。


「凪のおじいちゃん、漁師じゃったって聞いた」


凪の手が、少し止まった。


「……澪さんから?」


「ううん。うちのばあちゃんから。三原は狭いけん、港の人はみんな知っとるって」


「そう……なんだ」


「海の人じゃったんじゃね」


「……そう、らしい」


凪は缶を握ったまま、港の方を見た。


「私が生まれる前に、海で亡くなったから」


花は何も返さなかった。


「だから私、海が」


波の音に、言葉が途切れた。


「……そっか」



練習が再開した。

終わり際、澪が凪を呼んだ。


「花と何話しとったん」


「……おじいちゃんの話」


フェリーの音が、遠くで一度だけ鳴った。


「知っとった。凪のおじいちゃんが漁師だったこと」


「澪さんも、花のおばあちゃんから?」


「三原は狭いけんね。港の人はみんな繋がっとる」


凪は少し驚いた。

自分の知らないところで、名前が残っていた。


「凪の潮読みがおじいちゃんから来とるかどうかは、うちには分からん」


凪は視線を海に向けた。


「でも」


澪は同じ海を見たまま、言葉を続けた。


「お前が海を読めるのは、本物じゃ。怖くても、潜れる。それはお前のものじゃけんね」


潮の匂いが、少しだけ強くなった気がした。


「おじいちゃんの海と、お前の海は別もんじゃろ。でも、繋がっとると思うけどね」


風が来た。澪の髪が揺れた。

それ以上、澪は何も言わなかった。


練習が終わった。


結と陽と花が先に帰った。

花は港を出るとき「打ち合わせ行ってくるわ」と手を振った。


澪も荷物をまとめて、去っていった。


一人残った凪が、防波堤に立った。


海を見た。


いつもと同じ海。潮の匂い。

波の音。遠くに大三島の稜線が霞んでいる。


凪は海面に手を伸ばした。


波が来て、手の甲を濡らした。冷たい。


怖い。


でも。


なんで怖いん。


凪はまだ、答えを持っていなかった。

ただ、少し前とは違う場所に立っている気がした。


また、手を伸ばした。


駅の方から、太鼓の音が届いてきた。

やっさ祭りの練習だった。三原ではよくある、夏の夕方だった。

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