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潮球  作者: カミツキ
1年目の海

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第5話 おじいちゃんの、海

やっさ祭りまで、二週間を切っていた。


 駅前の商店街に、町内会の旗が並び始めている。

 風が吹くたび、赤や青の布がばらばらに揺れた。


 放課後の港の練習区画に、五人が集まった。


 花が荷物を置きながら、海の方を見た。


「今日、町内会の打ち合わせがあるけん。練習終わったら先に帰るわ」


 結が顔を上げた。


「やっさ?花ちゃん、出るん?」


「毎年じゃけ。今年はばあちゃんの代わりにうちが音頭取るんよ」


 花はゴーグルを手に取った。


「そうなんじゃ。じゃあ当日見に行こ」


 結がスマホに予定を入れた。


「凪、練習終わったらポーバ行こ」


「ポーバ?」


「うん、ポートバックス。新作出とるんよ。ソルティ伯方キャラメルマキアート」


「行ったことないからそれ飲んでみようかな」


「めっちゃ美味しいけんね」


 陽が凪に近寄った。


「すりおろしポンカンエスプレッソもいい」


 結が少し笑った。


「あれ、最悪の組み合わせじゃって」


 駅前の方から、まだ太鼓ではない音が届いた。

 旗を吊るす金具が、風で小さく鳴っている。



練習前。


 澪がホワイトボードを出した。

 昨日までの矢印の横に、三つの列が書かれている。


 A。

 B。

 C。


「サインを三パターンに増やす」


 澪がマーカーのキャップを閉めた。


「試合ごとに使い分ける。読まれたら切り替える」


 結がボードの前まで寄った。


「Cパターンって、サインなし?」


「そうじゃ」


「怖くないん?」


「怖い」


 澪は、書いたばかりのCの横に線を引いた。


「Cは、合図を消すだけじゃ。基準は消さん」


「基準?」


「うちの位置と、凪の流れ。そこだけ見る」


 陽が静かに頷いた。


「じゃけど、サインがあることに頼りすぎたら、読まれたとき何もできん」


 花がボードを見ていた。

 口元が、少しだけ上がる。


「何百回もやるのは、得意じゃけんね」


 結が笑った。

 澪も止めなかった。



練習が始まった。


 Bパターンが難しかった。


 陽の右手が横へ動く。

 凪の体は、いつもの深い層へ向かいかける。


「逆!」


 水面から結の声が飛んだ。

 凪は水を蹴り直した。

 間に合わない。


 次も同じだった。

 今度は花が先に動きすぎた。

 陽の手が下がった瞬間、体が前の意味を拾ってしまう。


「違う、浅い方!」


「分かっとる!」


 花が水面に上がった。

 息が荒い。

 でもすぐ潜る。


 間違える。

 戻る。

 もう一度、同じ角度で入る。


 十回目でも、花の息は荒かった。

 でも、顔は下がらなかった。


 陽が手を動かす。

 花が反応する。

 結が水面を叩く。


 何度もずれた。

 何度も戻った。



練習の後半。


 澪が凪の方を見た。


「次」


 花がディフェンス役になった。

 凪が潮核を持つ。

 花が前に出る。


 胸元に手が来る。

 三秒が始まる。


 手が、下へ行こうとした。


 水面の上で、澪の腕が横に振れた。


 違う。


 凪は手を引き戻した。

 潮核は中途半端な深さで止まって、花に読まれた。


「もう一回」


 また花が来る。

 手が下へ行く。

 戻す。

 遅い。


 七回目。

 八回目。


 花の手が近づくたびに、胸の奥が詰まった。

 大崎の手が近づいたときの水圧を思い出す。


 焦った瞬間、手が勝手に沈もうとする。


 水面の上で、澪の腕が短く振れた。


 違う。


 十回目。


 花の手が近づいた。

 凪の手が、下へ行く前に止まった。


 浅く。

 潮核が横へ逃げた。


 花の手が、その下を切った。


 凪は水面に上がった。

 澪がこちらを見ていた。


「今の、感じたか」


 凪は自分の手を見た。


「手が、先に止まりました」


「それでええ」


 澪は次の練習に移った。


 花が凪の隣に浮かんだ。


「最初からそれができたら苦労せんのじゃけどね」


 凪はまだ自分の手を見ていた。


「そうですね」


 花は笑った。

 すぐにまた潜った。



少し休憩をとった。


 凪が港の自販機でお茶を買っていると、花が来た。

 隣の缶コーヒーを買って、凪の横に立つ。


 しばらく二人で、海を見ていた。


「凪ってさ」


 花が缶を開けた。

 まだ飲まない。


「なんでそんなに流れ分かるん?」


「分からないです。昔から、なんとなく」


「生まれつき?」


「たぶん」


 フェリーの汽笛が鳴った。

 出港の時間だった。


 花は缶コーヒーを持ったまま、港の方を見ていた。


「ばあちゃんが言いよった」


 凪は横を見た。


「石塚さんとこのおじいさんは、海の人じゃったって」


 凪の手が、少し止まった。


「うちの、おじいちゃん?」


「うん。漁師じゃったって」


 花は缶コーヒーを持ったまま、港の方を見た。


「三原、狭いけんね。港の話は残るんよ」


「そう……なんだ」


 凪は缶を握ったまま、海を見た。


「会ったことは、ないんです」


 缶の表面に、水滴がついていた。


「私が生まれる前に、海で」


 言葉はそこで止まった。


 花は缶コーヒーの口元を、指でなぞっていた。


「だから私、海が」


 波の音に、言葉が切れた。


「そっか」


 フェリーの波が、岸壁に遅れて当たった。

 花は缶コーヒーを開けたまま、飲まなかった。



練習が再開した。


 Bパターン。

 浅く。

 深く。

 サインなし。


 花は同じ動きを何度も繰り返した。

 陽は手を上げる前に、一度だけ凪を見るようになった。

 結は水面から、合った回数を指で数えていた。


 最後の一本だけ、合った。


 陽の右手が横へ動く。

 凪が一拍待って、浅く流す。

 花が受け取る。


 潮核は、狙った場所で止まった。


 結が水面で指を一本立てた。

 花は顔の水を拭い、もう一度同じ位置へ戻った。


 練習が終わるころ、港の空気は少し湿っていた。


 澪が凪の方を見た。


「花と何話しとったん」


「おじいちゃんの話です」


 フェリーの白い航跡が、港の外で少しずつ崩れていた。


「知っとった。凪のおじいさんが漁師だったこと」


「澪さんも、花のおばあちゃんから?」


「港の話は、残るけんね」


 澪は海を見た。


「港の人は、どこかで繋がっとる」


 凪は水面に目を向けた。

 自分の知らないところで、名前が残っていた。

 自分が会ったこともない人の名前が。


「凪の潮読みが、おじいさんから来とるかは分からん」


 澪は同じ海を見ていた。


「でも、今潜っとるのはお前じゃ」


 風が来た。

 澪の髪が揺れる。


「それだけは、間違えん方がええ」


 凪は答えられなかった。


 潮の匂いが、少しだけ強くなった気がした。



練習が終わった。


 結と陽が、先に駅の方へ歩き出した。

 花は港を出る前に、凪たちへ手を振った。


「打ち合わせ行ってくるわ」


「音頭取り、がんばってや!」


 結の声は、少し遠かった。

 花が片手を上げる。


「任せとき」


 花の背中が、駅の方へ向かっていく。


 澪はホワイトボードを拭いた。

 AとBはすぐに消えた。

 Cの横に引いた線だけ、少し残った。


 澪は指で、そこをもう一度こすった。

 白い粉が、指先についた。


 それから、ボードを裏返した。

 澪も荷物をまとめて、少し遅れて帰っていった。


 一人残った凪が、防波堤に立った。


 海を見た。


 いつもと同じ海。

 潮の匂い。

 波の音。


 遠くの島影が、夕方の霞の中に沈みかけていた。


 凪は海面に手を伸ばした。

 波が来て、手の甲を濡らす。


 冷たい。


 怖い。


 それは変わらない。


 でも。


 なんで怖いん。


 答えはなかった。

 それでも、凪の足は防波堤から離れなかった。


 もう一度、手を伸ばした。


 波が来る。

 また、手の甲を濡らした。


「凪」


 振り返ると、結がバッグを肩にかけたまま立っていた。

 少し後ろで、陽が自販機の前にいた。


「ポーバ、閉まる前に行こ」


 凪は濡れた手をタオルで拭いた。


「うん」


 三人で商店街の方へ歩いた。


 港から少し離れると、潮の匂いに、商店街の油の匂いが混じった。

 駅前の旗が、風でばらばらに揺れている。


 公民館の方から、太鼓の音がかすかに聞こえた。

 まだ本番の音ではなかった。

 何度も同じところを叩き直す、練習の音だった。


「始まっとるね」


 結がスマホをしまった。


 陽が少しだけ足を止めた。


「リズム、ずれた」


「そこ気にするん?」


 結が笑った。


 凪は駅前の明かりを見た。

 手の甲には、まだ少しだけ海の冷たさが残っていた。


 三原ではよくある、夏の夕方だった。

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