第4話 届きそうで、届かなかった
フェリーターミナルの方から、出港のアナウンスが響いた。
放課後の港の練習区画に、五人が集まった。
ホワイトボードの端には、昨日の矢印がまだ残っていた。
澪がその横に、三つの記号を書いた。
「サインの確認をする」
全員が澪を見た。
「来週、竹原第一と試合じゃ。今日は全員の頭と体に入れる」
陽が前に出た。ゆっくり、実演する。
左手を上げる。
流れが変わった合図。
右手を横へ動かす。
深い層に流れが来ている合図。
両手を下げる。
浅い層が速い合図。
澪が全員を見渡した。
「水ん中で見えるか?」
結がホワイトボードの前まで寄った。
「見える!でも動いてるときは難しいかも」
「動きを止めて出す。一秒でいい」
花が首を傾けた。
「守備のときは?」
陽の手が、少し止まった。
「攻撃のときだけ」
「攻撃のときに全員が同じ情報を持てる」
澪がホワイトボードを指した。
「これが今日からうちらの武器じゃ」
練習が始まった。
海に入って、何度もやった。
花は何度も間違えた。
左手が上がる。花の体は、前の流れへ行く。
右手が横へ動く。今度は深すぎる。
水面に上がるたび、花の息が荒くなった。
一時間近く経ったころ、花がいきなり水面に出てきた。
「なんで合わんの」
誰にというわけでもなかった。
「見えとるのに体が行かんのが一番きつい」
波だけが、少し強くなった。
陽が花を見ていた。
それから水から上がって、もう一度サインを実演した。
ゆっくり。
花はしばらく見ていた。
「もう一回やる」
そのまま身を翻して、海に入った。
試合当日。
審判がボードを掲げる。
時刻:13:00
方向:東→西 秒速0.35m
特記:湾央に潮目あり(暖流・寒流の境界)
午後から風が出る予報
花が眉をひそめた。
「潮目って、そんなに影響あるん?」
「ある」
澪が凪を見た。
「潮目、読めそうか」
「やってみます」
凪にはまだ分からなかった。でも「分かりません」とは言えなかった。
試合開始の笛が鳴った。
五人が海へ入った。
体が先に動いていた。
陽のサインが見えた気がした。
でも、見たという感覚より先に体が動いていた。
潮核を拾って澪に流した。
赤い光がゴールゾーンに吸い込まれた。
ブザーが鳴った。
水面から、結の声が落ちてこなかった。
凪が顔を上げると、結は片手を上げたまま止まっていた。
指示を出すはずだった手が、まだ空中に残っている。
「今の、うちより早かった」
スコア:竹原第一 0-三原中央 1
水面に上がると、竹原第一の一人が陽を見ていた。
潮核ではなく、陽の手を見ていた。
第2ピリオド。
凪は潮目の端を踏んだ。
足の下で、水の温度がわずかに変わった。
暖かい側と冷たい側の、ちょうど境目。
想像していたより、細い線だった。その線の上に立つと、流れが二つの方向から同時に届く感覚があった。
拾って、浅く横へ流した。
潮核はまっすぐ進まなかった。
冷たい流れに押されて、半歩だけ外へ逃げる。
追ってきたディフェンスの手が、その内側を切った。
花が受け取って、ゴールゾーンへ向かった。
赤い光。ブザー。
スコア:竹原第一 0-三原中央 2
大崎の視線が、潮核から陽の指先へ移った。
水面に出ると、花が眉をひそめていた。
「足の裏で分かった気がした。潮目」
花は自分の手のひらを、じっと見つめていた。
何度も開いては、閉じている。
凪の足の裏にも、まだ温度の線が残っていた。
澪が先に歩き出した。
第3ピリオド。
竹原第一のエース・大崎が前に出てきた。
泳力で押してくる。陽がサインを出す。
その手が動いた瞬間、胸の奥がざわついた。
足が止まった。
大崎が、その横を抜けた。
それで大崎の当たりを避けた。狙ったわけではなかった。
陽の手が、もう一度動いた。
凪の体が先に向く。
水面から、結の声が落ちてきた。
「花、前!」
花はもう動いていた。
澪が潮核を拾う。
凪が流した浅い層に、澪の手が合った。
その先に、花の肩が入ってくる。
陽の手が下がった。
結の声が、水面で遅れて跳ねた。
花が強引に押し込んだ。
赤い光が沈む。
スコア:竹原第一 0-三原中央 3
赤い光が消えても、花は水を叩かなかった。
結も声を上げなかった。
竹原第一の大崎が、陽の手元を見ていた。
青い光が沈んだ。
スコア:竹原第一 1-三原中央 3
来る場所は分かっていた。
陽の手が動く前に、体もそちらを向いていた。
でも、水を蹴るのが一瞬遅れた。
第3ピリオド終了。
第4ピリオドが始まった。
大崎が、泳いでいなかった。陽を、見ていた。
一分もしないうちに、体が先に気づいた。
陽がサインを出そうとする前に、大崎がもう動いている。
右手が上がる前に、大崎がもう深い層へ入っている。
陽の肩が動く。
その前に、大崎の体が沈んでいた。
「手じゃない!」
水面から、結の声が落ちた。
凪が反応する。
でも遅い。
「肩、見とる!」
大崎はもう深い層に入っていた。
潮核の進路を、斜めに切る。
花が追った。
届かなかった。
青い光が沈む。
次も同じだった。
陽の手が上がる前に、大崎の体が沈む。
深い層から、潮核の進路を切った。
澪が追った。
花が追った。
でも、届かなかった。
青い光が沈む。
その次は、サインすら出せなかった。
陽が手を上げる前に、竹原第一の二人がもう潮核を囲んでいた。
スコア:竹原第一 3-三原中央 3
最後の潮核が、一つだけ残っていた。
凪と大崎が同時に動いた。
凪の手の方が、少しだけ早かった。
ゼッケンが赤く光る。
大崎が来る。
三秒カウントが始まる。
澪が見えた。角度も見えた。
大崎が後ろから迫る気配が、水圧で届いた。
その瞬間、手が先に動いた。
深かった。
失速した。止まった。
竹原第一が拾う。ゴールゾーンへ。
澪が追う。
間に合わない。
笛が、鳴った。ゴールブザーは、鳴らなかった。
スコア:竹原第一 3-三原中央 3
引き分け。
水の中で、凪は浮いたままだった。
花が岸へ向かって泳いで、先に上がった。
空を見た。
それだけだった。
陽が水面を見ていた。
澪がゴーグルを外した。
水が、顎から落ちる。
「勝てた試合じゃった」
誰も否定しなかった。波の音だけが続いた。
「サインが読まれた。次は変えるんじゃ」
凪は水の中に手を入れた。冷たい。
手が動いた。深かった。焦りだったのかもしれない。
でも、今はまだよく分からなかった。
帰り道。
日が落ちた港沿いを、五人で歩いた。
フェリーターミナルの灯りが、水面に細く伸びていた。
造船所の夜間作業の音が、遠くから届いてくる。
「来々軒、行く?」
結が少し声を小さくした。
「今日は行かん」
花だった。前を向いたまま歩き続けた。
「まだ悔しい」
五人は港の岸壁に並んで座った。
しばらく波の音だけが間に残った。
結が海に小石を投げた。
一回だけ跳ねて、すぐ沈んだ。
「サイン、変えよう」
結はもう一つ、小石を拾った。
でも投げなかった。
「三つくらい。試合ごとに変えるんよ」
花が膝を抱えたまま、海を見ていた。
「賢いな」
声だけは軽かった。
花の膝を抱える手は、まだほどけなかった。
陽が頷いた。
凪は水面を見ていた。
「私、焦ると深くなる癖があります」
「知っとった」
凪が顔を上げた。
「え」
「ずっと見とったけんね。でも言わんかった」
「なんで」
「言っても、たぶん残らん」
波が来る。引いていく。
「次は、浅くします」
澪はすぐには頷かなかった。
「そこじゃ」
それ以上は言わなかった。
花は膝を抱えたまま、海を見ていた。
暗くて、目元は見えなかった。




