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潮球  作者: カミツキ
1年目の海

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4/101

第4話 届きそうで、届かなかった

 フェリーターミナルの方から出港のアナウンスが響き、岸壁の向こうでは白い船体がゆっくり離れていった。航路を外れた練習区画では、浮標に囲まれた海面が夕方の光を細かく返している。


 その岸に五人が集まった。ホワイトボードの端には、昨日の矢印がまだ残っていた。


 澪がその横に、三つの記号を書いた。


「サインの確認をする」


 全員が澪を見た。


「来週、竹原第一と試合じゃ。今日は全員の頭と体に入れる」


 陽が前へ出て、まず左手を上げた。流れが変わった合図。続けて右手を横へ動かし、深い層へ流れが来ていることを示す。最後に両手を下げた。浅い層が速いときの形だった。


 澪が全員を見渡した。


「水ん中で見えるか?」


 結がホワイトボードの前まで寄った。


「見える!でも動いてるときは難しいかも」

「動きを止めて出す。一秒でいい」


 花が首を傾けた。


「守備のときは?」


 陽の手が、少し止まった。


「攻撃のときだけ」

「攻撃のときに全員が同じ情報を持てる」


 澪がホワイトボードを指した。


「これが今日からうちらの武器じゃ」


 五人が海へ入ると、花は何度もサインを取り違えた。左手が上がっても身体は前の流れへ向かい、右手が横へ動けば今度は深く入りすぎる。


 水面に上がるたび、花の息が荒くなった。


 一時間近く経ったころ、花がいきなり水面に出てきた。


「なんで合わんの」


 誰にというわけでもなかった。


「見えとるのに体が行かんのが一番きつい」


 陽は岸へ上がり、もう一度だけ、今度はゆっくりサインを実演した。花は黙ってその手を追っていた。


「もう一回やる」


 花は息を吸い直し、そのまま潜った。


 * * *


 浮標で囲まれた競技区画の向こうに、竹原第一の青いゼッケンが並んでいた。


「真ん中、大崎」


 澪の視線の先で、青いゼッケンの一人がほかの四人より半歩前へ出ていた。


 審判が潮況ボードを掲げた。


   時刻:13:00

   方向:東→西 秒速0.35m

   特記:湾央に潮目あり(暖流・寒流の境界)


 凪はボードから海へ目を移した。区画の中央を挟み、東西にゴールが沈んでいる。水面だけを見ても境目は分からないが、湾央では細かな波の向きが途中からずれていた。


「潮目って、そんなに影響あるん?」

「ある」


 澪が凪を見た。


「潮目、読めそうか」

「やってみます」


 澪から目を戻しても、水面のどこに境目があるのかはまだ見えなかった。


 試合開始の笛が鳴り、五人が一斉に海へ入った。


 陽の右手が横へ動いた。


 深い層。


 そう考えたときには、凪の身体はもう沈み始めていた。先に潮核を拾い、そのまま澪の前へ流す。


 澪が受け、ゴールへ運んだ。赤い光が沈み、ブザーが鳴った。


 水面へ上がると、岸の得点板が0対1へ変わっていた。いつもなら飛んでくる結の声がない。結を見ると片手を上げたまま止まっていた。指示を出すはずだった手が、まだ空中に残っている。


「今の、うちより早かった」


 残る潮核ではどちらもゴールまで届かず、1対0のまま第一ピリオドが終わった。


 五分のインターバル。竹原第一の一人が、陽の手元を見ていた。


 再び海へ入ると、右足を冷たい水が撫でた。身体を半歩ずらしても、左足にはまだ暖かさが残っている。境目は、思っていたより細い。


 凪は潮核を拾って浅く横へ流した。潮核はまっすぐ進まず、冷たい流れに押されて半歩ぶん外へ逃げ、追ってきた竹原第一の手がその内側を抜けた。


 花が外へ流れた潮核を受け、そのままゴールゾーンへ入った。赤い光がゴール枠へ沈み、ブザーが鳴った。


 水面へ上がると、岸の得点板が0対2へ変わっていた。さっき陽の手を見ていた竹原第一の選手が、また同じところを見ていた。


 花が眉をひそめていた。


「足の裏で分かった気がした。潮目」


 花は水中で片足をゆっくり動かしていた。


 凪の足の裏にも、まだ温度の線が残っていた。


 その後は得点が動かないまま、第二ピリオド終了の笛が鳴った。


 五分後、第三ピリオドが始まると、さっきから陽の手元を見ていた竹原第一の選手が前へ出てきた。泳力で正面から押し込み、陽がサインを出した瞬間、凪の胸の奥がざわついて蹴り足が止まる。


 その横を、相手の肩が抜けていった。


 狙って避けたわけではなかった。


 陽の手がもう一度動くと、凪の身体は先にそちらへ向いた。息を継いだ瞬間、結の声が飛んできた。


「花、前!」


 花はもう動いていた。


 凪が潮核を拾って浅い層へ流すと、澪の手がその軌道に入った。その先では花がもう身体を返している。澪は受けた潮核を止めず、そのまま花の前へ流した。


 花が受け、その勢いのままゴールへ押し込むと、ブザーが鳴った。


 赤い光が消えても、花は水を叩かなかった。結も声を上げなかった。


 竹原第一の大崎が、陽の手元を見ていた。


 陽の手が動く前に、凪の身体はもうそちらへ向いていた。来る場所は分かっている。


 それでも、水を蹴るのが一瞬遅れた。


 青い光がゴールへ沈み、ブザーが鳴った。


 残る二つでは得点が動かないまま、第三ピリオド終了の笛が鳴った。


 五分後、開始の笛と同時に赤と青のゼッケンが四つの潮核へ散った。その中で、大崎だけはすぐ潮核へ向かわず、陽を見ていた。


 陽の右肩が動いた。まだ手が横へ出る前なのに、大崎はもう深い層へ身体を沈めている。


 凪が息を継いだ瞬間、結の声が飛んだ。


「手じゃない! 肩、見とる!」


 凪はすぐ潜り直したが、大崎はもう深い層から潮核の進路へ斜めに入り、先に拾った。花が追いつく前に、青い光がゴールへ沈んだ。


 次も、大崎の方が早かった。陽のサインが形になるころには、もう深い層から潮核の進路へ入っている。澪と花が追ったが距離は縮まらず、青い光がゴールへ沈んだ。


 その次は、サインすら出せなかった。陽が手を上げる前に、竹原第一の二人がもう潮核を挟んでいる。


 花が横から入り、澪も追いついた。潮核は四人の間で何度も手を離れ、どちらもゴールへ持ち出せない。


 その向こうに、まだ一つ漂っていた。


 凪と大崎が同時に動いた。潮核へ伸ばした手は、凪の方がわずかに早い。


 掴んだ瞬間、ゼッケンが赤く光った。大崎が右後ろから追いつき、胸元のゼッケンへ回した手が触れた。


 一秒。


 澪が見え、流せる角度もあった。右肩の後ろから押される水圧が強くなる。


 その瞬間、手が先に動いた。


 潮核は狙いより深く沈み、横の流れに拾われないまま止まった。


 大崎が拾ってゴールゾーンへ身体を返した。澪が追ったが、その指先が届く前に試合終了の笛が鳴った。


 ゴールブザーは、鳴らなかった。


 岸の得点板には、3対3が残っていた。


 凪は水面に浮いたまま、その数字を見ていた。


 花は先に岸へ上がり、空を見た。陽はまだ水面に残っていた。澪がゴーグルを外すと、顎から水が落ちた。


「勝てた試合じゃった」


 澪は得点板を見た。


「サインが読まれた。次は変えるんじゃ」


 凪は水へ手を入れた。冷たさが指の間を抜けていく。


 大崎の水圧が背中へ来た瞬間、考えるより先に手が沈んだ。その感触だけが残っていた。


 * * *


 日が落ちた港沿いを、五人で歩いた。


 フェリーターミナルの灯りが、水面に細く伸びていた。

 造船所の夜間作業の音が、遠くから届いてくる。


 結が声を落とした。


「来々軒、行く?」

「今日は行かん」


 花は前を向いたまま歩き続けた。


「まだ悔しい」


 五人は港の岸壁に並んで座った。


 結が足元の小石を拾って海へ投げると、一度だけ水面を跳ねて沈んだ。


「サイン、変えよう」


 もう一つ拾った小石は、今度は指の間に残したままだった。


「三つくらい。試合ごとに変えるんよ」

「賢いな」


 膝を抱えて海を見ていた花が返した。声だけは軽かった。


 陽が頷いた。


「私、焦ると深くなる癖があります」

「知っとった」


 凪が澪を見た。


「え」

「ずっと見とったけんね。でも言わんかった」

「なんで」

「言っても、たぶん残らん」

「次は、手を沈める前に、一回流れを確かめます」


 澪はすぐには頷かなかった。


「そこじゃ」


 それ以上は言わなかった。


 花はまだ膝を抱えたまま、海を見ていた。

 暗くて、目元は見えなかった。




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