第3話 水の中の、声
忠海中央との試合から五日。放課後の三原港にはいつもの潮の匂いが残り、練習区画の向こうからフェリーの汽笛が届いた。
五人が集まると、澪はホワイトボードを岸壁の車止めへ立てかけ、マーカーを走らせた。
『深流し 精度向上 目標:任意の深度で潮核を止める』
「今日はこれだけやる」
澪がマーカーのキャップを閉めた。
「深く沈めたら遅い。浅いと速い。じゃけど、試合で使うのはその間じゃ」
花がゴーグルを一度、指で押さえた。
「また感覚か」
花の声は小さかった。
澪は花を一度だけ見て、前を向いた。
「始めるぞ」
凪が水へ入ると、首まで来た冷たさに心臓が縮んだ。それでも、足は止まらなかった。
練習は、潮核を拾って腹の下へ沈め、狙った深さで手を離す繰り返しだった。浅ければ流れに乗りすぎ、深ければその場に沈む。
結は水面から観察役に回り、深く入りすぎた花へ水面を指さした。花が浮いてくると、その頭を手のひらで軽く叩く。
花は浮上するたびすぐ次を拾いに行った。二度続けて狙いを外し、三度目でようやく澪の示した位置に潮核が止まる。
凪も一度潜り、潮核を手放して水面へ戻った。考えるより先に、手が動いていた。
陽は自分の番を終えても、すぐ次の潮核へは向かわなかった。手ぶらのまま潜り、呼吸が続く限り、流れの中で身体を止めていた。
澪が一度休憩を入れ、四人が水面へ上がると、花が陽を見た。
「何しとったん」
陽の視線が、水面の奥へ落ちる。
「流れを、聞いとった」
花が指先で水面を押すと、小さな波紋が広がり、凪は水面から目を離した。
「聞く、ですか」
「動くと、流れが変わる。自分が動いた分だけ、水が変わる」
先に岸壁へ上がっていた澪が、ホワイトボードから顔を上げた。
「続けるぞ」
練習後半は、チームで深流しのルートを合わせる練習に入った。
澪の指が動き、凪は潮核を腹の下へ沈めた。水面で結が一度強く水を叩くと、その震えが肩まで届く。
そこで手を離した。一度目は澪の示した場所より少し奥、二度目は手前まで流れ、三度目でようやく狙った位置の近くに止まった。
ところが、陽だけは澪の示した方向から外れた。一度目は凪も気づかなかったが、二度目に花が気づいた。
「陽」
水面に顔を出すなり、花の声が低く響いた。
「なんで指示通りに動かんの」
水面に出た花の息が、まだ整っていなかった。
「急に違う方行かれたら、うちら分からんくなるじゃん」
陽の目が、少しだけ花に向いた。
「なんか言いや」
花の声が上がった。
「黙っとるのが一番困る」
「花」
澪が一度だけ名前を呼んだ。
花は言葉を返さなかった。目元だけが赤くなっていた。
澪が静かに岸壁へ上がり、ホワイトボードを片付け始めた。
「今日はここまでにする。片付けて」
練習が終わり、凪がフロートの端を畳んでいると、反対側を陽が持った。二人で折り目を合わせても、陽は顔を上げない。
「さっきの、指示と違う動きをしたのは」
陽が手を止めた。
「流れが変わっとった。指示のルートに、潮核が流れてこんかった」
「気づいたなら……」
言いかけて、凪は止まった。
「水ん中で言えんけん、動いた」
凪の手が、フロートの縁を一度なぞった。
「花に、伝えた?」
陽の指が、畳んだフロートの縁を押さえた。
「言い方、分からん」
陽が片付けを再開した。それ以上、何も言わなかった。
荷物をまとめていると、花が隣に立った。
「凪、飯食っていかん?」
いつもの花の勢いとは、少し違う声だった。
* * *
港から三原駅の裏手まで歩くと、『来々軒』と書かれた古い暖簾が小さな引き戸の上で揺れていた。花が迷わず戸を開ける。
中には年季の入ったカウンターと四人掛けのテーブルが二つ。壁の手書きメニューの下まで、醤油と出汁の匂いが流れていた。
花が慣れた様子で奥の席に座った。
「ここ、うちが子供のころからばあちゃんと来よった店なんよ」
老いた店主が奥から出てきた。花を見て、目を細めた。
「また来たんか。おばあちゃんは元気にしとるか」
「元気よ!また連れてくるけん」
「待っとるよ」
花はメニューも見ずに「いつものやつ」と頼み、凪も同じものにした。外を軽トラックが通り、厨房では出汁の煮える音が続いている。
ラーメンが来ると、花はすぐ箸を伸ばした。
「あち」
口元を押さえる花の横で、凪はゆっくりスープを一口飲んだ。その間に花は給水器の横からレンゲを取って戻ってくる。
「さっき、怒りすぎたかな」
凪がスープに目を落とした。
「陽は、流れが変わったから動いたって」
花は麺を一口すすった。
「……やっぱり、そうじゃったんじゃ」
「水の中で言えないから、動いたって」
「分かっとる。分かっとるけど」
花は麺を持ち上げかけ、箸を器へ戻した。
「なんか悔しいんよね……。なんかさ、凪とか陽見とると、ずるいなって思う時あるんよね」
店の外で、車が一台通り過ぎた。
「そういう感覚系、ほんま苦手なんよ、うち」
花がラーメンをすすった。
「何回もやって、やっと出来るようになるんよ」
花の箸先が、器の縁に触れた。
「たぶん、それが悔しかったんよね」
厨房横でテレビの音だけが流れていた。
「ばあちゃんも同じじゃったって。感覚より根性じゃって、よう言いよった」
花が少し笑った。
「うちが負けた日は、帰りに決まってここじゃったんよ」
凪は箸を持ったまま、花を見ていた。
「ばあちゃん、去年からここ来られんくなったんよね」
花がカウンターの方を見た。
「じゃけどうちは今でも来るんよ。おじさんの顔見て、『今日はこんなんじゃった』って報告して帰るんよ」
花の指が、湯気のそばで止まった。
「ばあちゃんに会いに来るみたいな感じ、かな」
湯気だけが、二人の間をゆっくり流れていた。
しばらく二人でラーメンを食べた。
「謝らんにゃいけんのは、分かっとる」
花が箸を置いた。
「でも、まだちょっと腹立っとる」
水の中で止まっていた陽の手が浮かんだ。
声が届かないなら、手を使えばいい。
「言葉じゃなくて、サインなら」
花が凪を見た。持っていたレンゲが止まった。
「それ、なんでもっと早く言わんかったん」
「今、思いついた」
花が笑うと、肩が少し上がった。
「ええじゃん。明日、陽に言うわ」
「花ちゃん、おかわりいる?」
「いる!」
駅の方から、夕方のフェリーの汽笛が届いた。
* * *
翌日の練習前、凪が道具を出していると花が港へ来た。陽はもう岸壁にいて、花はそのまま隣へ歩いていった。
「昨日は急に怒ってごめんね」
陽の目が、花の足元あたりに落ちた。
「でもサイン、一緒に決めよ。水ん中で流れが変わったとき、出せるやつ。陽が気づいたら、うちらに教えてほしい」
二人はその場にしゃがみ、陽が右手を左へ振ると花は首を振った。今度は左手を上げると、花も同じ形を返した。
陽はマーカーを取り、ホワイトボードの端に小さな矢印を描いた。花がその横へもう一本足す。
陽の肩が固まり、それから小さく頷いた。ただ、目はまだ花へ向かなかった。
少し離れたところで、結が凪の肘をつついた。
「ねえ見てや。矢印、増えとる」
結が口元を隠して笑った。
練習が始まり、深流しにサインを重ねて流れを合わせる。
陽が右手を左へ振ると、花も見てはいたが動き出しが一拍遅れ、凪の流した潮核はその前を通り過ぎた。花は水面へ上がるなり何か言いかけたが、そこで飲み込む。陽が目を伏せた。
「もう一回」
花が先に潜り、陽がもう一度右手を左へ振った。今度は花がすぐ身体を返したので、凪もその先へ潮核を沈める。流れに乗った潮核が花の手前まで来て、そこで止まった。
花が受け取った。
練習が終わり、澪が凪の隣に立った。
「花と来々軒、行ったんじゃろ」
片付けていた凪の手が止まった。
「花の顔が違った。あそこ行った後の顔じゃけ。サインの話、凪から出したん?」
「花に言っただけです」
「そうか」
澪の指が、ホワイトボードの縁に触れた。
「それでええ」
そこには、陽の書いた小さな矢印が残っていた。




