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潮球  作者: カミツキ
1年目の海

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3/101

第3話 水の中の、声

忠海中央との試合から五日が経っていた。


 放課後の三原港。練習区画に五人が集まる。

 潮の匂いと、遠くで鳴るフェリーの汽笛。それだけは毎日変わらない。


 澪がホワイトボードを出した。

 岸壁の車止めに立てかけて、マーカーで書く。


『深流し 精度向上 目標:任意の深度で潮核を止める』


「今日はこれだけやる」


 澪がマーカーのキャップを閉めた。


「深く沈めたら遅い。浅いと速い。じゃけど、試合で使うのはその間じゃ」


 花がゴーグルを一度、指で押さえた。


「また感覚か」


 花の声は小さかった。


 澪は一秒だけ花を見て、前を向いた。


「始めるぞ」



全員が海に入った。


 凪が水に入る。

 冷たい。心臓が縮む感覚。


 それでも、足は止まらなかった。


 深流しの練習は、同じ動きの繰り返しだった。

 拾う。沈める。手放す。

 どの深さで止まるかを、体に残す。


 結は水面から観察役に回っていた。

 深く潜りすぎた花へ、水面から指で下を差す。

 浮いてきた花の頭を、手のひらで軽く叩く。


 水面から、全員の動きを見ていた。


 花は体で覚えようとしていた。


 何度も潜って、何度も手放して、何度も確かめる。

 三回に一回くらいの精度で、思った場所に止められている。


 凪は一度潜って、手放して、水面に戻った。

 手が先に動いていた。


 陽は。


 陽だけが、違うことをしていた。


 深流しをしていない。潮核も持っていない。

 ただ、海の中に潜って、止まっていた。


 呼吸が続く限り、動かずに、流れの中にいた。



インターバル。


 全員が水面に上がる。


「何しとったん」


 陽の視線が、水面の奥へ落ちる。


「流れを、聞いとった」


 花の指が、水面をひとつ押さえた。

 凪は水面から目を離した。


「聞く、ですか」


「動くと、流れが変わる。自分が動いた分だけ、水が変わる」


 先に岸壁へ上がっていた澪が、ボードのキャップを閉めた。


「続けるぞ」



練習後半。


 チームで深流しのルートを合わせる練習に入った。


 澪の指が動くと、凪が潮核を沈めた。水面の結が、手のひらで強く水を叩いた。その振動が合図だった。


「今!」


 潮核が、澪の示した場所より少し奥で止まった。

 次は、少し手前で止まった。

 三回目で、ようやく近い場所に来た。


 でも、陽の動きが指示と違った。


 陽の体が、澪の示した方向とは別へ向いた。


 一度目は凪も気づかなかった。

 二度目に、花が気づいた。


「陽」


 水面に顔を出すなり、花の声が低く響いた。


「なんで指示通りに動かんの」


 水面に出た花の息が、まだ整っていなかった。


「試合のときもそうじゃったろ。急に違う動きして、うちら分からんくなったじゃん」


 陽の目が、少しだけ花に向いた。


「なんか言いや」


 花の声が上がった。


「黙っとるのが一番困る」


「花」


 澪の声には一切の揺らぎがなかった。

 花は言葉を返さなかった。

 目元だけが赤くなっていた。


 澪が静かに岸壁へ上がり、ホワイトボードを片付け始めた。


「今日はここまでにする。片付けて」



練習が終わった。


 全員が道具を片付ける中、凪は陽の近くにいた。

 意図したわけではなく、なんとなく、そこにいた。


 陽が視線を落としたままフロートを畳んでいる。波の音だけが聞こえた。

 凪の手が止まった。


「さっきの、指示と違う動きをしたのは」


 陽が手を止めた。


「流れが変わっとった。指示のルートに、潮核が流れてこんかった」


「気づいたなら…」


 言いかけて、凪は止まった。


「水ん中で言えんけん、動いた」


 凪の手が、フロートの縁を一度なぞった。


「花に、伝えた?」


 陽がフロートを一度だけ手に取った。


「言い方、分からん」


 陽が片付けを再開した。それ以上、何も言わなかった。



荷物をまとめていると、花が隣に立った。


「凪、飯食っていかん?」


 いつもの花の勢いとは、少し違う声だった。


 三原駅の裏から、少し歩いた。


『来々軒』と書かれた古い暖簾。小さな引き戸。


 中に入ると、年季の入ったカウンターと、四人掛けのテーブルが二つだけ。

 壁に手書きのメニュー。醤油の匂いと、出汁の匂いが混ざっている。


 花が慣れた様子で奥の席に座った。


「ここ、うちが子供のころからばあちゃんと来よった店なんよ」


 老いた店主が奥から出てきた。花を見て、目を細めた。


「また来たんか。おばあちゃんは元気にしとるか」


「元気よ!また連れてくるけん」


「待っとるよ」


 花はメニューも見ない。


「いつものやつ」


 凪も同じものを頼んだ。


 外を軽トラックが通る音。出汁が煮える音。

 静かな店だった。


 ラーメンが来た。


 花がすぐ箸を伸ばした。


「あち」


 花が口を押さえた。


 凪はゆっくりスープを一口飲んだ。

 花が給水器横のレンゲを取りに行った。


 花がレンゲをテーブルに置いた。


「さっき、怒りすぎたかな」


 凪がスープに目を落とした。


「正直に言えたと思う」


「でも陽、流れが変わったけん動いたんじゃろ」


 凪はレンゲの中のスープを見た。

 表面に、店の明かりが小さく揺れていた。


「分かっとる。分かっとるけど」


 花がラーメンに箸を向けた。


「なんか悔しいんよね」


 花がまたラーメンを一口食べた。


「なんかさ」


 花が箸を止めた。


「凪とか陽見とると、ずるいなって思う時あるんよね」


 凪の箸が、器の縁で止まった。

 店の外で、車が一台通り過ぎた。


「そういう感覚系、ほんま苦手なんよ、うち」


 花がラーメンをすすった。


「何回もやって、やっと出来るようになるんよ」


 箸が、器の縁に当たった。


「たぶん、それが悔しかったんよね」


 厨房横でテレビの音だけが流れていた。


「ばあちゃんも同じじゃったって。感覚より根性じゃって、よう言いよった」


 花が少し笑った。箸が、止まった。


「負けて帰った日、決まってここじゃったんよ」


 凪は箸を持ったまま、花を見ていた。


「ばあちゃん、去年からここ来られんくなったんよね」


 花がカウンターの方を見た。


「じゃけどうちは今でも来るんよ。おじさんの顔見て、『今日はこんなんじゃった』って報告して帰るんよ」


 花の指が、湯気のそばで止まった。


「ばあちゃんに会いに来るみたいな感じ、かな」


 湯気だけが、二人の間をゆっくり流れていた。

 しばらく二人でラーメンを食べた。


「謝らんにゃいけんのは、分かっとる」


 花が箸を置いた。


「でも、まだちょっと腹立っとる」


 凪は、花の止まった箸を見ていた。

 水の中で止まっていた陽の手を思い出した。


 言葉の代わりになるものがあればいい。


「言葉じゃなくて、サインなら」


 花が凪を見た。持っていたレンゲが止まった。


「それ、なんでもっと早く言わんかったん」


「今、思いついた」


 花が笑った。肩が少し上がった。


「ええじゃん。明日、陽に言うわ」


「花ちゃん、おかわりいる?」


「いる!」


 花は即答した。


 駅の方から、夕方のフェリーの汽笛が届いた。



翌日の練習前。


 花が港に来ると、陽はすでに岸壁にいた。花がその隣に歩み寄った。


「昨日は急に怒ってごめんね」


 陽の目が、花の足元あたりに落ちた。


「でもサイン、一緒に決めよ。水ん中で流れが変わったとき、出せるやつ。陽が気づいたら、うちらに教えてほしい」


 二人がしゃがんで、身振り手振りで話し合い始めた。

 右手を左に向ける動作。左手を上に向ける動作。

 いくつか試して、首を振って、また試す。


 陽がマーカーを取って、ホワイトボードの端に小さな矢印を描いた。

 花がその横に、もう一つ矢印を足した。


 陽の体が、少しだけ固まった。

 それから、小さく頷いた。

 でも、目はまだ花の方を向いていなかった。


 少し離れたところで、結が凪の肘をつついた。


「ねえ見てや。陽ちゃん、自分から動いとる」


 結が口に手を当てた。くぐもった笑いが漏れた。

 凪の視線が、また二人の方に戻った。

 でもこれでよかったのか、まだ分からなかった。


 練習が始まった。


 深流し。サインの確認。流れの読み合い。


 陽が右手を左に向けた。

 花は見ていた。

 でも、動き出しが一拍遅れた。


 潮核は、花の前を通り過ぎた。


 花が水面に上がった。

 何か言いかけて、飲み込んだ。


 陽は目を伏せた。


「もう一回」


 花が先に潜った。


 陽が右手を左に向けた。

 凪が先に動き、澪が後を追った。

 潮核が、思った場所に止まった。


 練習終わり、澪が凪の隣に立った。


「花と来々軒、行ったんじゃろ」


 凪の足が、一度止まった。


「花の顔が違った。あそこ行った後の顔じゃけ」


 凪は水面に目をやった。


「お前がサイン考えたんじゃろ」


「花に言っただけです」


 澪の指が、ホワイトボードの縁に触れた。


「そうか」


 澪が波の方へ、少し体を向けた。


「水ん中だけが、潮球じゃないけんね」


 波が来る。引いていく。


 ホワイトボードの端に、陽の書いた小さな矢印だけが、潮風に乾いて残っていた。

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