↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮球  作者: カミツキ
1年目の海

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/101

第2話 深く、沈める

 岸壁側の待機位置では、濡れた足元のすぐ先で競技水域が揺れていた。


 花は水を滴らせたまま、何度も海を振り返っている。陽は黙ってゴーグルを外し、結は受け取ったタオルを肩へ掛けながら、まだ水面を見ていた。


「なになに? 今なんの時間?」


 結が息を切らしたまま言った。


「インターバルじゃ」


 澪が短く答えた。


「各ピリオドは十分。間に五分ある」

「五分だけ?」

「五分だけじゃ」


 花が髪から水を絞った。


「短っ」

「その五分で、今のを直す」


 澪が海へ顔を向けた。凪もその先を追う。島陰の暗い水は、さっき青い光が消えた場所から、澪の背後へ浮かんだ場所まで続いていた。


「さっき点を取った能島は、消えたんじゃない。島陰の中を通った」


 凪は顔を上げた。


「島陰」

「流れが死ぬ場所じゃ。泡も光も見えにくくなる。あそこに潜られたら、追う側は一瞬見失う」


 花が唇を噛んだ。


「じゃあ、あれ読まんと無理じゃん」

「そうじゃ」


 澪が凪を見た。


「凪。さっき、何か感じたか」


 足先に残っていた圧を、凪は思い出した。

 泡の向きが、一拍だけずれた場所。


「潜った瞬間、流れが変わった気がしました」

「そこを見る。次は、光じゃなくて水を見る」


 五分は、思ったより短かった。


 第二ピリオドの笛が鳴った。


 凪が水に入った。冷たさが首まで来て、心臓が縮む感覚が戻ってきた。

 でも今日は、探していた。


 泡の向きと水温、光の揺れ方を追いながら進む。島陰へ差しかかったところで、足首を押していた水がふっと抜けた。目の前の泡も、その場に残っている。


 ここだ。


 湾奥側に残る陽の位置を確かめてから、凪は島陰へ入った。


 島陰へ潜ると、表層で散っていた光と泡が途切れ、五メートル先の潮核まで輪郭が残った。


 二週間の練習では、こんな距離まで見えなかった。


 その下には緑がかった暗さが続き、底は見えない。見ていると、自分まで沈んでいきそうだった。


 それでも、潮核が見えた。


 五メートル先でゆっくり揺れていた。


 凪が潮核を拾った。ゼッケンが光った。


 右脇へ水圧がぶつかった。振り向くより先に、忠海中央の選手の右手が胸元のゼッケンを押さえる。凪が身体を横へ逃がしても、その手がついてきた。


 一秒。


 逃げ切れない。


 二秒。凪は潮核を腹の下へ押し込み、深い層へ離した。


 潮核はゆっくり沈み、勢いが鈍ったところで横から流れを受けた。湾奥へ向きを変え、陽が待っているはずの場所へ運ばれていく。


 胸元を押さえていた手が離れ、忠海中央の選手が潮核を追った。けれど、深い層へ入った潮核はもう見えない。凪のゼッケンから赤い光だけが消えた。


 数秒後、湾奥で別の赤い光が点いた。


 浮かび上がった潮核を受け取ると、陽はそのまま身体をゴール側へ返した。追ってきた手が肩の後ろを切る。届かない。


 赤い光が水中のゴール枠へ沈んだ。


 ブザーが鳴った。

 

 水面に上がると、岸の得点板は1対1に変わっていた。


「凪!!」


 結が飛んできた。


「今の何!?消えたと思ったら、陽ちゃんのとこ出たんじゃけど!」


 凪は答えを探すように結を見た。でも、自分でも説明できなかった。


 ただ、流れがそこにあった。


 少し離れたところで、陽がゴーグルを直しながらこちらを見ていた。

 目が合った。陽は何も言わなかった。


 第二ピリオド終了の笛が鳴った。


 * * *


 五分後、第三ピリオドが始まると、忠海中央は最初から島陰を塞ぎに来た。


 島陰の境目に、能島が身体を横向きに置いていた。凪が左へ回ると、その先へ別の選手の脚が落ちてくる。右へ切り返せば、今度は能島が半身だけ寄せた。


 入れなかった。


 気づいたときには、島陰の外だった。泡が視界を埋め、自分の手先さえ見えない。


 そこで忠海中央が動いた。


 花が一掻きするたび、潮核が指先ひとつ分ずつ遠ざかった。


 ゴールゾーンに青い光が沈む。


 澪は泡の筋を追っていた。でも、凪には何も見えなかった。


 他の潮核も同じだった。


 顔を動かしても、見えるものが途中で途切れる。


 青い光。


 手。


 誰かの足。


 潮核は。


 泡の向こうへ目を凝らしたときには、もう忠海中央の腕に抱えられていた。


 陽が追う。


 花の指が伸びる。


 届かない。


 青い光が、また沈んだ。


 能島が潮核へ向かいながら左手を横へ振ると、忠海中央の別の選手が深く潜り、凪の視界から消えた。


 能島が潮核を拾うと、ゼッケンが青く光った。澪が距離を詰め、その胸元を右手で押さえる。


 一秒。


 能島は身体を起こさず、潮核を腹の下へ押し込んだ。


 泡の向こうで、別の青い光が点いた。潮核がそこまでどう抜けたのか、凪には追えない。その光はそのままゴール側へ沈み、ブザーが鳴った。


 第三ピリオド終了の笛が鳴った。


 岸の得点板には、4対1が出ていた。


 花が水を叩いた。


「島陰、完全に封じられた」


 澪は答えなかった。


 凪は湾奥へ目を向けた。水面の泡はまだ西へ流れている。けれど、足先にはさっきまでなかった冷たさが触れていた。


 五分後、第四ピリオド開始の笛が鳴った。


 全員が海へ入る。


 凪の足の裏に、新しい流れが来た。


 来た。


 今まで東から西に流れていた海が、湾奥だけ、逆向きになった。


 合図はなかった。凪が湾奥へ切ると澪がすぐ後ろへ入り、一拍遅れた花も流れの縁へ追いついた。陽はもう、その先にいた。


 結は水面を横へ移動しながら、流された忠海中央の選手を指した。


 忠海中央の足が一瞬止まり、二人が同じ潮核へ寄った。そのうち一人は逆流に脚を取られ、身体だけが反対へ流れていく。


 能島だけは水面に置いた手を動かさなかった。流されていく泡を一度見てから、ゆっくり顔を上げた。


 凪が潮核を拾う。ゼッケンが光る。


 忠海中央の選手が二人来た。


 一人の右手が凪の胸元を押さえ、もう一人は逆流の先へ回った。


 一秒。


 二秒。凪は潮核を腹の下へ沈め、逆流へ離した。


 潮核が逆流に乗って離れ、追った選手の指先が届かない。


 澪が受け取り、そのままゴールゾーンへ向かった。ゴール前で忠海中央の手が胸元のゼッケンに触れる。


 一秒。


 澪は身体ごと沈み、三秒になる前に潮核をゴール枠へ入れた。


 ブザーが鳴った。


 水面の結が、両手を上げていた。


 凪はすぐ次へ向かい、逆流の中を漂う潮核を拾った。胸元が光る。


 その瞬間、足裏を押す流れがさっきより弱いことに気づいた。右側だけは、まだ強さが残っている。


 凪は選んだ。


 浅く、右へ。


 潮核を右へ流したところで胸が苦しくなり、凪も水面へ顔を出した。


「うそじゃろ!?右! 花、右!」


 潮核が花の指先の手前で止まった。


 下から忠海中央の手が入り、ゼッケンが青く光る。花が身体を返すより先に、その選手は潮核を深い層へ落とした。


 凪も潜り直したが、青い光はもうゴール側へ離れていた。


 ブザーが鳴った。


 顔を上げると、岸の得点板が5対2へ変わっていた。


 流れが弱まるたび、凪の予測は半歩ずつずれた。能島に拾われた潮核は深い層へ落ち、追って潜るほど青い光が遠ざかる。胸が先に苦しくなって顔を上げたときには、またブザーが鳴っていた。


 もう一度潜った。


 今度も届かず、青い光の先でブザーが鳴った。


 その直後、試合終了の笛が続いた。


 岸の得点板には、7対2が残った。


 結が水面に沈みかけるようにして俯いた。


 花は水を掻くのをやめ、得点板を見上げた。


 陽が無言でゴーグルを外す。


 澪は得点板から目を逸らさなかった。


「上がれ」


 三谷の声に、凪も岸壁へ戻った。濡れた足を石畳へ乗せると、タオルが回ってきた。


 結は自販機の前を通り過ぎた。

 いつものアイスのボタンを見なかった。


 凪は潮核が流れていった方向を、ずっと見ていた。

 読み違えた場面が、まだ頭の中で動いていた。


 濡れた靴底の音だけが岸壁に続いた。やがて結がバッグを片手に、陽に近寄った。


「陽、帰り……ポートバックス寄る?」


 陽は少し遅れて頷いた。


「新作、出とるんよ」


 陽がスマホを出した。


「讃岐和三盆ミルクフラッペ、カツオ出汁トッピング」


 結が少しだけ顔を上げた。


「あれ、頼む人おったんじゃ」


 結の声が、ほんの少しだけいつもの高さに戻った。


 花は一度も振り返らず、陽が歩くたびにバッグの金具が小さく鳴った。結もその隣を歩いていく。澪は少し遅れてバッグを持ち上げた。


 四人の姿が岸壁の先へ消れるころには風も止み、海面はガラスみたいに凪いでいた。


 凪は防波堤に一人残って、海を見ていた。


 怖い。


 それは変わらない。水底は今日も見えなかった。それでも島陰の中では五メートル先の潮核が見え、深く沈めた潮核は陽まで届いた。水面が変わるより先に、足の裏では流れが変わっていた。


 ただ、弱まっていく流れまでは読み切れなかった。


 足先には、島陰の冷たさがまだ残っていた。


 凪は立ち上がった。海から目を逸らさずに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。