第2話 深く、沈める
澪の声で、全員が岸へ戻った。
花は水を滴らせたまま、何度も海を振り返っていた。
陽は黙ってゴーグルを外した。
結はタオルを受け取りながら、まだ水面を見ていた。
「なになに? 今なんの時間?」
結が息を切らしたまま言った。
「インターバルじゃ」
澪が短く答えた。
「各ピリオドは十分。間に五分ある」
「五分だけ?」
「五分だけじゃ」
花が髪から水を絞った。
「短っ」
「その五分で、今のを直す」
澪は海を見た。
能島が消えた場所。澪の後ろに浮かんだ場所。その間にある、島影の暗い水。
「能島は消えたんじゃない。島影の中を通った」
凪は顔を上げた。
「島影」
「流れが死ぬ場所じゃ。泡も光も見えにくくなる。あそこに潜られたら、追う側は一瞬見失う」
花が唇を噛んだ。
「じゃあ、あれ読まんと無理じゃん」
「そうじゃ」
澪が凪を見た。
「凪。さっき、何か感じたか」
足先に残っていた圧を、凪は思い出した。
泡の向きが、一拍だけずれた場所。
「潜った瞬間、流れが変わった気がしました」
「そこを見る。次は、光じゃなくて水を見る」
インターバル終了の笛が鳴った。
五分は、思ったより短かった。
第二ピリオドの笛が鳴った。
凪が水に入った。冷たさが首まで来て、心臓が縮む感覚が戻ってきた。
でも今日は、探していた。
泡の向き。水温の変化。光の入り方。
目を閉じて、足の裏に集中する。二週間前、澪に言われたことを繰り返す。
足が止まった。
たぶん、ここだった。
足の裏に、流れが死ぬ感覚があった。
泡が止まっている。水が澄んでいる。
島影の境界線、だと思った。
凪は潜った。
視界が広がった。
水中なのに、前が見えた。
五メートル先の潮核まで、輪郭が残っていた。
二週間の練習では、こんな距離まで見えなかった。
緑がかった光が、深く続いている。
底が見えない。自分まで沈んでいきそうだった。
それでも、潮核が見えた。
五メートル先でゆっくり揺れていた。
凪が潮核を拾った。ゼッケンが光った。
水面の結が、見失ったように辺りを見回している。
「凪がおらんくなった!?どこ!?うそじゃろ!?」
忠海中央の選手が来る気配があった。
水の動きで分かる。右から速い。
凪のゼッケンに触れた。
三秒カウントが始まった。
二秒目で、凪の手が動いた。
凪は潮核を深く沈めた。
手から離れた潮核がゆっくりと下へ向かう。
失速しかけて、でも流れに乗って、少しずつ横に動いていく。
湾奥への流れ。陽が待っているはずの場所へ。
忠海中央の選手の手が、水を探った。
潮核は見つからない。
泡も立たない。
凪のゼッケンの光だけが、ふっと消えた。
数秒後、湾奥で赤いゼッケンが光った。
陽だった。
浮かび上がってきた潮核を、陽の手が受け取る。
迷いはなかった。
忠海中央の選手が追う。
間に合わない。
ゴールゾーンに、赤い光が吸い込まれた。
ブザーが鳴った。
スコア:忠海中央 1-三原中央 1
「凪!!」
水面に上がった瞬間、結が飛んできた。
「今の何!?消えたと思ったら、陽ちゃんのとこ出たんじゃけど!」
凪は答えを探すように結を見た。でも、自分でも説明できなかった。
ただ、流れがそこにあった。
少し離れたところで、陽がゴーグルを直しながらこちらを見ていた。
目が合った。陽は何も言わなかった。
第2ピリオド終了の笛が鳴った。
第三ピリオドが始まった瞬間、空気が変わった。
忠海中央が、島影を塞ぎに来た。
能島が境界線の手前に立つ。
動かない。ただそこにいるだけで、入り口が消えた。
凪は迂回しようとした。左から回り込む。
能島が動かなくても、別の角度から入れるはずだった。
入れなかった。
右へ入ろうとした。
水が重くなった。
左へ逃げた。
そこにも足があった。
気づいたときには、島影の外だった。
外は、泡が視界を埋めた。
自分の手先が見えない。
そこで忠海中央が動いた。
速かった。迷いがなかった。
泡の中でも体が止まらない。
潮核へ一直線に向かって、拾った。
花が追った。腕を伸ばした。
指先が、届かなかった。
ゴールゾーンに青い光が沈む。
凪は隣の澪を見た。
澪は泡の向こうを見ていた。
何かを読もうとしていた。
でも、凪には何も見えなかった。
他の潮核も同じだった。
泡。
青い光。
手が。
誰かの足。
見えたときには、もう忠海中央の手の中にあった。
陽が追う。
花の指が伸びる。
届かない。
青い光が、また沈んだ。
能島が動いた。
ゆっくりと、でも迷いなく。
潮核へ向かいながら、左手を横に動かした。
何かのサインだった。
その瞬間に忠海中央の別の選手が深く潜って、凪の視界から消えた。
能島が潮核を拾う。
ゼッケンが光る。
澪が距離を詰める。
三秒カウントが始まる。
能島の手だけが、泡の向こうでまっすぐ動いた。
でも能島は慌てなかった。
澪が詰めてくる中、迷わず潮核を深く沈めた。
さっき消えた選手が、どこかで受け取った。
凪には、その選手がどこにいるのか、最後まで見えなかった。
第3ピリオド終了の笛が鳴った。
スコア:忠海中央 4-三原中央 1
花が水を叩いた。
「島影、完全に封じられた」
澪は答えなかった。
凪は湾奥を見た。
まだ逆流は来ていない。
でも、水温が少し変わり始めていた。
足先に、さっきまでとは違う冷たさが触れた。
第四ピリオド開始の笛。
全員が海へ入る。
凪の足の裏に、新しい流れが来た。
来た。
今まで東から西に流れていた海が、湾奥だけ、逆向きになった。
合図はなかった。
凪が動く。澪が続く。
花は一拍遅れた。それでも、すぐ追いついた。
陽は最初から、その流れの端にいた。
水面の結が、見失ったように水の中を覗き込んでいる。
忠海中央の足が、一瞬止まった。
二人が同じ潮核へ寄る。
一人だけ、逆へ流された。
能島だけが、水面に手を置いていた。
逆流の向きを確かめるように、ゆっくり顔を上げる。
凪が潮核を拾う。ゼッケンが光る。
忠海中央の選手が二人来た。
二人の手が凪のゼッケンに触れる。
三秒カウントが始まる。
二秒目で、手が動いた。
凪は潮核を沈めた。逆流に乗せて、深く。
潮核が逆向きに流れていく。
相手が追う。
でも、読めない。
澪が受け取り、ゴールゾーンへ向かった。
ゴール前で、別の手が伸びた。
三秒になる前に、澪がゴールゾーンへ沈めた。
水音が、一つ。
ブザーが鳴った。
スコア:忠海中央 4-三原中央 2
水面の結が、両手を上げていた。
凪はすぐに動いた。
潮核が逆流の中をゆっくり漂っていた。
拾う。ゼッケンが光る。
そのとき、足の裏に変化があった。
さっきまでより、流れが弱くなっている。
少しずつ、弱まっている。
右に、まだ少し強い流れが残っていた。
凪は選んだ。浅く、右へ。
潮核が水面近くを右へ流れていく。
水面から、結の声が落ちてきた。
「うそじゃろ!?右! 花、右!」
花が手を伸ばす。届く、はずだった。
潮核が、指先の手前で止まった。
青い光。
戻れない。
スコア:忠海中央 5-三原中央 2
そこから先は、速かった。
能島の手。
深く沈む潮核。
また。
青。
遠い。
音。
試合終了の笛が鳴った。
スコア:忠海中央 7-三原中央 2
結が水面に沈みかけるようにして俯いた。
花はその場に立ったまま、スコアボードを見ていた。
陽が無言でゴーグルを外す。
澪だけが、スコアボードをまっすぐ見ていた。
「上がれ」
顧問の三谷の声。
岸壁に上がる。タオルを渡される。
結は自販機の前を通り過ぎた。
いつものアイスのボタンを見なかった。
凪は潮核が流れていった方向を、ずっと見ていた。
読み違えた場面が、まだ頭の中で動いていた。
澪が隣に来た。同じ方向を見ていた。
しばらく誰も喋らなかった。
結がバッグを片手に陽に近寄った。
「陽、帰り……ポートバックス寄る?」
陽は少し遅れて頷いた。
「新作、出とるんよ」
陽がスマホを出した。
「讃岐和三盆ミルクフラペチーノ、カツオ出汁トッピング」
結が少しだけ顔を上げた。
「あれ、頼む人おったんじゃ」
結の声が、ほんの少しだけいつもの高さに戻った。
それでも、足音は重かった。
花は一度も振り返らなかった。
陽のバッグの金具だけが、歩くたびに小さく鳴った。
チームメイトが先に帰った。
風が止んだ。
海面がガラスみたいになった。
凪は防波堤に一人残って、海を見ていた。
怖い。
それは変わらない。
水底は今日も見えなかった。
底のなさも、変わらなかった。
島影の中で、五メートル先の潮核が見えた。
深く沈めた潮核が、陽に届いた。
逆流が来る前、足の裏が先に変わった。
それでも、弱まっていく流れは読み切れなかった。
凪は右手を見た。
島影の中の冷たさだけが、まだ足先に残っていた。
足先だけが、島影の冷たさを覚えていた。
凪は立ち上がった。海から目を逸らさずに。




