第1話 光が、消えた
石塚凪は海を見ない。
三原港に、潮の匂いが満ちていた。
凪は海と平行に続く岸壁沿いを歩きながら、視線だけを空の方へ逃がしていた。海と空の境目より、少し上。そこなら底のなさも、深さも見えない。
視界の下を、糸崎沖から来たフェリーがゆっくり岸壁へ寄っていく。甲板では乗客が荷物を持ち直し、その上を海鳥が横切った。さらに向こうには島影が幾重にも重なり、遠い島ほど霞の中へ薄くなっている。
怖いとは思っていない。ただ、呼吸が少し浅くなる。
足が止まった。
足の裏にいつもの振動が来たが、今日は左から右へ抜けていく途中で、ふっと弱くなった。
いや。
弱くなったんじゃない。途中で、止まった。
そのとき、防波柵の向こうで、小さな帽子が水面に落ちた。
「あ」
子どもの声に、大人が岸壁から手を伸ばした。帽子は岸壁沿いに流れるはずだったが、少しだけ外へ逃げた。
凪の足の裏に、さっきの切れ目が残っていた。
「右」
声が出ていた。
大人がこちらを見る。
「もう少し右です」
帽子は見えない線に乗るように大人の手先へ近づき、伸びた指が縁を掴んだ。子どもは泣きそうな顔で、それを受け取った。
凪はその場から動けず、そのまま水面を見ると、オレンジ色の球が四つ揺れていた。そのうち一つだけが、波とは違う動きをしている。
流されるはずなのに、止まっていた。
さらにその下には白い枠のようなものが沈み、揺れる光の中で形を見せたり消したりしていた。
凪は、海から目を逸らすのを忘れていた。
岸壁の車止めには、同じ三原中央高校の制服を着た女子が一人座っていた。海へ向けた目は波を追わず、その下を見ている。
凪が横を通り過ぎようとすると、声が飛んできた。
「今の、分かったんじゃろ」
振り返ると、彼女は車止めに座ったまま、静かにこちらを見ていた。
「帽子が流れる先」
凪は答えられなかった。さっきの感覚は、言葉にしようとするとすぐ消えそうだった。
「表情が変わった」
彼女が立ち上がった。
「流れが分かったんじゃけ」
なぜ、分かったのか。分からなかった。
「名前は?」
凪は、視線を少し横へ逃がした。
「石塚凪です」
「宮本澪。潮球部じゃ」
澪が岸壁の端へ歩き出し、凪の足もその後を追った。端まで来ると真下で海が揺れ、潮の匂いが顔に当たった。
呼吸が浅くなった。
ふと水面の奥を見ると、緑がかった光の層がどこまでも沈んでいた。
底が見えない。
「目ぇ閉じてみ」
凪は澪を見た。
凪の足が、一度だけ後ろへ引いた。
真下で水が揺れている。
澪は何も言わなかった。
凪は目を閉じた。
波の音。風の音。遠くでフェリーのエンジンが唸っている。
足の裏に、さっきと同じ振動が来る。
ただ、帽子を運んだ流れより、ずっと大きい。
左から右へ。少し遅れて、また左から。
波とは違うものが、地面を通して伝わってくる。
「流れが、右に向いてる」
目を開けると、澪が凪を見ていた。
「合っとる。西流じゃ。今日は秒速0.3」
澪は水面を見た。
「あの球、見えるか」
オレンジ色の球が四つ、波に揺れていた。
一つだけ、さっきから同じ場所に残っている。
「普通は、あれを見ても球にしか見えん」
澪の指が、水面の少し奥を指した。
「でもお前は、止まっとることに気づく。潮球部に入れ」
澪は少しも笑っていなかった。
「部員、今四人なんよ。公式戦まで、あと二週間しかない」
潮風が、二人の間を抜けた。
「お前の潮読みがあれば、戦えるけん」
「でも私、海が」
澪は表情を変えなかった。
「怖いんは分かる。見とれば分かる。でも、お前には見えとるじゃろ。普通は、そこまで分からん」
答えられなかった。
「あ、澪さん勧誘しとる!うそじゃろ!?」
声だけが先に来た。小柄な女子が、岸壁を駆けてくる。
「結、声でかい」
その後ろから、背の高い女子がボールバッグを肩にかけてゆっくり歩いてきて、凪の前で足を止めた。バッグの端で、潰れかけたパンの袋がかさっと鳴った。
「ほんまに? やっと五人目じゃ!」
「まだ決まっとらん」
少し離れた岸壁の端で、もう一人が海を見ていた。こちらへは来ない。ただ、凪の足元と、水面を交互に見ていた。
「陽も見とるじゃん」
小柄な女子が笑った。陽は何も返さなかった。
気づけば囲まれていた。
凪は一歩後ろへ下がり、踵が石畳に当たった。
澪は追ってこなかった。
結も、背の高い女子も、黙った。
陽だけが、水面を見ていた。
凪は港の出口へ体を向けた。
でも、足の裏にはまだ流れが残っていた。
帽子を運んだ、見えない線。
右へ流れるはずのものが、途中で止まった感覚。
さっきの一つだけが、まだ同じ場所に残っていた。
「見るだけなら」
澪が少し顔を上げた。
「明日、来い」
* * *
翌日、凪はまた港に来ていた。
岸壁沿いに、ホワイトボードが立てかけられていた。
端に四人の名前が並び、その下だけが一行空いていた。
宮本澪。
潮田花。
村上結。
木梨陽。
「石塚は?」
凪は空いたところを見た。
「まだ決めてません」
「じゃあ今日決めろ」
澪がホワイトボードの前に立った。
「二週間後から公式戦が始まる」
「二週間!?」
花の声が跳ねた。
「登録は今日出す。練習が終わるまでは待つ。五人揃わんかったら、今年の公式戦は出られん」
澪はボードに四つの丸を描いた。
「じゃけん、最低限だけ先に入れる」
その両側に、ゴールゾーンを一つずつ描く。
ゴールゾーンは水中にあって、深く潜らないと見えない。
「各ピリオドの開始時に潮核は四つ出る」
澪が丸を一つ叩いた。
「拾ったらゼッケンが光る。光っとる間は保持中」
次に、ゴールゾーンを叩く。
「最後に持っとる選手が、相手のゴールゾーンに沈めたら一点」
「投げるのは?」
「だめ。持つ、潮に乗せる、渡す、沈める。基本はそれだけじゃ」
花が腕を組んだ。
「守る方は?」
「光っとるゼッケンに三秒触る。三秒で潮核を落とす」
「水面に出るのは?」
今度は結だった。
「自由じゃ。息継ぎも、周りを見るのもできる。ただし、得点するには潜ってゴールゾーンに沈める必要がある」
「なら、うち泳ぐの苦手じゃけ、上から見る方がええかも」
澪は少し考えた。
「なら、まずはそこからでええ」
凪は水面を見た。オレンジの球が、波に揺れている。
拾う。
光る。
三秒で落ちる。
持って、流して、渡して、沈める。
やること自体は単純だった。
ただ、海の中でやる。
「基本は教えた。細かいことは、試合の中で覚える」
「雑じゃない!?」
「雑じゃない。試合に出んと分からんことの方が多い」
澪は凪を見た。
「終わったら、そのたびに教える」
最初の練習で、凪は三回、水から上がった。
一回目は、まだ理由を言えた。
二回目は、言葉が出なかった。
三回目は、岸に手をついたまましばらく動けなかった。
澪は何も言わなかった。
練習が終わっても、ホワイトボードの最後の一行は空いたままだった。
凪はしばらくそこを見てから、澪の手元にあったマーカーを取った。
石塚凪。
書き終えると、澪がボードを持ち上げた。
二日目は膝まで入り、四日目には腰まで進んだ。岸から見ていたときには一方向だった水が、腰の横では逆に押してきた。
もう一歩だけ進めば、また違うのかもしれない。
そこから先へ足を出すと、呼吸が詰まった。
六日目は、膝から腰、腰から胸まで進めた。
もう一歩。
足の裏から地面の感触が消えた瞬間、息が止まった。
足の下に水だけが広がり、底が消えた。手が反射的に水面を掴もうとして、指の間を水だけが抜けていく。
「戻れ」
岸から澪の声が落ちた。花がこちらへ動きかけたが、澪が手で制した。
凪は自分で戻り、石畳に手をついた。指の間から水が落ちていく。
その日は、潮核に触れなかった。
次の日も、凪は港に来た。
練習が終わるたびに、結は自販機の前でアイスを買った。凪はいつも買えなかった。
胃の奥に、まだ海が残っていた。
九日目、凪は初めて潮核に触れた。水の中で抱えたオレンジ色の球は想像より重く、その重さを腕に受けた瞬間、胸元のゼッケンが赤く光った。
泡の向こうで、花がこちらを向くと、水面の結も、すぐに凪を指差した。
花が正面から手を伸ばし、凪の胸元へ触れた。凪は潮核を抱え直しながら身体を横へ逃がしたが、花も一緒に水を蹴ってついてくる。
一秒。
腕の中で潮核がずれた。抱え直そうとしたぶんだけ身体が遅れ、花の手がまだ胸元に残っている。
二秒。
水の重さと潮核の重さが一度に腕へかかる。
凪は三秒になる前に潮核を離した。
赤い光が消えた。
潮核が、ゆっくり水面へ戻っていった。
水面に上がると、花が何か言いかけたが、すぐに水の中へ視線を戻した。
十四日目の朝。
「今日、試合じゃ」
澪が荷物を持ち上げた。
* * *
三原港の岸壁沿いに、試合用の水域が取られていた。競技水域を挟んで三原中央と忠海中央の待機位置が向かい合い、その両端の水中には白いゴール枠が沈んでいる。審判用の簡素なテントは岸壁側に一つだけ立っていた。
審判がボードを掲げる。
【本日の潮況】
時刻:13:00
方向:東→西 秒速0.4m
特記:島陰の影響あり。西側に潮止まり
湾奥は14:00頃より逆流発生
競技水域の向かい側に、忠海中央高校の五人が並んでいた。
ボードを見た忠海中央の五人が、そろって西側の水面へ視線を移した。
「潮止まり、また出たじゃん」
花が口元をへの字に曲げた。
「島陰で流れが死ぬ場所じゃけ。先週教えたろ」
「止まるだけじゃろ。何がそんなに厄介なん」
「潮核が溜まる。逃げ道にもなる」
澪はボードから目を離さなかった。
「知っとる方が先に動ける」
「聞いとったけど、ほんまに実感わかんのよね」
澪が凪を見た。
「凪。湾奥、十四時まで持つと思うか」
凪は湾奥を見た。
水面はまだ静かだったが、岸壁際の泡だけがさっきより早く戻っている。
「持つと思います。でも、少し早く動くかもしれません」
「そこまで生き残れたら、流れが変わる」
顧問の三谷が前に出た。
「向こうの潮球部は十年以上続いとる。今日は負けていい。ただし、一つだけ持ち帰れ」
陽が無言で立ち上がると、花と結も続いた。凪も腰を上げたところで、試合開始の笛が鳴った。
忠海中央の五人は笛と同時にためらいなく飛び込み、澪たち四人も続いた。凪だけが一拍遅れて水へ入ると、冷たさが首まで来て、視界が一気に深い緑に染まった。
波の音が遠くなる代わりに、血流が耳の奥で鳴り始める。
心臓が縮む感覚が、また来た。
それでも足は止まらず、腕は水を掻いた。
水面に四つの潮核が揺れている。
澪の腕が横へ振れると、四つの潮核へ向けて五人の間隔が開いた。結だけは水面寄りに残り、凪は島陰側へ流れていく泡を追った。
泡は右へ、東から西へ流れている。
島陰の方だけ、水温が少し低い。その冷たさに触れると、二週間前と同じように胸の奥が縮んだ。
息継ぎに顔を出したとき、岸の表示は残り七分を切っていた。まだ得点はない。
忠海中央の一人が、ゆっくりと泳いでいた。
速くない。むしろ、遅い。
周囲を観察するように、水面に顔を出したり沈めたりしながら、じわじわと潮核に近づいていく。
結が水面で右手を上げ、潮核へ視線を向けたまま二度短く振った。それを見た澪が潮核へ向かったが、忠海中央の選手の手が先に届き、ゼッケンが青く光った。
凪は、その潮核から数メートル、ゴール側に残っていた。
澪が三秒タッチを狙って距離を詰める。
あと二メートル、あと一メートル。
その選手が、潜った。
光っているはずだった。
でも、水の中から消えた。
泡が一拍だけ逆へ倒れた。島陰から伸びてきた冷たい水が、澪の下を抜けてゴール側へ向かっている。
そこだ。
凪は水を蹴りかけた。追うには、もう一段深く潜らなければならない。視線の先で海底が暗く落ちていた。
足が止まった。
青い光が、澪の真後ろで浮いた。
ゼッケンがまだ、光っていた。
花と陽が左右から追ったが、一掻きするたびにその選手との距離が半身ずつ開いていく。
青いゼッケンが、そのままゴールゾーンの底へ沈んだ。
得点を知らせるブザーが、水面に響いた。
凪が顔を出すと、岸の得点板は1対0に変わっていた。残りの潮核は三つ、まだ水面に揺れているのに、澪も花も次の潮核ではなく、青い光が消えた辺りを見ていた。
「どこ潜ったん!?一回、消えたじゃろ今!」
結の声が、震えていた。
「水ん中なのに、なんで見えんくなったん」
残りの三つを追うあいだも、さっきの冷たさだけは足先から消えなかった。名前は、まだつけられない。
やがて第一ピリオド終了の笛が鳴り、岸の方で澪が手を上げた。
「上がれ」
凪が岸へ戻ると、足の裏に石畳の冷たさが戻った。
青いゼッケンが光っていた場所が、まだ目の奥に残っていた。
怖い。
凪は、もう一度だけ海を見た。
次の笛まで、五分しかなかった。




