第43話 水の中に、いる人
朝、誰かのスマホが鳴った。
部屋の中はまだ暗かった。
カーテンの隙間から、細い光だけが床に落ちていた。
最初に動いたのは遥香だった。
ベッドの上で体を起こし、枕元のスマホを取る。
画面を見たまま、指が止まった。
その横で、花が毛布を蹴った。
「何時」
「七時前です」
「早い」
花はもう一度、枕に顔を埋めた。
澪のスマホも光っていた。
結のスマホも、渚のスマホも、同じ通知を出していた。
【地区大会3回戦】
三原中央高校 vs 宮島高校
会場:大三島沖 区画B
集合時刻:13:00
スマホの画面だけが、枕元を白く照らしていた。
凪は画面に残った文字を追った。
宮島高校。
尾道を倒した学校。
遥香の親指が、画面の端で止まっていた。
花の毛布も、もう動かなかった。
渚が、布団から顔だけ出した。
「宮島って、そんなに強いんですか」
陽は横向きのまま動かなかった。
芽衣は目を開けていた。天井を見ているだけだった。
花の顔は枕に埋まっている。
遥香は通知を閉じて、すぐ別の画面を開いた。
澪がベッドから立ち上がった。
「食べろ」
渚が、布団から出た。
「朝ごはんですか」
「食べろ」
「はい」
渚はすぐに立った。
見慣れないジャージが、いくつか席に並んでいた。
皿の音。
給湯機の音。
味噌汁の湯気。
渚のトレーには、ご飯が二杯分乗っていた。
焼き魚と卵と、海苔と、ヨーグルトもある。
芽衣の目が丸くなった。
「それ、入るん?」
「入れます」
渚は箸を取った。
遥香はテーブルの端で、スマホの画面を確認していた。
大三島までの移動時間。
集合時刻。
潮況の更新予定。
画面の上を、親指が何度も往復していた。
「遥香、食べんと倒れるよ」
結が味噌汁の椀を押した。
「食べます。今、確認だけ」
遥香は味噌汁を持った。
一口飲んで、またスマホに目を落とした。
花は窓の外に顔を向けていた。
箸の先が、焼き魚の上で止まっている。
陽は小さな納豆の蓋を、ゆっくり剥がしていた。
蓋から伸びた糸が切れるまで待って、ラー油を入れた。
澪は前を向いて食べていた。
凪の箸が止まった。
澪は前を向いたまま、ご飯を口に運んだ。
渚が二杯目のご飯に箸を入れた。
「渚、ほんまに入るんじゃね」
結が笑った。
「お腹減ってるので」
「昨日、試合後も弁当食べとったじゃろ」
「昨日の分は昨日です」
花が、ようやく窓から顔を戻した。
「その理屈、嫌いじゃない」
渚は頷いて、また食べた。
テーブルの端で、遥香のスマホだけがまだ光っていた。
大三島へ向かう船では、エンジンの低い音だけが続いていた。
風はあった。
でも、昨日の伯方島沖の風とは違う。
頬に当たって、すぐ後ろへ抜けていく。
凪は甲板の端に立った。
水面を見る。
白い航跡が船の後ろに伸びる。
その外側で、小さな波が折れていた。
凪は、航跡が崩れるまでそこにいた。
芽衣と遥香は船内の席に座っていた。
遥香は鞄から酔い止めを出して、芽衣に見せる。
芽衣は首を振った。
遥香はポーチに戻した。
渚は売店の前に立っていた。
棚の前から動かない。
結が、その後ろからスマホを向けた。
「渚、こっち向いて」
「今ですか」
「今」
渚は振り返った。
片手に小さな袋を持っていた。
シャッター音が鳴った。
陽は窓際で、海に顔を向けていた。
手には何も持っていない。
船が揺れるたび、膝の上の指が動いた。
花は、澪の隣に座っていた。
二人とも、声を出さなかった。
席は空いていた。
ほかにも座る場所はあった。
それでも花は、澪の隣にいた。
肩は触れていない。
けれど、荷物を置く隙間はなかった。
澪は窓の外に顔を向けていた。
花も同じ方を向いていた。
凪は、その二人から目を離した。
船は、島の影へ入っていった。
大三島沖の区画B。
岸壁の向こうに、練習用の浮標が並んでいる。
浮標のロープが、ゆるく張っている。
波は小さい。
水面の白い筋も、すぐには崩れなかった。
凪は岸壁にしゃがみ、水に指を入れた。
読める。
流れの向き。
深さ。
先で曲がる場所。
分かる。
凪は指を抜いて、タオルで拭いた。
拭いても、指先に冷たさが残った。
宮島高校は、すでに来ていた。
ジッパーの音がした。
タオルを置く音がした。
タオルが畳まれている。
ゴーグルの置き方が同じ向きになっている。
バッグの肩紐まで、同じ側に落ちていた。
水際に、一人だけ立っている選手がいた。
背は高くない。
体も大きくない。
腕を組んでいるわけでもない。
ストレッチをしているわけでもない。
ただ、立っている。
踵が浮かない。
肩が揺れない。
髪の先から落ちた水滴が、足元の石に黒い点を作っていた。
渚が、凪の横で足を止めた。
「なんか違う」
凪はタオルを握ったまま、宮島の水際に目を向けた。
流れは読める。
潮核がどこへ流れるかも、分かる。
でも、あの選手の次の位置だけが抜けていた。
国際広なら、先に道が狭くなる。
庄原北なら、水が押してくる。
宮内の前の水は、まだ割れていなかった。
水面だけが動いていた。
澪が凪の隣に来た。
「あれが、宮内瀬那」
水際の選手は、こちらを見ていなかった。
水面を見ているわけでもなかった。
凪の指先に残った水が、タオルの中で冷えていく。
花が後ろから来た。
「二年なんじゃろ」
「そうじゃ」
「二年であれなん」
澪は何も足さなかった。
花の口が閉じる。
結がホワイトボードを持ってきた。
遥香がその横に立つ。
芽衣がタオルを置いた。
渚は、まだ宮内の方を向いていた。
陽がゴーグルを手に取った。
澪が全員の前に立つ。
「スタメン」
ホワイトボードの角が、結の手の中で止まった。
「凪、花、陽、結、うち」
芽衣が顔を上げた。
遥香も、渚も、澪の方を向く。
花の唇が開いて、すぐ閉じた。
澪は先に水際へ歩き出した。
凪はゴーグルをつけた。
視界が狭くなる。
水面の光が、透明な板の向こうで揺れた。
結が水面側の位置へ向かう。
陽がその後ろを歩く。
花は肩を一度回して、水際に立った。
澪は、誰よりも先に海を向いていた。
その背中は、いつもと同じだった。
凪は澪の隣に立った。
宮島高校も、水際に並んだ。
宮内が、一歩だけ前に出る。
浮標のロープが、水面で細く揺れた。
揺れが戻るまで、一拍あった。
審判が笛を口に運んだ。
結が息を吸った。
澪は前を向いていた。
凪も、水面を向いた。
笛が鳴った。




